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第三章 モンキー・アップルビー 3・4

 3


「……ねえ、本当に来るの、あの人?」

「来る……んじゃないかな? 昨日、乗りにくるっていっていたんだし」

 内緒話をするリアとエドワードを尻目に、アルは意気揚々とパースニップを曳いていた。ああやって馬場を歩かせ、これからおこなう試走に向けて足慣らしをしているのだ。

 アップルビー騎手が今日、パースニップの試し乗りをしに、ミースフォード家を訪れる予定になっていた。

 アルがアップルビーにパースニップの騎乗を持ちかけたのは昨日のことだ。最初こそ呆気にとられていたアップルビーも、アルが本気で騎乗依頼をしていると分かると、それならば試しにまたがらせてほしいと返してきた。自分が乗るだけの価値がある馬ならば、依頼を引き受けると。ずいぶんと大きく出たものだが、アルもそれでいいと応じたので、今日はこうやってアップルビーの来訪を待つことになったわけだ。

「いや~、パースニップのやつ、相当体調がいいみたいだ。これならご期待に添えること請け合いだぜ」

 曳き運動を終え、パースニップをマルタに託すと、アルは額の汗を拭いながらリアたちのもとへやってきた。いや、そんなさわやかな表情をされても……。

「ねえ、アル。本気であのアップルビーって人をパースニップの騎手にするつもり?」

 リアはたまらず問いただした。たしかに騎手選びはアルに一任するとはいったけれど……。

「こんな切羽詰まった状況で冗談いってどうするんだよ。それとも、あいつが気に食わないか?」

「気に食わないっていうかさ……」

 いいよどんだリアはエドワードを見上げて助けを求めた。

「ちょっと気になって、オールコックに少し調べてもらったんだよ、あのアップルビーって騎手のこと」

 オールコックは昨日のうちに、競馬場にいた調教師や騎手に、アップルビーの評判を訊いてまわってくれた。その報告を受けたリアとエドワードは、揃って渋い顔になってしまった。ある意味では印象どおりではあったのだが……。

 アップルビーはどうも、相当な荒くれ者としてその名が通っているらしい。馬主や調教師としょっちゅうトラブルを起こし、レースで馬主や調教師の指示を聞かないこともしばしばだという。レース後に関係者と口論をしている場面も度々目撃されている。

 悪い噂はそれだけにとどまらない。アップルビーは騎手仲間とも揉め事も起こしているらしいのだ。レースでの進路取りをめぐって文句をつけることは日常茶飯事。さらには、競馬の後、同じレースに乗っていた他の騎手と酒場でたまたま一緒になって、取っ組み合いの喧嘩になった末にアップルビーが相手を張っ倒してしまったことも、あるとかないとか……。

