僕の最期
僕は恋をした。
それは本当に大切な恋、最初で最後一度しかない大切な恋。
君が海へと行くというから、僕も君に着いて来ちゃったよ。
愛おしい君が、楽しそうに海辺を翔けている。
その姿に僕は笑みが零れる。
翔けていく君の後ろを、僕も楽しく追い掛ける。
これは、楽しい楽しい、本当に楽しい鬼ごっこ。
本当の鬼ごっこ。
何のドラマで見たのやら。
こんなシーンはよくあるよね。
胸が躍るようなドラマのシーンを実際に再現していくのは、なんだかとても楽しいものですね。
逃げる君の必死な形相も愛おしいよ。
君の必死の形相も、僕にはまた愛おしく思える。
それは君の演技力ゆえの表情なのかな? それとも……。
美しく鳥のように翔けていく君を、僕は笑顔で追い駆けて行った。
君は逃げる人間で、僕はそれを追う鬼。そうこれは、愉しい愉しい鬼ごっこなんだよ。
「ほら、どうしたの?」
涙さえも滲ませる君は本当に演技派みたいだけれど、これは鬼ごっこなんだから笑ってくれなきゃ困るよね。
問い掛ける僕に対しても、君は背中を向けて逃げているだけだし。
「君も笑ってよ?」
僕だけが笑っているようじゃ、まるで僕だけが楽しんでいるみたいじゃん。
笑ってよと僕は言っているのに、素直じゃないよね君は怖い顔ばっかりしていて。
どうして笑ってくれないのさ。笑ってくれてもいいじゃない。鬼ごっこはこんなにも楽しいんだから、さ。
大きな太陽が、僕たちの鬼ごっこを照らしていた。
「なんて大きな太陽なんだろうか」
感嘆する僕を見た君は、チャンスとばかりに走り出した。
僕は正々堂々戦いたいのに、君ったらズルいよね。そんなことをする君には、お仕置きが必要なのかな。
ゆっくりと沈んでいく太陽に合わせて、海も真っ赤に染まっている。
血の色のように、真っ赤に真っ赤に染まっている。
君もその美しい色に染めてあげるから、待っていてね。
「ああ、なんて綺麗なんだろう」
赤はこんなに美しい色なんだから、美しい色に染まった美しい君は、本当に美しいんだろうね。楽しみだ。
「待っていてね?」
呟く僕の声も、君の耳には入っていない様子だった。
「すぐに、君のことも紅く染めてあげるよ」
笑顔で僕は言うのに、君はそれが嬉しくないのか、恐怖の表情で僕から遠ざかっていく。
「ああ、愛おしいよ」
そんな顔も全部、僕は君が愛おしいよ。
どうして君はわかってくれないの? 僕はこんなにも君を愛しているというのに。
怯えたような表情も可愛いけれど、やっぱり僕は君の笑顔も好きなんだ。
「どうして? ねえ、そんなに怖い顔をしないでよ」
何度も僕はそう言って君を追い詰めるけど、それでも君は理由を教えてくれないんだ。
もしかして、君は鬼ごっこを知らなくて怖いのかな。
そうも思ったけれど、鬼ごっこくらいはしたことあるよね。
どこの子供だってやっているはずだよ。簡単な遊びだよ。
幼い子供がするような、とても楽しい遊びさ。
鬼とはついているけれど、何も怖がるような遊びではない。
瞳を涙で潤ませてまで、君は僕を拒絶しているように思えた。
「どうして?」
どんなに優しく声を掛けても、脅しても君は答えてくれない。
「ねえ、そんなに嫌がるなんて酷いじゃん」
そう言っているのに、君は涙を零して首を横に振るばかり。
何がそんなに違うというのだろうか。僕にはわからないよ。
「別に、僕はどんな君でも愛しているよ」
笑顔じゃなくても、どんな表情も大好きさ。
そのことを気にしているのかと思って、僕は優しく囁いてあげた。
すると大きく声を上げて泣き出した君。安心してくれたのかな、本当に愛おしい本当に愛らしい。
どうして、理由を教えてよ。
なんで逃げるの? 鬼ごっこが楽しくて、終わりにしたくないって、そんな気持ちもわかりはするよ。
それでもずっと逃げられると、少し寂しいから僕のところにおいでって。
僕はこんなにも君が大好きなんだ。大好きなんだ。きっと世界中の何よりも、僕が君を愛している。
「それなのに、ねえ、ねえ、どうして?」
愛していると言っているんだから、君も愛していると言ってくれればいいじゃない。
もう疲れてしまったようで、諦めたように君は項垂れた。
遊びだって言っているのに、笑顔のない真面目な顔をして君は口を開いた。
「私が勝ったら私のお願いを聞いて頂戴。代わりに私が負けたら、貴方が言うことに従いましょう」
物凄く真面目な表情で、君が提案してくるし、その提案は僕にとって悪いことではないので頷いた。
君もわかるでしょ?
