第三章 モンキー・アップルビー 1・2
第三章 モンキー・アップルビー
1
見事に生えそろった芝生の上を栃栗毛の馬体が駆け抜けた。
パースニップの走りはやはり軽快だ。四肢を大きく前後に伸ばすダイナミックなフォームは、見ている者を爽快な気分にさせる。
ところが馬上の者となるとそうもいかない。
「う、うわあっ」
乗り手の馬丁が悲鳴をあげた。彼の背は、首輪を掛けられて後ろから引っ張られているみたいに反っている。馬が繰り出すスピードとパワーに耐えきれず、前傾姿勢を保てないのだ。馬に乗っているというより、落馬しないようなんとか手綱にしがみついているといった感じである。
そんな乗り手の必死さもどこ吹く風で、パースニップは久方ぶりに外へ出たやんちゃ坊主のように夢中で馬場を駆けるのだった。
「……これはダメね」
調教場の外で人馬を見守っていたリアにはそれしかいえなかった。無理をいってもう一度パースニップにまたがってもらった馬丁の少年には申し訳ないけれど。
その後、調教場を半周ほどしてから、パースニップのスピードはようやく緩んできた。馬丁はすかさず手綱を引き絞り、やっとのことでパースニップを止めた。馬丁はほとほと疲れ果てたといったていで馬を降り、リアたちの元へパースニップを曳いて戻ってきた。
「もう勘弁してください。やっぱりこの馬の乗り役は、おいらには荷が重すぎます……」
……さすがにこれ以上付き合わせるのは気の毒だろう。
「ありがとう。あなたはもう休むといいわ。今日の仕事は別の者に頼んでおくから」
リアから暇を出された馬丁の少年は、虚ろな様子で一礼をすると、トボトボと厩舎のほうへ引き返していった。
「やっぱりあの子に騎手を頼むのは無理みたいだね……」
エドワードが恨めしげにパースニップを見つめるが、問題の根本たる彼は無邪気に首をかしげるだけだ。
誰がパースニップに乗るのか――。昨日発覚した問題は、ひと晩経ってもやはり解決の目を見なかった。 ものは試しとばかりに昨日もパースニップに乗ってくれた馬丁の少年に再度騎乗をお願いしたのだが……、結果は今見たとおりである。
パースニップの能力は規格外だ。体躯の小ささからは想像もできないほどその脚力は強い。しかしそれだけに、乗りこなすには相当な技術が必要とされるらしい。
せっかくベイトニアンに対抗しうる馬が手に入ったというのに……。このままではレースはおろか、調教さえままならない。
パースニップの入手に浮かれて騎手のことを失念していた非はもちろんリアたちにもある。それは分かっているのだけど……。
「……まさか、調教を引き受けるっていった当人が馬に乗れないだなんて思わないわよ」
リアの冷ややかな視線を受けて、アルはすねたようにそっぽを向いた。
「……俺だって別に好きで乗れなくなったわけじゃねえっつの。なんていうかまあ……、事情があるんだよ、事情が」
言葉を濁すアル。リアはキッと眉を吊り上げる。
「事情ってなによ、事情って! 怒らないからいってみなさいよっ」
「それは……、いえねえ」
「ちょっ……、なによそれ! そんな答えで納得できるわけ――」
「リア、もうやめよう。アルを責めたって仕方ないよ」
アルに詰め寄ろうとしたリアをエドワードは引き止めた。
「ごめんなさいです……。わたしがもっと早くお伝えしていればよかったのです」
「う……」
マルタにまで謝られては、こっちが悪いみたいに思えてくる。それに……。
リアは目の前のアルを窺った。
顔を伏せたアルは、苦しげに唇を噛んでいた。
冷静になると先ほどのアルの言葉が気にかかった。アルはさっき、「馬に乗れなくなった」といった。「乗れない」ではなく「乗れなくなった」。つまり、以前は乗れていたということだ。それが乗れなくなった。なんらかの事情があって……。
アルの様子から察するに、その事情とやらは他人にはいいにくいものなのだろう。考えてみれば、怒りに任せて詮索していいものじゃない。
「……ごめんなさい。ちょっといいすぎたわ」
リアが謝ると、アルは困ったように頭を掻いた。
「別に気にしてないけどよ……。まあ、この話はここまでにしといてくれ。今はとにかく、パースニップの鞍上のことを考えよう」
アルは気を取り直すように少し声を大きくした。
「リアさんのお父様やお祖父様は熱心に競馬をやられていたのですよね? そのときには騎手はどうされていたのですか?」
マルタに尋ねられ、リアはぴんと来た。
