第四章 オリヴァー・マクニール 1・2
第四章 オリヴァー・マクニール
1
取り次いだ馬丁から師は書斎にいると聞いた。だが、ノックをしても返事がなかった。眠っているのか。しかし部屋の中から人の気配がしない。ドアノブをつかんだが、思い直して手を引っ込める。そして来た道を引き返し、屋敷の外へ出る。足を向ける先は決まっていた。
数十頭もの馬が繋がれている厩舎は、師が寝泊まりをする家屋のすぐ隣にあった。というより、師は厩舎の隣にわざわざ自分が寝起きする部屋を設けた、というべきだろうか。
予想通り、師の姿はそこにはあった。師は、馬房から出した一頭の前脚に手を当てていた。
「ギルバートか」
スティーブンスが近づくと、師は背を向けたままそれだけいった。
「夜分恐れ入ります」
師はわずかに頷いただけで触診を続けた。余計な言葉を師は口にしない。
二歳馬か……。
スティーブンスは傍らに置かれていたランプを手に取り、馬の足元を照らした。ほのかな灯りの中に、若駒の細い脚が浮かび上がる。
しばらく触診を続けた師は、やがてゆっくりと立ち上がり、無言で馬を馬房に戻した。
「処分……ですか?」
師は答えなかった。それは肯定を意味した。
前脚の裏筋の腫れ。師が見逃すはずがない。調教中に痛めたのか、あるいは放牧時の事故か……。いずれにせよ、これではしばらく強い調教をおこなえまい。
そうした馬の処遇は決まっていた。予定された調教についてこられなくなった馬は即座に手放す――それが師の方針だ。師が生産した、というだけで多少難のある産駒でも欲しがる牧場や馬主はいくらでもいた。もっとも、そうした連中は欠点に目をつむって買うというより、端から欠点を見抜けない場合が多いのだが。
馬を馬房に戻すと、師はスティーブンスを書斎に招き入れた。
「用件はなんだ?」
椅子に腰を下ろすと同時に、師は振り返ってそう訊いた。
「文を預かっております。差し出し人はダスティ・キーガンという実業家のようです」
その手紙は、人づてにギルバートの手に渡ってきたものだった。キーガンという男はかつて馬を買ったことのある牧場主――このマクニール牧場とも取引のある男に、師への手紙を託したのだ。スティーブンスはその牧場主から師への取り次ぎを頼まれた。師を煩わせる用件だということは薄々分かっていたが、先方からしつこく頼まれ、つい手紙を預かってしまった。そうなると、師に見せないわけにもいかない。
手紙に目を走らせていた師は、二枚目に差しかかったあたりで、不意に片側の口角を上げた。スティーブンスは驚いた。こんなふうでも、師が笑うのは非常に珍しい。
「どのような内容ですか?」
ぶしつけだと思いつつも尋ねずにはいられなかった。
師は手紙を机に投げ、スティーブンスに向きなおる。その顔からはすでにどのような笑みも消えていた。
「差出人はベイトニアンの馬主だ。ひと月後のマッチレースに向けて、私に調教を任せたいらしい」
「ベイトニアン、ですか」
スティーブンスはもちろんその馬を知っていた。ここマクニール牧場で生産された一頭だ。二歳の頃にスティーブンスも調教に乗ったことがある。当時から非凡なパワーを感じさせる馬だった。師の課す調教をこなしたベイトニアンはマクニール牧場の生産馬として市場に出され、いくつかの牧場と馬主の手に渡りながら好成績を収めている。今の馬主の素性は知らないが、ベイトニアンの評判は騎手であるスティーブンスの耳にも届いていた。
「断りますか? 先方には私から伝えておきますが……」
馬産家としてだけでなく調教師としても高い評判を得ている師に調教の依頼をしてくる馬主は多い。しかしそんなものにいちいち取り合っていては体がいくつあっても足りない。だから師はたいてい、体調不良など適当な理由をつけてこの手の依頼を断っていた。
ところが師から返ってきたのは、思いがけない言葉だった。
「ギルバート、おまえは先にあちらを尋ねて、ベイトニアンを引き受けると伝えなさい。調教とレースにもおまえを乗せる。私も喫緊の仕事が片付きしだいあちらへ伺う」
「先生みずから……出向かれるのですか?」
ギルバートは思わず眉をひそめてしまった。
「なかなかおもしろい相手だ。少し付き合ってやってもよかろう」
師が答えたのはそれだけだったが、ダスティ・キーガンのことをいっているとも思えなかった。では、師が口にした「おもしろい相手」とはいったい――?
