第二章 サトウニンジン 1・2
第ニ章 サトウニンジン
1
「うわあ! このニンジン、すごくおいしいのです!」
昼食に出されたシチューを一口含んで、マルタは満面の笑みを浮かべた。
「この土地の畑で採れたサトウニンジンよ。ミースフォード産の野菜はどれも格別なの」
「こんなおいしい物を毎日食べられるなんて、リアさんたちは幸せですね!」
「ふふ、おおげさよ」
それだけ喜んでもらえるなら、もてなした甲斐があるというものだ。
それにひきかえ……。
「野菜はもうちょっと大きめに切ったほうがいいな。そのほうが食感を楽しめる。それに、煮込みが足りねえ。最低でも一晩かけて煮込まねえと、野菜の旨味がシチューに染み込まねえんだ」
「……出る料理出る料理、不満ばっかり言って、よく飽きないですこと。そんなに文句があるなら、食べなきゃいいのに」
注文の多い客人にはつっけんどんな態度になっても仕方がない。
「……ふん」
リアの皮肉を無視し、アルは黙々とスプーンを口に運んだ。味にうるさいわりに料理を残す気はさらさらないらしい。これまで出てきたメニューもすべて綺麗に平らげていた。
「気にしないでください、リアさん。相馬眼と違って、アルの味覚は信用なりませんから」
しれっと辛辣な評価を口にしたマルタは、サトウニンジンをもうひとかけ頬張った。こちらも小柄な体躯に似合わず食欲旺盛だ。
馬喰のアルと、その連れの少女マルタ。二人は昨晩からこのミースフォード家に迎え入れた客人だ。いや、客と呼ぶのはちょっと違うのか。リアはこのふたりに、自分たちがひと月後に挑む競馬への協力を依頼しているのだから。
「それで……アル。これから一緒に、ダスティ・キーガンのベイトニアンに勝つ方法を考えてくれるんだよね?」
エドワードがそう切り出したのは、食事がひととおり片付いた頃だった。オールコックが無駄のない動きで皆の皿を下げていく。
「なんとかなりそう……かな?」
リアも期待をにじませつつお伺いを立てる。が、アルから返ってきたのは嘆息だった。
「知恵ならいくらだって貸してやるさ。だがこの前も言ったと思うがな、馬を急に強くしてほしいとか、そんな虫のいい考えは捨ててもらわくちゃ困るぜ」
「それは……」
まるで考えていなかったとは言えない。
リアが気まずくなってうつむいていると、ガタリと椅子を引く音が聞こえてきた。
「ま、あのベイトニアンに挑むんだ、俺も多少の無茶は覚悟しなきゃいけねえかもな」
リアが顔を上げると、ちょうどアルが席を立つところだった。
「ど、どこへ行く気?」
「おいおい、馬喰の俺に力を貸せっつっといて自分らの馬も見せねえつもりかよ?」
「あ……」
呆けた顔のリアを見て小さく笑うと、アルはマルタを呼んで食堂の出口へ向かった。
「アルが馬を見てくれるってさ! 厩舎まで僕たちが案内してやろう!」
「あ、うん……」
色めきたつエドワードに引っ張られてアルたちを追いかけたものの、リアはまだ戸惑いを残していた。調子が狂うなあ……。不承不承こちらに協力しているのかと思ったら、案外やる気なんじゃない。
口は悪いけど、意外と良いやつなのかもしれない。
「なにニヤニヤしてんだよ。そんな顔してるとしわが増えるぞ、しわが」
……口は悪いけど。
2
アルは「ターフの錬金術師」なる異名をとる腕利きの馬喰だ。その相馬眼の素晴らしさは、昨日嫌というほど見せつけられた。三レースを予想して、アルはそのうち二レースまで勝ち馬を言い当てたのだ。いや、最後のレースは誰が見ても実力の抜きん出ていたベイトニアンをこちらに譲っただけだから、実質的には全レースの一着馬を的中させたと言ってもいい。それも、下見所で馬の様子を眺めただけで。
「なあ、アル。きみはいったい、どんな方法で馬の良し悪しを判断しているんだ?」
天才的な相馬眼の秘密を知りたくなり、厩舎へ向かう道すがら、エドワードはアルに尋ねた。
「なんだぁ、旦那。今度から自分で馬でも買いつけようって魂胆か?」
「か、からかわないでくれって。純粋にきみのことをもっと知りたいだけさ」
