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第一章 ターフの錬金術師 3・4

 3


 翌日、エドワードとリア、それにお付きのオールコックの三人は、ホテルを出て再び競馬場へ赴いた。

 競馬場の入口に到着すると、知った顔がふたつ、エドワードたちを待ち受けていた。

「こんにちはです、みなさん。お待ちしていました」

 丁寧に挨拶をしてくれたのはマルタである。

「全員揃ったな。もうすぐ第一レースだ。とっとと入るぞ」

 アルは顎で行き先を示し、場内へ向かう人の群れに混じっていく。とことこと後に続くマルタを追って、エドワードたちも歩きはじめる。

「……会釈くらいしなさいよね」

 リアの文句が聞こえているのかいないのか、アルはポケットに手をつっこんだまま先を進んだ。

「それで……アル。今日僕たちはここで、きみと賭けをするのかい?」

 エドワードはアルの背中に問いかけた。

「昨日言ったとおりだよ。ま、競馬を楽しむつもりで気楽にやってくれりゃあいい」

 アルは首だけ振り向いて適当に答えると、早足で人波をかき分けていく。

「……ていよく断ろうって腹じゃないわよね? あの男」

「それは分からないけど……」

 とげとげしく耳打ちをしてきたリアに、エドワードは曖昧に返事をした。実際、エドワード自身、アルの思惑をはかりかねていた。

 覚悟の程を見せろとか言っていたけれど、競馬で賭け対決をすることでどんな覚悟を示すことになるっていうんだ?

 連れてこられたのは下見所だった。アルは柵の前でくるりと振り向いた。

「さてと、じゃあ勝負を始めるとしますか」

 次のレースの準備が着々と進められている下見所を背にして、アルは指を一本立ててみせる。

「今日はこれから、三つレースがある。そこでお互い、ワン・オア・ザ・フィールドの賭けをやろう」

「ワン・オア・ザ・フィールド?」

 リアが訊き返した。

「そのレースの勝ち馬を当てる賭け式のことさ。もっとも、どっちも勝ち馬を選べず勝敗がつかないとなったら興ざめだから、特別なルールを考えた。俺とあんたたち、それぞれ一頭ずつ馬を選んで、選んだ馬が先にゴールしたほうが勝ちってことでどうだ?」

「レースで一着でなくても、自分の選んだ馬が相手の馬に勝てばいいというわけか……。僕たちのほうはそれでかまわないけれど……」

 横目でリアの意思も確認すると、彼女もこくりと頷いた。

「三レース中、一回でもあんたたちが勝ったら、それで決着ってことでいいぜ」

 アルは余裕たっぷりに言った。エドワードたちにとってはかなり有利な条件だ。慎重なエドワードとしてはかえって裏を探ってみたくなる。

「双方が同じ馬を選んだ場合はどうなる?」

「その時は、俺のほうが譲って別の馬を選ぶってことでいいぜ」

 アルは躊躇することなくそう返してきた。よほど自信がある……ということなのか?

 つまり、こういうことだ。これからおこなわれる三レースのうち、一つでもアルの選ぶ馬よりも先着できる馬をエドワードたちが選べばエドワードたちの勝ち。同じ馬を選んだ場合はアルが譲るので、一着になる馬をエドワードたちが選べば文句なく勝ち。やはりエドワードたちの勝機が広い。

「指名馬はどんな方法で選んでもいいぜ。俺はここで馬を見るが、別に俺に付き合う必要はない。戦績記録を参考にしてもいいし、誰か詳しいヤツに意見を訊いたっていい。ああ、実際に賭けをしたいならブックメーカーとやりとりしたっていいぜ」

 アルは近くで賭け客を募っていたブックメーカーの男を顎で指した。ブックメーカーとは最近競馬場に現れはじめた賭け業者である。ああやって台に立って賭け率を叫び、乗ってくる客を募るのが定番のスタイルだ。客はもっぱらギャンブル好きの労働者である。