「あちらへは明朝に向かうといい。返事も用意しよう」
ペンを取ろうと師が手を伸ばした拍子に、机の上からダスティ・キーガンの手紙が滑り落ちた。宙を舞った紙をスティーブンスはとっさに掴む。覗くつもりはなかったが、文面の一部が視界に飛び込んできた。
ダスティ・キーガンの手紙には「ターフの錬金術師」という奇妙な文言が見てとれた。
2
リアたち一行がダスティ・キーガンの屋敷を訪れたのは、運命のレースを二週間後に控えた日曜日の午後だった。ここで今日、リアはダスティと競馬の実施について正式に取り決める予定になっているのだ。
「いかがですか、我が邸宅は。なかなかのものでしょう?」
リアたちを応接間に招き入れるなり、ダスティはこれみよがしに手を広げた。
「この壁は、ロンドンでも評判の高い建築家にデザインを頼みましてね。ソファも一流の家具職人に作らせたものです。それに見てください、あの肖像画は――」
「あー、キーガンさん、そろそろレースのお話を始めませんこと? せっかくお招きいただきましたのに、お時間をとらせるのは申しわけありませんわ」
リアが皮肉を飛ばすと、ダスティはあからさまにムっとした。
「よろしい。では、お話をうかがいましょう」
ダスティは部屋の中央に置かれたソファにどっかりと腰を降ろし,向かいの席をリアたちに勧めた。
ふんぞりかえったダスティは、腹の前で手を組む。
「レースまであと二週間ですか。いかがですかな、調整のほうは? そちらは最近仕入れた馬をお使いになるそうですが」
「ええ、ご心配なく。調教のほうは滞りなく進んでいますわ」
抜け抜けと尋ねてきたダスティに、リアはつっけんどんな口調で答えた。
部屋の片隅でいそいそと書記の準備を進めている秘書に目をやる。あの男が十日ほど前までうちを偵察していた間諜と見て間違いないだろう。どうせダスティに命じられてやっていたのだろうが、リアたちに気づかれてからは姿を見せなくなった。今度見つけたらとっちめてやろうと思っていたのに!
「なるほど、そちらがあなた方の助っ人というわけですか」
ダスティは壁際の席に座った三人に目を向けた。
「ええ、馬喰のアルとマルタ、それと騎手のメ……アップルビーですわ」
リアの紹介を受けても、マルタ以外の二人は仏頂面で首をすくめただけだった。メリッサは女だとバレるのを警戒しているにしても、アルはただ態度が悪いだけかもしれないが……。
「彼らの起用についても、問題ないですよね?」
エドワードがおそるおそる尋ねると、ダスティは含み笑いを返してきた。
「結構ですとも。レースに向けて万全の態勢を整えることに異議はありませんよ。そうそう、私のほうもいろいろと準備を進めておりましてね――入りたまえ」
ダスティが呼びかけると、応接間の扉がゆっくりと開いた。
「なっ…!」
入ってきた人物を見て椅子から立ち上がったのは、メリッサだった。
「こちらはギルバート・スティーブンス君。彼はここいらの騎手でもいちばんの腕利きと評判でしてね。幸運なことにある方からご紹介いただき、今度のレースではベイトニアンの手綱を取ってもらうことになったのですよ」
ダスティは自分の横にスティーブンスを呼び寄せ、リアたちに紹介した。ニヤついているのは、腕利きの騎手を確保してリアを出し抜いたとでも思っているからだろう。けれど、リアたちが驚いているのはそういう理由からではない。
「スティーブンスさんが向こうの騎手とは……。偶然にしても出来過ぎだな……」
エドワードがつぶやく。スティーブンスとメリッサの因縁を思い出しているのだろう。
「さあ、スティーブンス君、きみもこちらにかけるといい」
ダスティが自分の隣の席を叩いたが、スティーブンスはいかつい顔で首を振る。
「いえ、私は向こうで結構です」