これは、楽しい楽しい、最高に楽しい取引さ。
一体、何の話で見たのやら。
どこぞやで見たことあるようなシーンだね。
それを再現するというのは、子供の飯事程度ではなく、予想以上に楽しいものなのですね。
なのにどうして君はそんなにも恐ろしい形相を浮かべているのだろうか。
未来を賭けるということがあってか、真面目な表情の君。もっと笑ってくれればいいってのに。
僕よりもずっと必死になって、君は悩んでいる様子であった。
君ほどに悩むことなど僕には出来ないだろうから、僕は大人しく、美しい君の美しく悩む表情を笑顔で眺めていた。
ああ、苦しんでいるような表情も素敵だね。
僕にとっても君にとっても、これは愉しい愉しい取引なのさ。
でもやっぱり、君の笑顔も見たいな。
「ほら、どうしたの?」
グズグズしてばかりだから、急かすように僕は言った。
未来を賭ける取引とは言っても、僕は君に嫌な想いをさせるつもりはないよ。
愛しているから、隣にいて貰うってただそれだけのお願いしかしないつもりだから、安心してくれていいのにさ。
果たして君は何をお願いしてくれるんだろう。
いろんなことを楽しみに思いながらも、僕は取引を交渉を進める。
「君も笑ってよ?」
僕がそう言ってもやっぱり君は難しい顔をしてばかり。
笑う暇さえないというような、そんな感じであった。
どうして笑ってくれないんだろうね。楽な気持ちで笑いながらやればいいのに。
こんなにも楽しい取引なんだからさ。
穏やかな波だったのに、天気が変わって風が強く吹き出して。
いつの間にか満潮にもなっているようで、あんなに遠かった海がこれだけ近付いてしまっている。
物凄い高波だね。こんなになってしまうだなんて、取引が始まった頃には考えもしなかったことだろう? ああ、危ない危ない。
これじゃあまるで、海が機嫌を損ねてしまっているようじゃないか。
もっと波が高くなったら、呑み込まれてしまいそうだよ。僕も、君もさ。
「早くしてよ」
あまりに遅かったから、僕も機嫌が悪くなってしまいそうであった。
君を目の前で眺めていられるのだから、文句はないさ。ある程度は待っていられるよ。
それでも君は遅すぎる。
いくら君でも、いくら僕でも、ここまで遅いと待ち切れないよ。
ああ本当に、僕も機嫌を損ねちゃいそうだ。
いっそのこと君を、飲み込んであげようか?
悩んでいる君がときめいて更に困惑してはいけないので、僕はその言葉を飲み込んで心の中に留めておいた。
君の苦しみ顔を見るのは楽しそうだけれど、何も僕は君の笑顔が嫌いだとかそういう訳じゃない。
僕はどんな君だって大好きなんだよ。
「どうして?」
一向に笑顔を見せる様子がない君に、僕は問い掛けてみた。
それでも悩んでばっかりで、君は何も答えてくれない。僕のことを見てもくれていないように思える。
これは、僕が勝ったらお仕置きが必要になりそうだね。
「ねえ、そんなに暗い顔をしないでよ」
お仕置きをしたらやっぱり、君はもっと渋い顔をしてしまうのかな。
だけど君の苦しむ顔を見られると思ったら、それも良いや。
暗い顔をしないでとは言うけれど、そんな表情にも美を感じている僕がいるのは確かだしさ。
でも君ったら、もっと楽しんでくれてもいいと思うだけどね。あまりに本気でやりすぎだよ。
「簡単な駆け引きじゃあないかい?」
僕はそう言っているというのに、君は唸ってばかりなんだもん。
はぁ。本当に、いつまで僕のことを待たせておくつもりなんだろうね。
「笑顔で楽しめばいいでしょ、楽しい遊びさ」
そう、ただの遊びなんだから。楽しんでくれればいいのに。
もちろん、僕の為にその苦しそうな表情は見せながらでもあるけど。
「どうして?」
あまりに君が僕の言葉を無視しているから、僕はその理由を問い掛けてみた。
いい加減にしてくれないと、さすがの僕だって怒っちゃうよ。
「ねえ、そんなに逃げるだなんて」
隙をついて、君は走り出した。
また鬼ごっこがやりたいの? それとも、まさかこの僕から逃げようと考えているとか、そういうことなのかな。
許される訳がないってのにね。
「そんなの酷いじゃん」
小さく呟き舌打ちを一つ。
僕は手加減することもなく全力で、他は何も見ずに君のことだけを追い駆けた。
いきなり走り出すなんて、そんなズルいことする悪い子は許さないからね。
そもそも、どうして君は僕から逃げるんだろうか。
「僕はこんなにも君を愛しているんだ」
どんなに愛を叫んだって、君の心には届かないのだろうか。君はそんなにも冷たい人間だったのだろうか。
そうじゃないよね?
