第四章 オリヴァー・マクニール 3・4
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「こ、ここを走らせるのですか……?」
ベイトニアンの調教をおこなうというので来てみれば、そこは小高い丘の中腹だった。丘の頂上まで二百メートルあまりは続いているだろう険しい斜面を見上げ、ダスティ・キーガンは息を呑んだ。
「ここは知り合いの調教師が使用している坂路です。無理をいって今度のレースまでのあいだ、貸していただけることになりました」
淡々と告げたのはオリヴァー・マクレーン――英国中のホースマンが一目置くという名伯楽である。
ダスティの招聘に応じてマクレーンが屋敷を尋ねてきたのは三日前のことだった。それに先立って、マクレーンの弟子だというギルバート・スティーブンスが姿を見せ、ベイトニアンには自分を乗せてほしいと申し出てきた。マクレーンが調教を引き受けてくれるならば騎手は誰でも構わない。ダスティはこの師弟の要望を二つ返事で聴き入れた。
そしていよいよマクレーンが本格的に調教を始めるというのでどんなものかと早朝から出張ってみれば、まさかこんな場所に連れてこられようとは。
ベイトニアンにはすでにスティーブンスがまたがっていた。騎手は朝もやに霞む丘の頂上を見上げていた。すぐにでも調教を始められるといった雰囲気だ。しかし――。
「調教はすべてあなたにお任せするとは申し上げましたが……本当にここでなければいけないのですか」
ダスティがいぶかしげに尋ねると、マクレーンはにこりともせず口を開いた。
「坂路調教にはふたつの利点があると私は考えています。ひとつは馬の後肢の脚力を集中的に高められること。重力に逆らって坂を登ろうとするわけですから、自然と後ろ脚により大きな負荷がかかるのです。そしてもうひとつは、馬が本来持っている野性の精神力を引き出すことができることです」
「野生……ですか」
「息を切らして坂を登る経験を繰り返すことで取り戻すのですよ、野生の本能というものを」
「はあ……重要な調教であることは承知しました。しかし、そこまでする必要があのでしょうか? ベイトニアンの実力ならば、向こうが用意した訳のわからない馬など難なく打ち負かせるでは……」
正直いって、ダスティは競馬の専門的な知識などまるで持ち合わせていない。競馬に手を出しているのは、貴族や他のジェントリとの付き合いのためだ。ダスティにとってベイトニアンをはじめとする所有馬はトランプや楽器と同じ――つまりは社交場のおもちゃだ。もっとも、金を咥えて戻ってくるという点では、バカにできないおもちゃだが。
マクレーンに協力を要請したのも、その腕前を真に理解したから、というわけではない。もちろんリア・ミースフォードへのあてつけの意味もあったが、同時にこの名伯楽の名声にあやかたいという思惑も秘めていた。英国いちの名伯楽と知己を得たとなれば、付き合いのある貴族連中がたいそううらやましがるに違いない。連中の歓心を買っておけば、今後自分の事業を広げていく際に便宜をはかってもらいやすくなる――そんな目論見もあった。
だからマクニールには、このダスティ・キーガンに手を貸したという事実さえ作ってもらえればそれで充分。そう考えていたのだが……。
「向こうについた馬喰は、レースを左回りでおこないたいといってきたそうですな」
マクニールが突然そんなことをつぶやいた。
「え、ええ。そのような戯言を申し入れてきましたな。それがいったいなんだというのです?」
唐突な話題にダスティは少し戸惑う。マクニールの顔に一瞬笑みが浮かんだようにも見えたが、気のせいか?
