第二章 サトウニンジン 3・4
3
「あれが厩舎ですね!」
マルタが木立の向こうに姿を現した建物を指さした。ミースフォード家所有の競争馬はすべて、あの平屋建ての小屋で世話をされている。
「サムはどこかしら?」
ここの責任者である厩舎長を探しつつ、リアは馬小屋の中へ入っていく。エドワードたちも彼女の後に続いた。
「ふうん、なるほどね」
アルは掃き集められた藁を掴んだりしながら、おもしろそうに厩舎内を眺めていた。そんなに興味を引かれるものがあるだろうか? 調子のほうは元に戻ったようだけど……。
「サム、いないの?」
リアが通路で声を響かせると、馬具や飼い葉桶がまとめて置かれている一角で、ガタゴトと物音が鳴った。
「お、お嬢様がたっ、こりゃまた突然のご訪問で……。え、ええ、もちろん、仕事は抜かりなくやっておりましたぜ、ええ」
自分で崩した桶の山を直しながら、痩せぎすの中年男は勤勉ぶりを主人にアピールした。この男が厩舎長兼調教師のサムである。
「ん? なんか酒臭くないか?」
エドワードが鼻をひくつかせると、リアもじとりとした目を厩舎長へ向けた。
「……サム、あなたまた昼間っからお酒を飲んでいたのね?」
「や、やだなあ、ほんのちょびっとですって! いやね、馬丁の小僧が農家からいい林檎酒をもらってきましてね。どうです? お嬢様も一杯」
サムが献上した酒瓶をリアはため息ともにつきかえした。呆れて怒る気にもなれないようだ。
「まあ、いいわ。それよりサム。ちょっと馬を見たいのだけれど、どこにいるの?」
リアは通路の両側に並んだ馬房を一瞥した。そういえば馬房には一頭も馬が入っていない。
「馬たちは今、放牧中です。昨日預かった馬も一緒に外へ出してますが――、ああ、ひょっとしてそっちの兄ちゃんが例の?」
サムはリアの後ろで空の馬房を覗きこんでいたアルを見やった。その視線に気づき、アルはひょいとこちらに顔を向ける。
「ああ、そういえば紹介がまだだったわね。こちらは馬喰のアル。それに、パートナーのマルタちゃんよ」
「じゃあ、この兄ちゃんが本当にあの『ターフの錬金術師』なんですかい……?」
丁寧にお辞儀をしたマルタ、そして軽く首をすくめたアルを、サムはいぶかしげに眺めた。サムも、馬喰の世界でその名を轟かせるターフの錬金術師が、こんな若い青年だとは想像していなかったのだろう。
「彼の相馬眼は私が保証するわ! 昨日だってレースの勝ち馬を次々と当てていたんだから!」
リアがなぜか自慢げに胸を張った。先ほどのレクチャーの効果もあるのか、こちらはすっかりアルを信用しているみたいだ。
そんなリアを尻目に、アルはサムをまっすぐに見つめた。
「この厩舎の仕事は、あんたが全部仕切ってんのか?」
「お、おお、これでも一応、厩舎長だからな。まあ、調教師としては馬をレースにも出せねえヘボだがよ……」
サムは身構えて答えたが、そんな彼にアルはニッと白い歯を見せる。
「いや、いい仕事してるぜ、おっさん。厩舎の前には石ころ一つ転がってないし、寝藁の手入れも行き届いてる。厩舎運営に関しちゃほぼ満点の出来だ。なあ、マルタ?」
「ハイです! これならお馬さんたちもきっと心地よく過ごせているはずです。こんな素晴らしい環境を作れている厩舎は英国中探してもなかなかないですよ」
「お、おお、そうか? 俺は師匠に習ったとおりにやってるだけなんだがよ……」
サムはちょっと戸惑いつつも顔をほころばせていた。日々の仕事ぶりを褒められて、面映ゆくも嬉しいのだろう、きっと。
「これなら俺が買った馬も安心して預けられるぜ。よろしくな、おっさん!」
「お、おお! そっちの件は抜かりねえぜ」
アルが差し出した手をサムは力強く握り返した。
「……ちょっと。サムをおだてたってなにも出ないわよ?」
ガッチリと握手を交わす二人を見て、アルへひどい耳打ちをしたのはリアである。
「? 俺は正直な感想を言っただけだけど?」
真顔で返したあたり、どうやらアルは本当にサムの仕事ぶりを評価しているようだ。
「……サムってただの呑んだくれじゃなかったんだ」
今度はエドワードがリアに耳打ちをされた。エドワードとしては苦笑いを返すしかない。
サムもそうだが、アルも馬のことに関してはまっすぐなのだろう。馬のためになるならば、良いものは良いと素直に認める。そんな精神の持ち主なのだろう、アルは。
「馬を見たいんだったか。昨日、前の持ち主の使いだっつー騎手が持ってきたあの栃栗毛をここへ連れてくればいいのかい?」
サムがアルを見上げて訊く。早くも打ち解けた様子だ。
「いや、見たいのはあの馬じゃない。この家の馬だ。一頭ずつ馬体を見せてもらえるか?」