「そうだ! あの人がいるじゃない、お祖父様やお父様がよく騎乗を頼んでいたあの騎手のおじさん! たしか、オニールさんっていったっけ?」
リアは期待に満ちた目をサムへ向けた。オニール騎手は祖父の代からミースフォード家の主戦騎手を務めてきたベテランだ。リアも顔を合わせたことがある。見た目は白髪混じりの中年男だったけれど、馬乗りの腕は確かだったはず。
ところがサムは、申しわけなさそうに頬を掻いた。
「いいにくんですが実はですね……。オニールのやつは、とうに騎手を引退してます」
「い、引退!?」
思いがけない返答に、リアは目を剥いた。
「オニールのやつ、数年前、調教中に落馬したときに腰に怪我をしちまったらしいんですわ。前々から体のあちこちにガタがきてたのもあって、それを機に鞭を置いたんです。こっちにも挨拶に来たんですが、覚えてないですか?」
「覚えて……るかも」
そういえば数年前、オニールが久しぶりに家を訪ねてきたことがあった。てっきり病床にあった父の見舞いかと思っていたけれど、あれは自分の騎手引退の報告も兼ねていたのか。
「じ、じゃあさ、今からでも他の騎手に頼むってことはできないのか?」
エドワードが出した案に、サムは首を振る。
「そいつはちょっと難しいと思います。プロの騎手ってやつは案外重宝されてて、どの馬主も自分のところで囲い込んじまってるんです。他の馬主に騎手を貸してくれるよう頼む手はありますが……」
サムがいいよどんだ理由がリアには痛いほどよく分かった。ミースフォード家が久しく競馬に参加していなかったせいで、かつての馬主仲間との関係が途切れてしまっているのだ。
もちろん懇意にしている貴族やジェントリがいないわけではないが、彼らが凄腕の騎手を知っているという話は聴いたことがない。
「このあいだのセリング・レースでパースニップに騎乗した騎手――も、難しそうね。酷なようだけど、前のレースの結果があれじゃあ……」
いよいよとなれば彼に頼むしかないのかもしれないけれど、もう少し他の手はないものか。
「いっそ騎手なしでレースを走らせられないかしら……?」
「それだと……、スタート直後に失格になりますね」
リアの苦し紛れの奇策も、マルタによってやんわりと却下された。
どうしよう、これじゃ本当に打つ手なしだ……。
「リア、聴いてくれ」
途方に暮れていると、リアは後ろから肩に手を置かれた。
振り返ると、決意に満ちた表情のエドワードがいた。
「ど、どうしたのよ、あらたまって」
「……僕が乗るよ、パースニップに」
「え?」
驚くリアにエドワードは頼もしげな笑みを返す。
「頼める騎手は誰もいない。アルも馬に乗ることができない。だったら僕が乗るしかないじゃないか。たしかに僕はプロの騎手でもなんでもない。でも、僕だってきみの力になりたいんだよ」
「エ、エドワード……、本気なの?」
「もちろんさ! 僕にきみを助けるチャンスをくれないか?」
「そ、そういってくれるのは嬉しいけど……」
「なあに、大丈夫。愛するきみのためだったら、どんな荒くれ馬だって乗りこなしてみせるさ!」
勇ましく胸を叩くと、エドワードは意気揚々とパースニップの元へ向かった。
「お、おい、マジでやる気かよ……」
アルも目を丸くしていたが、エドワードはお構いなしに手綱をつかむ。
「サム! 悪いが少し手伝ってくれ!」
「は、はい」
サムが慌てて手を貸しに走る。
「よし!」
サムの手を借り、颯爽とパースニップの背にまたがるエドワード。馬上には精悍な顔で前を見据える男の姿があった。ピンと背を伸ばしたその姿は、さながら姫に命を捧げた騎士のよう。
サムに手綱を曳かれ、エドワードとパースニップは馬場へ出た。
「それ!」
威勢のいい掛け声とともにエドワードはパースニップを発進させた――。
のだが……。
「うわぁ!」
次の瞬間、聞こえてきたのは、エドワードの情けない悲鳴だった。
そして馬場には、馬から落ちてうつ伏せに倒れる男の姿があった。不恰好に手足を広げたその姿は、さながら踏み潰されたカエルのよう。
パースニップは急に背中が軽くなって不思議に思ったのか、いくらも走らずに脚を止め、後ろを振り返っていた。
「も、もういちどだ」
起き上がったエドワードは果敢に叫び、サムを呼びつけて再びパースニップに飛び乗る。そして走り出すが、今度も数歩も進まぬうちに馬上から放り出されてしまう
「……おい、あれ」
「……うん、分かってるから、なにもいわないで」