スティーブンスはアルたちがいるのと反対側の壁際に向かった。壁を背にして腕を組んだスティーブンスを、メリッサは険しい顔でにらみつけていた。
今にもスティーブンス噛みつきにいきそうなメリッサをなだめたのはアルだった。
「顔合わせはこのくらいで充分だろう。そろそろレースの話を始めないか?」
ポンポンと肩を叩いてメリッサを座らせ、アルはリアたちの元へ近寄ってきた。
「そ、そうねっ。レースについてご提案があるんです、こちらのアルから!」
リアはアルの言葉に乗っかり、少し身を乗り出してダスティに迫った。
「ほう、提案ですか」
アルはリアの隣に腰を降ろし、斜向かいのダスティに不敵な目をくれる。
「なに、ごくごく一般的なレース条件についての話ですよ。ベイトニアンとパースニップのマッチレースだってことと、賭け金の話以外はまだなにも決まっていないんでしょう? コースだとか距離だとか」
アルは調子よく話しながら、リアに視線を送ってきた。
この会談に先立ち、アルはレース条件の交渉は自分に任せてほしいといってきた。どんな条件を提示するつもりなのか、リアも聴かされていない。だがアルのことだからきっと少しでもパースニップの勝利を引き寄せる策を考えているはずだ。
リアはアルを信じて、しっかりと頷き返した。
「よかろう。いってみたまえ」
ダスティは余裕ぶった顔つきで、アルを促す。
「じゃあ、まず競馬場のことだ。レースは、このあいだベイトニアンが走ったあの競馬場でやるってことでいいっすよね?」
「ああ、別にそれで構わんよ。わざわざ遠出する必要もなかろう」
その競馬場は、パースニップが出走したセリング・レースもおこなわれたコースだ。ともに経験のあるコースならばたしかに公平といえる。
「次はレースの距離について。こいつは二マイル半にしてもらいたい。もちろん、レース方式は一回限りのダッシュレースだ」
アルの提案を受け、ダスティはニヤリと笑う。
「長距離戦というわけか。よかろう。短距離戦であっという間に蹴散らされるよりは、期待も持てるというものだろう。なんならハンデキャップもつけましょうか? そちらの好きなだけハンデを科していただいてかまいませんよ?」
「け、結構よ! パースニップはベイトニアンと同斤量で競わせますわ!」
思わずいいかえしたリアを眺め、ダスティは笑いを噛み殺していた。こちらをからかっているのだ。忌々しいったらありゃしない!
「では、二週間後の日曜日に、二マイル半のマッチレースをハンデなしでおこなうということでよろしいですね。競馬開催の手はずはこちらで整えておきます」
ダスティの秘書が決定事項を繰り返し、さっそく書類の作成にとりかかる。これでいよいよ本当に引き返せなくなった。リアは来るべきレースを思い気を引き締めたのだが――。
「ああ、ちょっと待った。もうひとつ条件をつけくわえさせてほしい」
アルが唐突に声をあげて、紙にペンを走らせていた秘書の手を止めさせた。
これにはダスティだけでなく、リアたちも面食らった。レースをおこなう競馬場と距離、それにハンデキャップについても話がついた。これ以上決めることなどないのでは……。
怪訝そうな視線を一身に受けつつ、アルはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「いやね、コースのことなんだけどさ」
「コース? それならさっき決めたばかりだろう。あの競馬場だ」
「ああ、違う違う。コースっつっても――」
なにを思ったのか、アルは顔の横でくるくると指を回しはじめた。
「回りのことだよ。あの競馬場、いつもは右回りでレースをやっているだろう? しかし今回は逆、左回りでやりたいんだよ」
「は、はあ!?」
リアは不本意にもダスティとともに素っ頓狂な声を揃えてしまった。隣ではエドワードも目を白黒させている。
コースの回り――を逆にする、だって?