「おお、するってえと、レースに出せそうなやつがいるか、直接見て確かめるってわけか」
サムもようやく事情を呑みこんだらしい。だったら明るいところのほうがよかろうと言って、アルを放牧場へ誘った。
*
厩舎の裏に広がる放牧場へ行くと、馬たちはちょうど柵に近いところに集まって草を食んでいた。六頭の馬が一様に首を下げて草を食む光景は実にのどかだ。
「それにしてもあの子たちっていつも固まっているわよね? こんなに広い放牧地にいるんだから、それぞれ好きなところへ行っちゃえばいいのに」
身を寄せ合う馬たちを眺めてリアがそう漏らした。活発なリアらしい意見である。
「馬ってのは基本的に群れをなす動物だからな。仲間がいると自然と一緒に過ごしちまうもんなのさ」
アルが苦笑交じりに答えた。
「へえ、競馬ではあんなに荒々しく走ってるのに、根は案外寂しがり屋なんだ」
「優しい動物ですよ、お馬さんは。あの子も、ちゃんと仲間に入れてもらえてみたいですね」
自分たちが預けた栃栗毛の馬が仲良く草を食む群れに混じっているのを見つけてマルタは顔をほころばせた。なるほど、昨日ここの馬たちに連れてこられたばかりだというのに、栃栗毛の馬はすっかり群れに馴染んでいた。
「あいつの心配は後だ。今はここの馬を調べねえとな。おっさん、もっときっちり見たいから、一頭ずつ連れてきちゃくれねえか?」
「いいぜ。おおい、おまえ! ちょっとこの兄ちゃんを手伝ってやんな」
サムは放牧中の馬を見張っていた馬丁の少年を呼び寄せ、馬を連れてくるよう指示した。少年は慣れた手つきで近くにいた一頭を放牧場の柵から外へ出し、アルの前まで曳いてきた。
「よし。ちょっとのあいだ、そのまま動かさず立たせておいてくれ」
アルは駐立した馬から数メートルほど離れた位置に立ち、馬体を見はじめた。まずは側面からじっくりと眺める。次に馬の周囲をぐるりとめぐり、正面と背面からも馬の様子を確かめた。その目つきは怖いくらいに真剣だ。
リアは緊張に息を呑んだ。ここで下されるジャッジがリアの命運を左右すると言っても過言ではないのだ。
「よし……、ゆっくり歩かせてくれ」
アルの指示を受け、馬丁は慎重に馬を動かして周囲を旋回させた。
アルはその様子をやはり無言で観察する。
カッポカッポとのどかな蹄の音とは裏腹に、その場の緊張感は否応なしに高まっていく。
「……次を頼む」
一頭を見終えたアルは、ジャッジは口にせずに次を促した。
「ど、どうだったんだろう……?」
リアは不安になって隣のエドワードの腕をぎゅっと掴んだ。
「シッ、また始まるよ」
声をひそめたエドワードも緊張した面持ちだった。リアははやる気持ちを抑えてアルの作業を見守った。
アルは次の馬もさっきと同じように、まず立ち姿を四方から眺め、次に歩様をじっくりと確かめた。
残りの馬でも同じ手順を踏み――そうしてアルは、ミースフォード家所有の競走馬をすべて調べおえた。
「……ど、どう? ベイトニアンに勝てそうな馬は、いた?」
腕組みをして考えこむアルに、リアはおそるおそる尋ねた。
横目でリアを見返したアルは、神妙な顔つきで小さく首を振った。
「……はっきり言わせてもらえば、今のままじゃそもそもレースでの全力疾走に耐えることすらできない馬がほとんどだ。一応毎日乗りこんでいるみたいだが、レース向けの強いトレーニングはずいぶん長いことやってないだろう? そんな状態でレースに使ったら、下手すりゃ脚を壊しちまう」
「お見通しってわけかよ……」
一発で厩舎事情を見抜かれ、顔をしかめたのはサムだ。
分かっていたこととはいえ、一縷の望みをはっきりと絶たれたとあっては、リアたちは黙りこむほかなかった。
「……今からレースに向けて鍛えなおすのも難しそうですか?」
リアの心情を汲み取ったらしいマルタがそう尋ねた。
「レースまでは一ヶ月足らずなんだろう? そんな短期間にレースに出せるぼどの過酷なトレーニングを課すわけにはいかない。それに、たとえ充分なトレーニング期間があったって、ここにいる馬をベイトニアンと対等に戦えるレベルまで鍛えるのは無理だ。そもそもあの馬とじゃ、持って生まれた素質が違いすぎる」
「そんな……っ」
リアは思わず悲壮な声をあげてしまった。アルが意地悪で厳しいジャッジを下したわけではないのは分かっている。けれど八方塞がりの現実を直視するのはつらすぎた。
本当にお手上げなのか――リアが唇を噛み締めた、そのとき。
「う、うわあ!」
突然、素っ頓狂な声がリアの耳をつんざいた。
見ればエドワードが、尻もちをつき、驚いた顔で斜め上を見ている。 なにやってんの?