 もちろん、エドワードたちにはブックメーカーと賭けをしている余裕などない。

「……僕たちは向こうでレースを検討してくる。指名馬が決まったら声を掛けよう。それでいいね?」

「ああ、ご自由にどうぞ」

 いつのまにかもう下見所内を曳かれて歩く出走馬の姿をみはじめていたアルは、振り向きもせずにひらひらと手を降った。

「みなさ~ん、どうぞ頑張ってください」

 頭の上で大きく手を振るマルタに見送られ、エドワードたちは下見所を離れた。

 雑踏に紛れたところで、リアが不安げにエドワードの袖を引いた。

「ど、どうするの、エドワード?」

「そうだな……。とりあえず、出馬表を手に入れよう。出馬表には過去の戦績記録も乗っているから、予想の手がかりになるはずだ」

 競馬の賭けが流行っている近頃では、レースに出走する馬の戦績をまとめた出馬表を売り出す者が現れている。

「そうね……。レースに出る馬同士のこれまでの戦績を比べれば、おおよその力関係をつかめるものね。うん、なんだかいけそうな気がしてきたわ!」

 喋っているうちに興奮してきたのか、リアは次第にいきりたちはじめた。

「見てなさいよ……。自分は馬喰だから素人の私たちに競馬で負けるわけないって思っているんでしょうけど……、こっちにだって意地があるわ! こうなったら、エドワード! 一レース目から勝ち馬を当てて、あいつの鼻を明かしてやりましょう!」

「お、おお」

 なんだか微妙に目的がずれている気もするけれど、エドワードはリアに付き合って拳を振り上げた。せっかくのやる気に水を差すこともあるまい。

「それでは出馬表を手配いたしましょう」

 作戦が決まるやいなや、オールコックがさっそく動いた。有能な執事は、近くにいた物売りを捕まえてこれからおこなわれる三レース分の出馬表を手に入れてきた。

 エドワードたちは角を突き合わせるようにして出馬表を覗きこむ。

「次のトライアルレースは四頭立てか……」

「ところで、トライアルとかステークスとか、何のこと?」

「ステークスレースは馬主が賭け金を出しあう大レース、一方トライアルはいわば下級戦で、その名の通り、大レースに向けた試走といった意味合いが強いレースでございます」

「ふうん……。まあ、レースの格はなんだっていいわ。とにかくこの四頭の中で一着になる馬を選べば、文句なくあいつに勝てるってことよね?」

「簡単に言うけどさ、リア。そうたやすく勝ち馬を選べるか? なんだかんだ言って、競馬の賭けじゃブックメーカーが勝つことが多いって聞くよ?」

 それはつまり、客の予想が当たっていないことを意味する。素人である客が目利きのブックメーカーに敵わないのはものの道理だともいえるけれど、根本的な理由は「走るのが馬である」という一点にあるように思う。意思疎通が可能な人間同士の競走ならまだしも、口の利けない馬からその日の調子や自信を訊きだすことなど当然できない。そんな条件の下、レースで勝つ馬を見抜くだなんて、土台無茶な話なのだ。

 もしもそんな芸当ができるとすれば、その者はまぎれもなく類まれな相馬眼の持ち主といえるだろう。

「相馬眼……か」

 食い入るように出馬表を見つめるリアの頭越しに、エドワードは下見所のほうを窺った。

 アルは――ターフの錬金術師は、本当に噂されるほど優れた相馬眼の持ち主なのか……?

「あるいはひょっとして、この競馬勝負を通してアルの実力を見極められるかもしれないな……」

 エドワードがそんな思惑を口に出すかたわらで、リアは戦績記録から顔を上げた。

「よし、決めたわ! 勝つのはきっとこれよ!」

 ずいぶんと自信に満ちた顔だ。

「どれか良い馬が見つかったのかい?」

「これよ、この三番の馬!」

 リアは出馬表に記された一頭の馬の欄を指で押さえた。

「なるほど、この馬は十日前に行われたトライアルで一着になっているんだね。その前のレースでも勝っている。たしかに実力は確かそうだ」

「過去にはステークスレースを勝ったこともあるみたい。他にパッとした戦績の馬はいないし、今回も勝つのはこの馬で間違いないわよ!」

 意外にも、と言っては失礼だろうけれど、リアの予想は筋が通っていた。たしかに、対戦相手の三頭と比べて、この三番の馬の戦績はとびぬけて良い。通りかかった労働者風の男たちの会話に耳をそばだててみても、やはりこの馬に賭けようという者が多いようだった。