「そ、そんな話は聴いたことがない! コースを逆向きに走るなど……、そんなこと、できるわけがないだろうっ!」
「いえ、できなくはないでしょう」
思いがけない方向がら返事があって、ダスティはソファから腰を浮かして振り返った。
アルの提案に加勢したのは、なんとスティーブンスだった。
「スティーブンス君、しかし……」
「回りが逆になっても、走る距離自体は同じです。騎手がスタートとゴールの位置を把握しておけば問題はありません」
「スティーブンスさんはこういってるが、同じ騎手としてはどうだい?」
アルが話を振ると、メリッサは不敵な笑みを返した。
「あっちがやるっつってんだ。受けて立つしかねえだろうが」
「騎手ふたりはこういってますんで、なんとか受けちゃくれませんかね? ま、普通にやったんじゃ味気もないだろうから、ちょっと趣向を凝らすくらいのつもりでさ」
おちゃらけたように拝むアル。眉をひそめたダスティは再びスティーブンスを窺った。が、スティーブンスは壁際で腕を組み、じっと目を閉じていた。
「……分かった。コースは逆回りだ! それでよかろう!」
吐き捨てるようにいうと、ダスティはドスンとソファに腰を降ろした。
「よっしゃ、じゃあ二週間後のレースは、左回りの二マイル半でやるってことで!」
アルは満足そうに微笑むと、話を締めるように手をパンと打ち鳴らした。
*
「ど、どういうことなんだ!? 説明してくれ、アル!」
ダスティの屋敷を出るなり、エドワードは口から泡を飛ばしてアルに詰め寄った。
「うっせえなぁ……。説明って、なにをだよ?」
アルは顔をしかめながらさっさと馬車に乗り込んだ。リアは慌てて彼の後に続く。
「さっき出したレースの条件よ! 距離のことは分かったわよ。パースニップは長距離のレースに向いてるって前に聴いた覚えがあるからね。でも最後のあれはなに? コースの回りを逆にして走らせるって、なにを考えてるの?」
リアが問いただすと、アルはもったいつけるようにふふんと鼻を鳴らした。
「どうもこうも、少しでもこっちが有利になるような条件を考えたまでさ。左回りならベイトニアンにつけいる隙もあるってこった。あの馬が手前を換えるところは前に一度見ただけだが、ま、うまくいくと思うぜ」
「ふん、そういうことか」
メリッサはおもしろそうに失笑した。今のでなにか分かったの?
「ていうか、また知らない単語が出てきたし……。手前ってなによ?」
リアはむうっと口をとがらせる。エドワードを見ても、彼は慌てて首を振った。
「じゃあまずはそこからか。マルタ、お嬢さんたちに手前について説明してやんな」
全員が乗り込んだ馬車が動き出すと、アルがマルタに話を振った。
「お馬さんは走るとき、右か左、どちらの脚を先に前に出すのです。この足運びのことを『手前』と呼ぶのです。右脚を前に出して走るときは右手前、左足を前に出して走るときは左手前、といいますね」
マルタは自分の手を馬の前脚に見立てて解説してくれた。
「へえ。じゃあ、馬にも右利きとか左利きとかあるの?」
「いや、右左っつっても、人間の利き手みたいなものではないようです。普通はどの馬も右手前左手前、どっちでも走れますし、好きに手前を入れ換えることもできます」
「つーか、ずっと同じ手前で走っていると、馬は疲れちまう。だから自然と手前を入れ換えるのさ。あるいは騎手が指示を出して手前を換えさせることもできるぜ」
メリッサが補足すると、アルも口を挟んできた。
「手前が特に重要になるのは、走ってる最中に馬が方向を変えるときだ。レースでいえば、コーナーを回るときだな。コーナーを右に回る場合は右手前、左に回る場合は左手前じゃねえといけねえ。これが逆になると、コーナーを曲がるときにどんどん外に膨れちまうんだ」