「どうしたのよ、エドワード?」
「い、いや、なんか首筋がヒヤって……あ、あいつにいきなり舐められたんだ」
エドワードが指さす先には一頭の馬が立っていた。顔を指されてどこかきょとんとしたふうのこの馬は――。
「あれ? この子って……、アルが買った馬よね?」
ミースフォード家の所有馬には栃栗毛はいないから、間違いなかった。
でも、どうしてこの馬がここに? アルに見てもらう必要のない彼は放牧場――柵の向こうに残しておいたばずなのに。
「こらっ、勝手に馬を出すんじゃねえよ」
サムはそばにいた馬丁を叱った。彼のしわざと思ったらしい。
しかし、馬丁は驚いたように首を振る。
「お、おいらじゃありませんよぉ」
「ああん? だったら誰がこの馬をこっち側へ連れてきたんだよ? 柵はきっちり閉じられてるじゃねえか」
サムが怪訝そうに眉をひそめる。放牧場を仕切る柵には横木が渡されている。いちばん下の横木と地面とのあいだには少し隙間があるとはいえ、成馬が通り抜けられる程ではないはずだ。
「まさか……!」
ぼんやりと柵を見つめていたアルが、突然ハッとした顔を見せた。そして急いで栃栗毛の馬へ駆け寄り、やにわに肩やお尻に触りはじめた。
「ちょっとちょっと。いったいなにをしてるのよ?」
謎の行動を見とがめるリアを無視し、アルはなぜかにやりと笑う。
「マルタ! こいつ、今すぐ走らせても大丈夫だと思うか?」
「軽くなら問題ないと思いますよ。そんなにお腹一杯って様子でもないですし」
マルタは戸惑いも見せずに答えた。アルの意図が分かっているのか、あるいは彼が突飛な行動に出ることにもう慣れっこなのか。いずれにせよ、リアたちは置いてきぼりである。
「よし……。おい、少年! おまえ、普段からここの馬の調教に乗ってるんだよな? だったら一丁、こいつの乗り役をやっちゃくれねえか?」
「え、ええ? おいらがですかい?」
突然白羽の矢を立てられた馬丁の少年は、驚いて自分の顔を指さした。
「なに、レースでも調教でもないから難しいことは要求しねえさ。スタートさせて、頃合いになったら馬を止める。それだけでいい」
「は、はあ」
請われた少年は師匠であるサムを窺った。
「まあ……、やってやんな。なんかあっても責任は俺がとってやらあ」
サムに目配せをされた少年は、分かりやしたと返事をして、厩舎へ馬具を取りに戻った。
「な、なにを始める気なのよ、いったい……? ベイトニアンにどう立ち向かっていくかもまだ決まってないっていうのに……」
リアはそれとなく不満をぶつけたのだが、アルはふふんと鼻を鳴らす。
「お嬢さん、あんたさっき、自分も良い馬を見つけられるようになりたいとか言ってたよな?」
「は? なによいったい、こんな時に――」
少しだけイラッとしてしまったリアを茶化すように、アルは得意げに頬をゆるめた。
「さっきの講義の続きだ。強い馬の走りってやつを、実際にあんたに見せてやるよ」
そう言うとアルは、栃栗毛の馬の手綱を取って、その顔を放牧場のほうへ向けた。
*
厩舎から戻ってきた馬丁は、栃栗毛の馬に手際よく鞍を乗せ、その背にまたがった。見習いの騎手とはいえ、毎日馬に乗っているだけあって馬上で背筋を伸ばした姿はなかなか様になっている。
「うん、それだけ乗れるんだったら充分だ。じゃあさっそくだが、そのあたりをぐるっと回ってきてくれ。無理に抑える必要も、強く追う必要もねえぞ。なるべくこいつの走りたいように走らせてやんな」
アルは馬の首筋を撫でながら、馬上の少年に向かって指示を飛ばした。心なしか上機嫌に見える。
「……ねえ、あいつ、いったいなにを考えてるわけ?」
リアは小声でマルタに訊いた。強い馬の走りを見せてやるとか謎のことを言ってるし、妙に機嫌が良くなってるし、ホント訳が分かんない。
「良い馬を見つけるとアルはいつもあんな感じになるのです。お馬さんが大好きなんですよ、アルは」
マルタはニコッと微笑み返してきた。しかしそれは……答えになっているんだろうか?