マクニールはおもむろにベイトニアンを曳き、ダスティの正面に立たせた。
「見てください、この馬の前脚を。左脚がわずかですが内側にねじれているでしょう?」
いわれて、ダスティは目を凝らした――たしかに、膝から下の部分が内側へ曲がっている……ようにも見える。
「こんなものがどうしたというのです? 脚が曲がっているといってもほんのわずかだ。競走にさして影響するとも思えませんよ」
「いえ、それがそうでもないのです。左脚が内側を向いているということは、脚を踏み出したときに右方向へ向かう力が生じるということです。まっすぐ走るぶんには大きな影響はありませんが――問題は左へ曲がるときだ。馬は左へ曲がるとき、左脚を手前にして走ります。このときに左脚が内へ向いていると、脚を運ぶたびに進行方向とは逆向きの力が生じることになる。つまりは走りにくいのです。ほら、歩かせてみればもっとよく分かりますよ」
そういうとマクレーンはベイトニアンを曳き、あたりを少し歩かせた。ベイトニアンが左の蹄を体の内側へ切れ込ませるような歩様をしていることが、ダスティにも分かった。
「この欠点があるかぎり、ベイトニアンは左回りでは必ずコーナーで外へ膨れます。向こうはおそらく、そこを突いてなにか仕掛けてくるつもりでしょう」
飄々といいきったマクレーン。ダスティは開いた口が塞がらない。もちろん、マクレーンの説明に聴きほれていたわけではない。
「そ、そんな欠点があるだなんて、聴いていませんよ! まんまと向こうの術中にはまったということではないですか。だ、たいたい、向こうの要求はすべて呑むようにといったのはあなたでしょう!」
ようやく口をついてでたのは恨み事だった。向こうの馬喰がなにかいってくるでしょうが、気にせず応じてください。昨日の条件交渉に先立ち、マクレーンがダスティに与えていた指示はそれだった。だからこそダスティは向こうが出した訳のわからない要求に渋々応じたというのに!
「ご心配には及びません。だからこその坂路調教なのです」
「なに?」
ダスティが眉をひそめると、マクレーンは皮肉げに口元を歪めた。
「体型の問題である以上、ベイトニアンの欠点を矯正するのは不可能です。だったらそんなものは放っておけばいい」
マクレーンがふいにすごんだ。ダスティは思わずたじろいだ。
「コースの回りを逆にしたことで、最後の直線は長く続く上り坂を走ることになりました。もともと上り坂ではベイトニアンのほうに分があるのです。ならば我々はそれを最大限に活かせばいい。いったでしょう? 坂路調教は後肢の力を高めると。レースまでにベイトニアンのパワーを増せば、向こうがなにを仕掛けてこようが、最後の坂で圧倒できます」
マクレーンの狙いを聴くうちに、ダスティもだんだんと気が落ち着いてきた。
「なるほど……。矯正できない欠点には目をつむり、長所を伸ばそうというわけですか」
「そのとおりです。ご理解が早くて助かる。さあ、ギルバート。そろそろ始めてくれ」
「……御意に」
短く返事をすると、スティーブンスは手綱を引いてベイトニアンを坂道へ向けた。
スタートの合図を出されたベイトニアンは、あっという間に加速し、険しい斜面を力強く駆け上がっていった。
「おお……素晴らしい」
遠ざかっていく人馬を見上げ、ダスティは感嘆を漏らした。先ほどは狼狽してしまったが、マクレーンのいうとおりこれならば心配はいらないだろう。勝つのはベイトニアンだ。
「ええ、負けませんよ、ベイトニアンは。というより、向こうの馬が勝てるはずがないのです。なにせあの馬は、ベイトニアンの左脚などとは比べ物にならないほどの重大な欠点を抱えているのですから」
「なんですと?」
聞き捨てならない言葉に、ダスティは食いついた。
「調子づいてレースの条件などを提示してきたということは、向こうの馬喰はまだ気づいていないのでしょう。このぶんではおそらく、レース直前に併せ馬をする段になってようやく知ることになるのではないですか? おのれの未熟さを」
「……あなた、いったい――」
この男、いったいなにをどこまで見通しているのだ? オリヴァー・マクニールという老体の得体の知れなさに、ダスティは内心おののいていた。
「ベイトニアンだけでなく、向こうの馬も私の知らないものではない、というだけですよ」
わずかに口角を上げると、マクニールはリア・ミースフォードが買ったパースニップという馬について語りはじめた。
*
パースニッブは今日も素晴らしい動きを見せていた。メリッサの手綱に導かれ、パースニップは調教馬場を軽快に駆け抜ける。あいかわらず四肢は綺麗に伸ばせているし、首をグッと下げる独特のフォームも健在だ。このまま順調に調教を積んでいけば万全の状態で今週末のレースを迎えることができるだろう。