 いちおうオールコックにも意見を求めたところ、彼も異存はないとのことだった。

「全会一致ね。この馬で勝負を決めるわよ!」

 自信の本命を胸に秘め、リアは意気揚々とアルの元へ戻った。

「決まったみてえだな。俺ももういいぜ。じゃあ、お互いに選んだ馬の発表といこうか」

 受けて立つと言わんばかりに、リアはアルの前に進み出た。

「私たちは三番の馬を選ぶわ」

 断然の実力馬を先に取られたはず。しかし、アルは少しも動揺の色を見せない。

「ふうん、三番ね。あいにく、見解の相違があるみてえだな。俺が選ぶのは四番の馬だ」

「……!」

 一レース目から票が割れた。エドワードの胸はにわかにざわついた。

 これで本当に、このレースで勝敗が決まるかもしれない。リアの選んだ三番がアルの指名した四番に先着すれば、自分たちの勝ちだ。アルの相馬眼の程もそれで知れる。

 装鞍を終えた出走馬が次々とコースへ出ていく。勝負の時は間近に迫っていた。

 

    *

 

「……ねえ、あいつが選んだ四番の馬の戦績ってどんなのだっけ?」

 レース観戦のためにエドワードたちは馬場が見渡せる場所まで出ていた。スタンド一階の、ウイニングポストが見える地点に観戦場所を定めると、リアが小声で訊ねてきた。今になってアルと指名馬が食い違ったことが気になってきたらしい。

 エドワードの代わりに、オールコックが出馬表に目を落とす。

「ここ数戦のトライアルレースではいずれも三着、四着と負けが続いているようでございます。ステークスレースでは走ったことがないので、未知の部分はありますが……」

「な、なら大丈夫よね! 少なくとも、私が選んだ三番がその馬に負けることはないわよね!」

 リアは自分に言い聞かせるように何度も首を縦に振った。

「あ、そろそろ始まるみたいだぞ」

 エドワードの声でリアが慌ててスターティングポストのほうへ体を向ける。ちょうど、四頭の馬が一斉にスタートを切ったところだった。

 このレースは一マイル半(約二四〇〇メートル)の競走だ。スタンドに近い側の直線半ばからスタートし、ぐるりとコースを回った後、また直線に戻ってきてゴールを迎える。言うまでもなく、真っ先にゴールを駆け抜けた馬が勝者だ。

「お馬さんたち、みんな無事に戻ってきますように」

 祈りを捧げるマルタの横で、アルは目の前を駆け抜けていく四頭を冷静に目で追っていた。

 ドドドドと地鳴りのような脚音を響かせながら、四頭の馬は第一コーナーへ殺到していく。十六の蹄が刈り取った芝がひらひらと風に舞っていた。

「す、すごい……」

 リアが気圧されたように息を呑んだのも無理はない。馬にしても騎手にしても、昨日のセリング・レースとは比べものにならない気迫が感じられる。トライアルとはいえ賞金の掛かった本番のレースとなると、こうも迫力が違うものか。

 レースは大きな動きを見せないまま、第二コーナーから向こう正面、そして第三コーナーへと流れていく。まだどの馬も離されていないみたいだ。

「戻ってきたわ!」

 直線の入口を指さしてリアが叫ぶ。観客たちの視線は一斉に直線の入口へ向いた。

 四頭はいまだ横一列に並んだまま第四コーナーを曲がってきた。

 残すは三ハロン(約六〇〇メートル)少々といったところ。四頭はゴールへ向けて疾駆する。直線での脚比べだ。

「オラオラ、追え、追いやがれ!」

「逃げろ逃げろ! そのままた!」

「いっけぇええっ!」

 だみ声でがなり立てる周囲の男たちに混じって、リアも叫び声を上げた。声援を送る対象はもちろん自分が賭けた三番の馬だ。

 残り二ハロンを切る。横並びから一馬身前に出たのは、その三番の馬だった。

「き、来たわよ!」

「お、おおっ!」

 エドワードも思わず手に汗を握る。このまま行けば三番の馬が一着だ――ところが。

「……そろそろか」

 隣でアルがぼそりとつぶやいた瞬間――エドワードが信じらない光景を目の当たりにした。

「あ、ああっ!」

 悲鳴にも似た、リアの声。

 それもそのはず、残り一ハロンを切ってもなお後続を二馬身引き離していた三番の馬に、外側から迫る一頭が現れたのだ。

 四番の馬である。

 三番の馬も、必死の抵抗を見せている。しかし、それ以上に四番の馬の勢いが勝っていた。四肢を躍動させ、四番の馬は一歩また一歩と三番の馬を追い詰める。

 結局、四番の馬は三番の馬をかわしさり、ゴール地点では一馬身半ほどの差をつけていた。文句なしの快勝である。

「ああ……」

 リアの口から落胆が漏れた。エドワードもまったく同じ気分だ。

「みんな、ちゃんと走り終えたです」

 残りの二頭がゴールするのを見届けると、マルタは笑顔で言った。

「アルの言っていたとおり、四番の子が一着で三番の子が二着でしたね。さすがなのです」

「なっ……!?」

 エドワードは驚いてアルを見た。まさか……、この結果を事前に予想していたというのか?