「良い馬を見つけたって……、あの栃栗毛のことを言っているのかい? でもあの馬は、このあいだのセリング・レースでしんがり負けだったじゃないか」
エドワードの言うとおりだ。あのレースを見るかぎり、あの栃栗毛が実力のある馬だとは到底思えない。実際、その後のセリであの馬は誰にも値をつけられず売れ残ってしまったわけで――。
「あれ? そういえばアルは、どうしてあんな馬をわざわざ買ったんだろう……?」
リアが素朴な疑問を口にしたのと同時に、アルの合図で馬丁が馬を発進させた。
だだっ広い放牧場の中央へ向かって、人馬は小気味よく駆け出していく。
額に手をかざしつつその様子を見送ると、アルはリアたちに向かって声を張った。
「おおい、そんなとこに突っ立ってねえで、あんたらもこっちへ来いよ! ぼんやりしてるとせっかくのお披露目を見逃しちまうぞ」
そこまで言うなら……と、リアたちも放牧場の中に入ってアルの横に並んだ。
「お披露目って、あの馬のなにを見ろって言うんだい?」
困り顔のエドワードの肩をアルは気さくに叩いた。
「まあ、見てな。理屈なんか抜きにして、一発で分かると思うからよ」
自信ありげに言うと、アルは前方へ注意を向けるよう皆を促した。一同は放牧場を大きく旋回する人馬をそれぞれの視界に捉えた。
先ほどよりも幾分かスピードを上げているようだ。乗り役の馬丁が手綱を動かしている様子はないから、馬が自分で加速しているのだろう。ずいぶんと気持ちよさそうに走っているなあ。最初のうちはそんな感想を抱くくらいだったのだが――。
「お……? お、おおっ?」
「な、なんだ、ありゃあ?」
「す、すごい……!」
エドワードとサムとリア、口をついてでた言葉こそまちまちだったが、目を剥いたのは三人ともに共通していた。目の前で起きている光景には、それだけのインパクトがあった。
ギャロップ――それは、馬がもっともスピードを上げるときの足運びである。四肢を前後に目一杯伸ばし、全身を使って駆ける、もっとも馬らしいといえる美しい走り方だ。
そう、美しかったのだ。そして、力強かったのだ――栃栗毛の馬が見せるギャロップは、リアがこれまでに見てきたどんな馬の走りよりも、ずっと素晴らしく映った。
鋭く振り出される前脚。しっかりと地面を蹴り、芝を風に舞わせる後ろ脚。首の上下運動も脚の運びにぴたりと連動しており、無駄な動きが一切ない。日に照らされて輝く馬体が緑の芝生を切り裂いていく。風を切る音が聞こえてきそうな気さえした。しなやかに地面を這うように駆ける姿は、馬が走るというよりも、鳥が地面すれすれを飛んでいる姿を連想させた。
ずっとこの姿を見ていたい――そんな慕情さえ芽生えた。
「ああ……」
馬丁がゆっくりと馬を止めたとき、リアは思わずそんなため息を漏らしてしまっていた。
「おつかれさん。なかなかやるじゃん。ラチもないのに、ちゃんとまっすぐ走らせてたぜ」
アルは馬から降りてきた馬丁を愛想よく労った。
「いや、こいつが勝手に走ってただけで……、おいらはもう、捕まってるだけでやっとでした……」
放牧場を軽く一周してきただけだというのに、馬丁は疲れ果てたようにうなだれ、両腕をぷるぷると震わせていた。それだけ神経も体力も要する騎乗だったのだ。
「うわあ、きみ、すんごく速く走れるんですねえ!」
いささか調子の外れた驚きを発しながら馬の元へ寄っていったのはマルタだ。彼女は馬の四肢に触れると、アルに向かって「大丈夫なのです」と告げた。怪我はない、という意味だろう。
「な、なにがどうなっているんだ!? どうしてこの馬にあんな走りができるんだ!?」
エドワードが興奮気味にアルに詰めよった。エドワードに指をさされた栃栗毛の馬はのんきに首をかしげている。
「ちゃんと説明してやるから、そう慌てなさんなって。そうだな……、じゃあまずは、おもしろいもんを見せてやろう」
苦笑しつつエドワードを押しとどめると、アルは近場から柵をくぐって放牧場の外へ出た。
今度はなにを始める気? いぶかしげに見つめるリアたちを尻目に、アルは柵の向こうで両手を広げた。その視線は栃栗毛の馬に向けられている。
「ほら! こっちだ! こっちへ来てみろよ!」
柵越しに馬を呼ぶアル。……いやいや。
「そっちへ行けるわけないでしょう? 柵があるんだから――って、えええっ!?」
目の前で起こっていることが信じられず、リアは首を前へ突き出してしまった。
栃栗毛の馬は、首を横木の下へ突っ込んだかと思うと、そのまま猫のようにグイッと体を伸ばし、柵の下をくぐり抜けてしまったのである。
「よおし、偉いぞ」
アルは、褒めてと言わんばかりに身をすりよせてきた馬の鼻筋を撫でてやった。馬も気持ちそうに目を細める。
一方でリアたちは唖然とするほかない。
「く、くぐっちゃったわよ、あの馬、ここを……」
リアは今さっき栃栗毛の馬が通りぬけた柵を指さしながら、ぎこちなくサムへ顔を向けた。馬が勝手に放牧場から出ないために柵を立ててあるんじゃないの?