 昨日のスティーブンスとの一件をじかに目撃しているだけに、噂話とはいえやけに信憑性が感じられた。

「――というわけなんだ。なんていうか、そういう人に頼るのはちょっと心配っていうか……」

 エドワードの話を聴き終えたアルは、薄目を開いてリアに問い返した。

「品行方正さなんて、俺たちが求める騎手の条件に入ってたか? それとも、素行が悪けりゃ腕も悪いっていいたいわけ?」

「そ、そういうつもりじゃないけど……」

「でもさ、人柄のことはこの際措くとしても、あんなお尻を上げるような乗り方をするなんて、まともな騎手とは思えないよ」

 エドワードが食ってかかると、アルは意外そうに目を見張った。

「ああ、そうか。あんたたちにはまだ説明してなかったっけ。あのフォームはな――」

「……おい」

 アルの話は、背後から飛び込んできたハスキーな声に遮られた。

 慌てて振り返ると、案の定、アップルビーがこちらをんにらんでいた。き、聞かれてないわよね、さっきの話……。

「アップルビー様をお連れしました。すぐにでも馬にお乗りになりたいとのことでしたので……」

 案内役を務めたオールコックが恭しく頭を下げた。その言葉どおり、アップルビーはすでにジョッキー服に身を包み、脇には鞍を抱えていた。

「あれか、乗ってほしい馬ってのは」

 アップルビーは挨拶もなくパースニップへ近づいていった。歓迎の言葉も掛けさせてもらえないのか……。

「ど、どうぞなのです……」

 アップルビーが近づいてくるとマルタはそそくさとパースニップの手綱を譲った。

「よお、ちょっと顔を見せてみな」

 アップルビーはそっとパースニップの頬に触れた。パースニップは嫌がる素振りも見せずアップルビーの手に導かれる。その横顔が意外にも穏やかで、リアは少々驚く。

「どうだい? なかなか良い馬だろ?」

 パースニップとスキンシップをはかるアップルビーに、アルは上機嫌で話しかけた。

「ちょっとぼんやりしたところがあるが……なかなかいい目をしてやがる。気に入ったぜ」

 アップルビーも満足げに口角を上げる。

「それじゃあさっそく、背中を借りるぜ」

 アルに目配せをして、アップルビーはパースニップの背に鞍を置いた。慣れた手つきで腹帯を締め、入念に鞍の位置を調整するのだが……、リアはやはり鐙が気になってしかたない。ずいぶんと高い位置につけてあるのだ、鐙が。鐙皮を短くするにしても、普通ならぜいぜい馬の胸の少し上に鐙が来る程度だろう。しかしアップルビーは馬の肩口くらいの高さまで鐙を上げているのだ。そばで装鞍を見守っていたサムも、アップルビーのへんてこな鞍を見て目を丸くしていた。

「ねえ……、あれじゃあ鐙に足を掛けられないわよね? どうやって馬の背中に乗るのかしら?」

「さ、さあ……?」

 リアとエドワードの疑問への答えは、アップルビーの行動によって示された。

「よ、っと」

 アップルビーは左手で手綱とたてがみを、右手で鞍を掴むと、地面を蹴ってパースニップの背中に飛び乗った。そして背にまたがった後でつま先を鐙に掛けた。……なるほど、あのやり方なら鐙があの高さにあってもひとりで馬に乗ることができる。

 さっそうと馬にまたがった姿はさすが本職の騎手といった風情なのだが……、やはり馬の上で両膝を立てた姿勢はなんとも不格好だ。あの位置に鐙があるかぎり、鐙に足を掛けて座るとどうしてもあのように膝が立ってしまうのだ。

「好きに走らせてくれていいぜ。ただ、いちおうレースを控えた馬だから疲れを残すのは避けてもらいたいな」

「心配すんな。そんなヘマはしねえよ」

 アルの注文に切って返すと、アップルビーはさっそくパースニップを馬場へ入れた。

「ああ……」

 エドワードの口からため息が漏れた。理由は明白だ。アップルビーはやはり、尻を上げ、前かがみになって騎乗をしていたのだ。

「な、なんだ、ありゃ。あんな乗り方、初めて見たぜ」

 調教師として長年競馬に関わってきたサムも困惑を隠しきれない様子だった。

「ねえ、アル。本当にどうしてあの人なの?」

 しつこいようだが、あれではパースニップを乗りこなすどころか、まともに馬を走らせることすらできないのではないか。

  不審感を募らせるリアに、しかしアルは自信ありげな笑みを返してきた。

「まあ見てなって。俺の見立てが正しけりゃ、このひと追いが終わる頃には、あんたたちもパースニップに乗ってもらえるよう必死であいつを説得してると思うぜ?」

 当たりそうもない予言を口にすると、アルは馬場のほうを顎でしゃくった。

 パースニップはもう走りはじめていた。ミースフォード家では屋敷の裏手に広がる草原を調教馬場として利用している。一面に緑が広がる馬場をパースニップは斜めに駆け抜けた。