「……なんか気色悪いセリフだな、おい」
アルは嫌そうな顔をしたが、エドワードとしては本心を言ったまでだ。
「おいしい料理もごちそうになったことですし、教えてあげては?」
マルタが促すと、リアもらんらんと瞳を輝かせる。
「私も興味あるわ! もったいぶらずに話しなさいよ」
皆からせがまれ、アルはやれやれと言いたげに肩をすくめる。
「分かった分かった。ま、向こうにつくまでの話のタネにゃちょうどいいだろう」
アルは逍遥道の先へ目をやった。厩舎に着くまで少しは余裕があるだろう。
エドワードとリアはアルを挟んで左右に並ぶ。アルはちょっとだけうっとうしそうな顔をしつつも、ふたりを交互に見て話しはじめた。
「あんたらは相馬ってやつを吉凶占いの類とでも思ってるかもしれねえけどよ、ちょっとしたコツさえ身につけりゃ、誰にだってできるもんだぜ」
「そ、そうなの?」
リアが目を丸くした。
「いや、だからそのコツを掴むのが難しいんじゃないか……」
世の中にはたしかに優れた相馬眼を持つと言われる人は多い。だが彼らは「この馬は良い、この馬は悪い」と結果を教えてくれるだけなのだ。
「ぱっと馬を見て、速く走るかどうかを判断するわけでしょ? それって、今流行りの人相術とか頭蓋論みたいなもの?」
「それこそ吉凶占いじゃねえか」
アルは苦笑を浮かべた。「ターブの錬金術師」なんてあだ名をつけられるくらいだから、この手の誤解は散々受けてきたのかもしれない。
「理詰めで考えることが大切なのさ。まず、動物が速く走るにはどんな方法があると思う?」
「速く走る方法って……? そんなの、見当もつかないけど……」
リアが眉を寄せる。無理もない。質問が茫洋としすぎている。
「ハイ! 歩幅を大きくするか、脚を速く動かすか、です」
元気よく答えたのはマルタだった。おそらく、以前にアルから習ったことがあるのだろう。
「そのとおり。歩幅――ストライドを伸ばすか、ピッチ――脚の回転を速めるか。動物が脚で走る以上、速度を上げるにはこの二つの方法しかないのさ。自分が速く駆けようと思ったらどうするか、ちょっと考えてみな」
「え、ええと……」
エドワードは全力疾走をする自分を想像してみた。……なるほど、たしかに走るときの歩幅は歩く時よりも大きくなるし、もっと速度を出そうとすればなるべく速く脚を動かそうとするだろう。
「ということはつまり、より歩幅を大きくとれ、より脚の回転を速められる馬が速い馬ってことになる。いちばん単純に言や、そういう理屈だ」
「なるほど……、たしかに理には適っているね。でも、歩幅だとか脚の回転だとかをどうやって判別するんだい?」
エドワードが疑問を投げかけると、アルはすっと指を三本立てた。
「見なきゃいけないのは大きく分けて三つ。馬の体格と体型、そして体質だ」
「体格に体型、それに、体質?」
リアが首をかしげると、アルは二本の指をひっこめ、人差し指を突き立ててみせる。
「体格ってのは細かい説明はいらないよな。馬の体の大きさだ。当然、小柄な馬よりも大きな体躯を持った馬のほうが歩幅を広くとれる」
エドワードはうなずく。
「うん、昔から体の立派な馬のほうが好まれるものね」
「だが、小柄な馬が大きな馬に絶対勝てねえかというと、そうじゃねえ。これが競馬のおもしろいところでもあるんだが、体型や体質の如何によっては大きな馬でも思ったほどスピードを出せなかったり、長い距離を走れなかったりすることがある。ぎゃくに、小柄な馬でも体型の良さや体質の良さで活躍できるやつもいる」
アルの舌はよく回っていた。だんだんと興が乗ってきたらしい。
このあたりからいよいよ、アルの相馬眼の秘密に踏み込んでいく予感がした。アルは普通の馬喰が見向きもしない馬の素質を見抜いてきたのだという。彼がターフの錬金術師と呼ばれるゆえんだ。
アルはエドワードたちに示す指の数を二本に増やした。
「体型ってのはまあ骨の形だと思ってくれりゃあいい。人間でも、身長だとか手足の長さだとか肩幅だとか、一人ひとり違うだろう? あんたみたいにノッポのやつもいりゃあ、マルタみたいなのもいる」
