じゅうろく
「どうして…」
彼女は、ライラは酷く青い顔で呆然とつぶやいた。握りしめた拳が痛ましいくらいに白い。
「え、えーと…」
これは一体どういう状況なんだ。
とにかくこの体勢はあれだ、だめだ。とりあえず、ベルンにどいてもらって…。
ベルンの肩を叩いてどいてもらおうとした矢先、ライラがつかつかと歩み寄って私の腕を乱暴につかんだ。
そしてつかんだ腕を引っ張って無理矢理立たせる。
え、何!?ほんとに何!?
混乱する頭で理解できるのは、私の柔らかさが売りの二の腕にライラの細い指が食い込んで痛いということだけ。
「リジーアさん、少しお話があるの」
「は、はぁ」
だめだ。アホみたいな反応しかできない。
いつも可憐な笑みを浮かべていたライラの顔には、何故だか焦りのような感情が浮かんでいた。
そのまま引きずって行かれそうになって、ようやく正気を取り戻し抗議の声をあげようとすると、もう一方の腕が力強くつかまれる。
「話ならここですればいい」
「…ベルンハルト先輩には関係のないことです。それにすぐ済みますわ」
そう言ってぎこちなく微笑むライラは一歩も引きさがるつもりがないらしく、ベルンもはいそうですかと納得するはずもない。
どこからどう見たって今のライラはちょっと異常だ。
でも、一言言わせてほしい。
両方から引っ張るのやめて。あれか大岡裁判の先に手を放した方が本当の母親的なあれなのか。
「あの、ライラさん、とりあえず離してもらっていいですか?ベルンも…」
このままでは上着が裂けてしまう。それ以前に二の腕めっちゃ痛い。
「では私と二人っきりで話してくれます?」
それはそれでご勘弁願いたいかな!
しかし、このままではらちが明かない。
ああ~でも嫌だなぁ。ルーカスとさしで話すのより嫌かもしれない。
嫌だけど仕方ない。ぐるぐる回る脳内会議に無理矢理終止符を打って、私は頷いた。
「わかりました。でも、話が聞こえないよう少し離れてベルンにも同席してもらいます。でなければお話はできません」
たとえ私の上着が裂けようが、それだけは譲るつもりはない。
ライラの目を見据え言い切ると、彼女は少し逡巡したもののこちらが折れるつもりのないことを悟って、頷いて手を離した。
「手荒なことをしてしまってごめんなさい…」
「いいえ」
めっちゃ痛かったけどね!とは心の中でだけ言っておく。
とりあえず、見晴らしのいい草原の端でライラと話すことになった。ベルンには木の下で待ってもらっている。
目視でライラが武器を持っていないことは確認したそうで何かあればすぐに助けると凄い不服そうに伝えられた。何かあればたぶん大変なことになるだろう。私じゃなくてライラが。
木々をなでる風が通り抜けて、ライラのスカートの裾がひらひらと揺れる。
彼女は落ち着かない様子で握りしめた左手を右手でさすっていた。
「あの、それで話って…?」
「…あなたには、ずっと言わなくちゃいけないと思っていたの」
キッとライラの水色とピンクの混じった複雑な瞳が私を見据える。
そこには私への敵意がありありとみて取れて、思わず身がすくんでしまった。
「お願い、私の邪魔をしないで。ベルンハルトを私に返して?」
「は?」
誰が誰を誰に返すだって?
ちょっと耳にキノコでも詰まっているのかもしれない。さてはベルンめ、変なキノコでも詰めたな。
しかし当然私の耳に毒々しいキノコが刺さっているわけもない。
ということは今、ライラは、私に、ベルンを返せと言った?
「だってみんなは私のものなの。そうなると決まっているの。ここは私のための世界だから。あなただってわかっているんでしょう?だったら、返してくれるよね?ね?」
「何を、言っているの…」
喉が干からびたみたいにカラカラだった。
ライラはぞっとするほどに無邪気に微笑んで続ける。
「ねぇ、リジーアさん。あなた前世の記憶があるんでしょう?ここがゲームだって知っているんでしょう?誤魔化したってだめよ。だって、本来のシナリオから外れているところの中心にはあなたがいるんですもの。あなたが変えてしまったのでしょう?でも、私そのくらいじゃ怒ったりしないわ。
だって、ライラは私だから。
ライラが手に入れるはずの愛は全て私の物になるはずだから。私は私が与えられるはずの物を受け取るだけ。何もおかしなことではないでしょう?