前方を指さすアルの横で、リアはこめかみを押さえた。オーナー自身が所有馬に乗ってレースに出る、というごく一般的な案をあえて出さなかったのは、こういう訳だ。
「あれは……、パースニップがどうとかいう以前の問題だよな?」
リアは虚脱しながら頷く。
「エドワードは根っからの学者肌だからね……。狐刈りに出かけた姿も今までいちどだって見たことがないわ……」
「悲しいくらい馬乗りのセンスがないですねえ」
マルタさえも辛辣な感想を漏らした。
「エ、エドワード様ぁ。もうそろそろよしたほうが……」
茶番に付き合わされているサムも気の毒だ。リアたちが呆れた会話を交わしているあいだにも、エドワードは何度も馬に乗りなおしては落ちてを繰り返していた。
「……おい、いいのか? あんたの許嫁、落馬しすぎてそのうち死んじまうぞ?」
「それは心配ないわ……たぶん。エドワードったら落ち方だけは妙に綺麗だから……」
「落馬のセンスは抜群っていうのも悲しいですねえ」
もしエドワードを騎手にしてレースに出たら、それこそスタート直後に落馬競走中止で失格になること請け合いだ。どころか、リアたちはいい笑いものになってしまう。
「……いっそのこと、あんたが騎手やったほうがマシなんじゃねえのか?」
「……それはたぶん当たってるけど、エドワードが立ち直れなくなるだろうから勘弁してちょうだい……」
「あれだけ格好良さげなことをいっておいてリアさんにうまく乗られたら、面目丸つぶれですもんねえ」
……エドワードのプライドを守るためにも、別の手を考える必要がありそうだ。
後日、競馬場へ代わりの騎手を探しにいこうという話がまとまったのは、 エドワードが通算七度目となる見事な落馬を披露した頃だった。
2
ミースフォード家から十マイルほど行った先にある競馬場。
ここを訪れるのもはや三度目だ。正確にいえばリアは子どもの頃に何度も父に連れてきてもらっているが、こう短いあいだに何度も来訪を繰り返すとは思わなかった。
一回目はターフの錬金術師を探しにきて、二回目は当の錬金術師の挑発に乗って賭けをしにきた。
そして今回の目的は、騎手探しである。
「……ごめんよ、リア。僕がふがいないばっかりに……」
馬車を降りるなり、エドワードが消え入りそうに謝った。ちなみに、今朝からずっとこの調子である。
「いつまでいじけてるのよ。馬もあなたも無事だったんだから、もういいって」
いいかげんうっとうしくなっていたので慰めると、エドワードは弱々しい笑みを返してきた。気落ちはしているものの、顔には傷ひとつ見当たらない。昨日あれだけ落馬を繰り返していたのに、よほどうまい落ち方だったらしい。
場内に入ったあたりで、エドワードは自らを奮い立たせるつもりか突然自分の頬を張った。
「こうなったら、騎手探しに全力を傾けるよ! というわけでアドバイス頼むよ、アル!」
「そこは結局、アル頼みなんだ……」
まあ、専門家に意見を求めることにリアも異存はない。
「どのような騎手を探せばいいですか?」
マルタも協力してくれるらしく、隣のアルを見上げた。
「できればどの馬主にも雇われていなくて、厩舎にも所属していない騎手がいいだろうな。騎手を貸してもらうために渡す袖の下なんてありゃしねえんだろ?」
皮肉な物言いだったが、リアは黙って頷かざるをえなかった。背に腹は代えられない身の上とはいえ、今のリアに馬主や騎手に多額の謝礼を支払う余裕はたしかにない。
「……分かってるわ。私たちが頼めるとしたら、誰のお抱えでもない流れの騎手しかないわね」
今は馬主自身がレースに騎乗することはだんだんと少なくなっているから、鞭一本であちこちの競馬場を渡り歩く騎手も少なからずいるはずだ。
「もちろん、パースニップを乗りこなせるだけの腕を持ってることも外せない条件だ」
「そのあたりは……、きみに判断してもらうしかないか」
エドワードがおずおずとうかがうと、アルは頷いた。
「ま、仕方ないわな。とりあえずは今日のレースに乗ってる騎手のなかで良いのを探すか」
リアは出馬表を持つオールコックのほうに振り返る。
「オールコック、今日はあと何レース残ってるの?」
「このあとはステークスレースを含めて五つのレースがおこなわれるようでございます」
「マッチレースも組まれてるようだが、それにはお抱えの騎手が乗るだろうからな……。見るとすりゃ、この次のトライアルレースか」