「むーっ、アルはどうしていつもこの説明の時にはわたしの背のことを引き合いに出すのですかっ!」
マルタは両手を振り上げてぷんぷんと怒ったが、残念ながらその手はアルの顎の高さにも届いていなかった。
「まず、脚が長いほうがストライドを広くとるうえでは有利だな。後は肩のラインも寝ていたほうが前脚を振り出しやすくなる」
「じゃあ、なるべく脚が長くて肩が寝ている馬が良いってこと?」
リアの合いの手を待ってましたとばかりにアルは得意げに鼻を鳴らす。
「ところが、そう単純でもねえんだよな、これが。たしかに歩幅をとってスピードを出すって点では脚の長さは有利に働くが、脚が長すぎると走るときに体のバランスをとるのが難しくなることもある。もし芝生が雨で湿って脚をとられるような馬場なら、一歩ごとに滑っちまって走るどころじゃなくなるだろう。肩の角度だって、振り出しが大きくなるのはいいが、それは脚の回転を速めるには微妙に不利な要素ともいえる。短い距離でダッシュを競うようなレースだとスピードを上げきる前にゴールを迎えちまうかもな」
「むう……、複雑なのね、なんだか」
「要は、いつでも、どんな馬場でも強い馬はいねえってことさ。その馬がどんな馬場や距離でもっとも力を発揮できるのか。馬を買うときもレースの勝ち馬を予想する時も、それを考えなきゃならねえってこと」
「ふうん。昨日、飛節とかツナギとか言ってたわよね? あれも体型の話?」
飛節とは馬の後ろ脚の、胴へ向けて折れ曲がった関節部位。ツナギとは、蹄にすぐ上にある短い関節部位のことだ。
リアが昨日の話を記憶していたことが意外だったのか、アルは少し驚いた表情を見せる。
「そうだ。ほかにも、胴も背中、首の長さ、股関節の幅や可動域なんかも走りに関係してくる。馬の見た目なんてどれも似たり寄ったりだって言うやつもいるけど、いろんなパーツの違いをつぶさに見ていけば、あいつらは本当に千差万別、同じ体つきの馬なんていやしねえぜ」
「いや、まったくだ。僕も耳が痛いよ。僕もこれまで馬の見分けなんて、毛色の違いか、せいぜい体の大きさくらいでしかつけてこなかった」
エドワードは本心からアルの理論に感服していた。一頭一頭の体型の違いを見る。こんな馬の見方があったなんて!
「でもさ、体格とか体型の違いっていっても、ほんのわずかなものでしょう? そんな差がレース結果に影響するのかしら?」
「もっともな疑問だ。たしかにあんたの言うとおり、体格や体型の違いによって生まれる歩幅の差はわずかだ。一歩にしたら一フィート足らずってところかもしれない。だが、レースは一歩で決着がつくわけじゃない。スタートからゴールまで、たとえば一マイル半を走ってくるとして、そのあいだに三百五十歩とか四百歩とか、まあそのくらいはかかるんだろう。するとだ、一歩につき一フィートだった差は、ゴールするまでにどうなる?」
「あ……そうか」
頭の中に簡単な計算をするだけでエドワードは気づいた。仮に一歩の歩幅の差が一フィート(約三十・五センチメートル)として、それが四百歩分積み重なれば、差は掛け算によって四百フィート(約十三メートル)になる。もちろん脚の回転速度が一定という条件下での話だが、一マイル半を走るあいだにわずか一フィートの差もそれだけのものに広がってしまうということだ。
「そういうことだ。だから、飛節の伸び具合だの関節の稼働域だの、わずか数インチでも歩幅の差を生み出す小さな違いを見逃さないことが大切なのさ。相馬の秘訣ってもんがあるとすりゃあ、そういうことになるのかもな」
込み入った話が続いて少し疲れたのか、リアが眉根をもんだ。
「はあ~、ターフの錬金術師なんて名前なのに、ずいぶんと科学的な考え方をしてるのね、あなた」
「だから、それは誰かが勝手につけたもんだっつってんだろ。俺が自分で名乗ってるわけじゃねえよ」
「アルは本当に気に入っていないですねえ、その呼び名」
マルタがくすりと笑うと、アルはふくれっ面を浮かべる。
「ええっと、それで……、体格、体型のほかに、体質というのも見るべきところなんだっけ?」