「い、いや、普通は無理ですって。飛び越えるってんならまだしも、下をくぐり抜けちまうとは……。あんな芸当、あっしだって初めて見ましたよ」
柵のいちばん下の横木と地面の間にはわずかな隙間しかない。そりゃあ、人間ならば腰をかがめれば労せずくぐり抜けられるが、成馬になんとかできる隙間ではないはずだ。
しかし、あの馬は現にさっき、曲芸じみた芸当をリアたちの目の前でやってのけた。
「ど、どういうことなんだ、アル!?」
エドワードが再びアルに詰め寄った。目の前に柵が立ちはだかっていることも忘れて。
柵に鼻面をぶつけて痛がるエドワードを見て笑いながら、アルは傍らにいる栃栗毛の背をぽんと叩いた。
「見てのとおりさ。こんな狭い隙間をくぐれるくらい、こいつの体は柔らかいってこと。さっきもこの馬は突然、俺たちの前に現れただろう? 誰も柵を開けていないのに。なんのことはない、こいつはさっきもこうして柵の下をくぐり抜けてきたのさ」
エドワードはハッとして自分の首筋を触った。先ほどあの馬にぺろりとやられたことを思い出したのだろう。
「体が柔らかいって……、それってつまり、どういうこと?」
まさか曲芸の才能があるなんて言わないだろうが――アルはリアに不敵な笑みを返してきた。
「体の柔らかさは馬が速く走るための重要な要素だって教えてやったじゃねえか。この馬は関節も筋肉も抜群に柔らかい。これだけ良質の体質だから、ストライドを伸ばしてしなやかに走れるのさ」
「あ……」
リアの目に栃栗毛の美しい走りが甦った。あの姿はリアの脳裏に鮮明に焼きついている。
「じ、じゃあ、この馬には速く走る素質があるっていうのかい? で、でも、このあいだのレースでは全然ダメだったじゃないか?」
エドワードのもっともな疑問にも、アルは動じない。
「あのときはまったく本気で走ってなかったのさ。体調が悪かったのか、レース中になにか嫌気が差すことでもあったか、理由はいろいろ考えられるが……、まあ、本来の走りをしたときのスピードはさっき見たとおりだ」
……たしかにスピード感は相当なものに見えた。他の馬と直接競走したわけではないからそこまで確信は持てないが……。
「お、おいらはかなりのもんだと思いました。こいつ、チビっこいくせにすごいパワーで……。こんなすげえのに乗ったのは生まれて初めてですよ!」
おずおずと証言を始めた馬丁が、しまいには栃栗毛の実力を熱心に訴えていた。実際に手綱をとっただけにその言葉には信憑性が感じられる。
「そういえばこいつ……、あれだけ走った後だってのに息も乱れてねえ」
サムが驚いたとおり、栃栗毛の馬は涼しい顔をしていた。まだまだ走れそうな顔つきだ。
「この前もレースの直後だってのに元気に暴れてたもんな。まさか忘れたわけじゃないだろ?」
そりゃあ覚えているけど……。リアはこの馬に危うく踏まれそうになったのだから。
「よくもまあ、これだけの馬を探してきたな、おい……」
あらためて栃栗毛の馬をまじまじと見つめ、サムが唸った。
ところがアルは、ちょっと困った顔で眉を掻く。
「実は俺もここまでの馬だとは思ってなかった。セリング・レースの最後の直線で一瞬鋭い脚を見せてたから、鍛えればそれなりに走るだろうと思って買ったんだが……」
その先は続けなかったが、栃栗毛を見つめる期待に満ちた目がアルの考えを代弁していた。数多くの駿馬を見出してきたであろうターフの錬金術師が惚れこむほどの逸材なのだ、この馬は。
「良かったですねえ、きみ。アルのお墨つきなら、きっとまた競馬場で駆けっこができますよ。ベイトニアン君なんかと競走できるといいですね」
栃栗毛へ無邪気に語りかけるマルタに、アルも上機嫌で同調する。
「飛節は伸びるし、ツナギの角度や強さも申し分ない。肩や背中、腰なんかも窮屈なところがない。牡馬にしては小柄だが、惚れ惚れするくらいの馬体だぜ。ひょっとしたらベイトニアンに勝てるかもな、おまえ」
「ち、ちょっと待って、ちょっと!」
リアはうわずった声を出して二人の会話に割り込んだ。今、聞き捨てならない内容が含まれていなかったか!?