アルはオールコックから借りた出馬表を眺めながらつぶやいた。
「今、下見所か出ていったのは、そのトライアルレースに出る馬じゃないか? 観客も移動しはじめているようだし……」
エドワードが指さす先には、列をなして馬道へ入っていく馬たちの姿があった。
オールコックに時計を確認させると、たしかに次のレースの発走時刻が迫っていた。
「私たちも行きましょう。うかうかしてたらレースを見逃しちゃうわ!」
「相変わらず鼻息が荒いねえ。付き合わされるこっちの身にもなってほしいもんだぜ」
「そこ、うるさいわよ! 騎手選びはあなたに一任するんだから、気合を入れなさい、気合をっ!」
リアは肩をすくめるアルを焚きつけつつ、ドレスの裾を翻してせかせかと歩き出した。
*
ラチ沿いの特等席にはさすがに人がごったがえしていたが、リアたちはなんとか直線での攻防を存分に見渡せる位置を確保した。多少強引に割り込んだけれど勘弁してほしい。こっちは財産と身の上が賭かっているのだ。
リアはラチから身を乗り出して、はるか先、向こう正面の中程に設けられたスタート地点に目を凝らしていた。そこでスタートの時を待っているのは人馬は八組。騎手探しをする身としてはちょっと目移りしてしまうくらいの数だ。
「ああっ、ここからじゃよく見えないわ! もっと近くへ行けないかしら?」
「お嬢様、ここから先はもう馬場でございます」
オールコックが入れ込むリアをなだめた。レース中に貴族の娘がコース内へ侵入したとあっては春の珍事である。
そんなやりとりの横で、エドワードが腕組みをしてコース場の八騎手を眺めていた。
「このレース、僕たちに協力してくれそうな、流れの騎手は出てるかな?」
「六番のお馬さんに乗るスティーブンスさんと、八番のお馬さんに乗るアップルビーさんが、そのようですね」
マルタが出馬表を見て応答した。
「じゃあ、その二人のうちのどちらかか……」
「まあそう慌てんなって。騎乗を頼むかどうかは、このレースで腕を見てからだ」
エドワードに答えたアルは、すでに騎手たちの一挙手一投足に真剣な視線を注いでいた。
リアも気を引き締めた。ラチを掴む両手にも力がこもる。
「このレースは一マイル半の中距離戦だ。長距離戦ほどではないにせよ、しっかり勝たせるには騎手の腕が問われる条件だぜ。見るべきポイントはいろいろあるんだが、ま、ここからだと直線での手綱さばきを見るくらいしかできないかもな。ほら、始まるぜ」
アルが顎をしゃくると同時に、向こう正面で八頭が一斉にスタートを切った。
レースは終盤まで淡々と展開した。向こう正面を駆け抜けた八頭はコーナーをぐるりと回って、早くも最後の直線へ。
「あ! 先頭は六番の馬だよ!」
「ホ、ホントに!? 六番っていうと、スティーブンスって騎手ね!?」
うまい具合に自分たちが注目すべき一頭が来たじゃないか! リアの目はもう先頭を走ってくる六番の馬に釘づけだ。
「ろ、六番はこのまま勝つのかな?」
「残り三ハロンか……。手応えを見るかぎり六番の馬が抜けてるな」
アルの解説どおり、先頭に立った六番はじわじわとだが後続を引き離しはじめる。
「うーん、この展開では騎手さんの腕前をはかるのは難しいでしょうか?」
マルタが眉を曇らせた。
「いや、そうでもねえ。六番の騎手はかなりの手練だ。追い方を見るだけでも並の騎手との違いが分かるぜ」
アルの言葉が耳に入ったリアは、六番の騎手のアクションに注目する。両腕を大きく動かして馬の首を押したかと思うと、鋭く鞭を振るって馬の尻を叩く。なんとも豪快なアクションだ。
「うまくはいえないけど――たしかにすごいわね……」
「上半身の動きの大きさに目を奪われがちだが、大事なのはむしろ下半身だ。両足が馬の胴をがっしりと挟んで全体の重心がぶれてねえだろ? だから馬も追われれば追われるほど伸びるんだ」
声色からアルの期待感が窺えた。専門家の目から見てもやはりあの騎手の腕は確かなものらしい。
「それだけの騎手ならパースニップの騎乗はあの人に――」
「だがあの乗り方じゃおそらくパースニップには――ん?」
ぼそりとつぶやいたアルが唐突に眉間にしわを寄せた。なに?
「あれ――? 一頭迫ってきてないか!?」
叫んだエドワードにつられて、リアも慌てて前に向きなおる。ラスト一ハロンを切った地点――そこではたしかに、逃げ切りをはかる六番の馬に別の馬が接近しつつあった。内側からするすると脚を伸ばしてきたのは――八番!?