「なるほど。たしかに、左に曲がるときに右手前だと、進行方向とは逆向きに脚を出すことになるわけだから、うまく走れない」
合点がいったらしく、エドワードが拳で手のひらを打った。リアも自分の手で馬の足運びを真似て考えてみた。
「さて、大事なのはここからだ。マルタもいったとおり馬は基本的にどっちの手前でも走れる。が、やはり多かれ少なかれ得手不得手はあるもんなのさ。特に前脚に欠点のある馬はどっちかの手前で走るのを苦にしがちだ。前脚は舵取りの役目を果たすからな」
「それはたとえば、左の前脚になんらかの不具合がある馬は左手前でうまく走れず、左回りを苦手にするとか、そういうことかい?」
「あっ! ひょっとして……」
ぴんときたリアを見て、アルはにやりと笑った。指を動かしてリアとエドワードを呼び寄せると、アルは自分の狙いをふたりに打ち明けた。
「なんてことだ……、まさか、ベイトニアンにそんな欠点があったなんて……」
「それならばたしかに、パースニップの勝機が広がりそうね……」
顔を上げたリアとエドワードは、ふたりして神妙に唸った。アルがそこまで見越して左回りという条件を出していたとは……。
「ま、これでもしパースニップが手前を換えらなかったら目も当てられないんだけどな」
アルがわざとらしく混ぜっ返すと、メリッサはすかさず口を挟む。
「安心しな。パースニップはちゃんと左手前で回れてたし、曲がり切ったら手前を右に戻して走ってた。変な癖もなさそうだし、これなら左回りのコースでも問題ないだろう」
メリッサの頼もしい言葉を聴き、リアの胸にはふつふつと期待感が湧き上がってきた。
「見てなさいよ、ダスティ・キーガン……、レースでは絶対に目にもの見せてやるんだから!」
勇ましく拳を振り上げるリアを見て、アルとメリッサは揃って苦笑を漏らした。
「もう勝った気でいるな、おい。こっちは直線の坂をどう克服させるか頭を悩ましてるってのに……」
「坂? ああ、そういや左回りにしたことで、本来は一コーナーの手前で下り坂になっているところが、逆に上り坂になるのか」
「ああ、パースニップは小柄な馬だろ? 上り坂となるとどうしても後肢の筋肉が発達してパワーに長けるベイトニアンに遅れをとっちまうんだよなあ……」
渋面になったアルは頭をかきむしるが、メリッサは悩みの種を鼻で笑い飛ばす。
「そこはオレの腕でなんとかしてやるよ。坂でベイトニアンと競るような展開にならなきゃいいわけだ。要はスパートのタイミングの問題だろ? まあスティーブンスの野郎がなにか仕掛けてくるだろうが、受けて立ってやるさ。あの野郎にこのあいでの借りを返すチャンスでもあるからな」
メリッサは不敵に笑って拳を握る。
「そうよそうよ! このあいだのレースでは妨害されたぶん、やり返してやんなさい!」
「あんまり派手にやんなよ。バレたら元も子もねえからな」
「そこは正々堂々戦おうよ……」
エドワードはげんなりとつぶやくが、冗談だと分かっているだろう。
「レースが楽しみですね!」
マルタが屈託なくいうと、皆の顔は自然とほころんだ。
「ええ。いいレースになるわ、きっと」
リアは二週間後のレースに思いを馳せる。馬も騎手もいない絶望的な状況から、よくもここまで来れたものだ。リアはパースニップの調教についてメリッサと議論を交わしはじめたアルを窺った。やはり彼の相馬眼は本物だ。完全無欠に思えたベイトニアンの欠点を見抜き、勝利を引き寄せる大胆な作戦まで立ててしまった。もちろん油断は禁物だが、アルほどの相馬眼と知略に長けた人材がダスティの側にいるとも思えない。
このまま皆で力を合わせて準備を進めていけば、次のレースはきっと勝てる。リアはそう確信できた。