「勝てるの!? その馬、ベイトニアンに!?」
かろうじて意味をなしたリアの問いかけに、アルは平然と応じる。
「そりゃ、距離や馬場の条件しだいだろ。さっきも言ったろ。どんな条件でも強いって馬はいないんだって」
「そういうことじゃなくてっ――、ああ、もう、まどろっこしい!」
リアははしたなくも頭をかきむしって長い髪を振り乱す。もう! どうして肝心なところで察しが悪いのよっ!
「冗談だって。まあ、もうちょいこいつの本気がどんなもんか見極めたいところだが――、俺の見立てでは、長距離戦なら充分にベイトニアンと渡りあえるぜ、こいつは」
自信に満ちた表情で言いきるアル。
リアは目を見張った。
「じ、じゃあ、この子をベイトニアンと――」
「あ、ああっ! ダ、ダメだよ、リア!」
勢い込んだリアに水を差したのはエドワードだった。
「その馬はミースフォード家の所有馬じゃない! ダスティとの賭けレースには出せないよ……」
「あ……」
リアは一瞬にして言葉を失った。そうだ――単純な事実を失念していた。この馬はアルが仕入れた馬で、リアはあくまで預かっているだけだ。ダスティとは、お互いの持ち馬でレースをすると約束している。リアのものではないこの馬をレースに出すことはできない……。
「――でかい声出すから何事かと思ったら、なんだ、そんなことかよ」
愕然とするリアを見て、しかしアルは呆れたように笑った。
「そんなことって……、そりゃあ、あなたには関係ないことかもしれないけど――」
リアがついに涙さえにじませても、アルはおどけたように肩をすくめる。
「心外だねえ。これでも親身になって協力してるつもりだぜ? それともなに? 泣き落としで少しでもお代をまけさせようって腹?」
「は?」
リアはふざけた調子のアルを涙目でにらみつけたが、エドワードはなにかに気がついたようでハッとアルを見返す。
「アル、まさかきみは――」
エドワードの問いに目だけで応えると、アルはリアに視線を戻す。
「言ったろ? 俺は馬喰――馬を融通するのが生業だ。目の前にいる客を逃すほど馬鹿でもないぜ? これだけの馬なんだからいくらでもふっかけたいところだが、まあ特別サービスだ。お代は安くしとくぜ、お嬢様?」
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「はい、まいどあり。たしかにお買い上げいただきましたよ――と」
リアがサインを入れた契約書にさっと目を走らせ、アルはおどけたように言った。
アルと差し向かいで座っているリアもペンをテーブルに置き、ほっと息をついた。
「これであの馬をダスティとのレースに出すことができるのね……」
「ああ。あいつは今日この時点から、お嬢さん、あんたの馬だ。いつどこで競馬をさせるか、あんたが自由に決めていい」
そう言いわたすと、アルは譲渡契約書をリアの隣へ滑らせた。受け取ったのはエドワードだ。
「ダスティ・キーガンだっけ? あの野郎から文句を言われたらそいつを見せて、あの馬の馬主はこのお嬢様だって言ってやんな。交渉はあんたに任せるぜ」
「分かった。任せてくれ」
エドワードは契約書を懐に仕舞った。ここまではアルに頼りっぱなしだ。今度こそリアの力になれるのなら交渉なんてお安い御用だ。
アルが手元に置くかぎり栃栗毛の馬をダスティとの賭けレースに出せない。しかし、リアがアルからその馬を買い上げれば話は変わってくる。考えてみればなるほど、単純な道理だった。
屋敷へ戻ると、リアとアルは栃栗毛の馬の売買契約を取り交わした。そしてリアはあの馬の馬主となった。これで文句なく、あの馬でベイトニアンに挑むことができるわけだ。
「でもよかったの? あの馬は他の人に売るつもりだったんでしょ? あの子なら、もっと高値でも売れたんじゃ……」
「ここまで来てケチなこと言ったってしょうがねえだろ。あ、でも代金はちゃんと貰うからな。支払いはレースが終わってからでいいけど」
太っ腹なのかがめついのかよく分からないアルの物言いに、神妙な顔をしていたリアもようやく笑みをこぼした。
「そういえば、あの馬、なんて名前だっけ? ええと……」
