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第一章 ターフの錬金術師 1・2

 1

 

 自分の肩にのしかかる重圧に耐えかねて、リアは応接間の窓へ目をやった。外には見慣れた春の風景が広がっている。そよ風に緑の葉を揺らす木々、丁寧に手入れをされた芝生、春の日差しを待ちわびていたように一斉に芽吹いたサンザシの花……。リアが生まれたときから、いやそれよりもっと以前から、この土地の人々の手で大切に守りつづけられてきた景色だ。

 それが今、ひとりの男によって奪われようとしている。

「そろそろ良いお返事をいただけませんか? リア様」

 テーブルの周りをぐるりと巡ってリアの横へ来た男はダスティ・キーガン。気取った服装が鼻につく成金の実業家だ。

「な、何度も申し上げているでしょう。私はあなたと結婚するつもりはありません」

 さきほどからプロポーズを突っぱねつづけているにもかかわらず、ダスティは執拗に迫ってくる。ここまで来るともう脅しに近い。

「ふふ、気の強い女性は嫌いではありませんよ。しかし、強情ばかりではいけませんね。これからの時代、女性にも理解力が求められるのですから」

 ダスティは胸ポケットから一枚の紙切れを取り出し、リアの前で広げる。

「まさか文字が読めないとはおっしゃるまいな?」

「馬鹿にしないでちょうだい。そのくらいの教養はありますわ」

「でしたら、お分かりになるはずだ。ほらこの借用書にも書かれているでしょう? ミースフォード家が抱えた負債を私に返せない場合、リア様、あなたに私の元へ嫁いでいただく、と」

「……っ」

 悔しいが、ダスティの言うとおりだった。借用書は、負債の返済が滞った場合の処置として、ダスティとリアの結婚を定めていた。いわばリアは、借金のかたに取られているのだった。

「ち、ちょっと待ってください!」

 がたりと椅子を鳴らしてエドワード・ラングドンが立ち上がった。リアの婚約者である。

「そ、その書類、本当にリアのお父上――先代のミースフォード卿とのあいだで交わされたものなのですか? いや、たとえそうだったとしても、ミースフォード卿が病床にあるときに交わされたものならば――」

「滅多なことをおっしゃるものではないですよ、ラングドン殿。コモン・ローを否定したとあっては法律家失格の烙印を押されますぞ」

「う……」

 ダスティにすごまれると、エドワードはそれで黙ってしまった。海千山千の商売人の世界に身を置く者特有の押しの強さに、根が温厚なエドワードがひるむのも無理はない。エドワードはしずしずと椅子に掛けなおした。

「リア様、皆様にお茶のおかわりをお持ちいたしましょう」

 主人の劣勢を見て、執事のオールコックがそう申し出た。

 白髪の老執事がミルクティーを給仕しているうちに、リアは次の手を考えた。負債を踏み倒すつもりはない。しかし今すぐ払えというのはあんまりだ。今、ダスティの求める金額を支払えば、家計が破綻するのは目に見えている。だいいち、父が死んで間もないというのに借金の取り立てにくるなんて!

 とりあえずはこの男を追い返さなければ。リアはお茶を一口含んでから、ダスティに向きなおった。

「キーガンさん、せめてもうしばらく返済を待っていただけませんか? 父が亡くなったばかりで私どもも落ち着かないのです。お金は必ず工面いたしますから」

 リアは慇懃に頭を下げた。金色の長い髪が顔の前に落ちる。人の不幸につけこむような男に情けを請うとは屈辱だが、背に腹は代えられない。

「工面、ですか。しかし、私が調べさせていただいたところ、今のミースフォード家の経済状況では利子分を用意するのもいつになることやら……」

 ダスティはビートンとかいう名の秘書を指先で呼んで、書類を出させた。わざわざこちらの資産状況まで探っていたのか。本当に嫌らしい男だ。

 リアは悔しげに唇を噛んだ。リアだって自分の家の台所事情は痛いほど分かっている。

「私だってなにも暴利を貪ろうなどという気はないのです。そちらに義理を果たしてほしいだけなのですよ」

 ダスティはリアを見下ろしながら肩をすくめた。

「私が経営する紡績工場を拡張する計画がありましてね。その資金が必要なのです。それに、誤解のないように言っておきますが、私はなにもミースフォード家だけから取り立てているわけではないのですよ? 他に貸し付けているところにも事情を申し上げ、少しずつ返済していただいているのです。もちろん、正式な契約証書に基づいてね」

 ダスティは父と交わしたという証書をこれみよがしにちらつかせた。あれがあるかぎり、交渉は圧倒的に向こうが有利だ。

「で、でも、今すぐに耳を揃えて返せだなんて……」

「ですからね、リア様。私はこう言っているのです。私と婚姻の約束をしていただければ、負債をお返しいただく必要はない、と。簡単な話でしょう? 私だって妻となる女性に金を返せなどとは申しません」

「そ、そんな申し出、無茶苦茶じゃないですか!」

 たまらずエドワードが声を荒らげたが、ダスティはまったく動じる様子もない。

「無茶苦茶ではありませんよ。これはいわば慈悲です。私ではなく、お父上のね」

「な、なんですって?」

「リア様、先代がお亡くなりになり、今やあなた様がミースフォード家唯一の跡取り。お父上もあなたの今後を思いやられて、私を結婚相手にご指名くださったのではないですか? 私ならば金銭面であなたにご苦労をお掛けすることは決してないと誓いましょう」

 ダスティはわざわざエドワードをちらちらと見ながら言った。エドワードは奥歯をきつく噛んだ表情で屈辱に耐えていた。法曹の家門とはいえ、エドワードも今すぐにリアを助ける金を出せるほど資産家ではない。

 ここは自分がしっかりしなければ。リアは深呼吸をしてから顔を上げる。

「おっしゃるとおり、父が亡くなった今、私はミースフォード家の現当主です。だからこそ私は、父の――いえ、先祖たちが愛しつづけてきたこの土地の自然と民たちをこれからも守っていく責務があります。ミースフォードの民はずっと、羊や牛、そして馬たちとともに生きてきました。そうした民たちの生業を尊重していただけない方に、この土地をお渡しするわけにはいきません」

 きっぱりと宣言したリアに、ダスティは白けた表情を返した。やはりこの男はここに住む人々の暮らしになど、毛ほどの価値も認めていないのだ。この男はミースフォード家の所領を工場の建設予定地としてしか見ていない。

「馬、ねえ……。あんなものが、そんなに大切ですか……」

 そのとき突然、ダスティはにやりと口元を歪めた。

「そこまでおっしゃるならば、リア様、ここはひとつ、私と馬で賭けをいたしませんか?」

「賭け?」

 リアはいぶかしげに眉をひそめた。話が見えない。

「ミースフォードは酪農の地だとおっしゃりましたね? でしたらきっと駿馬を何頭もお持ちなのでしょう?」

「た、たしかに、父から引き継いだ遺産の中には競走用の馬も含まれていたと思いますけど……」

「実は私も最近、競走馬を手に入れましてね。その馬をちょくちょく競馬に出しているのです。ええ、まあ、ジェントルマンのたしなみというやつですよ」

 成金紳士の身でなにがたしなみだと思ったが、喉まで出かかった憎まれ口をリアはなんとか飲み込んだ。

「なにをおっしゃりたいの?」

「ですからね、競馬をしましょう。あなたの馬と、私の馬で」

「け、競馬だって?」

 怪訝な顔をするエドワードとリアに、ダスティはにやりと笑いかけた。

「ええ。まあ、一種の賭け勝負ですよ。お互いに一頭ずつ馬を出しあってマッチレースをするのです。それで、あなたたちの馬が勝てばこの借用書は破棄しましょう。負債も、結婚の話も、それですべて無しです」