「どうだい、調子のほうは?」
メリッサからパースニップを受け取ると、アルはさっそく鞍上の感触を尋ねた。
「ああ、先週よりも確実に上向いてるぜ。走った後の息の入りも早くなってるし、なによりトモがパンとしてきてる。これならマジで坂でもベイトニアンといい勝負になるかもな」
「よっしゃ、このぶんならレースまでにもうひと段階上に持っていけそうだな」
好感触を伝えられ、アルは満足げに拳を打ち鳴らした。
運命のレースは四日後に迫っていた。
パースニップの調教はここまで順調に進められていた。アルがパースニップの様子を見つつ調教メニューを考案し、それをメリッサが実行する。ふたりの的確な仕事ぶりにはサムも舌を巻いていた。騎手のメリッサはもちろん、アルもてきぱきと調教を指揮していた。自分は調教師じゃないなんていっていたくせに。あんなふてくされた態度で謙遜していたのかと思うと、なんだかおかしかった。
「この後は予定どおり併せ馬をやるのよね?」
リアは以前からアルに聞かされていた計画を確認する。
「ああ。このぶんなら少し休憩を挟んでからやれるだろう」
アルはパースニップの脚元の具合を確かめてからそう答えた。あいかわらずパースニップは元気なようだ。
本番のレースを前に、併せ馬で最後の調教をおこなう計画は以前から持ち上がっていた。併せ馬とは文字どおり複数の馬を併走させる調教方法だ。単走よりも実戦に近いため馬にかかる負担は大きいが、そのぶん闘争心を引き出す効果もある。本番前にはぜひやっておきたい調教である。
さらに今回の併せ馬調教にももうひとつの狙いもあった。アルが対ベイトニアン用に立てた作戦を試してみる予定なのだ。パースニップに左回りの心配はないと分かっているとはいえ、この作戦を仕掛けるチャンスは一瞬。ぶっつけ本番は避けたいところだった。
「相手のほうはどうなってる?」
「コーディーならサムのおっさんが仕上げてくれてるよ。あっちも順調みたいだぜ?」
アルが太鼓判を押すと、メリッサもそうかと満足げに頷いた。
コーディーというのは、ミースフォード家の厩舎にもともといた六歳の牡馬だ。厩舎にいる馬の中ではもっとも元気がいいという理由で、パースニップの併せ馬調教のパートナーに選ばれていた。アルのいうとおり、こちらはサムの手で調整が進められていた。
なにもか順調に進んでいる。
不安などなにもない。
リアの目には希望しか見えなかった。
「この併せ馬調教を無事に終えたら、あとはもうレースを迎えるだけなのね……。そうそう、レースでメリッサに着てもらう勝負服も出来上がったのよ!」
「おーい、皆!」
タイミングよく、勝負服を持ってくるよう頼んでいたエドワードが戻ってきた。彼はうきとした足取りで駆けよってくるが……脇に抱えているものを見てリアは眉をしかめる。なにか金属の板のようなものを抱えているのだ。なに、あれ?
「皆、見てくれよ! 馬用の兜だよ!」
エドワードが興奮気味に見せびらかしてきたのは、馬の顔を象った鋼鉄製の兜だった。眼の部分は丸く開けられているものの、鼻から耳までをすっぽりと覆うお面のような形状である。
「そんなもの、どこで見つけたのよ?」
「厩舎の馬具置き場に眠ってたんだよ! たぶん、ミースフォードのご先祖が昔の戦で使ったものじゃないかな? これさ、レースでパースニップにつけたらどうかな?」
爛々と目を輝かせ、どう見てもレース用ではない馬具の使用を進言するエドワード。いやいや……。
「パースニップを戦場にでも行かせるつもりかよ」
「そうよそうよ。そんな重そうなの、レースでつけられるわけないじゃない」
「耳まで隠れちまうじゃねえか。そんなもんつけてレースを走らせたら、危なっかしいわ」
三人が口々に拒否反応を示すと、エドワードは不満げに唇をとがらせた。
「え~っ、絶対恰好良いのに……」
そういえばエドワード、こういう骨董品とか昔から好きだったわね……。
「この兜、布が裏張りされてますね。たぶん、金属を嫌がる馬のために特別にしつらえたのでしょう。ここのお家の方は昔から馬思いだったのですね」
兜を調べたマルタが漏らした感想にエドワードはここぞとばかりに食いついた。
「そう、そうなんだよ! この布だけ取り外しせるようにもなっててさあ! まあ、布だけだとあまり恰好良くはないんだけど……」
「だから恰好の問題じゃねえっての。いいからとっとと返してこいって、そんなもん」
エドワードの手から勝負服だけをひったくると、アルは無慈悲にそう告げた。
「良い案だと思ったんだけどなあ……」