「ま、三番が予想以上に粘ってたけどな。四番の馬は肩が寝てて胴も長いから一旦スピードに乗っちまえば長く脚を持続できる。だから三馬身は差がつくかと思ってたんだが」

 涼しい顔で語るアル。

 ハッタリなのか? それとも……。

 唖然とするエドワードたちに、アルは不敵な笑みを返してきた。

「ひょっとしたらあんたらの声が三番の馬に届いてたのかもな。馬ってやつは案外耳がよくて、周りの音には敏感だからな。しかし悲しいかな、馬は耳じゃなく脚で走るんだ。三番のやつは飛節――後ろ脚の曲がり方が深くて、脚を伸ばしきれないところがある。尻も大きくてなかなかのスピードを出せる馬なんだが、距離が長くなると苦しくなるタイプなんだよ。今まで走ってたのは一マイルちょっとのレースばかりだったからよかったが、今日の一マイル半って距離じゃ最後に脚が上がるのは目に見えてる」

「そんな……」

 自信を持って選んだ馬の欠点を指摘され、リアは呆然としていた。

「さあ、どうする? ここでギブアップしてくれても、俺は一向にかまわないんだぜ?」

 アルに挑発され、リアははっと我に返る。

「ギ、ギブアップなんてしないわ! まだ二レースも残ってるんだから、勝負はこれからよ!」

「勇ましいお嬢様だな。それじゃあせいぜい、次のレースの検討に励んでくれや」

「頑張ってください、みなさん」

 まるで毛色の違うエールをこちらへ送ると、アルとマルタは来た道を引き返していった。また下見所へ馬を見にいくのだろう。

「なによ、あれ……っ。絶対勝ったと思ったのに、最後の最後で逆転されるなんて……っ」

 リアは癇癪を起こし、歯を軋ませた。すんでのところで勝利を逃しただけに、悔しさも大きいようだ。

「終わったことをいつまでも悔やんでも仕方ないさ。気持ちを切り替えよう」

「むう……そうね。残り二レース、どちらかでも私たちが勝てばいいんだものね!」

 気勢を上げたリアはそうよそうよと独り言を繰り返した。

  エドワードは苦笑しつつも、次のレースの出馬表を広げる。

「次のレースはどの馬が良いだろう?」

 リアはエドワードの横から首を伸ばし、出馬表を覗きこむ。

「悔しいけどあいつの言ってたとおり、さっきは距離のことが全然頭になかったわ。馬にも得意な距離っていうのがあるのね。オールコック、次のレースはどんな距離なの?」

「一マイルの競走でございます、お嬢様」

「一マイルか……。だったら、この距離が得意そうな馬を探せばいいわけよね……」

 リアは先ほどと同様に出走馬の戦績を調べはじめた。今度のトライアルレースに出走するのは六頭だ。この中で単純に勝ち星が多いのは五番の馬だが……。

「よし、決めた」

 出馬表とにらめっこをしていたリアが顔を上げる。

「どの馬にするんだい、リア。やはり勝ち星の多い五番?」

「いいえ、六番にするわ。たしかに五番の馬のほうが勝ち星は多いけど、勝ったレースの大半は十ハロン(約二〇〇〇メートル)以上のレースよ。一マイル戦では一勝しかしてない。対して六番の馬は、一マイル戦で三回も勝ってる。これは間違いなく、六番の馬のほうが一マイル戦を得意としてるわよ」

 先ほどのレースでもそうだったけれど、リアの考えは間違いなく理に適っているのだ。

「しかし、単純に勝ち星の数だけで距離の得意不得意を決めつけていいものかな……?」

 さっきだって、アルは一マイル半のレースを走ったことのない馬の得手不得手を言い当てていた。

 とはいえ、これ以外の結論はなさそうなのも確かだった。六番の馬でいくしかない。

 しばらくすると、アルたちが下見所から引き上げてきた。

 今度はエドワードが自分たちの指名馬を告げると、アルはまたもや意味ありげに口元を歪ませた。

「六番ねえ。まあ、いいんじゃないか。俺は五番の馬を選んだから、また票が割れたな」

「ご、五番……?」

 リアがいぶかしげに眉をひそめた。五番の牝馬については自分たちもよく検討し、六番には劣ると判断した。アルがその馬を選ぶとはどういうことだ?