「――って、たしか!」
アップルビーとかいうもうひとりの流れの騎手が手綱をとっているのではなかったか?
八番の脚色がいい。六番もスティーブンスが連打する鞭に応え必死の抵抗を見せているものの、八番の素早い四肢の回転がやけに目立つ。
「こ、これ、八番が逆転するんじゃないか!?」
エドワードの興奮に呼応するように、周囲でもどよめきに似た歓声がワッと巻き起こった。ゴールは目前だが、このまま行けば――。
「いや――」
アルの表情が一瞬険しくなったその瞬間。
「あ、ああっ!?」
信じられない光景に、リアは思わず悲鳴を上げた。
ゴールの直前、八番の馬が突然失速したのだ。ひるんだように頭を上げた馬は、ずるりと後ろに下がってしまう。その隙に六番の馬は一着でゴールに飛び込む。八番の馬は態勢を立て直すこともままならず、迫ってきた後続馬群に飲み込まれてしまった。
「ああ……」
リアは思わずため息を漏らしてしまったが、周囲では安堵したような勝どきのほうが多かった。一般の賭け客にとって、六番は人気の馬だったようだ。
レースを終えた馬たちは第一コーナーと第二コーナーの中間あたりで折り返し、コースの出口へ続々と帰ってくる。勝った六番の人馬には観衆から賞賛の声も掛けられるが、スティーブンス騎手は脇目もふらず馬を歩かせていた。
風格さえ漂わせるすの姿にリアが思わず見とれていたそのとき。
「ギャハハハッ! なんだ、あの格好は?」
周囲の観客のあいだから突如笑い声が起こった。
「な、なに?」
近くで笑う男の指さす先を見て、リアは目を白黒させた。
「なに……あれ?」
それは八番の馬だった。他の馬と同じように速歩で馬場を引き返してきているのだが、その様子がどうにもおかしい。
いや、おかしいのは馬ではない。その背にまたがっている騎手のほうだ。
「なんだぁ、ありゃあ! あんなに尻上げて、屁でもこくつもりかよ!」
近くにいた男が八番の騎手に向かって嘲笑を浴びせた。ずいぶんと下品な物言いだが、いいえて妙だとも思えてしまう。
たしか、アップルビーという名だったか。その騎手はなんと、鞍から腰を浮かし、前かがみになって、お尻を後ろに突き出すような恰好で馬に乗っていたのだ。
「知ってるぜ! あいつ、近頃ここらの競馬場に乗りにきてるモンキー野郎だよ! 猿みたてえにケツ突き出して、みっともないったらありゃしねえ!」
さっきとは別の男が自らの尻を叩いてアップルビーをからかうと、周囲の連中からドッと笑いが起こった。
その声は近づいてきたアップルビーの耳にも届いているはずだ。しかしアップルビーは馬場の外を一瞥しただけで、特に言い返すこともなくさっさと馬場を後にした。
「ひょっとしてレース中からあの態勢だったのかな? だったらゴール前で失速したのはそのせいかもね。あんな乗り方されちゃあ、馬だって走りにくくてしかたないよ」
声をひそめるエドワードに、リアも頷くしかない。騎乗依頼をする候補のひとりではあったけれど、あの騎手は諦めざるをえないだろう。
「ハハ、モンキーか。こりゃいいや」
アルも声を上げて笑っていた。やっぱりあの騎手はへんてこなのか……。
「そんなことより、僕たちも戻らなくていいのかい? 騎乗を頼むなら帰ってしまう前に声を掛けないと……」
「あ、そうだ! スティーブンスさん!」
「よし行くか。後検量を終えたところをすぐに捕まえるぞ」
リアが振り向くと、アルは先に歩き出していた。
「あいつ、やけにやる気だしてるじゃない……?」
ちょっと困惑しつつも、リアは小走りになってアルを追いかけた。
リアたちが下見所に着く頃にはもう、後検量が始まっていた。
「あれ、スティーブンス騎手じゃないか?」
エドワードが検量用の天秤に腰掛けていたスティーブンス騎手を見つけた。よかった、まだ帰っていなかった。係の者から規定重量と相違ないことを確認されたあと、スティーブンス騎手はジョッキールームへ引き上げていった。
「あ、あの――」
リアがスティーブンスを呼び止めようとした、ちょうどそのときだった。
「待ちやがれ!」
険のある声がリアの呼びかけをかき消した。声の主は、スティーブンスの次に後検量を受けた騎手のようだった。あの服はたしか――そうだ、「モンキー」のアップルビー騎手だ。
呼び止められたのは、スティーブンス騎手だ。彼はジョッキールームに入る直前で立ち止まり、声の主のほうに振り返る。
「私になにか?」
問い返されたアップルビーは、険しい顔つきのまま、まっすぐにスティーブンスへ近づいていった。そして――。
「ふざけんじゃねえぞ、てめえ!」
アップルビーはスティーブンス騎手の胸倉につかみかかった。
*
「きゃっ!」
リアは思わず悲鳴をあげた。周囲にいた者も諍いの勃発に気づき、下見所内はにわかにざわつきはじめる。
「た、大変だ!」
エドワードが慌てて下見所に入った。まさか……とめに入るつもり?