君はいつだって優しくて、あの日も僕に声を掛けてくれた。
「こんにちは」って、本当に優しく。
声を掛けてくれたのなんて、君だけだった。あれはきっと、僕に気があったからに違いない。
それなのに、ねえ、ねえ、どうして?
「あっはっはははあははあっはははあっはっは」
なんだか、笑いが込み上げてきた。
遂に僕は君を捕まえる。
もう絶対に逃げられないように、両足首を縄で縛ってから砂浜に転がした。
もう日も沈んでいて、ただでさえこの辺にはいなかったというのに、海水浴客はもう一人も見当たらないくらいになった。
「どうして?」
ゲームの途中で逃げ出したりした君に、僕は優しく問い掛けてあげた。
これはただの質問だっていうのに、怯えた顔をするんだからちょっと傷付くかも。
「ねえ、そんなに怖い顔はしないでよ」
睨み付けるような君の顔。ああ、怖い怖い、そして悲しいな。
苦しむ顔を見せてくれるのは嬉しいけれど、怖い顔はしないで欲しいかな。
むしろなぜ君は僕を恨むように見ているんだろうか。
清らかで純粋で無邪気な君にだって、生きていて辛いと思うことくらいあるだろう? あるだろうよ。
そんな苦しみから僕は解放してあげるんだ。これもそれも全て、君の為にしてあげることなんだ。
それだったら、最早喜んで欲しいくらいだってのに。
君の為。そう、君の為なんだよ。お礼こそ言われても、恨まれる謂れはないね。
バッグからナイフを取り出して、ゆっくりと君の首筋に当てる。
「どうして?」
最期にもう一度だけ、僕は君にそう訊ねた。
だけど今回もその答えは返ってこないようだったので、もう諦めるということにする。自分で考えるのも楽しいし。
「ねえ、そんなに嫌がるなんて酷いじゃん」
ナイフを握る手に力を込めて、僕は君に囁いた。
結局君は、僕に愛を返してもくれないんだね。
僕はこんなにも君が大好きなんだ。初めての恋なんだ。僕が唯一愛した人、それが君なんだ。わかってくれよ。
それなのに、ねえ、ねえ、どうしてなの?
決して嘘は吐いていない。僕の言葉には一つの嘘もないんだ。
「本当に大好きなんだよ」
愛を囁く度に、僕の瞳から涙が零れる。
「本当に愛しているんだよ」
愛を囁く度に、君の瞳から涙が零れる。
「この気持ちは、確かなものなんだ」
両目をきつく瞑っていて、耳も心も塞ぎ込んでしまっているようで、僕の声が届いている様子もない。
それでもいいさ。
僕の愛に君が気付かないのなら、それもそれでいい。
君に見つかることのない影で、僕は君を守っているからね。永遠に、君を守り続けているからね。
そっとナイフを滑らせると、君が小さく悲鳴を上げ、生温かい液体が流れ出した。
もう他の誰にも渡さないからね。君は僕だけの物、君を愛しているのは僕だけなんだから。
誰も君に触れることは許さない。君は僕だけの物、僕のものに触れる奴がいたら僕は絶対に許さない。
誰一人として、君を傷付けるものは許さない。
そう、君は僕だけの物なんだから。傷付けさせたりはしない。
大切に扱ってあげるからね? 君のこと、丁寧に大切に保管しておいてあげようか。それとも、僕と一緒にいたいかい?
君は答えを返せる状態でもないみたいだね。
相変わらず恐怖に顔を歪めている君の顔を小さな明かりで照らし、その首を伝う紅い血を舐め取った。
「ああ、美味しいよ」
これは僕だけの特権だからね。
何よりも素敵な君の血を舐めてもいいのは、この僕だけなんだから。
わかったかい? 君は僕のものなんだよ。
そろそろ理解してくれるといいんだけど。
だけど勝負は引き分けに終わってしまったから、僕だけが君を僕のものにするんじゃいけないよね。
だから代償を、代わりをあげるよ。
あの海もあの星も、全部全部君にあげる。どれもこれもそれも、全部だよ。全部君だけのものなのさ。
最高の取引内容だよね。我ながら褒め称えたい。
そんなことも考えながら、僕は笑顔で君を眺めていた。
すると君はなんだか鬱陶しそうな顔を一瞬浮かべた。
恐怖の中でもそれは感じるようで、美しい脚を、美しい脚に留まっていた蚊を叩いた。
そしてそんな君の手に付いているのは、他でもない君の綺麗な血。
僕が油断していたばかりに、君を傷付けるものが現れてしまったのだと、そう言うのだろうか。
僕では君を守ることが出来ないと、そう言うのだろうか。
ならば、僕も君と一緒に逝く道を選ぼうではないか。
僕の最期。