 とにかく、レースが終われば結果は出る。

 一マイルのトライアル戦。このレースは直線のみを使っておこなわれる。スタート地点は直線のはるか向こう。エドワードたちがいる場所からだと、スタート地点にいる馬はかろうじて見える程度だ。

 エドワードは一マイル先に目を凝らす。

 程なくしてスタートが切られた。

 六頭の馬がゴールへ向かって一直線に駆けてくる。ほぼ正面から眺めていることもあって、最初のうちは戦況が不明瞭だった。しかし、馬が近づいてくるにつれて、徐々に態勢が判明してくる。

 六頭の間には早くも差がつきはじめていた。

「そ、そんな……」

 最後方に遅れているのはリアが選んだ六番の馬だった。

「ま、こんなもんかな」

 対してアルが指名した五番の馬は、内側に切れ込んで先頭に踊り出る。五番の馬の脚は最後まで衰えることなく、後続をさらに引き離しつつ先頭でゴールを迎えた。

 六番は最後に一頭をかわしたものの、先頭からは大きく離された五着に沈んだ。

「どうして……」

 リアのつぶやきは落胆を通り越して哀しげですらあった。

「五番と六番の馬はどっちも一マイル向きの体型をしてるんだが、六番の馬はツナギが緩すぎる。ツナギってのは、馬の足首に見える部分な。実際にはあそこは足首じゃなくて指の関節なんだけど――って、こんなことはマルタには分かってるか。まあとにかくだ。ツナギってのは馬が地面を蹴った時の衝撃を和らげるクッションにもなるんだが、ここが柔らかすぎる馬は蹴った力がうまく地面に伝わらないことがある。特に今日みたいに直線だけのコースはダッシュ力が要求されるからな、ツナギが緩い馬は苦しがるもんなんだよ。スピードを出すために余計に力んだり脚の回転を早めたりしないとならねえから、ゴールまでに体力を使い果たしちまうのさ」

「……どうしてアルはわたしに向かって話すのですか。教えてあげたいなら、直接言ってあげればいいのに」

「うっせ。独り言だよ、独り言。ほら、行くぞ」

 アルはじとりとした視線を向けるマルタを急かし、また下見所へ戻っていった。

「……なによ、ツナギって。知らないわよ、そんなの……」

 ぶつくさと文句を垂れるリアに、アルたちの動向を気にしている余裕はなさそうだった。

「これで、後がなくなってしまいましたね……」

 オールコックの指摘どおりだった。次の最終レースで、アルの指名馬に先着する馬を選べなければ、エドワードたちの負けが確定してしまう。

「と、とにかく、今はレースを検討するしかない。出走馬同士の比較を今まで以上に入念にやればきっと――」

「待って」

 出馬表を取り出そうとするエドワードの手をリアが止めた。

「私たちも下見所へ行きましょう」

「え、ええっ?」

 唐突な提案にエドワードは面食らった。しかしリアは目つきは真剣だ。

「考えたんだけど、出馬表だけをいくら眺めても勝つ馬はわからないのよ、きっと。あれはあくまで過去の戦績だからね。やっぱり下見所で直接馬を見て、今日の調子を確認しなきゃ」