アルがへそを曲げて話を中断されてはたまらない。エドワードは慌てて話を元に戻した。
「体格と体型っていうのはまだなんとなく分かったけど、体質というのはちょっと聞き慣れない言葉ね」
うまい具合にリアも話に乗ってきた。リアは横からアルの顔を覗きこんだ。
「う~ん、しかし俺もそう教えられたからなあ、他にうまい言葉が思いつかない」
アルは腕組みをして困った顔になる。
エドワードが考えたのは、アルの相馬術も誰かから教わったものなんだな、ということだった。
「体質というと、体組織の性質ってことかな?」
「ん~、まあそうなるのか。要は筋肉の強さと柔らかさってことなんだけどな」
「強さに、柔らかさ?」
リアが首をかしげた。
「筋肉で体を動かすってことはいいな? 筋肉が強ければ強いほど脚で地面を蹴る力が増し、一歩でより遠くへ飛べるし、脚を速く回転させることもできるってわけだ」
「ああ、なるほど。柔らかさというのは?」
「硬い肉より柔らかい肉のほうが伸び縮みしやすいだろう? だから筋肉が柔らかい馬は全身を前後に大きく伸ばすことができる。すなわち、ストライドが伸びるってことさ」
「強くしなやかな筋肉なら、力強く地面を蹴って、体も伸ばして、スピードを出せるってことか。ははぁ~、言われてみれば納得だよ」
やはりアルの話は非常に筋が通っていた。これだけ体系だった理論を持っているならば、馬喰として成功しているのも容易にうなずける。
「でもさ、筋肉が強いとか柔らかいとか、実際に馬を走らせてみなくちゃ分からなくない? そりゃあ、見るからに筋骨隆々なら見ただけで力強そう! って分かるけど」
リアのなにげない言葉で、エドワードは昨日見たベイトニアンの姿を思い出した。あの馬は素人目にも素晴らしい肉体を誇っていた。きっと筋肉の強さも相当なものに違いない。
あんな馬に勝てるのだろうか……。エドワードの不安を見てとったのか、アルは小さく微笑んだ。
「筋肉は量があればいいってもんじゃない。重要なのは強さと柔らかさ――体質を見抜くことだ。俺の経験からいえば、筋肉の量が多い馬は長い距離を苦手とする傾向がある」
「そうなんだ……あ、だったらまだ肉がついていない仔馬でも、体質を見れば将来走る馬かどうかが分かるんだ!」
「ま、仔馬の体質を見抜くのは難しいがな。こればっかりは数多くの馬を見て、経験を積むしかねえな」
「え~、なによ、ここまで話を聴かせておいて最後はそれ? これで私も良い馬を見つけられると思ったのに!」
リアは子どもっぼく頬をふくらませた。本気でアルの相馬術を盗むつもりだったのか……。
「一朝一夕で身につくものじゃないってことさ、優れた相馬眼ってやつは。馬喰にしてみれば、いい馬を見抜く方法なんて秘儀秘伝の類だろうしね」
「じゃあ馬喰はみんな、あなたみたいな考え方で馬を見繕っているわけ?」
素朴な疑問を投げかけたリアに、アルはちょっと困った顔を返した。
「どうだろうな。他の連中のやり方は正直、そんなに知らねえんだ」
「あら、そうなの? 仲間同士で意見交換とかしないんだ?」
「仕事仲間っつっても競合相手でもあるからな。自分の知識や経験はおいそれと他人に明かさねえさ。相馬術を教えることがあっても、ぜいぜい師匠が弟子に、ってくらいじゃねえかな? 俺だっていちばん最初はまだ子どもだった頃に――」
和やかにしゃべっていたアルが、突然ハッと顔をこわばらせたのはその時だった。しまったとでも言うように、アルはエドワードたちから視線を逸らした。
「アル? どうした?」
エドワードはアルの顔を覗きこもうとするが、アルは頑なに表情を隠そうとする。
「な、なんでもねえよ。さあ、この話はこのくらいで充分だろう。これ以上根掘り葉掘り訊かれたら、こっちだって商売上がったりだ!」
アルはごまかすように声を張ると、少し歩調を速めてエドワードたちを置き去りにした。
「なんか気になるな……」
しかし、変に詮索するのも気が引けた。
それにちょうど、逍遥道も終わりに差しかかっていた。