「ほ、本当に!?」

 思いがけない提案にリアはすぐさま食いついた。

「紳士に二言はありません。その代わり、もし私の馬が勝ったら、あなたには私と結婚していただきますよ」

「わ、分かっていますわ。私も貴族の娘。約束は守ります」

 リアがつい虚勢を張ると、ダスティは含み笑いを漏らした。

「これは失礼。では、レースはひと月後にいたしましょう。詳細は追って話し合うということで。またご連絡差し上げます」

 リアに向けて一礼をすると、ダスティは秘書を呼びつけて帰り支度を始めた。一時間近くリアに借金の返済と結婚を迫っていたのにやけに引き際がよいじゃないか。

 まあとにかく、これでようやく解放される。応接間を出ていこうとするダスティを尻目に、リアはほっとため息をついた。見送りに出る必要はないだろう。

 ところがダスティが応接間の扉に手を掛けたところで、リアの隣で音を立てて椅子から立ち上がる者があった。エドワードだ。

「あっ、そ、そういうことか! 待ってください! やはり競馬など――」

「楽しみにしていますよ、リア様! あなたがどんな馬でレースに挑まれるか!」

 大声でエドワードの言葉をかき消すと、ダスティはばたりと扉を閉めた。それ以上の話し合いを拒むかのように。

 愕然とした表情でダスティの去った扉を見つめるエドワード。リアはそれが不思議でならない。

「どうしたのよ、エドワード。そんな深刻な顔をして。ようやく厄介払いが済んだところじゃない」

 言葉にすると気が抜け、リアは近くの席に腰を下ろした。とりあえず人心地つきたい。

「オールコック、ミルクティーを淹れなおしてちょうだい。うんと熱いのを頼むわ」

「そ、そんな場合じゃないよ、リア!」

 口から泡を飛ばすと、エドワードは「ああ」と唸って頭を抱えはじめた。

「どうしたのよ? なにをそんなに慌てているわけ?」

「ああ、もう……、どうするんだよ、競馬だなんて、あんな約束をして……」

 まるでこの世の終わりが来たみたいな落ち込みようだ。エドワードはどうも、リアがダスティとの賭けに応じてしまったことが気に食わないらしい。

「し、仕方ないじゃない。あの状況じゃ、勝負を受けるしかなかったのよ。たしかに競馬に自分の運命を託すだなんて呆れられても仕方ないけど……、でもさ、こっちが勝ったら負債を帳消しにしてくれるっていうのよ? なんていうか、おいしい話じゃない」

 場を明るくしようと、リアはちょっとおどけてみせた。が、顔を上げたエドワードは虚ろな目をリアに向ける。

「……本気でそう思っているのか?」

「え?」

 リアがきょとんとした顔を返すと、エドワードは「はぁ……」と深くため息をついた。

「さっき、思い出したんだよ。あいつ――ダスティ・キーガンが所有している馬のことを。ベイトニアン――って、馬の名前、聞いたことがないかい?」

「……ひょっとして、強い馬なの?」

 英国貴族といってもリア自身は最近の競馬事情に明るくなかった。

 エドワードは眼鏡を取ってこめかみを押さえる。

「ベイトニアンっていえば、この界隈で、今もっとも注目を集めている牡の若駒さ。マッチレース、ステークスを含めてデビュー以来これまで七戦負けなし。しかもすべて後続を引き離しての圧勝だ。今後はニューマーケットあたりの大レースにも挑戦するんじゃないかって噂されている馬だよ……」

「ええと……、その馬の持ち主が……?」

「そう、新進気鋭の実業家、ダスティ・キーガン――あの男だよ」

「……え、ええ!?」

 リアも、ようやく事の次第を理解した。

 ひょっとして自分は、とんでもなく無謀な賭けを挑んでしまったのではないだろうか?


 *

     

 毅然とした顔で勝負に応じたリア・ミースフォードを思い出すと、腹の底から笑いがこみ上げてきた。なんなら高笑いでもしたい気分だ。

 あの娘はこちらが所有する馬のことを知らなかったにちがいない。まったく間抜けな娘だ。ベイトニアンはあんな田舎貴族の屋敷につながれている駄馬とは訳がちがうというのに。

「しかし、よろしかったのですか? ダスティ様。競馬などせずとも、ミースフォード卿との証書で脅せば、あの女と土地を手中にできたのでは……」

「脅す、などと物騒な言葉を使うものではないぞ、ビートン」

 向かいに座る秘書をたしなめると、ダスティは馬車の外に広がる光景に目をやった。一面に広がる草原。そして木々を生い茂らせる森。その奥には新鮮な水の流れる川でもあるのだろう。

 しかしそれがなんだというのか。

 リア・ミースフォードは、この地を守るのが自分の責務だとか抜かしていた。

 だが、ダスティが手に入れたいのは、こんな自然ではない。

「この土地に新たな工場を建てるのだ。リア嬢はもちろん、土地の者には相応の理解をしてもらねばなるまい。そのためにも、双方納得の上での結婚でなければならない。競馬で決着をつけるのは、そのためだよ」

 もちろん、半分以上が建前だった。

 本音を言えば、あの生意気な娘を屈服させたいという気持ちも強い。

 土地を守る、伝統を重んじるなどと口にする連中をダスティは忌み嫌っている。ダスティにとって土地の利用とは、そこに工場を建てることにほかならない。

 糸車を使って一本一本を羊毛を編むなどという時代はとうに終わった。紡績機を使えばいいのだ。それも、水の力で動かす大型のものを。大型紡績機を据え置く工場を建てれば、今とは比べ物にならないくらい大量の紡糸を一度に作り出すことができる。熟練した織物職人も、彼らが持つ伝統的な技術も、もはや必要ない。必要なのは、黙って機械を動かす大勢の労働者だ。

「伝統など、進歩の足かせだ」

 ダスティはぼそりとつぶやいた。それは偽らざるダスティの信念だった。

「近隣の地主への根回しのほうも、進めておいてよろしいですか?」

 ビートンが書面に目を落としながら確認を求めた。

「ああ、頼む。いずれ議会に打ってでる際には彼らの力も借りることになるだろうからな」

 商売を優位に進めるうえで、金と労働力の他に必要となるものがある。人と世の中を思いのままに動かせる権力だ。

「民からの人望が篤いミースフォード家の一人娘は、私が名声と権力を手にするために必要な駒だよ。だからこそ、あの娘には、喜んで私と結婚してもらわなければな」

 自身の紡績会社を拡大し、やがて政界にも進出し、名声を得る。ミースフォードの土地と名望を手に入れるのは、そのための足がかりだ。

 ダスティは自身の野望を胸に描き、ひとりほくそえんだ。


 *


 ともかくまずは馬を用意しなければならない。

 リアとエドワードはミースフォード家の厩舎へ向かっていた。オールコックも従えている。逍遥道を早足で進みながらリアは自らを鼓舞しようと口を開いた。

「ベイトニアン、だっけ? あいつの馬がどんなにすごくたって、うちにもっと速く走れる子がいたら、問題ないわよね」

「な、なあ、リア。今からでも断らないか、競馬なんて……。ダスティ・キーガンを諦めさせるにしても、もっと別の方法が――」

「ダメ。言ったでしょう? ミースフォード家の当主として、一度約束したことを反故にするなんてできないわ」

 頑固だと言われようと、これはプライドの問題だ。

 獣と藁の匂いが濃くなる。早足で来たものだから思いのほか早く厩舎へ着いた。リアは真っ先に厩舎内へ踏み込み、厩舎長を呼びつけた。

「サム! いないの?」

 こんもりと積まれた藁にもたれかかっていた小柄な中年男がリアのひと声で飛び起きた。

「お、お嬢様、それにエドワード様も。どうなすったんです、いってぇ? あっ! し、仕事ならきちんとしてますぜ、へへ」

 ミースフォード家お抱えの調教師であり、厩舎長も務めるサムである。彼はごまかし笑いを浮かべながら、足元に転がっていた酒瓶を藁の中へ足で押し込んでいだ。

「……まあ、いいわ。それよりサム、ちょっと相談があるんだけど」

「へ、へえ。なんでございましょう」

「今度、競馬をすることになったの。ここにいるのはみんなレース用の馬なのよね?」

 リアは厩舎内を見渡す。左右の馬房から五、六頭の馬が鼻面を覗かせてこちらを窺っていた。今まであまり気にしたことがなかったけど、うちにもこんなに馬がいたんだ。これなら一頭か二頭は強いのもいるんじゃなかろうか?