「あいかわらず惚れ惚れするような動きだけど……」

「まだまだ。本番はこれからだぜ」

 アルのつぶやきに呼応するように、アップルビーはパースニップを馬場の端で旋回させ、小さく腕を動かして手綱を押した。

 次の瞬間、リアは驚きに目を見張った。

「す、すごい……! あれがパースニップなの……?」

 パースニップの走りは、目に見えて素晴らしくなっていた。 四肢を大きく使う伸びやかなフォームはあいかわらずなのだが、その動きは以前見たときよりもなめらかになっているように思えた。重心は以前にまして低くなり、スピード感も増している。

「ど、どういうことなんだ……? あんな不安定な乗り方なのにどうしてパースニップはあんなにのびのびと……」

 エドワードが怪訝そうな声を出す。

「不安定? よく見てみなよ。馬の首の上下に合わせて手綱をしごいていても、あいつの腰は全然動いてねえだろ」

 アルは得意げに笑う。たしかに、アップルビーの腰の位置は一定で、体の軸がぶれていない。

「でも……、それだけであんなに馬の走りが変わるものなの?」

「背中が自由に使えるようになって、より全身を動かしやすくなったってことだよ。もちろん、ただ単に背中に座られてないってだけじゃ、ああはならない。上で騎手にグラグラ動かれたんじゃ馬は走りにくいだろうさ。だがアップルビーは揺れる馬の背の上でもしっかりと膝でバランスを取っている。だから馬にかかる負担を少なくできるわけだ」

「……は~、なるほどねえ」

 エドワードが感嘆を漏らした。彼はもう、しなやかに駆ける人馬の姿に見とれていた。

「けど、一体どこであんな乗り方を身につけたのかしら……?」

「おそらく新大陸だろう。向こうの騎手はああいう乗り方をするって聞いたことがある。俺も実際に見たのは昨日のレースが初めてだったが――ピンときたのさ。パースニップの全身を大きく使ったフォームを最大限に生かすには、鞍から腰を浮かすあの乗り方が最適なんじゃないかってね」

「それできみは、アップルビーに声をかけたのか」

「ああ。どうやら俺の予想は間違いじゃなかったみたいだな」

 しばらくして試走を終えた人馬が一同のもとへ戻ってきた。

「素晴らしかったわ! アップルビーさん、ぜひパースニップの騎手をやってちょうだい!」

 リアはアップルビーを熱烈に出迎えた。もちろん、自分がアルの予言どおりに行動している自覚はない。

 ところが、パースニップから降りたアップルビーは、うつむきかげんで帽子を脱いだ。こわばった表情が見えて、リアは途端に不安になる。まさか……乗り味が良くなかったのか?

 眉間にしわを刻んだ表情を少しのあいだ保ったあと、アップルビーはおもむろに顔を上げた。リアの緊張はにわかに高まったが――。

「――なんてバネしてやがんだよ、あいつ! あんな馬、初めて乗ったぜ!」

 頬を上気させたアップルビーは、爛々と瞳を輝かせてパースニップの乗り心地を褒め称えた。不意をつかれたリアは目を白黒させる。アルはこの展開を予想していたようで、横でクククと忍び笑いを漏らしていた。

