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青空の下

 三月の始、春が芽吹き出す頃のこと。

 少しずつ少しずつ、桜の花も開いてくる頃のこと。

 蕾から花に変わって来る、ほんのりピンク色が木を飾り出す時期。

 僕がここでこの桜の花を見るのは、初めてじゃない。

 もう、もう六度目のことなんだ……。


 六度目の春、六度目の花。

 校庭の桜の木は、初めて見たときと同じように、変わらず大きく聳え立っている。

 その姿はあまりに大きくて、でも今年の僕には実際よりも大きく感じられて。

 散った花びらで、校庭を埋め尽くすことさえ出来るのではないか、と思えた。

 また日が経って、僕に残された時間はもうごく僅か。

 その度にその度に募る寂しさに、残された長く短い一瞬に、僕は何をしていいものかわからなくて。

 蕾があったその頃が、たった一週間やそこら前のことが、懐かしくも思えるようになっていた。


 また少しずつ、また少しずつ。

 迫って来る卒業の時に、運命のその時に、僕は逃げ出してしまいたくなった。

 それでも、逃げる時間すらもう僕には残っていない。

 ここで君と話を出来るのは、もう最後となってしまうんだから。


 小さい、小さいよ。

 この小さな僕の手じゃ、何を守ることすら出来ない。

 あまりにちっぽけで、君の後姿を見つめるくらいしか、出来ないんだ。

 君を追い掛けることすら、僕には出来ないよ。


 汚れたランドセルを見て、昔を懐かしむ。

 六年前には、あんなにもピカピカと輝いていたのに。

 今となっては、こんなにも汚れちゃっているよ。

 これは僕の過ごしてきた日々や、過ぎ去ってしまった日々を表しているようで、僕の胸は締め付けられるような感覚に襲われた。

 苦しくて、苦しくて。


 汚れた僕の瞳には、何を映すことも叶わないんだね。

 六年前には、あんなにも純粋な輝きを帯びていたのに。

 まっすぐ君を見つめられなくなってから、だろうか。僕の瞳は汚れてしまい、何も映さない……映せなくなってしまったのは。

 こんなに汚れちゃった瞳は、君に見て欲しくない。

 君の夢を追う綺麗な瞳は、見つめることすら苦しくって。悲しくて。


 毎年毎年、先輩方は去って行ってしまった。

 そして遂には、僕たちの番が来てしまったんだね。


 この時間は永遠なんだ、永遠に続いて行くんだ。と、幼い僕は信じていた。

 いいや、去り行く先輩の涙に、成長はしていたんだと思う。

 僕なりに終わりのときを見ていたんだろうとは思うけれど、僕はずっとそこから目を逸らしてきた。終わりからも、君からも目を逸らしてきた。

 取り残されてしまうことすら厭わずに。

 この時間は永遠に続くと信じる為に、幼い僕であり続けていた。


 毎年毎年、先輩方に寂しさを堪え、別れを告げた。

 別れを悲しむ姿を、僕は見て来た。

 いつかは僕たちがあの場所に座り、卒業生として送り出されるんだって、頭では理解していたはずなのに。

 そして遂に、僕たちにも別れの時が来たんだよ。

 わかっていたじゃないか。わかっていたはずじゃないか。

 覚悟していた。

 僕は笑顔で君を送り出すと、決めていた。


 卒業後。

 もう会うことはなくなるんだろうね。もう二度と再会を果たすことなんて、出来ないことだろうね。

 でも離れ離れになってしまっても、僕は君のことをずっと応援してるよ。

 見えない場所で応援しているよ。



 一字ずつ、また一字ずつ、ゆっくりと慎重に文字を綴っていく。

 たった一枚の紙に、重要で大切な、この時間を紡ぐたった一枚の紙に、僕の全てを懸けて文字を綴っていって。

 卒業文集。

 ここには紡いできた思い出も、君と僕の約束も、奇跡の瞬間も収めておいて。記憶と一緒に飾るんだ。

 君と共有出来た大切な時間を、君と共有したこの大切な思い出の一冊を、記憶と一緒に仕舞うんだ。


 優しい、辛いほどに優しい君の目。

 僕の大好きなその目が、優しさの奥に別の感情を隠していた。

 この幸せな時間の終わりを告げるかのように、悲しく揺らいでいた。


 次の日が訪れるのが、本当に楽しみだった。

 六年前には、あんなにもワクワクしていた毎日。

 それすらも、今は地獄のように感じられてしまう。

 もう残されていない時間だからより大切に過ごしたいと思うんだけど、思えば思うほど時間を経つのが止まればいいと、そんな風に思っちゃって。

 それが時間の無駄だって、わかってはいるはずなのに。

 楽しみたいのに。


 ずっと六年間ずっとずっと、明日を待つのが楽しみで仕方なかった。

 いつになったら明日が来るのかと、うれしい気持ちで眠る僕と、一緒に明日を待ってくれたこの枕。

 あんなに大切にしていたのに、あんなに楽しみな明日だったのに、どうしてなんだろうか。

 それすらも、今はこんなに濡らしちゃっていて。

 もう十二歳にもなって、泣いてばかりなんてね。男のくせして、泣いてばかりなんてね。情けないけれど、夜になるとどうしてもまた一日が終わっちゃったって気がして、涙が溢れてしまうんだ。