「たしかにこいつらはみんなランニングホースですが……。しかし競馬、ですか?」

 サムがなぜか渋い顔をした。

「ええ、それがね――」

 リアはサムにかいつまんで事情を説明した。負債の返済免除と自身の結婚を賭けてダスティと競馬勝負をすることになった、と。

 相手があのベイトニアンであることを知ると、サムはあからさまに表情を曇らせた。

「ううむ……、ベイトニアンですか。あいつの噂は、あっしも聞いております。ここいらじゃ今いちばん評判のコルトですからな」

「やっぱり……強いの?」

「そりゃあもう。なんたってかのマクニール牧場の生産馬ですから。なんでも、二歳になるまでマクニール師が直々に調教をつけていたらしいです」

「マクニールって?」

 リアが首をかしげると、エドワードが口を挟んだ。

「オリヴァー・マクニールだよ。英国でも有数の大牧場を経営する馬産家だ。調教師としての腕も確かで、彼が育てた馬ってだけで相当な高値で取引されるらしい。名のある貴族にも数々の強豪馬を提供していて、ヨーロッパの競馬界でも知らない人はいないくらいの名伯楽だ」

 競馬界の事情はよく分からない。ただ、ベイトニアンの実力にまた一枚折り紙が加わったことは理解できた……。

「でも、うちにもこれだけ馬がいるんだし一頭くらいは太刀打ちできる子がいるわよね!?」

「……申し訳にくいんですがね、お嬢様。そりゃあ無理な相談ですわ」

 サムが苦々しい顔で言った。

「ど、どうしてよっ? いくらベイトニアンが強いっていっても、やってみなくちゃわからないじゃない!」

「いや、相手以前の問題なんです」

 リアは眉をひそめる。どういうことだ?

「うちの馬はどいつも、もう何年もレースに出走さえしちゃいないヤツばかりなんですよ。ベイトニアンに太刀打ちどころか、まともにレースができるかすら怪しい連中なんですわ」

 サムの言葉を裏付けるように、厩舎内の馬房から間の抜けた欠伸が聞こえてきた。

「……あ、あはは」

 一縷の望みすらも絶たれた人間は笑いをこぼすものなのだと、リアは知りたくもないことを知った。


 *


 英国貴族のたしなみといえば、紅茶に狐狩り、そして競馬だ。

 雨の多い冬が終わって春を迎えると、貴族たちは競馬場に集い、互いの所有馬を競い合わせる。強い馬のオーナーであることは貴族にとって誇るべき名誉であり、彼らはより速い馬の生産と育成に日々力を注いでいる。最近では血統書に登録される純血の競走馬は「サラブレッド」と呼ばれている。文字通り「純血種」という意味だ。

 先代のミースフォード卿――リアの父も、例に漏れず競馬には力を入れていた。先々代――リアの祖父とも力を合わせて競走馬の自家生産も行い、レースでもそれなりの成績を収めていたという。父は自分の手で育てた馬をたいそうかわいがっていた。

 だが父は優しすぎた。競馬ではどうしたって馬に無理を強いることを避けられない。過酷なトレーニングを課し、レースでは鞭を振るって全力でゴールに向かわせねばならない。馬を愛する父はそんな非情さに徹しきれなかった。特に祖父が他界し、父が馬の管理に責任を持つようになると、自然とトレーニングの手は緩み、レースにも無理に出走させなくなった。成績が落ち込むのは必然だった。父自身が病に伏してからは、レースへの登録自体おこなえなくなり、馬たちは厩舎で余生を過ごすがごとき状態になっている――。

「――というわけでさあ。何年もレースに使っていない馬じゃ、相当上手く鍛え上げなけりゃいきなりは走れません。ましてや相手があのベイトニアンだってんなら、とてもじゃないですが……」

 屋敷に戻って厩舎の現状を報告したサムは、そんな絶望的な見通しで話を締めくくった。

「そういえば競馬観戦なんてずいぶん行っていないわね……」

 最後に競馬場に出かけたのはリアが十歳くらいの時だっただろうか。ということは、もう五年以上レースに出ていない馬もいることになる。リアの知らないところでレースに出ている馬もいたかもしれないが……。

「いちおう走りざかりの四歳や五歳の馬もいるんです。ただうちの場合、レース用として見限られたところを先代が引き取ってきたやつらも多いのですわ」

「打つ手なしか……」

 万策尽きたとぱかりに天井を見上げるエドワード。

 リアも眉根を寄せる。このままではダスティと結婚させられ、ミースフォードの土地を乗っ取られてしまう――。

「だ、誰か良い案はないの?」

 リアはほとんど破れかぶれで、誰へでもなく問いかけた。

「僭越ながら、お嬢様」

 思わぬところから手が挙がった。オールコックだ。上品に挙手をする老執事に全員の視線が集まる。

「なにか良い考えがあるの、オールコック?」

「考え、というほどのものでもございません。ある噂をお耳に入れたいのでございます」

「噂? ベイトニアンが強いって話なら、もうたくさんよ」

「いえ、そうではございません。ある馬喰の噂でございます」

「馬喰っていうと、競走馬の仲買人のことか」

 エドワードの言うとおり、セリ市などで馬主のために若駒を探す仕事をする者は馬喰と呼ばれる。最近では馬のセリの専門業者が出てくるくらい、競走馬の取引は盛んにおこなわれている。そうした取引の際に馬の良し悪しを見極める職能を持つ者が馬喰である。

「その馬喰がどうしたっていうのよ?」

「今、馬喰たちのあいだで、ある男がとても評判になっている、と先日街で聞いたのです。その者は、けして血統の良くない馬の中から何頭も駿馬を見いだしてきたそうで、かの地では『ターフの錬金術師』などと呼ばれているという話でございます」

「ターフの錬金術師ぃ?」

 エドワードが露骨に顔をしかめた。

「胡散臭いなあ……。たしかに地味な血統から走る馬を見抜ける人物なら重宝されそうだが……そんな人、本当にいるのかい?」

「……そういえばあっしも聞いた覚えがありますぜ」

 サムがポツリと漏らした。

 リアは思わずテーブルに身を乗り出す。

「ほ、本当なの?」

「ヨーロッパ各地のセリ市にひょっこり現れちゃあ、誰も見向きもしねえような馬を買ってく馬喰がいるって話を昔馴染みの商人から聞いたんですわ。『あんな駄馬買って、金をどぶに捨てたようなもんだ』ってみんな馬鹿にするんだが、少ししたらそいつが買った馬がレースでばんばん走ってるらしいんです。だから今じゃ、どこのセリでもそいつが現れねえか、みんな噂しあってるんですぜ」

