白いカーネーション
貴方に伝えたい言葉があるんだ。
もう今更この声は届かないけれど、だからこそ伝えたい言葉なんだ。
あの時には素直に言えなかった。それでも、今の僕ならば、今の僕だから言える言葉。
それは、”あ”から始まる言葉なんだ。
とても大切な言葉。
「ありがとう」という言葉。
貴方に伝えたい、そんな気持ちがあるんだ。
もう今更になってしまうよね。今更そんな気持ちを抱いたとしても、遅過ぎるってことは知っているんだけどね。
どうしてあの時には素直に言えなかったんだろう。
だけど今の僕だからはっきりとわかる。はっきりと言える気持ちを、貴方に向けて伝えたい。
それは、”あ”から始まる気持ちなんだ。
とても大切な気持ちなんだけど、だからこそ伝えることの出来ない気持ち。
「愛してる」という気持ち。
何年前のことになるんだろう。
貴方と笑い合う日常を、映し出した当たり前だった日々の写真を見て、そんなことを想う。
「ありがとう」だとか「愛してる」だとか、そんなこと言葉に出来なかったあの頃。
「照れ臭いね」
なんて言った貴方。
「照れ臭いね」
なんて返した僕。
二人でそんな風に笑い合っていた、そんな毎日が懐かしい。
――未来が見えなくなってしまうくらいに。
過去が懐かしくて仕方ないよ。
まだ子供だった僕だから、素直になり切ることは出来なかった。
そっぽ向いてさりげなく、そうだけれど、そっと花束を差し出した。
瞳を潤ませて喜んでくれた、貴方の顔が瞼に映るようで、涙が零れるよ。
それは、”あ”から始まる贈り物なんだ。
とても大切で、笑顔になることが出来る。
「赤いカーネーション」を、特別な花束を。
貴方には、苦労を掛けてしまった。
迷惑ばかり掛けて、困らせてばかりだった日々もあったよね。
いることが当たり前で、だから「いらない」なんて言っちゃったけど。いなくなった今ならば、よくわかるよ。
どれだけ貴方が大切な存在だったのか、今ならばわかるよ。
もう絶対に「いらない」なんて思わないから、帰ってきて欲しい。
だけど、僕は成長するから帰ってこないで欲しいな、なんて。
子供だったあの頃、大人ぶろうとしていたあの時期。
少しでも貴方に反抗の気持ちを見せたくて、思ってもいない暴言なんて吐いたんだ。
強がって貴方を傷付けてしまった、そんな日もあったよね。
それでも何をしたとしたって、いつも貴方は僕の味方でいてくれた。
いつもいつでもいつだって、僕のことを想っていてくれた。
その優しさにも、気付いてなかったんだから、あの頃の僕は本当に幸せ者だった。
もう遅いとは思うけれど、お願い、言わせて。
「ごめんなさい」それと「ありがとう」を。
伝えて花を飾ると、僕は空を仰いだ。
涙が流れないようにと、あの日と同じ強がりな笑顔を浮かべてみせた。
僕には夢があるんだ。
貴方と一緒に叶えたい、貴方に応援して欲しい、そんな夢があるんだ。
「今更?」と「遅い」と、笑ってくれたらいいのに。
いつも伝達が遅い僕にそう言ってくれる貴方。
その優しい笑顔を、苦笑いをもう一度見せて欲しくて。
あの時には素直になれなかった。
それでも今の僕だからこそ、出来る夢が。
自信を持って夢と言える夢が、今の僕だからあるんだ。
それは、”あ”から始まる夢なんだ。
「なんだと思う?」
と問い掛けたら、
「どんな夢なのか、言ってご覧なさい」
という貴方の声が聞こえたような気がして、温かく立つ冷たい石を振り向いて見る。
貴方はきっと笑うだろうけれど、教えてあげるね。
「歩き出そう」という、大切な夢さ。