 リアはきびすを返し、迷うことなく歩きだした。

「お、おい、リア。調子を見るって言ったって、そんな簡単なもんじゃないだろう?」

 ずんずんと先を急ぐリアは、エドワードの意見に耳を貸すつもりはないようだ。

「あいつだって下見所で馬を選んで、それで二レース連続的中させてる。あいつにできるんだったら、絶対不可能ってわけじゃないわ」

 いやだから、下見所で馬の調子を見るってこと自体が難しいのだが……。

「……それに、このまま負けるなんて悔しいじゃない。せめて、できることは全部やっておきたいの」

 リアがギュッと拳を握った。その様子を見て、エドワードは観念する。

「……分かったよ。そこまで言うなら、僕も協力する」

 たしかに瀬戸際まで追い込まれた今、これまでとは根本的に予想法を変えなければならないのかもしれない。

 エドワードたちが下見所に着くと、馬を観察していたアルが振り返りもせずに声を掛けてきた。

「なんだ、あんたらも来たのかよ? てっきり馬は見ない主義なのかと思ってたぜ」

「ここまで外れつづけてるし、ちょっと考えを改めることにしたの。かまわないでしょ?」

「もちろん。……ま、学習能力はあるってことか」

 値踏みするようにリアを一瞥した後、アルは馬のほうへ視線を戻した。

 リアはアルを真似るように柵の前に立ち、下見所を歩く馬の姿を見つめはじめた。

「次のレースはまた一マイル半よね……。だったら最初のレースで勝った馬と似たようなタイプを選べばいいのかしら? ええと、飛節? 後ろ足が最後までピンと伸びて……。あ! それとツナギね! あんまり柔らかいのはダメだから……」

 真剣な面持ちで出走馬三頭を見比べるリアを見て、エドワードはふとあることに気がつく。

「リアがやっている馬の選び方って、アルがさっき教えていた――」

 エドワードはアルを窺ってみたが、ターフの錬金術師は素知らぬ顔で口笛を吹いていた。代わりに、なぜかマルタがかわいらしく微笑み返してくれたが。

「なるほど、そういうことか……」

 こちらがアルの相馬眼から学ぶことができるか――それこそが彼の言う「覚悟を見せる」ということなのかもしれない。

「それぞれの馬の脚さばきをよく見て……、ああっ、みんなあちこち動き回るから、比べにくいわ!」

 初めての相馬に苦労しながらも、リアは出走する三頭の馬体を注視した。

 そしてとうとう、リアは「よし」と頷いた。

「決まったのかい?」

「ええ。たぶん、間違いないと思うわ。あのね――」

 リアはそこで横にアルがいることに気づき、エドワードとオールコックを少し離れた位置へ誘う。今さらそんな必要もないのにと苦笑しつつ、エドワードはリアの手招きに応じる。

 三人で輪になると、リアは声をひそめて話しはじめた。

「ここは一番――あの青毛の馬で間違いないわ。脚はピンと伸びてるし、ツナギも力強い。肩も胴もゆったりしているし、ニマイル半のレースなら絶対この馬よ!」

「一番か……」

 首を伸ばしてエドワードもリアの選んだ馬を見た。

 青毛の、大きな馬だ。ただ大きいというのではなく、体高があって、筋肉質で、引き締まった体をしている。黒光りする皮膚は薄く、尻の辺りにはうっすらと血管が浮き上がっていた。時折小走りを見せるも動きは敏捷で、大きな体を持て余すところがない。額から鼻筋にかけては、黒い毛並みを引き裂くように白い流星が通っており、見栄えもする顔つきである。まるで獅子のように猛々しく眼を光らせており、その雰囲気だけで他馬を圧倒していた。馬の見方など分からないエドワードにも、この馬はたいした能力の持ち主だろうと感じられた。

「どうかな……? 私には、どう見てもあの馬が他より一枚も二枚も力が上に思えるの」

「……うん、良いんじゃないか。僕もあの馬だと思うよ」

「異存はございません」

 三人は頷きあって意見の一致を確認した。

 輪を解いて、リアはアルの前へ戻り、堂々と胸を張る。

「私たちが先に馬を指名していいのよね?」

「やけに自信ありそうだな。まあ、ここまでのレース前も似たような様子だったけど」

「ふん、そんなふうに余裕ぶっていられるのも今のうちよ。自分だけが馬を見られるなんて思ってたら痛い目をみるんだからね!」

 ……リアの相馬は、完全にアルの受け売りなのだが。

「おーおー、これはまた、よっぽど良い馬を見つけてきたみたいだねえ。それじゃ、自信の本命馬を聞かせてもらおうか」

 挑発的なアルの態度に負けじと、リアもビシッと相手に指先を突きつける。

「後で泣いたって知らないんだからね! よおく聴きなさい、私たちが選ぶのは――」

 リアが一番の馬の名を確認しようと、手に持った出馬表に目を落としかけたその時。

「おやあ? 誰かと思えば、リア様ではありませんか!」

 粘着質な野太い声が勝負の雰囲気をぶち壊した。

 

 *

 

 リアたち三人、それにアルとマルタも、一斉に声の主に目を引き寄せられる。

 下見所の中にいた大柄な男が、嫌らしい笑みを浮かべながらこちらへ近づいてきた。

「ダ、ダスティ・キーガン!?」

 燕尾服と白いネクタイでめかしこんだ男を見つけて、リアは手で口元を覆う。この男がどうしてここに?

