にじゅういち
私たちはベッドを前に立ち尽くしていた。
時刻はすでに早朝に差し掛かっており、カーテンの隙間からはうっすらと光が差し込み始めている。
耳をすませば、小鳥のさえずる声だって聞こえるかもしれない。
加えて、私は一度にいろんなことが起きたせいで体力も気力もほとほと尽きていた。もしここに鏡があったら、ノーメイクでゾンビができるくらい酷い顔をした自分を見るはめになっていたのかもしれない。
なら寝ればいいじゃないかって話なのだが、そういうわけにもいかないのだ。
「僕は大丈夫だから、リジィはベッドで寝なよ」
「大丈夫ってどこに寝るのよ」
最低限の家具しかないベルンの部屋を見まわす。ベッドと机しかない、さも寝られればいいとでも言いたげな部屋だ。なんというかベルンらしいというか、本当にここで一年生の時から過ごしていたのかと聞きたくなるような殺風景さだ。
尋問後、ドナルドはしかるべきところに預けるから、もう休もうということになった。
しかし自室に戻るわけにもいかないし、ベルンも疲れているだろうから彼の部屋に泊めてもらうことにした。
別にマダムの部屋に戻ってもよかったのだが、ベルンが見張りをするとか言うのでそれでは彼が休めないだろうと思ったのだ。
まぁ、正直にいうと男子寮の方が近くて、すぐにでも休めそうだったからというのもある。
というわけで、一緒の部屋で寝ることになった私たちなのだが、寝る場所について大いにもめている最中であった。
どこに寝るのかという私の問いに、ベルンは綺麗に掃き清められた床を指さしてなんでもないことのように言う。
「床」
「ええ~」
せめて絨毯でも引いてあればまだ納得できたかもしれないけれど、この部屋にそんな洒落たものがあるはずもない。
床はだめだろ。
痛いし、寒いだろうし、公爵様が寝るような場所じゃない。なにより私が罪悪感でゆっくり休めない。
だいたいいつかは一緒に寝るようになるんだし、予定がちょっと早まるくらいどうってことないだろうに。
「一緒に寝ようよ」
私としては至極当然な成り行きによる提案であった。さぁ、さっさとそうだねとかなんとか言って、寝よう。じゃないと顔だけじゃなくて本当にゾンビにでもなってしまいそうだ。
「不健全だ!」
ベルンが突然顔を覆って叫ぶもんだから、一瞬眠気が吹っ飛んだ。び、びっくりした…。
なんなんだ…。思春期なのか。あ、思春期か。
というか眠い。目がしばしばして眼球の奥が熱い。頭も重たいし。
ベルンだって眠いと思うんだよ~。
「僕は三日くらい寝なくても平気だから」
ぜんぜん大丈夫っぽいですね。
いや、だからといって床で寝ていいってわけじゃないでしょうに。私って婚約者を床に寝せて、自分はベッドで悠々と眠るような酷い奴に見えるのだろうか。
「だめでしょ…。そんなの私がゆっくり休めないよ」
だめだ。なんかフラフラする。やっぱり人間睡眠は大切だ。なんと言ったって三大欲求の一つなのだ。きっと欲望三人衆の中でも最強に違いない。
唐突に目の前には清潔で柔らかなベッドがあるというのに、なぜ私は立ち尽くしてベルンを説得しているのだろうという素朴な疑問が持ち上がり、私にこのまま眠ってしまえと誘惑してくる。
もうどうでもよくなって、私は本能の甘い誘惑に従って目の前に広がる楽園に突っ伏した。
きっと今の私はあまりの心地よさに溶けてスライムみたいに広がっているに違いない。いや、ごめん、スライムはちょっと気持ち悪いかもしれない。
「リジィ、ちゃんと毛布を被らないと…」
毛布を下敷きにしてそのまま寝ようとする私を一度起こして毛布を掛けようとするベルンの声が煩わしくて、揺さぶってくる手を掴んで引っ張り込んだ。
予想外だったのか意外にもあっけなくベルンは私の横に倒れこんだ。
しかし、すぐに慌てて起き上がろうとする。
「ベルンも疲れたでしょう…もう寝よう?」
眠たくて動かない口で必死に伝えるが、もちゃもちゃしててちゃんと言えてなかったかもしれない。