エドワードがまごついていると、マルタが手元の書類を読み上げた。
「パースニップ、ですね。何回か持ち主が変わって名前も変えられているようですけど、前の馬主さんはそう呼んでいたみたいです」
「パースニップ――サトウニンジンか」
エドワードはあの馬の姿を思い浮かべ、その馬名の由来を悟った。なるほど、あの栃栗毛の毛色は、とれたてのサトウニンジンの色にどことなく似ている。
一方でアルはまた違ったふうにその名の由来に納得したようだ。
「ああ、なるほどな。あいつのじいさんはポテイトーズで、父親がパンプキンだもんな。そのつてで、あいつはパースニップってわけか」
これを聴いて眉間にしわを寄せたのはリアだ。
「カボチャにジャガイモ? なんでいきなり野菜の話になったの? まさか、またうちの料理に文句を言いだす気じゃ――」
「誰も野菜の話はしてねえよ。シチューの具材に関しちゃ言いたいことは山ほどあるが――」
「パンプキンもポテイトーズも、お馬さんの名前ですよ、リアさん」
長くなりそうなアルの話をマルタが笑顔で遮った。結構抜け目ない子である。
「そんな名前の馬がいるの?」
ムッと膨れかけたアルを無視して、リアはマルタに訊き返した。
「両方とも競走馬として走った後、種牡馬になった馬です。特にポテイトーズは有名なお馬さんですよ。ちなみに綴りはこうなのです」
マルタは手元にあった紙切れに文字を綴ってリアとエドワードに見せた。
「え……、なにこれ?」
リアは目を瞬かせた。エドワードも思わず紙面を凝視してしまう。
potatoooooooo。たしかにそう書かれていた。なんだ、この奇妙な綴りは?
「oが八つでポテ『エイトオー』、なのです。なんでも、この馬の世話をしてた馬丁が飼い葉桶に『potato』と書こうとしたけれど綴りがわからず、適当に書いていたところ、馬主がそれを気に入ってしまって、そのまま馬の名前にしたって話ですよ」
マルタがニコッと微笑んだ。本当ならばとんでもないエピソードだ。
「まさか、そんな名前……、嘘でしょう?」
「嘘じゃねえよ。『ジェネラルスタッドブック』にもちゃんとその綴りで登録されてる。正式に認められた馬名だ」
アルがブスッとしながらも解説を入れた。料理についての持論を披露する機会を奪われたことを根に持っているようだが、馬名の話で意趣返しをしている様子はない。
『ジェネラルスタッドブック』は、英国内の競馬を実質的に取り仕切っている団体、ジョッキー・クラブによって公式に認められた競走馬の血統登録書だ。そこに記載されているということは、アルの言うとおり「potatoooooooo」が正式名称として扱われているのだろう。
「ポテイトーズの産駒は、父親にあやかって野菜とか果物の名前をつけられることも多かったみたいですね。パンブキンも、パースニップ君もそんな考えで名付けられたのでしょう」
「はぁ……。世の中にはおもしろいことを考える人がいるものね」
リアは感心半分、呆れ半分といった調子で言った。
「でも、気持ちは分からなくはないのです。ポテイトーズはとても強い馬でしたから。現役中は三〇勝以上を上げているですよ。種牡馬としても優秀で、エプソムダービーを勝った産駒を複数出しているくらいです」
「それは――すごいわね……」
ダービーステークスの名声はリアの耳にも届いているようだ。ダービー伯爵とバンベリー卿の呼びかけで今から三十年ほど前に始められたこの三歳馬限定レースは、それ以来、年一回の開催が続けられている。傾斜の厳しいエプソムの一マイル半のコースは三歳になったばかりの若駒にとってはたいへん過酷と言われ、このレースに所有馬を勝たせることは馬主にとっても大きな栄光とされる。
そんな名誉あるレースの勝ち馬を何頭も輩出しているというのだから、ポテイトーズという馬、たしかにすばらしい種牡馬だ。
「ポテイトーズはエクリプス産駒の中でももっとも優秀と言われていたからな。そのくらいの成績を残しても不思議じゃない」
「エクリプスって、あの伝説的な名馬、エクリプスかい?」