「馬の能力を見抜く才能――天才的な相馬眼を持っているわけか……」

「ターフの錬金術師……。そんな人なら……」

 リアは窓の外に目をやった。放牧に出された馬たちがのんびりと庭の草を食んでいた。

 天才的な相馬眼の持ち主だというなら、あの子たちの中からレースに勝てる馬を見つけ出してくれるかもしれない。

「――オールコック、その男、今どこにいるかわかる?」

「街の者が言うには、近くこの付近の競馬場で開かれるセリング・レースにターフの錬金術師が現れるのではないか、と噂されているそうでございます」

「セリング・レース?」

 またも耳慣れない言葉が飛び出した。今度はサムが解説を入れた。

「競走馬の売り買いするために行う試走の競馬のことです。実際にレースをした後、出走馬をセリにかけるんです」

「なるほどね、セリ会場だからそのターフの錬金術師が現れるかもしれないってことか。うまくいけば、その場で良い馬を見繕ってもらえるかも……」

 早くも皮算用を始めたリアとは裏腹に、エドワードは眉をひそめた。

「……まさか、リア。ターフの錬金術師を探しに行くなんて言いだすんじゃないだろうね?」

「他に手はないでしょう?」

「い、いや、ちょっと待ってよ。ここはよく考えるべきだよ。たとえその人と会えても、協力してくれるとはかぎらないだろう? それに……なんだか怪しいじゃないか」

 エドワードの懸念はもっともだ。「ターフの錬金術師」なんて呼ばれる謎の馬喰がまともな人物である保証はどこにもない。

「たしかに望みは薄いのかもしれないけど――でも、このまま手をこまねいているより、当たって砕けたほうがずっとマシよ」

 それはリアの本心だった。なにもしなければリアはダスティと望まぬ結婚をし、ミースフォードの美しい自然は失われてしまう。

「……分かった。ただし、無茶だけはしないでくれよ?」

 決意が伝わったのか、エドワードも折れてくれた。心配してくれたことが嬉しくて、リアは彼に微笑みを返した。


 2


「よ、っと! ほら、マルタ、こっちだ」

 先に港へ下りたアルは振り返って手を伸ばした。マルタは船べりに足をかけた体勢で踏み切りをためらっている。

「うう……、今わたしの前にはドーヴァー海峡が立ちふさがっています……」

「数フィートの幅もないドーヴァー海峡があってたまるかよ。ほら、ちゃんと捕まえてやるから」

 アルが手招きをして催促する。マルタはとうとう覚悟を決めたようだ。

「……とおっ!」

 舌足らずな掛け声とともにマルタはようやく船べりを蹴った。小さな体が宙を舞う。アルは、目一杯に伸ばされたマルタの腕をしっかりと掴み、その身を自分の元へ引き寄せた。

「よっしゃ。うまくいったな、マルタ」

「うう……、船は怖いです。どうしてもっと岸に近づいてくれないのですか……。わたし、島国には行きたくありません……」

 拗ねるマルタの頭をアルはぽんぽんと叩いた。

「そう言うな。これも仕事のうちだろ?」

「……分かりましたです。こうなったら、おいしいスコッチエッグとミートパイとサンドイッチとカスタードプティングを食べて、怖い思いを吹き飛ばしましょう!」

「……おまえ、実はイングランド大好きだろう……」

 軽やかな足取りで駆け出したマルタを追いかけつつ、アルは通りの先に目をやった。

 馬丁に曳かれた馬たちが一列になって歩いていた。この先の競馬場で行われるセリング・レースに出走する馬たちだろう。周りを威嚇するようにのしのしと歩くやつもいれば、うつむき加減でおどおどと後ろをついていくやつもいる。あいつらは紛れもなく、一頭一頭違った性格を持ち、脚を持ち、肩を持ち、背中を持ち、首を持ち――速さと強さを持っている。

 さて――。

 今日はあいつらの中から何頭引き取ってやることができるだろうか?


 *


 セリング・レースの当日。リア、エドワード、オールコックの三人は朝から身支度を整えて、昼過ぎには隣町の競馬場に到着していた。

 来場者を出迎える門の近くで馬車を止めてもらった。エドワードはリアをエスコートしつつ通りへ降り立つ。

 競馬場内へ続く通りは多くの人でごった返していた。といっても、周りにいるのは労働者風の男たちばかりだ。馬を買うような貴族連中はすでに場内へ入っているのだろう。おかげでドレスで着飾ったリアは妙に浮いてしまっていた。

「思ってたより賑わっているわね……」

「今日は試走だけじゃなく普通のステークスレースもおこなわれるみたいだからね。彼らは賭けをやりにきたんだろう」

「馬はどこにいるの?」

「もっと奥じゃないかな。セリもあるし、出走馬は下見所に集められているんじゃないか?」

「下見所ね。じゃあそこへ行きましょう。ターフの錬金術師もきっとそこで馬を見ているわ」

「お嬢様、足元にお気をつけください。。お召し物が汚れます」

「かまわないわ、服くらい」

 執事の忠告をよそに、リアはドレスの裾をたくし上げて人ごみを掻き分けていく。亡くなった先代ミースフォード夫人が見たら卒倒しかねないお転婆ぶりである。

「お、おい、リア。そんなに急ぐことはないだろう。僕は少しお腹がすいたよ。まずはどこかで昼食をとらないか?」

 エドワードは慌てて横に並んで提案するが、リアは足を止めようともしない。

「ゆっくりなんてしていられないわ。ターフの錬金術師を取り逃したらどうするの!」

「取り逃すって……」

 ターフの錬金術師はいつからお尋ね者になったんだ? 顔も知らないうちから彼がちょっと不憫に思えた。

「馬がいたわ! きっとあそこね」

 下見所を見つけたらしく、リアはエドワードを振りきって先を急いだ。

「ああもう、リアったら……」

「我々も参りましょう、エドワード様。ああなるとお嬢様は止まりません」

 さすがは生まれたときからリアの面倒を見てきた執事。リアの性格をよく分かっている。

 エドワードは苦笑を執事に返すと、観念してリアの後を追いかけた。

 

 *

 

 英国においては今や競走馬の取引が日常的におこなわれている。たとえばセリ市でいえばロンドンのハイドパーク・コーナーで開かれるタタソールズ・セールが有名だし、今日開かれるようなセリング・レースも各地で頻繁に催されている。ほかにも生産牧場に出向いて生まれたばかりの仔馬を買い取る者もいる。それだけ競馬好きの英国貴族たちは速い馬、強い馬を手に入れることに躍起になっているのである。

 とはいえ万といる馬の中でどれが優れた馬なのか見抜くことは容易ではない。そこで良い馬を手に入れようとする貴族やジェントリは、買うべき馬を選ばせるために、競走馬に精通した人々を雇い入れる。馬喰と呼ばれる商人たちが、そうした人々である。

 この日の競馬場にも馬喰と思しき者たちが大勢集まっていた。下見所の最前列に陣取り、馬丁に曳かれて歩く馬に熱い視線を送っている男たちがそうだ。袖をまくりあげたシュミーズの上にジャケットを羽織り、下は長ズボンかニッカズボン。一見農夫にも見えるけれど、馬を見つめる真剣さが違う。駿馬を探そうと血眼になっているのだ。

「……あの中にいるのかしら? ターフの錬金術師……」

 リアが顔を寄せてエドワードに尋ねてきた。

「どうだろう……。というか、一体どんな人物なんだ、その錬金術師は?」

 そういえば尋ね人の人相すら分かっていなかった。これでどうやって面識もない人物を見つけろというのか。オールコックが商人から聴いた話から考えるかぎり、とりあえず性別は男のようであるが……。

「悩んでたって仕方ないわ。とにかく彼を知ってる人がいないか、訊いてみましょう」

 そう言うとリアは、下見所にたむろする馬喰の男たちへ近づいていく。

「ちょ……、リア!」

 エドワードの気も知らず、リアは平然と近くにいた男に声を掛けた。

「ちょっとよろしいかしら? お訊きしたいことがあるのだけれど」

「ああん?」

 声を掛けられた男は不機嫌そうに振り返った。が、リアの大きく広がったスカートと胸元の開いたローブを見てすぐに相手の身分に気づいたのだろう、即座にへつらったような笑みをリアに返した。

「あいにくですが、お嬢様。良い馬を見つけてもそちらへお譲りすることはできませんぜ。あっしはすでにある貴族様に雇われておりましてね」

「いえ、馬のことじゃなくて……、私たち、人を探しているの」

「人探しだぁ?」

 男はすっとんきょうな声を上げた。無理もなかろう。

「ええ、あなたたちのお仲間だと思うんだけど」

「馬喰ってことですかい? しかしなあ……。うちらに人探しを頼むってのは、そりゃいくらなんでもお門違いじゃねえですか? 迷い人をお求めなら、教会でお祈りでも上げることをお勧めしますね」

「いえ、私たちが探しているのは……」

 なおも食い下がろうとするリアに、男はうっとうしそうな目を向ける。それを受けてリアがムッとして口を開きかけたところで、エドワードは慌てて間に割って入る。

「ああ、仕事中すまないね。僕たちはぜひとも君に力を貸してもらいたいんだよ」

 わざとらしく相手の機嫌を取りながら、エドワードはそっと男にコインを数枚握らせた。手の中でジャラリと鳴る銀貨へちらりと目を落とすやいなや、男はわかりやすく態度を改めた。

 エドワードとて汚れ役は好きではないが、リアにやらせるわけにもいかないだろう。

「で、旦那。探し人ってのは?」

「話が早くて助かるよ。きみ、『ターフの錬金術師』と呼ばれている馬喰を知らないか?」

 エドワードがその名を出した途端、男の表情がこわばった。

「……あの野郎に仕事を頼むつもりなら、悪いことは言わねえ、やとめといたほうがいいですぜ」

「あなた知っているのね!? ターフの錬金術師を!」

 リアはエドワードを押しのけて再び男に詰めよった。忠告に耳を貸すつもりは微塵もないらしい。

「し、知ってるっていうかよ……、仲間うちでちょっと噂になってるんですわ。セリには参加しねえで、売れ残った馬を裏で安く買いたたく卑怯者がいるって」

 いきなり刺々しい言葉が出て、エドワードは少なからず驚いた。

「その卑怯者が……『ターフの錬金術師』なのか?」

「安馬からそこそこ稼ぐ馬を見つけてくるから、貴族様の中にはそんなふうに呼ぶお方もいますがね……。わしらにしてみれば、死肉をついばむハゲワシみたいなやつですわ」

「……」

 ずいぶんな言いぐさだが、心情は理解できなくはない。セリに出てきた馬を後から安値で引っ張っていかれ、しかもそれに走られたとあっては、同じ馬喰として、雇い主の貴族に対して面目が立たないのだろう。