「どうだい? こいつにレースで本気を出させてみたくないか?」

 真面目な顔つきになったアルに問いかけられると、アップルビーはごくりと息を呑んだ。アルの誘いに魅力を感じているのは明らかだ。

「私からもお願いするわ! 私たちの運命を託せるのは、あなたしかいないの!」

 リアも身を乗り出して懇願した。

 アップルビーにはまだダスティとの勝負のことは話していない。だからリアの言葉の意味も分からなかっただろうが、それでもアップルビーはためらいなくリアの前で跪いた。

「ご依頼ありがとうございます。必ずやご期待に沿う競馬をおみせしましょう」

 頼もしい言葉に感極まり、リアは瞳をうるませた。

「リア……、良かったなっ」

 エドワードももらい泣きをしてリアの肩を抱く。

「おいおい、まるで勝ったみたいな雰囲気だな。レースどころか、調教もこれからだってのによ」

 呆れるアルの胸元に拳を突き出したのは、アップルビーだった。

「なるほど、あんたが調教を引き受けるわけか。なら分かってるだろうな? 俺が乗るんだ。中途半端な仕上げであいつをレースに出してきたら承知しねえからな」

 アルは不敵に微笑み返して、挑発に応える。

「へっ、当然だ。パースニップはキレッキレの状態にしてあんたに渡してやるよ」

 アルは相手の拳に自分の拳を打ちつけた。

 ターフの錬金術師と「モンキー」アップルビー。

 良くも悪くも競馬界の噂をさらっている曲者ふたりが手を組んだ瞬間だった。

 

 *

 

「さあさあ、部屋は用意させたから、遠慮なく使ってね! あ、そうだわ、お風呂に入ってくるといいわ! うちの自慢の浴槽があるのよ!」

「ふ、風呂!? い、いいよ、オレは別に……」

「いいから、いいから! 昨日は競馬で、今日はパースニップに乗って、ずいぶんと疲れたでしょう? ゆっくりと汗を流してくるといいわ。夕食はお風呂上がりに食べられるように用意しておくからさ!」

 リアは抵抗を見せるアップルビーを強引に応接室から押し出した。どうやらリアはアップルビーを手厚くもてなすと心に決めたらしい。こうなるとリアの独壇場である。

「……おい、お嬢さん。俺がはじめてここへ来たときと、ずいぶん態度が違わねえか?」

 ひと仕事終えて汗を拭うリアに、アルがジトッとした目を向けた。

「あら、そうかしら? アップルビーさんが病気にでもなってレースに乗れなくなったらいち大事ですからね。明日からはパースニップの調教もつけてもらわなくちゃだし、丁重におもてなしするのは当然ではなくって?」

 ダスティと約束したレースの日付までもうひと月を切っている。これ以上パースニップの調教開始を遅らせるわけにはいかない。というわけでアップルビーにはさっそく明朝から毎日調教に乗ってもらえるよう、レース当日までこのミースフォード家に滞留してもらうことに決まったのだ。

 ダスティとの因縁についてはさきほどアップルビーに打ち明けた。ミースフォードの土地とリアの結婚を賭けた勝負であることについては特になにもいわなかったが、相手の馬がベイトニアンであると知ったときはさすがに驚きを隠せていなかった。アップルビーの耳にもベイトニアンの評判は届いているようだ。

 こちらの態勢も整いつつあるが、相手が強敵であることに変わりはない。ここは一丸となって戦いに臨みたいところなのだが……。

「コラコラ、その調教プランを考えるのは誰だと思ってんの? 頭脳労働にも敬意を払ってもらいたいもんだね」

「出されたお茶菓子をちゃんと食べてくれる客と、あれこれいちゃもんをつけてくる客とじゃ、こっちの対応も変わるっていってるのよ」

「茶菓子の食い方でもてなし方に差をつけるってなんだそりゃ! だいたいな、スコーンは表面が黒くなるくらいまで焼いたほうが旨いんだよ!」

「それはもうスコーンじゃなくて焦げた小麦粉の塊じゃない!」

 なんだか論点のズレた言い争いを繰り広げるリアとアル。……ふ、不安になるなあ、先行きが。

「まあ、大丈夫ですよ。喧嘩するほど仲がいいともいいますし」

 テーブルでカスタードブティングをぱくついていたマルタが一時だけ顔を上げ、やけに達観した見解を述べた。

「まあ、そうかもね……。そう考えると、あっちはまだ少しよそよそしいのかな……?」

 エドワードのつぶやきは、カスタードブティングを口に運ぶ作業を再開させたマルタには聞こえていなかったようだ。しかし考えてみればアッブルビーとはまだ知り合って間もない。すぐ打ち解けろというのは酷な要求かもしれない。