けれどベルンはちゃんと聞き取ってくれたようで、上体を起こしかけたままの体勢でしばらく固まった。たぶん悩んでるんだろうなぁ。
「そばにいてくれるんでしょう?」
頼むから寝てくれ。そんな一念で必死に回らない口で言うと、彼はついに観念したのかこわごわと体を横たえた。
あ、そういえば、
「結婚したら、こういう風に一緒に寝るのかなぁ…」
「不健全だ!」
私の言葉が終わるか否かでベルンが叫んで、素早くベッドを転がって消えた。と同時に、ゴトンッとそれなりに重いものが床に落ちる音がする。
何やってるんだろう、この人。
もういいや、寝よう。寝てしまおう。
もそもそとベルンがベッドにのぼってくる気配を感じながら、体の力を抜いていくと待ってましたとばかりにぬかるみに沈むような眠りがやってくる。
ふと、ドナルドの顔が浮かんだ。彼はどうなるのだろう。取り引きどおり市井で静かに暮らしていければいいが。漠然とそう思って、すぐに思考が霧散して消えていく。
ベッドからは石鹸の匂いと、嗅ぎなれたベルンの匂いがした。変態みたいだけど、なんだか安心できる匂いだ。
「ねぇ、リジィ」
あー待って。今めちゃくちゃ眠い。あと数秒早かったら、あーだのうーだのくらいは言えたかもしれない。
体はもう眠っていて、脳はまだちょっと起きてる夢うつつみたいな状態だ。
もはや眠気が暴力的なレベルで、今の私にはどうやったって返事を返すこともまぶたを再び持ち上げることすらできそうになかった。
しかしベルンは私が返事をしなくてもお構いなしに話し続ける。
「さっき、暴力や血が苦手なのにリジィは手伝うって言ってくれただろう。君は僕があいつを殺さないように見張っているつもりだったんだろうけれど、その、凄く嬉しかった。君はきっと嫌がると思っていたから」
秘密を打ち明けるみたいにそっとささやく調子だった。
うんうん。ちゃんと聞いてるよ。そっか、嬉しかったんだね。
「僕は育った環境も考え方もちょっと普通とはずれてるんだと思う。けれど、リジィが受け入れてくれて、時には止めてくれて、僕はようやく人になれた」
そんなことないよ。
記憶の中であのお茶会で出会った幼いベルンが仄かな微笑みを浮かべる。
確かに人形みたいだと思ったことはあったけれど、あなたはちゃんと人だったよ。寂しがり屋で怖がりで、少し残酷なところもある普通の男の子。
「ありがとう。…ごめんね」
どういたしまして。
何に対しての感謝と謝罪なのかよくわからなければ、考えもせずに、心の中でそう答えて私は夢も見ないくらい深い眠りに落ちたのだった。
「おやすみ。僕のリジーア」
目覚めるともう昼過ぎだった。
今から朝ご飯を食べてもブランチどころか、昼食にしかならない。いや、下手をするとおやつ…。
まぁ、寝たの早朝だったし仕方ない。大丈夫。ぜんぜん怠惰なんかじゃない。
そう自分に言い聞かせていると、きっちりと身だしなみも整え何やら書き物をしているベルンにおはようと言われた。ああ、うん、おはよう。なんでそんなにすっきり起きれるの?昨日?今朝?に三日くらい寝なくても平気って言ってたけど、本当なのだろうか。本当だとしても寝た方がいいと思うんだけど。
換気のためか開け放した窓から心地よい風が吹いていた。
陽のさす明るい部屋の中、ベルンの混じりけのない黒髪がサラサラと揺れている。真剣に書き物をしている横顔は相変わらず嫌になるくらい整ってはいたが、昔はよく感じていた人形のような無機質さはない。
こうやって見ていると虫の一匹も殺せそうにないのに、あんなえげつないことができるのだから。
まぁ、そういう人だって知ってたし、そういう一面を受け入れる覚悟を私は感謝祭の帰りの馬車の中でとっくにすませてきたのだ。
いつまでも私がベッドに上体を起こしたままぼうっとしているので、いつも通り寝ぼけているのだろうとベルンは苦笑し、部屋の奥を指さした。
「洗面所ならそこの奥だよ」
「ありがとう」