 ダスティは柵をくぐってこちら側へ来ると、燕尾服とドレスで着飾ったエドワードとリアをニヤニヤと眺めた。

「なるほど、なるほど。今日は競馬観戦ですか。それともひょっとして、私との勝負を前にご自分の馬を試走させにいらしたのですかな? それにしては、ここまでのレースであなたのお姿を拝見しませんでしたが……」

 ダスティは自分が持つ出馬表へわざとらしく目を落とす。

「あ、あなたこそ、どうしてここにいらっしゃるの!?」

 リアが動揺を隠しつつ気色ばむと、ダスティは意外そうに眉根を寄せた。

「まさか……、本当にご存知なかったのですか? ははっ、これはまた、暢気というかなんというか……」

 ダスティはこらえきれないといったふうに肩を揺らした。

「な、なにがそんなにおかしいんだ?」

  エドワードに問いただされると、ダスティは笑いをごまかすように咳払いをした。

「失礼。てっきり、私の馬を偵察しに来られたのだと思っておりましたのでね」

「偵察だって?」

「これから行われるステークスレースに、私の馬を出走させているのですよ」

 思いがけない一言に、リアは目を見張った。

「なんですって?」

「ほら、あの馬です」

「あ……あれって!」

 ダスティが指さした馬を見て、リアは驚愕に目を見開いた。

 ちょうど騎手を背に乗せて、下見所を出ていこうとしていた一頭の馬。それは、今まさに自分が指名しようとしていた、あの青毛の馬だった。

 リアは慌てて出馬表を確認しようとする。しかし動揺が激しく焦点が定まらない。

「見事なものでしょう? 我がベイトニアンは」

 声につられて視線を上げると、ダスティが自慢げに両手を広げていた。

 リアは思わず歯噛みした。

 一番、ベイトニアン、馬主・ダスティ・キーガン氏。ようやく見つけた出馬表の該当欄には、しっかりそう書きこまれていた。一番はまさにこれからリアが本命として指名しようとしていた馬。まさか、憎き敵の馬に自分たちの命運を託そうとしていただなんて!

 ダスティはもちろん、リアがアルと勝負をしていることなど知らないだろう。だが、リアがあの馬に賭けようとしていることは察したようだ。

「あの馬に目をつけるとは、さすがリア様だ! 実にお目が高い。ベイトニアンはきっとあなた様のご期待に応えるでしょう!」

「だ、誰があなたの馬なんかに――」

 カッとなって言い返そうとしたリアだったが、とっさに口をつぐんだ。厳しい目つきでこちらをにらんでいるアルに気づいたからだ。

 リアは悟る。そうか……、アルの言っていた覚悟を見せろというのは――。

 リアをやりこめてやったと思ったのか、ダスティは得意げに鼻を鳴らすと、ゆっくりと柵の向こうへ戻った。

「お楽しみのところ、どうも失礼いたしました。それでは、発走も近いですので、私はこれで。私の馬でせいぜい儲けてくださいませ。とはいえ、どこのブックメーカーでも断然の人気で、掛け率は低いようですがね」

 ハッハッハ、と高笑いを上げながら、ダスティは肩で風を切って下見所の奥へ進んでいった。そこから馬主用の観覧席へ向かうのだろう。

「あれがベイトニアンの馬主か。胡散臭い野郎だ」

 アルはダスティの背中を見やりながらそんな感想を漏らした。マルタはおびえてしまったのか、アルの後ろに隠れてしまっていた。

 後ろ手でマルタの頭を撫でつつ、アルはリアに挑発的な目を向ける。

「茶々が入っちまったが、まあいいや。さあ、お嬢様、次のレースで勝つと思う馬を選んでくれよ」

「ち、ちょっと待ってくれ! それは――」

 割って入ろうとするエドワードを制し、リアはアルをまっすぐ見返した。

「ここで意固地になって別の馬を選ぶような人間じゃ競馬になんて勝てやしない……そう言いたいわけ?」

 アルはなにも答えず、ただ肩をすくめてみせた。

 本気でダスティ・キーガンに――ベイトニアンに勝ちたいのならば、安いプライドなど捨てろ。それがアルの言った覚悟を見せろという言葉の意味だったのだ。

「そう……、分かったわ」

 リアは一度目を閉じ、大きく深呼吸をすると、まっすぐにアルを見据えた。

 それがターフの錬金術師の流儀だというのなら、従うまでだ。

「私たちが選ぶのは……、一番の馬、ベイトニアンよ。それで文句はないわね?」

 問われたアルは、ふっと満足気な笑みをこぼした。

「……ああ。それじゃあ俺は、二番の馬にするぜ」


 4

 