「分け隔てされるのが嫌だっていうのなら、あなたもお風呂に入ってきたらいいじゃない」

 意地の張り合いはまだ続いていたらしく、リアはソファにふんぞり返るアルの前で腰に手を当てていた。経緯はよく分からないが、いつの間にかそんな話になっていたらしい。

 エドワードは思いつきでリアに加勢する。

「ああ、それはいいね。この家のお風呂は浴槽も大きくで本当に快適だから、僕からもお勧めするよ」

「風呂ねえ……」

「地下から湧いてるお湯をお風呂に使ってるのよ。だから薪が切れる心配もないわ。それにね、ここのお湯に半刻も浸かれば肩こりや腰痛だってびっくりするくらい楽になるんだから!」

 リアは自慢げに胸を張る。もうアルをもてなしたいのかもてなしたくないのかよく分からない。

「いや、湯の効能はなんでもいいんだけどよ……、今はあいつが入ってるだろ?」

「別にいいではありませんか。見られても減るものがあるわけでもなし」

 口の端にカラメルをつけたマルタが鶴の一声を発した。微妙に下品な内容なのがちょっと気になるが……。

「そうよ、なにを恥ずかしがってるのよ! 男なら裸の付き合いをしてきなさいよ!」

「分かった分かった! 行けばいいんだろ、行けば」

 アルは迫ってくるリアを押しとどめ、大義そうにソファから立ち上がった。

「あ、それなら僕も行くよ! ほら、男同士だし」

「来るな来るな。いくらデカイ浴槽っつったって、三人も入ったら湯が溢れちまうわ」

「ええ~、つれないなあ……」

 残念がるエドワードをぞんざいにあしらって、アルはひとりで応接間を出ていった。


 *


「……んああ~」

 水面から首を突き出し、アップルビーは心のままに喘いだ。こんな気の抜けた声、他人には絶対聞かせられない。

 リアとかいうお嬢さんに無理やり勧められて入ってみたが、たしかになかなか気持ちのいい風呂だ。やや熱めの湯加減はアップルビーの好みだった。手ぬぐいで顔をごしごしと洗うと、体にたまった疲れまでとれていく気がした。

 アップルビーは天井に向かって腕を伸ばし、拳を握った。手のひらはパースニップの手応えをまだ覚えていた。

 あれだけの素質を持った馬に乗ったのは本当に初めてだった。引っかかるというわけではないのに、気を抜くと腕を持っていかれそうになった。日々の鍛練を怠っているつもりはない。それでも久しぶりに腕や足腰がしびれている。それだけあの馬のパワーがすごかったのだ。

 ともに新大陸に渡った両親と死に別れ、生きるために騎手稼業を始めてから四年。師の意志を継いで英国に戻り、流れの騎手として各地を転転としはじめて一年。ようやく自分のすべてを賭けてもいいと思える馬に出会えた。

 噂には聴いていた「ターフの錬金術師」も、なかなかおもしろそうなやつだ。あんな若い男だとは想像していなかったが、パースニップを見つけてきたのだから馬を見る目は本物だろう。あいつとならこれから先も長く付き合ってもいいかもしれない。もちろん、自分の正体がバレないよう注意しなければならないが――。

「――誰だっ!?」

 浴室の入口に人の気配を感じ、アップルビーは慌てて振り返った。

「あ、わりい。俺だよ俺。まー……あれだ。パースニップの調教も明日からだし、軽く打ち合わせでも、と思ってな」

 湯気の向こうに現れた人影が近づいてくる。

 アップルビーはおおいにうろたえた。

 

   *

 

「誰だっ!?」

 浴室に入ると、いきなり鋭い怒声が響いた。

 手痛い歓迎ににアルは少々面食らった。勝手に入っていくのは悪いと思ったが、まさか怒鳴りつけられるとは。

「あ、わりい。俺だよ俺。まー……あれだ。パースニップの調教も明日からだし、軽く打ち合わせでも、と思ってな」

 思いついた言い訳を口にしながらアルは背を丸めて浴槽に向かう。湯気に包まれているとはいえ、裸で突っ立っているのは結構寒いのだ。ちょいと狭くなるかもしれないが、ここは無理をきいてもらって湯に浸からせてもらおう。アルは浴槽に片足を突っ込んだ。