それなのに、なんだか上手くいかないの。だから私考えたの。あなたが邪魔しているせいだって。
確かにベルンハルトはかっこよくて隠しキャラだから手を出してもいいなんて思ったのかもしれないけれど、彼も私を好きなるはずだったのよ?私を愛してくれるはずだったの。なのに…。
いいえ、きっと愛してくれているわ。そうよ。だってそうじゃなきゃいけないでしょう?ね?殿下だって、アロイスだって、ヨハンだってみんな私を好きだと言ってくれた。そう、言ったのよ!なのにどうしてどうしてどうして…どうして、どうして…ハン……」
あばばばばば。
ど、どうしよう、ライラがメンヘラみたいに…!
というかどこから突っ込めばいいの!?
ええっと、ライラも前世の記憶があって『ライラックの君』を知っていて、それでシナリオが違うのは私のせいだって気づいて、しかもベルンは隠しキャラで…。
ああ、やっぱりベルン隠しキャラだったんだね…。もっとショックを受けるかと思っていたけど、一気に与えられた驚愕の事実のオンパレードのせいで案外ショックは少ない。いや、まだ来てないだけ、なのか?
まぁ、イケメンだし、キャラも他の攻略対象と比べても負けてないし、イケメンだし。
いや、今はそれはいいんだ。後でゆっくり考えよう。
問題なのはライラがこの世界を完璧にゲームだと思っていて、私を邪魔だと思っていることだ。
あと、最後どうして以外を言っていた気がするがよく聞き取れなかった。誰かの名前ぽかったような…。
今もライラは顔を覆ってブツブツと何かをつぶやいている。
あまりの豹変っぷりに私の見てきたライラと目の前の彼女は別人だといわれた方が納得できるくらいだ。
いったい何が彼女をここまで変えてしまったのだろう。
彼女の様子がおかしくなったというか、焦りのようなものが見え出したのはここ一週間ほどのこと。それはちょうどライラが階段から突き落とされた時からだ。
それまではベルンと私が親しくしていることを煩わしく思っているそぶりはなかったのに…。
まさかあの日、ライラに階段から突き落とされる以上の何かが起こったとか?
私は恐る恐るライラの肩に手を置いて、できるだけ優しい口調を心掛けた。
「私はあなたの言う通り、前世の記憶があるわ。でも、それを利用してベルンと仲良くなったわけじゃないし、あなたの邪魔をしようなんて思ってない。勘違いさせてしまったのならごめんなさい…」
「嘘よ」
嘘じゃないんだけどなぁ。
現に私はここが乙女ゲームの世界だって気が付いたとき、ゲームでの主要人物たちとは関わらず生きていこうと思った。けれど、なんの因果かベルンと婚約することになって、カテリーナとも仲良くなって、他にもたくさんの人と出会って心を通わせてきた。
そして感謝祭のあの日、自分がこの現実をゲームの世界だからと斜に構えて見てしまっていたことに気が付いた。初めて、ベルンと正面から向き合って、彼のことが好きだと気が付いた。
それは私に前世の記憶があったからだとか、自分がゲームには出ないキャラだったからとか、ベルンが隠しキャラの可能性があったからだとかじゃない。
私はリジーア・リートベルフという一人の人間として生きているのだから。
「ねぇ、ライラ。ここは確かにゲームに似た世界よ。でもゲームの中じゃないの。ここは一つの世界で、誰かが操作しているテレビの中のことなんかじゃない。私もあなたもベルンも一人の意思を持った人間よ。それがわからないほどあなたが愚かだと、私には思えないわ」
どうか気が付いて。
あなたはライラだけど、主人公のライラではない。ゲームをするプレイヤーの代理人のライラではないのだ。
そう願って、私は黙り込んだ彼女の言葉を待った。
どうか…。
「……さい」
「え?」
瞬間、ライラは自身の顔を覆っていた手で私の手を強かに叩き落とし、凶相を浮かべた。
「うるさいのよ。あなたはただのモブでしょう?私が貰うはずだったものを横取りしておいて、偉そうな口きかないで。本当ならここで抱きしめられていたのは私だった。私だったのよ!