「もういいですかい? あっしも馬を見なきゃならないんで」

「さ、最後にこれだけ! その『ターフの錬金術師』の人相とか特徴とか……少しでいいから分からない?」

「人相って言われてもなあ……。ああ、そういえば、そいつが子どもを連れてるのを見たってのは、聴いたことがあるな」

「こ、子ども?」

「これ以上はあっしも知りませんぜ。これでもう勘弁くだせえ。ああほら、もう馬が行っちまう」

 早口で言い残すと、男は馬を追って下見所から馬場へ向かう馬喰の一団に慌てて加わった。

 取り残されたエドワードたちは、その場で考えこまざるをえなかった。

「……どう思う? エドワード」

「そうだな……、商売敵という点を差し引くにしても、あの男の話を聴くかぎりじゃ、信頼に足る人物とはとても思えないよ、ターフの錬金術師って男は」

「そうじゃなくて、彼が子連れってこと」

「え……?」

 虚を突かれたエドワードは目を丸くしてリアを見返した。

「子どもってどのくらいの歳の子なんだろう……? ああもう、もっとちゃんと訊いておけばよかったわ。親子かしら? それとも兄妹? でも子連れで馬を探しに来てる馬喰なんて、そう多くないはずよね……」

 ぶつぶつとつぶやきながら、リアは周囲に目をやりだす。

「お、おいリア……、まさか、まだその馬喰を探すつもりなのか?」

「当たり前じゃない! どんなに怪しげな人物だって、私たちはもう、その人に頼るしかないんだから……」

 キッとエドワードを睨んだリアも、最後は声が震えていた。

 強がっているだけで、誰よりも不安を感じていのはリアなのだ……。エドワードは無思慮な自分を恥じ、ぐっと拳を握りしめた。

「……分かった。とにかく僕たちも馬場へ向かおう。もしターフの錬金術師が来ているなら、この後のセリで馬を買うにせよ買わないにせよ、レースを見に行くはずだ」

 エドワードはリアの手を取り、馬場へ続く道へ自ら踏み出した。

 

 *

 

 エドワードたちが馬場に到着する頃にはもう、レースは発走の直前を迎えていた。出走馬はすでに騎手を背にスターティングポストの後方で待機している。

 今回のセリング・レースに出走する馬は皆、四歳馬である。どの馬もこれまでに何度か試走をしているとはいえ、この後のセリで買い手がつくかどうかは今回のレースの結果しだいである。

 エドワードたちは直線の半ばあたりまで行き、ラチ沿いにたむろする一般の観客に混ざった。

 コースを挟んだ向こう側、内馬場にも大勢の男たちがいた。レースのスタートを今や遅しと待っているのはこちら側の観客と同じだが、ただし彼らは自分の馬にまたがっていた。

 彼らは馬喰である。レースが始まると、馬喰たちは馬や馬車に乗って出走馬と並走し、その走りを間近で確かめるのである。そうやって出走馬の実力を見極めようというわけだ。

 リアは内馬場に詰める馬喰の一群に目を凝らしていた。

「ええと、子ども連れの馬喰よね……」

 群衆の間から顔を覗かせようと、リアが前のめりに背伸びをしたその時だった。

「きゃっ」

 小さな悲鳴がエドワードの足元から聞こえてきた。

 見れば、背丈の低い少女が人ごみの隙間でよろめいていた。背伸びをしたリアの膝に突き飛ばされてしまったらしい。

「あ、ごめんなさい。大丈夫?」

「怪我はないかい?」

 エドワードは少女を支えてやろうと手を差し出した。

「い、いえ、大丈夫なのです。こちらこそ失礼しましたです」

 しかし少女は丁寧にお辞儀を返し、足早にエドワードたちの元を離れた。エドワードたちの貴族風の出で立ちを見て遠慮したのだろうか。

「お~い、マルタ! こっちだこっち!」

「はい、今行くです!」

 少女は人垣の向こうから飛んできた呼びかけに応えると、もう一度エドワードたちに頭を下げてから声の主の元へ駆けていった。人垣の向こうに一瞬見えた赤髪の青年が、彼女の同伴者なのだろう。

「お嬢様、お怪我は?」

 オールコックが差し伸べた手をリアは気丈にも断った。

「わたしは平気よ。あの子にはちょっと悪いことしちゃったけどね……。でも今はそれより、ターフの錬金術師を探さないと」

「あ、レースが始まったよ!」

 エドワードが指さす先では、五頭の馬がスターティングポストから一斉に駆け出していた。同時に、周囲の観客からはわっと歓声が上がった。こんなセリング・レースでも賭けに興じている連中がいると見え、スタート直後だというのに早くもだみ声で馬と騎手にやじを飛ばすせっかちな男も現れていた。

 五頭は一団になって直線を駆け抜け、第一コーナーへと侵入していく。

 そして内馬場にいた馬喰たちもまたレースの展開に合わせて動きはじめた。各々の馬を駆って出走馬と並走しはじめたのだ。

 出走馬と馬喰たちの馬が立てる足音。そして先を争う馬たちへ激を飛ばす人々の声。周囲はあっという間に喧騒に包まれていた。

「ああ、みんな向こうへ行っちゃうわ……」

 リアが名残惜しそうな目つきで遠ざかっていく馬喰の集団を見送った。

「レースの終盤になればまた戻ってくるさ」

 焦っても仕方ないのは本当だ。馬喰たちが馬と一緒に戻ってくるまで待つしかない。

 馬群は隊列をなすようにして第二コーナーから向こう正面へ。第三コーナーを迎えると、各馬の差が徐々に広がりはじめたようだ。レースはいよいよ佳境に入る。

「あ、来たわよ!」

 第四コーナーを曲がってくる先頭の馬をいち早く右手に見つけ、リアが声を上げた。リアの目は風を切って走る若駒に釘づけになっていた。いつのまにかレースに夢中になっているじゃないか。

「先々代から続く競馬好きの血は争えないのかもな……」

 エドワードのそんなつぶやきも、興奮のあまりその場でピョンピョンと跳ねはじめたリアの耳には届いていないようだ。お嬢様のお転婆振りに、オールコックが顔をしかめていた。

「どうやら勝負あったみたいだね」

 大勢は決したと見ていいだろう。先頭を争っていた二頭のうち、黒鹿毛の一頭が抜け出し、後続に二馬身ほどの差をつけてゴールへ飛び込もうとしていた。もう一頭は先頭争いには敗れたもののそのまま二着を守りそうだ。三馬身後ろを追いかける三番手、四番手の馬の逆転はもう難しいだろう。最下位の栃栗毛の馬となるとさらに三馬身後ろ。一瞬、急加速したようにも見えたが、もう体力が残っていなかったのか、その勢いはすぐに止まってしまった。

 全馬がゴールするやいなや、内馬場にいた馬喰たちがわらわらと馬場へ出てきて、さっそく出走した馬の騎手になにやら声を掛けはじめていた。会場を移しておこなわれるセリのために、レースでの手ごたえなど馬の能力を推し量るための情報を集めているのだろう。

 リアも当初の目的を思い出したようで、馬喰の集団を凝視していたが――。

「……やっばりいないわね、子ども連れの馬喰なんて……」

 やがてリアはがっくりと肩を落とした。子どもを連れて歩いているなんて分かりやすい特徴を見逃すはずもないから、やはりターフの錬金術師はここにいないと見て間違いないだろう。

 それでもいちおう、引き上げてくる出走馬に群がる男どもを注視した。とはいえコースの外まで来てしまうと、一般の客までもが馬を取り囲むようになり、もはや誰が馬喰なのかさえ判然しなくなってしまう。