貴方の好きだったお菓子を買ってきたから、僕の想いを聞いてくれないか。
あの時には、全然素直になれなかった。
けれどそれは、今の貴方にならば届く筈の想い。
もう僕の傍からいなくなってしまった、今の貴方にだからこそ届く筈の想い。
今更かもしれないけれど、この想いを貴方に届けたい。
それは、”あ”から始まる想いなんだ。
照れ臭くて上手く言えないけれど、何よりも大切な思い。
「ありがとう」という想い。
貴方の元から旅立ってからも、僕は大人になることが出来なかった。
何年も何年も貴方を遠ざけて、遠ざけ続けてしまった。
「僕だけが、自分だけが苦しいんだ」
と、勝手にそう思い込んでいた。
堪っていくストレス。貴方に八つ当たりをして、貴方のことを苦しめ続けた。
苦しめていることにすら気が付かずに。
本当は僕よりもずっと、僕のことを想って僕の為に悩んでくれていたのに。
そんな日々の中でも、心の中に深く残っているものがある。
それは、”あ”から始まる思い出なんだ。
普段は優しくて穏やかな貴方が、怒りを爆発させた。僕の可能性を守ってくれる為に、貴方は拳を振り上げた。
「赤くなった頬」貴方に貰った優しさ。
今、思い返して、目元が熱くなるよ。じんわりと、優しさが滲むよ。
気付いたときには、いつもいつも、貴方は僕の隣にいてくれたね。
嬉しい時も楽しい時も悲しい時も辛い時にも、ずっと隣で微笑んで、優しく声を掛けてくれた。
寂しさを慰めてくれたのも、思えば貴方のさりげない優しさだったんだね。
甘やかすんじゃなくて、貴方は優しい人だった。
間違ったことをしてしまったときには、叱ってすぐに正してくれたね。
甘さも厳しさも、貴方がくれた優しさ、贈り物だよ。
だけど当時の僕は、それに気が付くことが出来なかった。
貴方の優しさを優しさと思うことも出来なくて、気に入らないことがあると暴れ回って、本当に申し訳ない限りだよ。
傷付いてしまった貴方の後ろ姿に、あの頃だって胸は痛んだ。
だけど僕は言えなかったんだ。
本当は素直になりたかったのに、「ごめんなさい」という言葉が言えなくて。
やっぱり僕は、貴方を悲しませてばかりだった。
厳しく怒鳴り付けられて、その優しさに僕は腹が立った。
ときには涙を流してくれた。それでも僕は、鬱陶しいと貴方の手を払った。
どんなに貴方が優しく手を差し伸べてくれても、その手を払ったんだ。
僕は決して自分の過ちを、間違いを認めることをしなくて、頑固な僕に貴方は困ったように微笑んだ。
今だから素直に言える。
堪えていた涙が溢れてくる。
「慰めてよ」
あの日のように傷付いた僕の心を。
「抱き締めてよ」
あの日のように凍えている僕の心を。
失ってから貴方の大きさに、その偉大さに気付いたんだ。
もう一度だけ貴方に会いたくて、僕の想いを伝えたくて泣き叫ぶ。
僕を置いて行かないでよ。
ずっと隣にいてくれたじゃないか。
「僕を置いて行かないでよ」
気が付いたときには、もう遅かったんだ。
いつも隣にいてくれた貴方が、もう僕の隣にはいないんだね。
「歩き出せたんだ」と、僕は語る。
退屈な自慢だって、貴方は僕以上に喜んでくれるんだ。
だから伝えたかった。
やっと歩き出すことの出来た僕を、褒めて欲しかったんだ。
喜んで欲しかったんだ、それなのに。
聞こえてはいないと思うけれど、伝えさせて。
「ごめんなさい」それと「ありがとう」の言葉を。
それは、”あ”から始まる言葉だった。
貴方に送りたかった、そんな言葉だった。
だけどもう届かないから、その代わりに送るのは。
白いカーネーション。