兜を抱えたエドワードはしぶしぶ厩舎へ引き返していった。気の毒だがまあ仕方ない。
「さて、余談はここまでだ。今からパースニップの併せ馬調教をやるぞ」
エドワードの戻りを待って、アルがそう切り出した。パースニップはもちろんのこと、調教パートナーを務めるコーディーもすでに待機していた。一同は輪になってアルの説明に耳を傾ける。
「レース前の調教としては、これが最後なのよね……?」
つまり、レースでの勝敗はこの併せ馬調教の成否にかかっているといっても過言ではない、ということだ。そう思うと身の引き締まる思いがした。
「で、オレはどう乗ればいいんだ?」
腕を組んだメリッサが、片目を開けてアルに尋ねた。
「なるべく実戦に近い形で走らせてほしい。まず、コーディーを先行させ、パースニップは後ろから追走させる。調教馬場をぐるっと回って、最後のコーナーを曲がるところで前に追いついてくれ。そして直線に入ったら目一杯に追って一気に先行馬を抜き去る。そんなイメージだ」
「なるぼど……、この前いっていた作戦の練習ってわけだね?」
エドワードが合いの手を入れる。彼ももうすっかり真面目な顔つきだ。
「もちろん、競馬場とはコースの規模が違うからなにもかも同じじゃないが、レース運びを覚えさせるには充分だろう」
「じゃあコーディーは仮想ベイトニアンということね?」
リアのひとことを受けてアルは馬丁の少年に顔を向ける。
「兄ちゃんもそのつもりで、なるべく抵抗してくれよ。簡単に抜かされたんじゃ練習にならねえからな」
「が、頑張りますっ」
馬丁の少年はコーディーの乗り役に指名されていた。うまく乗れというのは酷かもしれないが、緊張せずに務めを果たしてほしいものだ。
「コーディーのほうも、準備はいいな?」
「ああ、大丈夫だ。足慣らしは終わってるから、いつでもスタートさせられるぜ」
サムは親指を立ててアルにサインを出した。あの生き生きした顔を見ると、久しぶりに調教師としての腕が鳴ったのだろう。
「よし……行くか」
すべての準備は整った。アルの合図で、メリッサと馬丁の少年はそれぞれ馬にまたがった。いよいよ、レースに向けた最終調教が始まる。
ゆっくりと馬場に出された二頭は、コーディーを内側にしてスタートラインに並ぶ。馬場にはスタートを示す杭のほかに、コーナーの目印にするために四本の杭を打ってある。あれらの杭をターンするかたちで馬場を旋回し、このスタートラインに戻ってくるまで走らせる。そういったコース設定だ。回りはもちろん左回りである。
頃合いを見計らい、アルが掲げた手を振り下ろした。スタートの合図だ。それを見た馬丁がまず、コーディーを発進させる。数秒の間隔をおいて、パースニップもスタートを切った。
「始まった……わね」
駆け出した愛馬を見守る目に、つい力がこもってしまう。
「そう硬くなるなって。見どころは四コーナーまでこねえんだからさ」
軽口を叩いているものの、アルもコーディーに続いて第一コーナーを曲がっていくパースニップの姿をしっかりと目で追っていた。
向こう正面に入った。ニ頭の間隔は五馬身ほどだろうか。
「よし……ムキになって前の馬を追いかけるような気性はないみたいだな」
アルの頬が少し緩んだ。このくらいの間隔を保って前の馬を追走するというのも、本番に向けた練習のひとつだった。体の大きいベイトニアンとはじめから競り合って走ったのでは、余計な体力を消耗してしまう。
「メリッサともあいかわらず息ぴったりだね」
エドワードが漏らしたとおり、パースニップの背で腰を浮かせるメリッサの姿勢は、いささかも崩れていない。手綱にも適度な緩みが見られ、パースニップは気持ちよさそうに首を上下させて走っている。人馬一体という表現が、まさにぴったりだった。
淡々と流れていた調教に動きがあったのは、コーディーが三コーナーから四コーナーに差し掛かったあたりだった。馬丁の少年が、コーディーに一発鞭を入れる。するとコーディーはにわかにスピードを上げた。レースで逃げ切りをはかるであろうベイトニアンを意識して、早めのスパートを仕掛けたのだ。
メリッサは相手の動きを見逃すことなく、自分も追い上げを開始した。とはいえ派手に鞭を打ったわけではない。一度大きく手綱を煽り、パースニップにハミをかませただけ。しかしそれだけで、パースニップはたちどころにスピードを上げ、コーディーが四コーナーを曲がろうとするときにはもう、その二馬身後ろまで迫っていた。
「す、すごい……」
リアは思わず目を見張った。こうして他馬と一緒に走らせると、パースニップの素晴らしさがあらためて分かる。やはりあの子は並大抵の馬じゃない……!