のそのそと顔を洗って、歯を磨くと寝ぼけていた頭がいくらかましになる。
昨夜は情報を聞き出すだけ聞き出して、何も考えられなかったけれど、よくよく考えずとも事態は相当悪い方向へむかっているのではないか。
しかし、何故私を狙ったのだろう。
アロイスにとって一番障害となっているのはベルンだし、彼は実際にベルンが障害となる前から警戒していた。
それに比べて私は役立たずの一般生徒だ。
だからいままで大した用心もしないでいたわけなんだけれども。
そんなことをつらつら考えていると、ノックの音が聞こえた。
誰か尋ねてきたらしい。
洗面所から顔だけ出して、誰が来たのか確認しようとしたら、部屋の主人に招かれてもいないのに訪問者は勝手に扉を開けて中に入ってきた。
「入るぞ、ブルンスマイヤー」
入るぞってもう入っているじゃないか。というか、先輩に向かってなんだその口のきき方はとか言いたいことはいろいろとあったが、ダリウスはベルンの部屋に私がいるのを見てものの見事に石像になった。
見た目だけなら神秘的な美少年だから、このまま博物館にでも展示したらいいのかもしれない。
「どうしたの?ダリウス」
石化が解けて、顔を赤くし震えながらダリウスは私を指さす。
人を指でさしちゃいけないって習わなかったのか。失礼な奴め。
と考えて、そういえば寝間着のままだったことを思い出した。なるほど、ダリウスめ。結構むっつりスケベなんだな。今後のいじるネタにしてやろう。
というか着替えはどうしたらいいのだろうか。ベルン用意してくれてるのかなぁ。昨夜は緊急事態だったからあまり気にしていなかったけど、寝間着で外をうろつくわけにはいくまい。
なんてのんきに考えていると、わなわなと震えていたダリウスがくわっと目を見開いて突然叫んだ。
「不健全だ!」
なんかデジャブだなぁ。思春期なのか。あ、こいつも思春期だったわ。
「どうしたヴェーナー」
華麗にスルーしてベルンが問いかける。
自分も同じ事言っていたくせにとは言わないでおいた。
「あ、ああ…。ヨハンの身柄を確保したそうだ。指示通り、すでにこちらに向かっている」
「どれくらいかかる」
「案外近場に隠れていたそうだ。早くて今夜にはつくだろう」
「そうか。イオニアスの方は?」
「もうほとんど準備は終わっている。いまはお姫様のご機嫌取りにでもいってるんじゃないか?」
「お姫様って?」
「カテリーナ様だよ」
というか、話を聞く限り私が寝こけている間に裏生徒会は何かの準備を進めていたらしい。
一体、何が始まるのだろう。
「いや、なんでお前ここにいるんだよ!」
「なによ。昨日は大変だったなくらい言えないの?」
相当な騒ぎになっているだろうし、ダリウスが昨夜のことを知らないなんてことはないだろう。
「昨日は大変だったな」
「どうも!」
全く持って酷い棒読みであった。
私も酷い友達を持ったものである。
「ダリウスなんて禿げればいい」
「そう簡単に禿げてたまるか」
「そして修行僧にでもなって謙虚さと思いやりを学んでくればいいんだ」
「お前時々意味わからねぇ例え使うのやめろよ。馬鹿にされてるってのはわかるけどな!」
そうか、修行僧じゃ伝わらないんだった。じゃあ修道士?でも修道士禿げてないしなぁ。はっ!そうだ、ザビエル禿げという手が!
「さて」
ベルンの静かだがよくとおるその声は、私たちの無意味ないがみ合いに終止符を打った。
彼はさっきまで書いていた手紙のインクに軽く息を吹きかけて乾かすと、綺麗にたたんで封筒に入れた。
「もう少し先にするつもりだったが、向こうは腹立たしいことにリジィを狙ってきた。これまで後手に甘んじてきたが、そろそろあちらも飽きた頃だろう」
手早く封蝋したのち、普段や公爵のサインとも違う複雑なサインを記して上着の隠しポケットにしまった。
立ち上がり、振り返ったベルンは底冷えのするような冷たい声で言う。
「狐狩りを始めようか」
逆光の中たたずむ彼の表情は、こちらからはうかがい知ることはできなかった。