「エ、エドワード、危ないわよ!」
「いや、場合によっちゃとめたほうがいい。あんたはマルタとここで待ってろ」
早口で告げてアルもエドワードの後に続いた。
待ってろっていったって……。リアはちらりとマルタを窺う。
「大丈夫なのです。わたしたちも行きましょう!」
胸の前で拳を握ったマルタを見て、リアも覚悟が決まった。
「お嬢様! お気をつけください!」
心配するオールコックに対して頷き、リアも柵を越えて下見所へ入った。
「てめえ、自分がなにしたか分かってんだろうな、おい!」
アッブルビーは依然としてスティーブンスの胸ぐらを締めあげていた。
エドワードをはじめとする何人かの男が止めに入るチャンスを窺っていたが、アッブルビーの剣幕に気圧されてなかなか手を出せないでいるようだ。
一方で、突き上げをくらっているはずのスティーブンスは侮蔑するように相手を見下ろしていた。
「……手を離したまえ。そちらの言い分は聴こう。私は逃げも隠れもしない」
狼藉を働かれているというのに、スティーブンスの声色から動揺は微塵も感じとれなかった。
「……チッ」
観念したのか、アップルビーはスティーブンスから乱暴に手を離した。ハラハラとした心地で成り行きを見守っていたリアはほっと息をつく。
とはいえ、アッブルビーの怒りが収まった様子もない。乱れた襟を直すスティーブンスを、アップルビーはきっとにらみつけた。
にらみあうふたりを見ると、その体格には結構な差があることに気づく。スティーブンスのほうは筋骨隆々といった逞しい体つきで、いかにも屈強そうな雰囲気がある。対するアップルビーはどちらかといえば小柄。騎手だけあって引き締まった体つきではあるものの、肉づきはあまりなく細身だ。
腕っ節だけなら明らかにスティーブンスに軍配が上がりそうだが、アップルビーはまったくひるんでいない様子だった。
「だったら聴かせてもらおうじゃねえか、なんであんな汚ねえ真似をしやがったのか。下手な言い逃れをしようってんなら、ただじゃおかねえぞ」
アップルビーはとげとげしい言葉をスティーブンスにぶつける。凄みをきかせていたわりに声は意外とハスキーだ。
「……汚い真似、とは、直線で私の鞭がきみの馬の顔に当たったことかね?」
低く厚みのある声でスティーブンスは問い返した。不機嫌なわけではなく、あれが地声なのだろう。
「鞭が馬の顔に……? そんなことがあったのか?」
ふたりの会話を聞いたエドワードが怪訝そうに漏らした。リアも同じ気持ちだ。遠目とはいえレースの最中にそんなことが起こっていたなんて、全然気がつかなかった。
「八番の馬がゴール前で急に下がったときだな。たしかにあのとき、スティーブンスの鞭が一発、隣の八番の鼻面を叩いていた」
アルは気がついていたらしい。それで八番の急失速にもあまり驚いていなかったのか。
しかしそうなると、アップルビーの物言いもいいがかりとはいえなくなってくる……のか?