「バッキャロー! てめえのせいで大損こいちまったじゃねえか!」

 怒鳴り声がエドワードの耳をつんざいたのはそのときだった。人ごみのせいで声の主は判然としないが、さっきのレースで賭けに負けた輩であるのは間違いない。馬に対してか騎手に対してかは知らないが、賭けに負けだ腹いせに怒りをぶつけるとはなんとも不作法なやつだ。

 突然の大声に驚いたのか、列になって歩いていた馬の一頭がひるんだように立ち止まった。その馬は首を振って軽く鳴き声を上げただけで済んだのだが――。

「ヒヒィィィンッ!」

 さらに大きな悲鳴を上げたのは、すぐ後ろを歩いていた一頭だった。


 *


「う、うわあ!」

 背中から地面に落ちた騎手を見て、誰もが事態の危うさを察知した。悲鳴を上げた馬が、暴れはじめたのだ。

「ヒィンッ、ヒヒィィンッ!」

 パニックに陥った馬は大きく前脚を上げ、ほとんど立ち上がるような姿勢になっていた。こうなると騎手も乗っていられず、とうとうその背から振り落とされてしまったというわけだ。

「危ねえ、逃げろ逃げろ! 蹴られるぞ!」

 気でも狂ったように何度も後ろ脚を蹴りあげる馬を見て、周囲にいた人々は一斉に避難を始めた。

 暴れているのは、レースで最後方を走っていた栃栗毛の馬だった。なにかに驚いて正気を失ってしまっているらしく、激しい尻っぱねを繰り返している。これでは取り押さえようとする騎手もうかつには近づけない。

「リア、僕たちも早く!」

 エドワードはリアを避難させようと手を差し出した。

「え、ええ――き、きゃあっ!」

 しかしリアはエドワードの手を掴むことなく、崩れ落ちるようにその場で転倒した。脇を通り抜けた人にドレスの裾をひっかけられるかなにかしたのだ。

「ヒヒヒィンッ!」

「リア! 危ない!」

 ひざまづいたまま動けないリアへ向かってきたのは、あろうことか暴れ馬だった。このままではリアが踏みつけられてしまう! エドワードは慌てて救出に向かおうとするが、逃げ惑う人波に行く手を遮られてしまう。エドワードは恐怖で固く目を閉じた――次の瞬間。

「どうッ!」

 鋭い一喝がエドワードの耳をつんざいた。

 エドワードはおそるおそる目を開ける。

「ヒィン、ヒィンッ……」

 するとどうだろう、あれだけ興奮していた馬が、いまだ荒い鼻息を繰り返しながらも、徐々におとなしくなっていくではないか! 

「……リア!」

 エドワードはハッと我に返り、恋人の姿を探した。

「こ、ここ、ここよ、エドワード」

 リアは依然として転倒した場所でひざをついていた。息も切れ切れにエドワードを呼び、自分の無事をアピールするも、リアの顔のすぐ横には馬の前脚がある。

「大丈夫かっ、リア!」

 エドワードは急いでリアを助け起こし、馬の傍らから引き離した。

「お怪我はございませんか、お嬢様!?」

 遅ればせながら駆けつけたオールコックに向かって、リアは小刻みに頷く。

「だ、大丈夫よ。助けてくれたみたい、あの人が……」

 リアは震える指で自分を襲って馬を――いや、その手綱を握る人物を指し示す。

 てっきりあの馬の騎手がうまく取り押さえたのだと思っていたが、手綱を抑えていたのは彼ではなかった。

「よしよし、もう怖くないからな」 

 息を乱す栃栗毛の馬を優しく撫でていたのは、赤髪の青年だった。シュミーズに長ズボンといういでたち。ということは、彼は馬喰か?

 なんにせよ、彼がリアを救ってくれたのは間違いない。

「あ、あの、きみ――」

 お礼をしようと青年に声を掛けたのだが、相手はエドワードに気づかなかったらしい。青年は近くにいた騎手のほうを向いた。

「この馬、あんたのだろ?」

「お、おお、そうだ」

 騎手はとまどいつつも青年に駆け寄った。

「あんた、騎手か。てことは、持ち主は別にいるんだな。まあ、いいや。ほらよ、もう暴れたりしねえとは思うが、いちおうしばらくは静かなところで様子を見たほうがいいかもな」

 青年から手綱を受け取ると、騎手は恐縮したように目を伏せた。

「すまない……。まさかこんな悪癖があるとは思わなかった。普段はすこぶるおとなしい馬なんだが……。手を煩わせてしまって、本当に申しわけない」

 騎手が頭を垂れると、青年はなぜか彼の肩に馴れ馴れしく腕を回した。

「いいってことよ。それよりさ、折り入って相談があるんだが、この馬――」

「お、お取込み中、失礼する!」

 このままではいつまでも蚊帳の外だと思ったエドワードは、意を決して二人の会話へ割り込んだ。

「……なんすか?」

 青年は騎手の肩を抱いたまま、不機嫌そうな顔をエドワードに向けてくる。

「い、いや、その……、僕の恋人を助けてくれたのはきみだろう? ぜひ、お礼をさせてもらいたい」

「ああ、さっきの……」

 青年はさしたる興味もないと言いたげな目つきで、エドワードの肩越しにリアを一瞥した。

「わ、私からもお礼を言わせて! 本当にありがとう。あなたのおかげで助かりました」

 ようやく心身が回復したらしいリアが前へ進み出て青年にお辞儀をした。

 それでも青年は「ああ」と気のない受け答え。

 むしろ慌ててリアの前で跪いたのは騎手のほうだった。

「こ、これはご令嬢、私の馬がとんだご無礼を働き、なんとお詫び申し上げればよいか……」

「気にしないで。怪我もなかったし、あの状況じゃ仕方なかったわよ。あなたのせいじゃないわ」

「まったくだ。そんなヒラヒラした動きにくい服を着てたんじゃ、逃げ遅れたって文句は言えねえぜ」

 ぼそりと吐き捨てるように言ったのは、仏頂面の青年だった。

「は――?」 

 青年を見るリアの目が一気に剣呑になる。自分に対する毒づきを見過ごすリアではない。

 だが青年はひるむ様子も見せず、さげすんだような目つきでリアの衣装をじろりと眺めた。

「若駒のセリじゃ、さっきみたいに馬が暴れることだって珍しくないんだ。この場所じゃドレスなんて死に装束にしかなりゃしねえぜ」

「なっ……!」

 青年の辛辣な言葉に、リアが一瞬で柳眉を逆立てた。

「助けてもらったことには感謝するけれど、あなたにそこまで言われる筋合いはないわ! たしかに私も不注意だったけど……、この服は関係ないわ! 英国貴族として、私はそれ相応の格好をしなきゃならないの!」

 リアは自分のドレスの胸元を掴んで青年に食ってかかった。

 非難の目を向けられた青年は少し困ったように首筋をさすっだ。さすがに言葉が過ぎたと思っているのだろうか。

「別に……あんたを侮辱してるわけじゃない。ただ、冷やかしでもここは貴族様が来るようなところじゃねえよ。悪いことは言わねえから、馬の買い物は使用人にでも任せておいたほうがいい」

「ひ、冷やかしなんかじゃ――」

 返す言葉はそこで止まった。このセリで自分たちが探しているのは馬ではない。ターフの錬金術師だ。その意味では、冷やかしと言われても仕方ない。

「無礼は謝る。だけど、そいつらを処分する気だったら、勘弁してくれねえか?」

 青年はちらりと横を見て言った。彼の視線は、騎手だけでなく栃栗毛の馬にも注がれているように、エドワードには感じられた。

「し、処分? い、いえ、そんなつもりは元よりないけれど……」

 思いも寄らぬ陳情にリアは目を丸くしていた。たしかに公衆の面前で恥をかかされたとあっては、相手が馬であろうとその罪を償わせる貴族もいるにはいるだろう。けれどリアに限ってはそんな考えなど思いつきもしないはずだ。