「く、来るなッ。来るんじゃねえ!」

 ところがアップルビーは、ジャバジャバと水面を乱しながら浴槽の中を後ずさった。ん……? こちらから距離を取ろうとしている? もっとも、リアお嬢様ご自慢の風呂とはいえ、そこまで広い浴槽ではない。アップルビーはすぐ端にぶつかってしまう。

「いやいや、俺だって。アルだアル。なにをおまえそんな、風呂を覗かれた女みたいに慌て……て?」

 湯気が晴れてくるにつれ、違和感が大きくなっていった。アルは湯気の向こうに目を凝らす。

 そこにいたのは、たしかにアップルビーだった。

 髪の毛から水を滴らせるその顔を、見間違えるわけもない。だが、なにも身にまとっていないその肢体は――自分の知っているはずのアップルビーではなかった。

 なだらかな肩のライン。水をはじく滑らかな肌。すらりと伸びた手足。そして――、控えめながらたしかに膨らんだ胸元……!

「み、見るなっ!」

 か細い悲鳴を上げたアップルビーは、両腕を交差させて胸元を隠した。恥ずかしそうに頬を赤らめるその姿はどうみても――。

「お、お、お、おおまえ……っ。お、お、おん――」

 な、とようやくアルが口にしたそのとき、入り口の扉を開ける派手な音が浴室内に鳴り響いた。

「やあ、アル! やっぱり僕ひとりだけのけものなんてあんまりだよ! アップルビーもいるんだろう? さあここはひとつ、背中も流しあって男同士の友情を――」

「ひっ……!」

 素っ裸でずんずん近づいてくるエドワードに、アップルビーは身をすくめた。だが、それも一瞬。アップルビーが次にとった行動は、アルを震撼させた。

「こ、この……っ!」

 キッとエドワードを見据えたアップルビーは、迫り来る下半身めがけて、持っていた手ぬぐいを投げつけたのだ。

「ぶっ!?」

 ビターン! エドワードは局部に水分をたっぷり含んだ手ぬぐいの直撃を受け、くずおれるようにしてその場に倒れこんだ。うわあ……。男ならば痛いほど気持ちが分かる、見るも無残な姿であった。

 ドタドタドタと、脱衣所へ駆け込んできた複数の足音が聞こえたのは、そのときだった。「なにかあったの!? なんかすごい物音がしたけど!?」

 あ、終わった……。扉の向こうから叫ぶリアの声を聞いて、アルは自分の身も無事では済まなそうだと、直観した。


 4

 

「……スケベ」

 応接間の床に並んで座った三人から事情聴取を終え、リアが発した第一声がそれだった。

「お、俺が悪いのかよ!?」

 アルはたまらず反論の声をあげる。

「そ、そうだよ! だいいち僕はメガネを外してたからなにも見えなかった、し……」

 エドワードも抗議に加わるが、これは藪蛇だと気づいたのか、途中で口をつぐんだ。案の定、アップルビーが横目でエドワードをにらみつけている。

 だいたい、なんで自分が怒られているのが、とアルは憤る。風呂場でアップルビーと鉢合わせたのはわざとじゃないというのに、アルはエドワードやアップルビーともども応接間へ引っ立てられてしまった。

「俺はどっちかっつーと被害者だろ……」

「私の家のお風呂場で破廉恥な騒ぎが起きたのは事実です」

 アルの不満をぴしゃりと切り捨てると、リアの追求の目は横へ。

「メリッサ・アップルビーさん――だっけ? あなた、本当に女の子なの?」

「…………ああ、そうだよ」

 たっぷり間を置いたあと、アッブルビーはリアから顔をそむけつつ、ボソリと答えた。

「そういわれてみれば、綺麗なお顔をしているのです」

 マルタはアッブルビーに近寄ってその凛々しい顔をまじまじと見つめる。立場上、マルタを邪険にあしらうわけにはいかず、アップルビーは実に気まずそうだ。……というか、マルタのやつ、分かってやってねえか?