「よし……そこだっ」
加速して四コーナーを抜けようとするパースニップを見て、アルが小さく、しかし力強く念を送った。ここでパースニップは末脚を爆発させる――。
信じられない光景が目に飛び込んできたのは、その瞬間だった。
「な……っ!?」
誰が発した声なのかもはっきりしなかった。驚愕は全員に共有されていた。
目の前で起きたことは、それほどに衝撃的だった。
「ヒヒィィィッンッ!」
断末魔の叫びのごとき鳴き声をあげながら、馬場上で身をすくめた馬は――パースニップだった。
直線の入り口で前を行くコーディーをかわそうとした瞬間、パースニップはなにかに驚いたように突然頭を上げ、急停止をした。だが前進の勢いは残っている。パースニップは大きくバランスを崩し、醜いダンスを踊るように、足並みを乱して外側へ振られた。
ひっくり返りそうになる背中の上には、さすがのメリッサといえど留まってはいられなかった。メリッサは振り落とされるようにしてパースニップから落馬し、地面を転がった。
「い、いやあああっ!」
あたりをつんざくような悲鳴を上げ、リアは両手で口を覆う。
いまだ首を振って暴れつづけるパースニップを捕まえるため、サムが馬場に駆け込んだ。エドワードはうつぶせに倒れたまま動かないメリッサを助けに走る。マルタは恐怖のためか、リアの脚にすがりついていた。馬丁の少年は自分のすぐ後方で起きたアクシデントに気づいていたようで、コーディーを止めて後ろを振り返っていた。その表情は驚愕に染まっている。
誰もが少なからず恐慌をきたしていたこの状況――。しかしもっとも顔色を失っていたのは、彼かもしれない。
アルは大きく目を見開いたまま、痛々しいほどに蒼白な顔でその場に固まっていた。
4
晩餐の席は重々しい雰囲気に包まれていた。
食器が鳴らす音だけが食堂にむなしく響く。せめてもの慰みにと用意した晩餐だったが、楽しいおしゃべりができる気分の者など誰もいなかった。
パースニップの最終調教が失敗に終わってから、三日。レース本番はもう明日だというのに、状況はなにも改善していなかった。いちおうパースニップの運動はサムと馬丁の少年によって続けられているが、当然のことながら併せ馬はできていない。それどころか、あんなことになってしまった理由すら、リアたちにはまだ把握できていないのだ。
誰もが沈痛な気分に苛まれていた。しかしとりわけ気落ちしているのはアルだろう。あれ以来、アルはほとんど誰とも口をきこうとしなかった。パースニップの運動にはなんとか付き合っていたものの、その悲壮な表情にかつての面影はなかった。食事も喉を通らない様子で、今も出された料理にほとんど手をつけていない。いつもなら口を開けば出てくる料理への文句も、ここ数日はまったく聞こえてこなかった。
マルタもこんなアルの姿を見るのは知り合ってから初めてだという。どう接していいかも分からないらしく、かわいそうにマルタは泣き顔でリアに辛い心情を打ち明けてきた。しかし、リアとてどうにもしてやれなかった。当のアルが、マルタを、いや皆を遠ざけているような雰囲気を出しつづけていたからだ。
アルは自分が見いだした馬に思わぬ弱点があったことに、ショックを感じているのかもしれない。あるいは、ここに至るまで弱点を見抜けかったことに自責の念を感じているのか。しかし、それだけでこれほどまでに深刻になるものだろうか? リアはアルの尋常でない落ち込みように、針で心を引っかかれるような、もどかしい不安を感じていた。
「……お茶をお持ちいたしましょう」
暗い雰囲気のなか、オールコックが台所へ足を向けかけたそのとき、向こうから扉が開いた。
「……よう。オレのぶんの食事も、用意してもらえると助かるな」
扉を開けて顔を見せたのは、頭に包帯を巻いたメリッサだった。
「メリッサ! もう起きてきて大丈夫なのっ?」
思わず席から立ち上がったリアに、メリッサは片手を上げて応じる。
「体の痛みはもう引いた。もともと傷はすりむいたくらいだったしな」