「……はあ、なんだか長い二日間だったわ」

 馬車の揺れに身を任せたリアに、どっと疲れが襲ってきた。

「どこかでお茶でもお召し上がりになられますか? お嬢様」

 御者として馬を操るオールコックがわざわざ振り返って気を遣ってくれた。

「いえ、いいわ。お茶は家に着いてからゆっくりと味わうことにする」

「リア、ガウンを。体が冷えるといけない」

 隣に座るエドワードが麻のガウンを肩に掛けてくれた。リアはそれをくるまるながら、向かいに座る二人組を窺った。

「そういえばアル、昨日買ったお馬さんはどうしたのですか?」

「心配すんな。例の騎手に頼んで先にこいつらの家へ連れていってもらってる。あいつはなかなかの掘り出し物だ。いい馬主を見つけてやらねえとな。まあ、こっちの仕事が終わるまでは買い手探しもできねえけど」

 赤髪の青年は隣の少女から視線を外し、リアを横目で見返してきた。リアは慌てて居住まいを正した。立場上、リアは彼らの雇い主になるのだから、別に緊張する必要はなにもないのだが。

 ターフの錬金術師と呼ばれる馬喰の青年と、その連れの少女。

 リアとの勝負に敗れた彼らは、約束どおりダスティ・キーガンとの賭け競馬に力を貸してくれることになった。

 最終レースは、退屈に思えるほど予想通りに決着した。

 一番――ベイトニアンは、他の二頭を十馬身以上も引き離して先頭でゴールした。漆黒の馬体がただ一頭、悠然と直線を駆け抜ける姿に、観客からはため息すら漏れていた。

「アル……、きみはベイトニアンが今日のレースに出走することを知っていたんだね?」

 エドワードの問いかけをアルは鼻で笑い飛ばした。

「知ってたらあんたらが一着馬を選んだら勝ちになるなんて無謀な賭けを挑んでねえよ」

 いや、逆だ。こちらの心構え次第で勝敗がつく状況だったからこそ、アルはこの勝負をふっかけてきたのだ。つまりアルは、リアたちに見込みがあれば最初から手を貸すつもりでいたにちがいない。

 しかしそうなるとひとつ疑問も残る。当初は乗り気でなかったアルがどうして急に協力してくれる気になったのか……?

「……まあ、それについてはまたゆっくり訊けばいいか」

 独り言をつぶやいていたリアは、不安げな目をこちらに向けているマルタに気づいた。

「リアさん、本当にいいのですか? わたしたちをお家に泊めていただけるうえに、厩舎まで貸していただくなんて……」

 そんなことを気にしていたのか。リアは 優しくマルタに微笑みかける。

「もちろんよ。たいしたおもてなしはできないでしょうけど、ゆっくりしていって」

「当然だ、とーぜん。こっちは他の仕事を放っぽってあんたらに協力するんだからな」

 ばっと顔を輝かせるマルタと対照的に、アルはふてぶてしくそう言い放った。……なんだろう、もてなす気が急速に失せてきた。

「まあとにもかくにも、これでようやくダスティとの対決に向けて第一歩が踏み出せたわけか……」

 へそを曲げたリアを知ってか知らずか、エドワードが座席に深く腰掛け、斜め上を見ながらつぶやいた。

 その指摘には同意せざるをえない。どれほど憎たらしいやつだって、今自分たちが頼れるのはこの「ターフの錬金術師」しかいないのだ。

 リアは昼間に見たレースを思い出す。ベイトニアンは恐ろしいほどの強さだった。あれに勝てる馬を用意できなければ、リアはすべてを失ってしまう。手持ちの馬だけではどうにもならないことは目に見えている。

 状況の厳しさ。そして虚心に困難に立ち向かわねば勝機は掴めないこと。今日それを教えてくれたのは、他ならぬアルだ。

「負けられないわ……絶対に」

 リアの覚悟を乗せ、馬車はミースフォードの土地へ帰っていく。

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