 困惑するリアをしぱらくじっと窺うと、青年は安堵したように表情を緩めた。

「分かった。それなら、いいんだ。ありがとよ」

 それだと言い残すと、青年はリアに背を向け、ひらひらと片手を振る。

「え? ちょ、ちょっと」

 慌てて呼び止めようとするリアを尻目に、青年はふらりと人ごみの中へと消えてしまった。

 一同が呆気にとられるなか、おずおずと口を開いたのは騎手の男だった。

「あ、あの~、私はどうすれば……?」

「ああ、きみももう、行っていいよ。これからその馬のセリもあるんだろう?」

 エドワードが寛大に促すと、騎手の男は即座にほっとした表情を浮かべた。

「は、はい! まことに失礼いたしました!」

 男はエドワードとリアに深々と頭を下げると、セリ会場のある方角へ馬を曳いていった。馬ももうすっかり落ち着きを取り戻したようで、おとなしく男についていった。

 好奇の目にさらされながら人波を掻き分けていく人馬をなんとなく見送りながら、エドワードはリアに話しかける。

「……僕たちも、ターフの錬金術師探しに戻ろうか」

「そうね……。いつまでもここにいたって仕方がないし……」

 二人は頷き合うと、セリ会場へ向けて足を踏み出した。

 とはいえエドワードは、さっきの青年のことがまだ気にかかっていた。リアを助けてくれたかと思ったら悪態をついてみせ、かと思えば突然馬の命乞いをして……。言動にまるでつかみどころがなかった。しかしそれよりも気になったのは、暴れ馬を瞬時になだめたあの手腕だ。馬の扱いには相当慣れているようだったが……彼も馬喰なのだろうか? しかし年の頃は自分たちとそう変わらないように見えた。

 あの男はいったい何者なのだろうか?

 

 *


 ひと悶着あったものの、セリは予定通り開始された。会場は下見所、上場馬はさきほどのレースを走った五頭である。

 セリにかかる馬が一頭ずつ前に出され、セリ人が大声でお台を口にし買い手を募る。そして馬を買いたい者は手を挙げていく。買い手がかちあえばさらに上乗せした額をセリ人に向かってコールする。そうやって競争で値をつけていき、最終的に一番高い値をつけた者がその金額で当該馬を競り落とすことになるわけだ。

 誰がどの馬に幾ら出すのか――プロの商人たちのシビアなせめぎ合いが繰り広げられるなか、リアたちは全然違う目的で会場に目を走らせていた。セリに参加する馬喰のなかに「ターフの錬金術師」がいないか、探していたのだ。

 しかし、やはりそれらしい人物は見当たらなかった。

「……よく考えてみれば、ターフの錬金術師って男はセリには参加せず、売れ残った馬を安く買いたたくんだろう? それならば最初からセリ会場にも来ていないのかも……」

 エドワードが漏らした弱音に、リアも反論できなかった。たしかにターフの錬金術師がこのセリに来ているという保証はどこにもない。元よりリアたちは、聞きかじりの噂話だけを頼りにこの場へ来ている。そもそも「ターフの錬金術師」なんて人物が実在するのかさえ、定かではない……。

 セリが終わると、買い手のついた馬は新たな持ち主の元へ連れられていく。一方で売れ残った馬は元の持ち主に引き取られる。その馬をどうするのかは持ち主が決めることだが、競走馬として残されることは望み薄だろう。農耕馬や馬車馬として売りさばかれればまだマシなほうだ。サラブレッドは競走用として産み育てられるだけに、他の用には不向きな面もある。種牡馬か繁殖牝馬になれなければ、走れなくなったサラブレッドの未来は決して明るいものではない。

 下見所を後にする売れ残りの馬の一頭が、ふとリアの目に止まった。

「あ……。あの馬……」

 それはつい先刻、リアに怪我を負わせかけたあの栃栗毛の馬だった。あの子も買い手がつかなかったのか。まあ、レースでも最下位だったし、誰も手を出さないのもいたしかたないのか――。

「――あれ、あいつ……?」

 奥の繋ぎ場へ馬を引き上げていく曳き手に声を掛ける人物がいた。見覚えのある赤髪だ。そう、あれはさっき、リアのドレスに文句をつけたあの青年ではないか。

「今日はもう遅いし、今夜はこの町に泊まろうか。明日もここで競馬があるみたいだし、ひょっとしたらターフの錬金術師も姿を見せるかもしれないしさ」

「では、宿の手配をいたしましょう」

 エドワードとオールコックが背後でそんな会話を交わしていたが、リアは繋ぎ場へ入っていく人馬のほうが気になってしょうがなかった。赤髪の青年は栃栗毛の馬を挟んで曳き手の男となにやら話し込みはじめていた。

「リアも、今日は泊まりでいいよね? ターフの錬金術師探しはまた明日に――って、リア?」

「ちょっとごめん」

 リアは短く断って下見所へ足を踏み入れた。エドワードは慌ててリアを呼び止めたが、同時に宿の手配を終えたらしいオールコックからも声を掛けられてしまい、動きが取れなくなってしまったようだ。リアはその隙に急いで下見所を突っ切った。

 繋ぎ場に入り、ふたりの話し声に耳を澄ませる。

「こいつを売ってくれって、正気かい、旦那? 俺が言うのもなんだけどさ、あんただってさっき見ただろう? こいつはひどい気性難の馬かもしれねえんだぜ?」

「承知のうえさ。ま、あれのおかげでうまいことセリで売れ残ってくれたな。あんたには気の毒な話かもしれねえが」

「どっちかといや俺というより俺のご主人が損を被るんだろうが……、いや、あんたがこの馬を買うってんなら話は別なのか」

 十本ほど柱が並んでいる繋ぎ場の一番奥で二人は言葉を交わしていた。よくよく見ると、栃栗毛の馬の手綱を持っているのは、レースで騎乗していた例の騎手だ。そして話し相手はやはり、リアと口論した後ふらりと姿を消してしまったあの青年である。

 リアにとっては因縁のあるふたりだが――そんな男たちがこんな場所でなんの話をしているのだ?

 リアは好奇心に駆られて潜んでいた柱から身を乗り出した。

 その時にリアが立ててしまった足音を青年は聞き逃さなかった。

「誰だ!?」

 振り返った青年が鋭い視線でリアを射抜いた。

 身をすくめたリアは隠れることもままならず、青年に見つかってしまう。

「ん? あんた、たしかさっきの――」

 青年もこちらの正体に気づいたようだ。リアは観念して頭を下げた。

「ごめんなさい! 盗み聞ぎするつもりはなかったの。ただ、あなたたちの姿が見えたからちょっと気になって……」

「まあ……、別にかまわないけどよ……」

 困ったように首筋を掻いた青年が、ふとリアの背後へ目をやった。

「おーい、リア! どうしたんだよ、いったい?」

 ドタドタと繋ぎ場へ駆け込んできたのはエドワードだった。騒がしい足音に栃栗毛の馬が一瞬、びくりと身をすくめる。

 リアが相対する一団に気づき、エドワードは目を丸くした。

「あれ? きみたちはさっきの……。それにその馬……」

 エドワードが栃栗毛の馬に注意を向けると、青年の表情が急に険しくなった。

「あんたらまさか……、やっぱりこの馬をどうにかしにきたんじゃねえだろうな……」

「ち、ちょっと待って。どうしてそうなるのよ?」

 あらぬ疑いを掛けられたリアは当惑するしかない。

「言っとくが、先にこの馬に目をつけたのは俺だ。この馬が欲しかったならさっきのセリで手を挙げておくのが筋ってもんだろう。それであんたらがこいつを競り落としたら俺だって諦めてたさ……。自分のことを棚に上げておいてなんだが、貴族様が俺みたいな馬喰を気取って裏で馬を買いつけるなんて真似はよしなよ」

「ちょっと待って! だから、私たちは別にこの馬を買いにきたわけじゃ――」

「ん……? 裏で馬を買いつける……? あ!」

 エドワードが急に頓狂な声を上げたものだから、残りの者は一様にぎょっとさせられた。

「な、なによ、藪から棒に……」

「ちょっと失礼」

 エドワードは顔をしかめるリアを押しのけ、前かがみになって赤髪の青年に顔を寄せる。

「な、なんだよ、おい……」

 エドワードに見つめられた青年は、気まずそうに顔を逸らした。

 青年の頭のてっぺんから足の先まで眺め終えると、ようやくエドワードも満足したのか、腰を上げてフムと短くつぶいた。

「なんなのよ、もう……」

 呆れるリアには取り合わず、エドワードはまっすぐに青年を見据えた。

「きみはひょっとして、『ターフの錬金術師』じゃないのか?」

「え――?」

 当事者より先に我が耳を疑ったのはリアだった。なんだって? この口の悪い青年が、自分たちの探しているターフの錬金術師だって?