 終わってしまうこの日常が、悲しくて涙が溢れてしまうんだ。


 毎年毎年、先輩が去って行ってしまったんだ……。

 それでもなんだか、僕たちの番は来ないような気がしていた。来ないんだって、信じていた。

 そんなはずがないのに、ね。

 必ず六年生は卒業してしまう。六年生になれば、六年生が終われば、卒業してしまうんだってわかってる。

 そして遂に、僕たちの番が来てしまったみたいだね。

 逃げ続けていたときが、来てしまったみたいだね。


 この時間が永遠に続いたりはしない。

 それくらいのことは、二つ上の仲良い先輩が卒業して、その頃から感じ始めていたんだよ。

 頭では理解していた、知ってはいたんだけれど。

 やっぱり、そのことを実感し始めたのは六年生の三学期くらいから、かな。

 そしてそれを実感してしまうと、もう終わってしまう恐怖と新しく始まる恐怖で、時間が経つことが怖くて堪らなくなった。


 毎年毎年、泣きながら別れを惜しみ続ける先輩を見てきた。いつまでもそうする先輩たちの気持ち、あの頃はわからなかったその気持ち、今ならよくわかるよ。

 遂にお別れの時が来たから、今の僕たちなら痛いくらいよくわかるよ。

 足取りが重くなる登校中、涙が滲み出す下校中。

 いつしか僕は悲しみから、君のことを避けつつすらあったよね。


 中学校へ行ったら、また新しい出会いに溢れているだろう。

 それでも僕は、君のことを応援しているよ。

 僕にも出会いがあり、君にも出会いがあるだろう。

 その中でも、僕は君のことだけをずっと応援してるから。



 一つずつ一つずつ、幼かった僕も歳を刻んでいって。

 日めくりカレンダーを見る度に、古い写真や思い出の品を見る度に、全ての記憶が意気地なしな今の僕を責めるんだ。

 重ねてきた日々の分だけ、沢山の僕が僕のことを責めるんだ。

 壊れてしまいそうなほどに。

 そして想えば、もう十二にまでなっていたんだね。

 僕の一日はそんなにも積み重なっていたんだね。


 少しでも勇気が出たならと、幼く小さな頃の写真を見てみる。

 ただその笑顔も、捻くれた今の僕には逆に悲しく思えて。

 そんなところから、子供だった僕も少しは大人になっているんだ、と思えた。

 そしてそんな僕が、とても嫌になった。

 写真を見ると鏡を見ると、無邪気に笑っていられなくなった僕が、嫌で嫌で堪らなくなる。


 懐かしい六年前から、今までの六年間ずっと。

 あんなにもキラキラ輝いていた、僕を輝かせてくれた、夢たちも。今の僕を切ない気持ちにさせるだけ。

 今となっては、綺麗だった夢さえこんなに汚れちゃっているんだね。

 切ない気持ちにさせるんじゃなくて、幸せな気持ちにさせる為の夢なのに。勇気をくれる夢の、その筈なのに。

 何もかもが嫌になってしまった僕は、文房具に八つ当たりして、更に自分が嫌になって。

 抜け出せない悪循環に囚われていた。


 運命の六年前から、今までの六年間ずっと。

 あんなにも純粋に輝いていた、純粋に輝きを映していた僕の瞳。