「さあ、いったいどういうつもりであんな真似をしたのか説明してもらおうじゃねえか。こっちはあれのせいで勝ち星を一個落としてるんだよ!」
アップルビーが牙を剥く猛犬のようにスティーブンスに食ってかかる。勝敗を分ける大事な場面で重大な不利を被ったのだ。その怒りは十分に理解できる。
しかしスティーブンスは表情ひとつ変えずにアップルビーを見下ろす。
「たしかにこちらの鞭の扱いには至らぬ点があった。私の技術不足を認めることはやぶさかではないし、そちらの不運についても同情をする。しかしながら、私からこれ以上なにを説明しろといっているのか、理解しかねる。そもそもあの出来事を敗因として私に文句をぶつけるのは筋違いなのでは? 私が見たかぎり、きみの馬に私の馬をかわせるだけの余力は残っていなかった。たとえ私の鞭が当たっていなくとも、きみの馬がこちらに先着することはなかっただろう」
「この野郎……っ、よくも抜け抜けと!」
激昂したアップルビーは、周囲が止める間もなく、またスティーブンスの胸ぐらに掴みかかった。アップルビーがスティーブンスを引き寄せた拍子に、ふたりの頭からジョッキー帽が地面に落ちる。
「……放したまえ」
「うるせえ! この期に及んで言い訳とは見苦しいぞ!」
「言い訳などしていない。こちらの非については謝るといっているだろう」
「そういう問題じゃねえんだよ! いいかげんにしねえとこっちにも考えが――」
「はーいはい! そこまでだ!」
一触即発の雰囲気のなか、アップルビーとスティーブンスのあいだに体を割りこませのはアルだった。アルの素早い対応に、リアは驚く。
「ああっ!? なんだ、てめえは!」
スティーブンスから引き剥がされたアップルビーが、今度はアルに噛みつく。下手をすればアルにまで危害を加えそうな勢いだ。できればエドワードにも仲裁に加わってほしいが、出遅れたエドワードはオロオロするばかりだった。真っ先にとめに走ったくせに……。
「さっきのレースを見てたんだよ。あ、ちなみに馬喰をやってるもんだ」
「馬喰だあ? 競馬に関しちゃ自分も素人じゃねえっていいたいわけか? だがこいつは騎手同士の問題だ。痛い目見たくなかったら引っ込んでな!」
「まあまあ、そういうなって。当事者同士でいいあらそっても水掛け論になるだけだろう? ここはひとつ、第三者の意見ってやつを聴いちゃもらえねえか?」
「む……」
アルの軽佻な物腰にいくらかでも牙を抜かれたのか、アップルビーは不満げにしながらも話を聴く様子を見せた。アルが振り返ってスティーブンスにも目配せをすると、彼も短く頷いた。
「アルのやつ、なにをいう気?」
「さ、さあ……」
小声でささやきあいつつ、リアはエドワードを肘でつつく。またなにか起こったら今度こそ体を張りなさいよという合図だ。
アルはアップルビーとスティーブンスを順に見ると、楽しげに口を開いた。
「まずは事実確認だ。スティーブンスの鞭がアップルビーの馬の顔を叩いた。これは間違いないな。アップルビーのいうとおり、勝負どころであれは痛かったな」
「ほら見ろ! やっぱり――」
「ただし!」
我が意を得たりと前に出かかったアップルビーを押しとどめつつ、アルは先を続けた。
「馬の脚勢に関しては、スティーブンスの考えに同意する。追い上げ急には見えてたが、実はゴール目前の地点ではアップルビーの馬にもう脚は残っていなかった。それについちゃ実際に乗ってたあんたのほうがよく分かってるんじゃねえか?」
「そ、それは……」
アップルビーは口ごもった。痛いところをつかれたのか、あるいは冷静になって考えを改めたのか。
スティーブンスのほうも黙ってアルの話を聴いていた。どうやら鞭の一件があってもなくても逆転の余地はなかったという点に関しては、双方の合意に達したようだ。
「で、でもよ! だからといって、隣の馬を鞭で打っていいなんて道理はねえだろ!」
アップルビーはそう訴えた。やや劣勢になったとはいえ、言い分のほうはもっともである。
問いただされたスティーブンスは、重々しく口を開いた。
「……故意にやったわけではない。私からいえるのはそれだけだ。謝罪を欲するならばいくらでも頭を下げよう」
「と、こっちの旦那はいっているけど、どうする?」
アルに問われたアップルビーは、バツが悪そうに顔をそむけた。
「別に……謝ってほしいわけじゃない」
アップルビーもこれ以上のいちゃもんはさすがに大人げないと悟ったのだろう。悔しげな表情を浮かべてはいたものの、なにかいいかえそうという素振りは見せなかった。
「一件落着――かな?」
「ああ。これでようやく、スティーブンスさんに騎乗依頼を持ちかけられるわね」
リアはエドワードとともに安堵のため息をついた。スティーブンスを弁護してくれたアルには後でお礼をいおう――と思ったその矢先。
「おいおい、まだ話は終わってねえぜ、おふたりさん」
なにを思ったのか、アルがいきなり声を低くした。リアは困惑した。せっかく手打ちをしたのに、なんで?