不幸中の幸い、というのだろうか、パースニップから落馬したメリッサは、心配されたほどの怪我を負っていなかった。呼び寄せた医者に診てもらったところ、骨などに異常は見られないとの診断をもらい、リアは胸をなでおろしたものだ。とはいえあれだけの事故のあとだから、大事をとって部屋で安静にしてもらっていたのである。
「良かったよ、きみが無事で……」
エドワードはじわりと涙を浮かべた。
「馬丁の兄ちゃんもオレのところへ来て、しきりに謝っていったよ。迷惑をかけたってな。だけど、あれはあの兄ちゃんのせいでも、コーディーのせいでもないよな?」
喋りながら席に着いたメリッサは、最後のところで少し語気を強め、向かいに座るアルを見据えた。
リアはハッとした。メリッサはあの事故を検証しようとしている。たしかにレースはもう明日なのだ。なにも分からないままでは明日を迎えられない。
しかし、問いかけられたアルは、メリッサのにらみから逃れるようにうつむいて顔を上げない。メリッサはしばらくアルの返事を待ったが、やがて諦めたように再び自分から口火を切った。
「パースニップは、コーディーの真後ろに来た瞬間、突然なにかにおびえたようになって正気を失った」
「それは……パースニップに気性的な問題がある、ということ?」
リアが訊くと、メリッサは重々しく頷いた。
「おそらくな。お嬢さん、あんた、前にいってたよな? セリング・レースの後、あの馬が暴れて危ない目に遭ったって」
「うん……もしかして」
リアの顔からさっと血の気が引いた。あのときの恐怖を思い出したから、というだけではない。なにか得体の知れない考えが、リアの脳裏に浮かんだのだ。
それをはっきりと言葉にしたのは、メリッサだった。
「あのときも、パースニップはほかの馬の真後ろを歩いていたんだよな? おそらくだが、パースニップはほかの馬が目の前にいることを極度に恐れる性格なんじゃないか? そのせいで、レース中でもなんでも、前の馬に近づくと正気を失っちまう」
メリッサの推測を聞いて、エドワードが渋面を作った。
「ひょっとして、パースニップがこれまでレースで成績を上げられなかっだのは、その性格のせいなのか?」
「オレも不思議に思っていた。あれだけの能力を持った馬がなぜレースに勝てず売りに出されたのか――と。もちろん、もともとあいつを乗りこなせる騎手がいなかったみたいだから、レースで他馬に迫る場面があったかどうかは、分からねえがな。しかし、もしあれが生まれつきのもんだとしたら、どこかの時点で、誰かは気がついていたはずだ」
それはもちろん、アルを責める言葉ではなかっただろう。しかしアルは、重くのしかかる罪の十字架に耐えるように、きつく唇をかみしめていた。
「いや、今さら過去を振り返っても仕方がない。問題は明日のレースをどうするか――」
メリッサが話を進めようとしたとき、食堂の扉が、いささか乱暴に開かれた。リアたちの目は一斉に扉へ吸い寄せられる。
扉を開けたのは、台所へお茶の用意に行っていたはずのオ―ルコックだった。
「み、皆様……、キーガン様が、お見えになっています……っ」
「なんですって?」
リアの怪訝な声に応えるように、オールコックを押しのけて姿を見せたのは、たしかにダスティ・キーガンその人だった。
「夜分失礼いたします。明日のレースの前に、どうしても皆様の耳に入れておきたいことがございまして、参上したしだいです」
丁寧な口調とは裏腹に、ずかずかと食事の場へ踏み込んでくるダスティ。リアはキッとダスティをにらみつけるが、追い返すわけにもいかない。
「な、なんなんですの、藪から棒に」
邪険な態度を隠さないリアをものともせず、ダスティはニヤつきながら、なぜかアルを一瞥した。
「先日はそちらの馬喰をご紹介いただいたというのに、こちらの協力者をお知らせしていないと思い出しましてね。手の内を隠したまま明日を迎えるのはどうにも心苦しくなってしまったのです。それに、そちらの馬のことで、ひょっとしたらお困りになっているのではないか、と思いましてな」
最後のひとことに、リアは目を見開いた。まさかこの男……また間諜を放ってこちらを偵察していたのか? だとしたら、どこまで自分たちの窮地を知られている?