 聞けば、アッブルビーはアルやリアと歳も同じ頃らしい。自分たちくらいの年代で、しかも小柄なやつも多い騎手となればある程度はごまかしも利くだろうが、それにしても今まで誰も気がつかなかったとは……。

「どうして自分のことを男だなんて偽っていたの?」

 リアが呆れた口調で問い詰める。

「……イヤなんだよ、女だてらに騎手やってるとかいわれるのが……」

 アップルビーは膝の上で拳を握りしめた。……まあ、分からないではない。競馬の世界で女は珍しい。女の騎手ってだけで騎乗依頼を取り下げる馬主や調教師もいるだろう。

「気持ちは分かるけどさ、隠しとおせるものでもないでしょうに」

「い、今まではうまく隠せてたんだよ! 着替えは隠れてやってたし、体も極力触られないように気をつけてたし、それに……、誰かと風呂に入ることなんて、なかったし……」

 アップルビーは耳を真っ赤にしてうつむいた。お、おい、そんな顔するなよ! マジでこっちが悪いみたいになるじゃねえか……。

「……ひょっとして、お酒の席で他の騎手と喧嘩したっていうのも、正体を隠そうとして?」

 リアが探るような目つきでアップルビーを窺う。

「酒の席って……ああ、そんなこともあったか。あれは向こうが馴れ馴れしく肩を抱こうとしてきたから、つい手が出てよ……」

 予想どおりの答えが返ってきて、リアは盛大なため息をついた。

「いいわよ、もう。過去のイザコザまで掘り返すつもりはないわ。問題はこれからのことよね……」

 思案顔になるリアの前で、アップルビーは身をこわばらせた。

「分かってる……。こんな得体の知れない騎手に大事な馬の手綱を任せられねえよな」

 自嘲したような笑いすらこぼすアップルビー。おそらくこれまでにも似たような目にあってきたのだろう。

「あ、あのさ――」

 アルは思わず口をはさみかけたが、リアは呆れたように眉をしかめていた。

「いったいなにをいってるの? あなたをパースニップから降ろすわけがないでしょう」

「は――?」

 アップルビーはきょとんとした顔をリアに返す。

「今度のレースは絶対に勝たなきゃいけないの。女だからとか、そんなくだらない理由で最高の騎手を手放すなんてバカな真似、するはずがないじゃない。パースニップをあれだけ乗りこなせるのはあなただけなんだから、アップルビー、いえ、メリッサ!」 

 きっぱりといいきったリアを見て、アルはひそかに笑いをこぼした。リア・ミースフォード――やっばりたいした肝の座り方をしてるお嬢さんだ。

「じ、じゃあ、今後のことってのは……?」

「それはあなたのここでのもてなしのことよ。女の子だって分かった以上、さすがにアルと同じ部屋で寝泊まりさせるわけにはいかないでしょう? そうね、じゃあ、マルタちゃんとあなたを同じ部屋にして、アルはエドワードと一緒で……」

 ブツブツと案を練るリアを前にして、アップルビーはポカンと口を開けていた。その様子を見てアルはまた失笑する。

「な、なんだよ? どうなってんだ、これは?」

「まあ、こういうお嬢様だってことさ」

「マジか……」

 アップルビーが戸惑いを隠せないでいると、リアは突然くわっと目を見開いた。

「ああ、それと! お風呂は必ず順番で入ること! 今日みたいな騒ぎはもうこれっきりにしてもらうわよっ。分かった!?」

「ハ、ハイッ!」

 眼前に指を突きつけられ、アルとアップルビーとエドワードは揃って背筋を伸ばした。

「そうですよ、アル。女の人のお風呂を覗くのはいけないことなのです」

「だからなんで俺が覗いたことになってんだよ! って、おいコラ、おまえもだからなぜにそんな顔をしてやがんの!?」

 ひどい説教をするマルタに抗議の声をあげるアルの横で、アップルビーは顔を赤くしてうつむいていた。濡れ衣だ!