しかもアルが肩を掴んだのは、あろうことかスティーブンスのほうだった。
「話? やはり鞭の件を謝れと?」
これにはスティーブンスもさすがに眉をひそめた。
眉間のしわが平常時より幾分深くなったスティーブンスに、アルは不敵な笑みを返した。
「いや、俺がいいたいのは、ゴール前であんたが馬を内ラチへ寄せていったことさ」
「な――に? おい、どういうことだよ!」
アルの言葉を真っ先に聞きとがめたのは、アップルビーだった。
「こっちの旦那が自分の馬を内へ動かしたせいで、あんたの馬は進路をふさがれてたのさ。俺の見たところ、鞭が当たったのはそのあとだな。違うかい?」
「……」
スティーブンスはなにも答えなかったが、わずかに目を伏せた。ここに来て彼が初めて見せた動揺だといえた。
「さっきもいったように、馬の脚色はあんたのほうが優勢だった。だが乗り方次第では万が一ってこともあるからな。勝負を確実にするための一手ってところか?」
アルが問いつめるが、スティーブンスはやはり沈黙を貫いた。
「……ねえ、どういうこと?」
不穏なムードに耐えかねて、リアは隣のエドワードの耳に口を寄せた。
「……要するに、スティーブンス騎手は勝つためにアップルビー騎手の邪魔をした――ってことかな?」
「ま、進路が開いていたとしてもアップルビーの馬が突き抜けていたかは分からない。それに、あの程度の動きじゃ進路妨害かどうかも、外から見てるかぎりじゃ断定できない。俺はあくまで、自分の目で見て推測できたことを話したまでだ。つまり、第三者の意見さ。あとは当事者のおふたりさんに任せるよ」
アルは肩をすくめる。これだけ引っ掻きまわしておいて、なんともなげやりな態度だが……。
アルの言葉を受けて、険しい顔つきのアップルビーがスティーブンスと向かい合った。
「……今のこいつの話、本当かよ?」
アップルビーは意外にも静かにスティーブンスを問いただした。
「……言い訳をするつもりはない。裁決委員に訴えでるなら付き合おう。そこで処分が下されれば、どんなものでも甘んじて受け入れる」
アップルビーをまっすぐに見据え、スティーブンスはそのように受け応えた。はっきりと過ちを認めたわけではないにせよ、実質的には自分に非があるといっているに等しい。いいかえればアップルビーがしかるべきところへ訴えでる名分も与えられたわけだ。
しかしアップルビーはいまいましげに舌打ちをして、スティーブンスをにらみかえした。
「まんまとあんたの策にハマった自分のまぬけさを棚に上げて、訴えるなんてみっともねえ真似できるかよ! だが覚えてやがれ……、この借りは絶対返してやるからな!」
「そちらがそれでいいなら、私はこれで失礼する」
スティーブンスはアップルビーが突きつける指先をよけ、近くにいたリアたちを一瞥しつつ下見所の出口へ向かう。
「行っちゃいました……ね」
堂々と下見所を出ていくスティーブンスを呆然と見送るマルタからはそんなひとことが漏れた。
「あ、そういえば騎乗依頼……」
すぐに後を追いかければまだ間に合いそうだが、なぜか一歩が出なかった。
「おい、あんた」
凄みを利かせた声が聞こえてきて、リアはハッと我に返った。
見れば、アップルビーが今度はアルをねめつけていた。
「いや~、それにしてもあいつ、いかつい顔してやがったな~。ちょっとは笑えっての。なあ?」
とぼけた調子のアルに、アップルビーは明らかに苛立った表情を見せた。
「おい、おまえ、ふざけてるんじゃ――」
「いいから、今は調子を合わせとけ。レース後に他の騎手と揉めてたなんてジョッキー・クラブの連中に知れたら、ここらはでもう競馬に乗れなくなるぞ」
アルがひそひそとささやくと、アップルビーはムッとしながらも口をつぐんだ。
騒ぎを聞きつけて近づいてきた主催者側の職員も、アルが適当にあしらうと、渋々といった様子で引き返していった。
「アル……、あの人のことを助けてる……?」
先ほどのスティーブンスとのやりとりといい、リアの目にはアルがアップルビーを擁護しているように見えた。
同じことはアップルビー自身も感じているようだ。
「……礼はいわねえぞ。あんたが勝手に割り込んできたんだからな」
複雑な表情を浮かべたアップルビーに、アルはニッと笑いかける。
「礼なんてとんでもない。俺はやりたいようにやっただけさ。まあ、どうしてもっていうんなら、借りはあんたの手綱さばきで返してもらおうかな」
「は?」
アップルビーはいぶかしげな目つきアルに返した。
「あ! ひょっとしてアルのやつ――」
エドワードが声をあげた時にはもう遅かった。アルはニヤリと口角を上げ、傍らにいたリアを指さした。
「あんたに乗ってもらいたい馬がいるんだ。このお嬢様の馬で、パースニップっていうんだけどさ」
「は、はい?」
あんぐりと口を開けたリアは、まぬけな顔をアップルビーに晒してしまった。