あなただって知っているんでしょう。ここでベルンハルトの好感度をあげなければ彼のルートには入れないの。彼の好感度をあげないと、私は…!」
ほんの一瞬ライラは迷子になった子供みたいに頼りない顔をした。けれどそれは幻だったかのようにすぐに消えて、彼女はまた真意の見えない笑みを浮かべる。
「だから返して。これは私の思い出になるはずだったものなの。あなたのものではないのよ」
プッツーンと何かが切れた感覚がした。
とたん腹の底からフツフツと耐えがたい怒りが湧き出して、ライラに対する戸惑いや恐怖を一瞬で吹き飛ばしてしまった。
心臓のドクドクと鳴る音が体の中で響いて、全身の血が逆流したみたいだ。
「お前なんかに…」
あまりの怒りにカチカチいう歯を食いしばって、私は喉の奥から声を絞り出した。
「お前なんかに、私とベルンの思い出を否定する権利は、ない!」
生まれて初めて人にお前なんて乱暴な言葉を使った。
私は私の中にこんな激しい感情があるなんて知らなかった。
「人を物みたいに扱って、望めば何でも手に入ると思って神様にでもなったつもり?私はあなたみたいに可愛くもないし特別賢いわけでもない平凡な、モブみたいな存在かもしれない。でもベルンのことが好きなのもカテリーナと友達でいるのもあなたに腹を立ているのも、プログラムなんかじゃない…!ゲームなんかじゃない!」
息が苦しい。
ライラは言い返してきた私に戸惑ったような視線を向けるだけ。
ああ、どうして伝わらないの。
そんな空虚な悲しさが瞬間的に怒りに塗り潰されていた心に浮かんで、水が染みるみたいに広がっていく。
じわじわと目頭が熱くなって、視界がゆがむ。
ライラは相変わらずただただ戸惑うばかりで、それが余計悲しくって。
気が付くと、離れた木の下で待っていたはずのベルンがすぐそばにいた。
彼は無表情に私とライラの間に割り込む。
ベルンの大きな背中でライラの姿は私から見えなくなった。それを待っていたかのように、とうとう右目から一粒熱いものがこぼれてしまった。
「ベルンハルト先輩、私、私…」
ライラが切ない声でベルンのことを呼ぶ。
リジーアさんを泣かせるつもりなんてなかったと。
ええ、そうでしょうとも。私だって泣くつもりなんてなかった。
「悪いが途中から話は聞かせてもらった。…僕には君たちが話している内容が正直よくわからなかったけれど」
ああ、私思いっきりゲームとか言っちゃってたよ…。後から説明を求められたらどうしよう。
これ以上泣いてしまわないように必死に息を止めながら、私は妙に冷静にそう考えていた。
「先輩、先輩は私のこと」
「ライラ・カーネイル」
すがるようなライラの言葉をぴしゃりと遮って彼は言う。
「僕の全てはリジィに捧げてしまったから君にあげられるものは何もないよ。ごめんね」
ライラの息を飲む声がした。
ベルンの声はいつも通り穏やかで、逆にそれがライラへの無関心を嫌というほどに表していた。
「すまないが、立ち去ってくれないだろうか。これ以上彼女を傷つけるのは、賢明な判断とは言えない」
しばらくの間、草原には木々のざわめきと三人の人間の息遣いだけがしていた。
どれほど経ったのか。実際には三十秒も経っていなかっただろうが、酷く長い沈黙の後、草を踏む軽い足音がして、遠ざかって、聞こえなくなった。
ライラがいなくなって、私の目からはいよいよ壊れたみたいに涙が溢れ出した。
どうしてこんなに悔しくて悲しいのだろう。
私は、もしかしたら心のどこかでライラと友達になれるのではないかと思っていたのかもしれない。
本当はライラは私が疑っているような悪い子じゃなくって、もし前世の記憶が同じようにあったなら前世の世界について話し合ったりして…。
それをモブだと言われて、彼女が私たちを対等に見ていなかったことを知って、どうしようもなくつらかった。
行き場のない感情に泣くことしかできない私の背中をベルンは何も言わないでさすってくれて、彼が私のそばにいてくれることに私はますます馬鹿みたいに泣いてしまうのであった。
たぶんあと五、六話くらいで本編は終われそうです。