「の、覗きといえばよっ」

 話を逸らすつもりなのか、アップルビーが突然素っ頓狂な声をあげた。話題が変わっているのか疑問の余地もあったが、何度か咳払いをしたあと、アッブルビーは真面目な顔つきになってリアを見上げた。

「昼間、パースニップに乗っているときに気づいたんだけどよ、どうやら、どっかのネズミがここの敷地に入り込んでいたみたいだぜ」

「え?」

 目を丸くしたリアに、アップルビーは昼間見たという、柵の陰からこそこそと調教場を窺っていた猫背の小男について話しはじめた。 


 *


 普段は丸まっている背中を意識的に伸ばし、小柄な秘書は書斎のドアをノックした。

「失礼いたしますっ、キーガン様。ビートンでございます。例の件について、ご報告に上がりました」

「うむ、入れ」

 失礼しますと返事をして、ビートンは主人の書斎に入室した。

 ダスティ・キーガンは椅子に掛け、机に向かっていた。なにかの書類に目を通している最中らしかった。おそらく、ミースフォードの土地に建設させる工場の見積書だろう。

「どんな塩梅だ、向こうの様子は?」

 ダスティは書類から顔を上げずに尋ねてくる。

「は、はいっ。どうやらリア・ミースフォードは、新たに馬を買い、騎手も雇ってレースに向けた調教を始めた模様です」

 騎手を乗せてコースを走らせていたから、あれは調教をやっていたと考えていいはずだ。

 ここ数日、ビートンは主人の命を受け、リア・ミースフォードたちの動向を探っていた。彼らが新たに馬を買いつけてきたこと、そしてその馬を今度の競馬に使おうとしていることは、すぐに窺い知れた。はじめのうちは馬丁と思われる少年やエドワード・ラングドンが調教をつけていたのだが(ラングドンはまともに馬を走らせていなかったが)、今日になって、リア・ミースフォードが呼び寄せたと思われる本職の騎手が現れた――ここまで内情を掴めればまずは充分だろうと判断し、ビートンは主人へ偵察結果の報告をしにきたわけだ。

 ビートンの報告を聞き終えると、ダスティはフンと嘲るように鼻を鳴らした。

「ふん。手持ちの駒では勝ち目がないと見て、慌てて馬と騎手を買ってきたわけか」

「それに連中は、ターフの錬金術師とかいう、おかしな二人組も仲間に引き入れたようです。アイリッシュらしい赤髪の若い男と、年端もいかない子どもですが……。いかがなさいますか?」

「どんな連中を味方につけても向こうの駄馬などベイトニアンの敵ではないだろうが――しかし、そうだな。念には念を入れておくのも悪い考えではない、か」

 ダスティは書類を置いて席を立つ。

「ね、念を入れる、といいますと?」

「向こうが調教師と騎手を揃えたならば、こちらも対抗してやろう――文を出す。ビートン、用意をしろ」

「手紙、ですか? しかし、どこへ?」

「決まっておろう。リア・ミースフォードに目にものを見せてやろうと思えば、こちらも考えうる最高の人材をぶつけてやればいい」

「最高の人材……ですか」

 ビートンが息を呑むと、ダスティは底意地の悪い笑みを口元に浮かべた。

「オリヴァー・マクニールだ。あの男に、ベイトニアンの調教を頼むのだ」

「お、おお! あのマクニール師ですか!」

 ビートンは驚きを隠せなかった。

 オリヴァー・マクニール――それは、ベイトニアンの生産者であり、ジョッキー・クラブで権勢を振るう貴族たちも一目を置くと言われるほどの名伯楽の名だった。

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