 苦しいくらいに悲しいくらいに、今となってはこんなに汚れちゃっていて。なんでだろう。

 君のことをまっすぐ見られないよ。

 俯いてばかりだからかな。最近は僕、廊下しか見ていないような気がするよ。


 毎年毎年、先輩は去って行ってしまった。

 逆らうことの出来ない時の流れ。僕も君も、他の誰も決して止められない。

 そして遂にやって来たの、僕たちの番が。僕たちの番が来てしまったんだ。


 永遠に、この時間に終わりが訪れたりはしない。

 そんなことを思うことが許されるのなんて、そんな甘い思いが許されるのなんて、一年前くらいまでだよね。

 だからその儚い願いも、もう諦めよう。

 校舎にそっと置いて、思い出と一緒に置いて行ってしまおう。


 毎年毎年、別れて離れ離れになっていく先輩の姿を見て来た。

 その悲しみがわかってしまうよ、わからなくてもいいくらいに。わかりたくないくらいに。

 ついにやって来てしまった、僕たちのお別れの時、逃げ出したくて逃げ出せないその瞬間。

 卒業式も終わってしまい、もうここで話せなかったら、一生後悔することだろう。

 決意を固めて、僕は君に声を掛けた。

 目を逸らしていたけれど、そのときだけはまっすぐ君を見た。その時だけは君を見た。後悔しないように、と。

 毎日会っていた筈なのに、久しぶりに見た君の顔。それはどこか少し大人びていて、悲しそうで美しくて。

 これが最後なんだって思い知らされたよ。


 でも最後だから、笑顔で送り出してあげないとって思ったんだ。

 お別れは涙よりも笑顔が良い。だって最後に残る顔は、笑顔でいて欲しいに決まっているんだから。

「どこかで君が立ち止まったときには、あの歌を思い出して」

 言いたいことは沢山あるけれど、小さくそうとだけ言って、笑顔で僕は君に別れを告げた。君との別れを遂げた。

 君には夢を追い続けて欲しいから。

 笑顔で静かに別れを告げた。


 お別れは永遠じゃない。幸せが永遠じゃなかったように。

 ”いつか、またどこかで会おうね”

 先輩と同じように、別れを惜しみ涙を流した。これも大切な思い出になるからと、笑い合った。

 卒業式が近付いていることを感じ、僕と君は放課後の教室で、約束を交わし合ったよね。


 あの日の笑顔は、無理矢理な笑顔だった。

 僕も君も、下手くそな笑顔だったよね。

 ”いつか、またどこかで会える筈だから”

 なんとかそう微笑み合うと、僕と君は約束を交わし合ったんだ。

 強く根付いたその記憶は、僕を苛み応援してくれる。苦しみへと、そして最終的には幸せへと導いてくれる。大切な記憶、大切な思い出。

 大切な言葉、大切な人。


 でも大丈夫だよ。何があっても大丈夫だよ。

 だって、どこまでも世界は続いているのだから。どこまでも世界は繋がっているのだから。

 だからすぐではなくとも、いつかはきっと会えるよ。


 青空の下。

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