「き、協力者、というのは?」
なんとか動揺を抑えこみ、リアは探りを入れた。
ダスティは底意地の悪そうな笑みを浮かべてリアに答える。
「あなたも耳にしたことくらいはあるのでは? ベイトニアンの生産者にして英国随一の名伯楽、オリヴァー・マクニールの名くらいは」
その名を聞いた途端、ガタリと椅子を鳴らしたのは、アルだった。
*
レースを翌日に控えたベイトニアンを、オリヴァー・マクニールは自ら曳いて歩かせていた。直接、状態を確かめたかったのだ。遅すぎず速すぎず、適度な速度でベイトニアンを歩かせ、蹄が鳴らす音に耳を澄ませる。コツ、コツ、コツ……。ベイトニアンの蹄が作り出すリズムを聴き、やがてマクニールは確信を得る。問題はない。明日のレースまでならなんとか保つだろう。あとは、向こうの出方次第だ。
ベイトニアンを馬房に戻していると、厩舎の入り口に見慣れた人影を認めた。
「ギルバートか。なにか用かね?」
ゆっくりと近寄ってきたギルバート・スティーブンスは、難しい顔をしたまま小さく頭を垂れた。
「いえ、用というほどでは。ただ、お姿が見えましたので……」
下手なごまかしを口にした弟子に、マクニールはわずかに微笑みかける。
「心配かね、私が」
「いえ、そういうわけでは……」
スティーブンスは顔を伏せた。傭兵だったこの男を騎手として預かってからもう二年ほどが経つのか。実直的にすぎる性格はその頃からなんら変わっていないらしい。
「不思議に思っているかね? 私がなぜ、ダスティ・キーガンの頼みを聴いて、今回の競馬に協力しているのかを」
「……よろしかったのですか? あちらの馬――パースニップのことをあの男に教えて……」
「ダスティ・キーガンは我々があの馬の重大な欠点をつかんでいることを、あちらに明かすと思っているのかね?」
「……あの男は先ほど、対戦相手のところへ行くといって出ていったようです。パースニップでレースに挑んできた相手を愚弄しにいったのでしょう」
「ああいった手合いは、気に入らないかね?」
「そういったわけでは、ありませんが……」
「私は気に入らないよ」
スティーブンスは驚いた表情を見せた。冗談が返ってくるとは思ってもいなかったのだろう。
マクニールは目を閉じ、絶え間なく馬に関わってきた自らの人生を省みた。牧夫の父のもとに生まれた自分には、馬に関わるしか生きる道がなかった。ある名馬をめぐる数奇な運命に巻き込まれたのも、きっと自分には馬しかないからだろう。自らの牧場を持ってからは、かつて友と誓いあった宿願を果たすことだけに邁進してきた。そのためには非情にならねばならなかった。見込みのない生産馬は容赦なく切り捨てた。あるいは、出自を隠して売りに出した。すべてはマクニール牧場の名声を高めるためだった。
それでも、捨てきれなかったものもある。
目を開け、マクニールはスティーブンスを見返した。
「ギルバート、きみは天涯孤独の身だったね?」
唐突な問いかけに、スティーブンスは少し怪訝な表情を見せた。
「はい、父はスペインでともにナボレオン軍と戦った際に命を落としましたので」
「そうだったな。私にも家族はいない。いや、いなくなった、というべきだな」
意味深な言葉にスティーブンスはますます眉をひそめた。
隠しておこうかとも思っていたが、マクニールは話す気になった――自分と、アルと呼ばれているらしい、向こうについた馬喰との関係を。
さて――。
なにから話そうかと少し思案し、マクニールはゆっくりと口を開いた。
「ギルバート、あのパースニップという馬が、もともとは私が生産した一頭だということは、知っているね?」
*
「そんな……パースニップが……」
ダスティの話を聴き終えたリアは、絶句するほかなかった。動揺はメリッサやマルタにも広がっていた。なによりアルが、痛々しいほどに青ざめた顔になっていた。
オリヴァー・マクニールの助力を得ていると自慢したダスティは、さらに驚くべき事実を明かした。パースニップが、そのマクニール師の手で生産されたというのだ。
「な、なんの証拠もない話だろう! 契約書にはパースニップがマクニール牧場で生産されたなんて、書かれていなかったぞ!」
エドワードがたまらずといった様子で声を荒らげた。
「たしかに書類上はそうなっているでしょうね。しかし私は、マクニール師から直接この話を聴いたのです。まあ、信じたくないというならそれでも結構。それに同じ牧場の生まれた馬同士が争ったとしても、レースに支障があるわけではないですからな」
だったらなぜわざわざパースニップの素性など知らせにきたのだ? リアはいぶかしく思ったが、それ以上の追及は控えた。一刻も早く明日のレースの対策を練らなければならないのだ。今はこんな男に付き合っている時間はない。
「……お話はそれだけですの?」
リアは動揺を隠し、毅然と振る舞った。