競馬をたしなむ英国人ならば、エクリプスの名を知らない者はいない。エクリプスは前世紀の中頃に競走馬として活躍し、種牡馬としても成功を収めた。とりわけ現役時はただの一度も負けなかったというのだから、まさに並ぶもののない名馬だ。その強さは当時から多くの人の畏怖と尊敬を集めたようで、この馬にまつわる逸話は数多く語り継がれている。馬主の男は大佐の地位を金で買った元賭博師で、その怪しげな出自ゆえジョッキー・クラブへの加入を断られたとか、そのためにエクリプスは貴族が開催する高額賞金のレースには出走できなかったとか、ついにマッチレースを受けてくれる貴族が現れたのはよいが、エクリプスは彼の愛馬に圧勝してしまい、その馬主はショックで半年も寝こむことになったとか……。にわかには信じがたい話も含まれているが、それだけエクリプスの強さは印象的だったということだろう。二十五歳でこの馬が死んだときには、多くの人が弔いのため共用先のカノンズに集まったという。
「もちろん全部がそうじゃないが、エクリプスの血を引く馬は優れた筋肉の質を持っていることが多い。エクリプスは頭を地面すれすれまで下げて走ったそうだから、おそらく相当柔軟な筋肉を持っていたんだろうな」
「そうか、つまり……、あの栃栗毛――パースニップの素質は、祖父であるエクリプスから伝わってきたものなんだね?」
「ああ、特に筋肉の強さや柔らかさ――つまり体質ってやつは、血統に影響を受ける部分が大きいからな。少なくとも俺はそう考えてる」
「エクリプスの血を引く馬……」
息を呑んだリアの顔に、みるみる期待感が広がっていく。
その様子を見てアルも不敵に問いかける。
「さて、どうする? 気に入らなければあの馬の名前を変えたっていいんだぜ? 決めるのは所有者であるあんただ」
「変えるわけないじゃない! パースニップ――サトウニンジンなんて、ミースフォードの運命を託すのに、これ以上の名前はないわ!」
リアの勇ましい返答を受けて、アルはテーブルの上の契約書を伏せた。
「決まりだな。あいつの馬名登録はそのままにしておこう」
「待ってなさいよ、ダスティ・キーガン……! パースニップで必ずベイトニアンを打ち負かしてやるんだから!」
拳を振り上げるリアを見て、アルとエドワードは顔を見合わせて苦笑する。
「今からそんな鼻息を荒くしてたんじゃ、レースを迎える頃にはあんたがバテちまうぜ。まずはしっかり調教を積むことを考えなきゃな」
「そうだね。でも、レースまでもうひと月を切っているけど、大丈夫かい?」
エドワードとしては心配になる点だった。ミースフォード家にもともといた馬はレースに使えないと判断された理由が、準備期間の短さだったからだ。
「その点は大丈夫だろう。セリング・レースとはいえ、パースニップはこの前、競馬を走ったばかりだ。疲れも残っていないみたいだし、ひと月あれば十分に仕上げられる」
心強い言葉に、リアはますます血気盛んになる。
「そうと決まれば、さっそく明日からパースニップの調教を始めましょう! アル! あなたが指揮を執ってくれるのよね?」
「ま、あいつを勧めた責任もあるし、しょうがねえな」
ターフの錬金術師が調教まで引き受けてくれるとなれば百人力だ。エドワードとリアは手を取り合って喜んだ。
「馬の調教は朝いちばんに行うのが効果的ですから、明日からは早起きですね! ところで、アル。パースニップ君の調教には誰が乗るのですか? アルはお馬さんには乗れないですよね?」
「……ん?」
「え?}
無邪気なマルタの言葉に、エドワードとリアは同時に笑顔を固めた。マルタは今、なんと言った?
「調教だけじゃなくて、レースで騎乗する騎手も必要ですよね? お見受けしたところ、こちらには専属の騎手はいらっしゃらないようです。先ほど乗られていた馬丁さんもまだ見習いのようですし、本格的な調教や、ましてやレースとなると難しいんじゃないかと」
マルタの冷静な指摘について考える余裕がまだない。さっきのひと言がまだ頭を支配していた。そんな馬鹿な――アルが馬に乗れないだって?
「い、いやいや、冗談でしょう? 馬の取引をやっている人が馬に乗れないなんてそんなわけ――」
「……し、しまった……」
リアのぎこちない笑みは、ターフの錬金術師が漏らした情けない声を聴いて、今度こそ完全に固まった。