「私どもの馬をご心配くださって、どうもありがとうございました。明日も早いですし、夜が更ける前にお帰りになられたほうがよろしいのでは? 馬車を用意させますわ」
「いえ、自分の馬車を外に待たせてありますので、お気遣いには及びません。その代わり、最後にひとつだけ」
そういうとダスティは、怪訝な顔をするリアたちを尻目に部屋を横切った。彼が足を止めたのは、アルの前だった。
うつろな顔を上げたアルに、ダスティは嫌らしく笑いかけた。
「パースニップといったか? あの馬はきみがセリで見つけてきたそうだねえ? いやいや、きみも人が悪い。あんな気性難の馬をリア様に薦めるとは」
アルの目が驚愕に見開いた。リアたちにもまた緊張感が走る。
「あ、あなた……どうしてパースニップの気性のことを……」
声を震わせたリアを見て、ダスティはにたりと口元を歪める。
「こちらにはマクニール師がいるのだから、当然でしょう? あの馬が幼駒の頃から、マクニール師は欠点を見抜いていたそうですよ。ご存知ないようだから教えてさしあげましょう。マクニール師はね、調教についてこられなくなった馬や重大な欠点を抱える馬は素性を隠して売りに出している。パースニップとかいうあなたの馬もそうやってお払い箱にされた一頭なのですよ。だから契約書でも生産者が違っていたのです。そんな馬がベイトニアンの対抗馬になると考えるとは……まったくまぬけな話だ! つまりだ、ターフの錬金術師などと嘯いたところで、この男は所詮、マクニール師の手の上で踊らされていただけということですよ!」
「……っ!」
ダスティに指をささえたアルは、突然席を蹴った。
「アル!」
止める間もなく、アルは部屋を飛び出していった。
その様子を見て、ダスティはハッと馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「よく分かったでしょう? 最初から比べるべくもないのですよ、馬も人間も! せめてのもの情けだ、明日のレースは回避することをお勧めしますよ。フハハハハハッ!」
アルを追いかけようとするリアたちの背中に、ダスティの哄笑がぶつけられた。
*
「どこだ? アルはどこへ行ったんだ!?」
リアたちが屋敷から飛び出したときにはもう、アルの姿は見えなくなっていた。先頭のエドワードが左右に別れる道を両にらみするが、月灯りしかないこの状況では探し人の行方を見極められそうにない。
しかしメリッサは、エドワードを押しのけて前へ出た。
「厩舎だ! あいつなら絶対にあそこへ行く!」
異論はなかった。いち早く駆け出したメリッサに続いて、リアたちも厩舎を目指して逍遥道へ入った。
息を切らして走っているというのに、厩舎がいつもより遠く感じる。それは暗さばかりが理由ではあるまい。この道をアルと初めて歩いたのは、ついひと月前なのだ。あのときアルは、興味深い馬の見方を教えてくれた。相馬の奥深さについて語るアルは、本当に楽しそうだった。アルは馬が、競馬が心から好きなのだ。そんな彼が、ダスティに愚弄されたくらいで競馬を投げ出すはずなんてない! なにかがあるんだ。まだ自分たちの知らないなにかが――。
そのとき、暗闇の向こうから不意に人影が現れた。
「アル!? アルなの!?」
リアはとっさにそう呼びかけた。しかし――。
「お、お嬢様!? ど、どうしてこちらへ!?」
血相を変えてリアたちの前に姿を見せたのは、厩舎に住み込んでいるはずの馬丁だった。
「アルがそっちへ行かなかった!?」
リアに肩を揺すられると、馬丁は息を詰まらせながら首を上下させた。
「き、来ました! 来たのですが……、ア、アルさんが……っ」
「落ち着け! アルが、どうかしたのか!?」
エドワードに再度促された馬丁は、渇きを飲み込むように喉を動かしてから、また口を動かした。
「アルさんが、パースニップを連れて、で、出ていってしまいました!」
リアたちが厩舎へ駆けつけると、パースニップが入っていた馬房の扉は開け放たれ、中には踏み乱された寝藁だけが残されていた。
*
「本当……なのですか?」
師の話を聴き終えたスティーブンスは、信じられない思いで師を見返した。ランプの薄明かりのなかに浮かぶ師の横顔は、憂いと達観を複雑に入り混じらせているように見えた。
「私を軽蔑したかね?」
師は皮肉げな笑みをたたえてスティーブンスを横目で窺った。
「いえ、そのようなことは――」
とっさに出た言葉とは裏腹に、スティーブンスは目を伏せてしまった。
無論、軽蔑などするはずがない。なにがあっても師への忠誠が揺らぎはしない。
だがおののきはした――師の恐ろしいほどの覚悟に。
「アルフレッド――マクニール」
スティーブンスは師に聴かされたばかりの少年の名を思わず口にした。
「そうだ」
師は橙色に照らされた壁を見つめながらいった。
「ターフの錬金術師――あちらについている馬喰は、五年前まで私の息子だった男だ」