 エドワードは確信に満ちた表情で青年の返事を待っている。

 一方、青年はあからさまに目を泳がせた。

「な、なんのことだか、さっぱり分からねえな」

「やっぱり! きみがターフの錬金術師なんだね!」

 エドワードは瞳を輝かせて青年の両手を取った。

「ほ、本当にあなたがターフの錬金術師なの……?」

 リアもじっと青年の顔を窺う。

「し、知らねえっつってんだろ! 俺は一介の馬喰だ! ターフのうんたらかんたらなんて……、ひ、人違いだ、人違い!」

 青年はエドワードの手を振りほどいた。あくまでしらをきろうというつもりらしいが、明らかにうろたえていた。

「僕たちの聞いた話では、ターフの錬金術師はセリで誰にも見向きもされなかった馬を後で買いつけていくそうだ。きみが今まさにやろうとしているようにね」

「そ、そんなことくらい、誰でもやってるだろう?」

「そうだろうか? きみが買おうとしているその栃栗毛の馬はセリング・レースでは最下位だった。さらにレース後に気性の悪さを見せてしまった。常識的には誰もがなんの価値もない馬だと思うだろう? それなのにきみはなぜその馬を熱心に買おうとしているんだ? きみは類まれなる相馬眼をもって僕たちには分からないその馬の素質を見抜いているじゃないのか?」

 理路整然と問い詰めるエドワード。青年はたまらずといったふうに顔を逸らした。追い詰めらているのは明白だったが、青年は名案を思いついたとばかりに声を大きくした。

「そ、その……、ターフの錬金術師、だっけ? お、俺も噂を聞いたことがあるぜ! なんでもそいつ、ちびっこい娘を連れてるって話じゃねえか。ほ、ほら、よく見ろよ! 俺はそんな童なんて連れてねえだろ?」

 青年はさあ調べてみろと言うように両手を広げた。たしかに子ども連れではないが――。

「あ、アル、こんなところにいたのですかーっ! もう、お馬さんを買いに行くなら行くって、言ってからいなくなってくださいよね! あちこち探してしまったではないですかーっ」

 繋ぎ場へ駆け込んできた、見るからにちびっこい女の子によって、青年の悪あがきは無残に打ち砕かれた。ひくひくと頬を引きつらせる青年の顔を、栃栗毛の馬が不思議そうに覗き込んでいた。


 *

 

「はじめましてです! というか、一度お会いしていますよね? わたしはマルタと言います。こっちのアルと一緒に、競馬のお馬さんを見つける仕事をしているのです。以後、お見知りおきを!」

 少女はわざわざ席を立って、いささか舌足らずな口調で自己紹介をしてくれた。

 リアもつられて律儀に挨拶を返す。

「これはどうもご丁寧に。そういえば、あなた、セリング・レースの前に私がぶつかっちゃった子よね? あの時はごめんなさいね」

「いえ、わたしもよそ見をしていましたから、おあいこです。ええと……」

「ああ、まだ名乗っていなかったわね。私はリア・ミースフォード。隣町に居を構えて暮らしています。こっちは私の婚約者のエドワード。後ろに立ってるのが執事のオールコックよ」

「よろしくね、マルタちゃん」

 にこやかに手を差し出したエドワードとマルタは握手を交わした。小さくお辞儀をしたオールコックにもマルタは愛らしい微笑み返す。すっかり気を許してくれたみたいだ。

「それにしても、すごく豪勢なお食事ですね。こんなおいしそうな英国料理は久しぶりなのです」

 マルタはテーブルに並んだ料理を前に瞳を輝かせた。食事に誘ったリアとしては、喜んでくれて素直に嬉しい。

「素敵なところでしょう? このホテルのレストランは評判だっていうから、味は保証するわ。もちろんごちそうさせてもらうから、遠慮せず食べてね」

「本当ですか! ありがとうございます! 一日歩き回ってお腹がペコペコだったのですよ」

 マルタはさっそくフォークとナイフを取った。たどたどしい手つきで一生懸命にミートパイを切り分けるしぐさは実に微笑ましい。ミートパイをほおばると満面の笑み。体が小さいのでちょこんと椅子に腰かける姿はまるでお人形さんのようだ。それに性格も良さそうだ。まだ少ししか言葉を交わしていないが、礼儀正しく素直な子だと充分に分かる。

「……で、そちらのあなたは、何か言うことはないのかしら?」

 リアはマルタの隣に座る男へ視線を移した。さっきまでとはうってかわってジトリとした目つきである。

「……ペイストリーのラードをもうちょい控えめにして、肉の挽き方も思い切って粗目にすべきだな」

「ミートパイの感想なんて訊いてないわよっ」

 リアが声を荒らげると、青年は仏頂面をさらにしかめた。ムッとしたいのはこっちのほうよ。

 リアは眉間にしわを寄せつつ青年を睨みつける。

「あなた、名前は?」

「……さっき、こいつが言っただろうが」

「ちゃんと自分で名乗ってちょうだい」

「……アルだよ。これでいいだろ」

 アルはふてくされたように顔を背けつつミートパイを口に運ぶ。

「あなたがターフの錬金術師で、間違いないのね?」

「…………ああ、そうだよ。俺のことをそんなふうに呼びやがる連中がいるらしいな」

 不承不承といったふうに認めると、アルは椅子にどっかりと背を預け、ムスッと唇を結ぶ。仮にも貴族であるリアを前にしてこのふてぶてしい態度。いっそ清々しいと思えるくらいだ。

 まあ、周りの紳士淑女からこれだけいぶかしげな目を向けられていたら、不機嫌になるのも無理ないのか……。

 マルタの乱入によってアルの正体が発覚した後、リアは彼らを食事に誘った。場所はオールコックが手配してくれたホテルだ。競馬の後とあって店内には着飾った紳士淑女が多く、シュミーズに長ズボン、しかも赤髪のアルは明らかに浮いてしまっていた。

「あ、あの栃栗毛の馬は無事に売ってもらえたのかい?」

 少しでも場を和ませようという魂胆か、エドワードがそんな話題を切り出した。

「……思わぬ邪魔は入ったが、なんとかな。馬はとりあえずあの騎手に預かってもらってるよ」

「邪魔だなんて人聞きが悪いなぁ、ハハハ……。ところできみは、どうしてそんな頑なに自分の正体を隠そうとするんだい? ターフの錬金術師なんて呼び名、カッコいいじゃないか」

「……こっちの素性を知ると、セリで俺が買おうとする馬を狙って値段をふっかけくる連中がいるんだよ。売れ残りの商談にも割り込んできやがるしな、さっきのあんたらみたいに」

「な、なるほどぉ。きみは僕らにあの馬を横取りされると思って、セリング・レースの後もさっきもあんなに警戒していたんだね。でも、それは大きな勘違いさ。なんたって今の僕たちには。馬を買う余裕なんて全然ないんだからね!」 

 エドワードが声を張るも、続いて流れたのはしらけた空気。……うん、エドワードに任せるのもここらが限界だな。

 リアは咳払いをしてエドワードを引っ込ませ、あらためてアルの注意を引いた。

「実はあなたを折り入って頼みがあるの」

 リアがそう切り出すのを読んでいたのか、アルは即座にハッと鼻で笑った。

「馬を探せって話なら、悪いことは言わないから他を当たるんだな。ターフの錬金術師なんつーペテン野郎に馬を世話してもらったと知られちゃあ、あんたらの名誉に傷がついちまうかもしれねえぜ?」

「ち、違うの! 馬探しを頼みたいわけじゃないわ! い、いえ、場合によってはそういう話になるかもしれないのだけれど……」

 要領を得ないリアの言葉に、アルはいぶかしげに眉を寄せた。マルタも料理から顔を上げ、不思議そうにリアを見つめる。

 リアとエドワードは顔を見合わせ、自分たちの置かれた境遇を打ち明ける意志を確認しあった。

 リアは自分たちがターフの錬金術師を探しにきた理由を二人に説明した。

「……なるほどな。そのレースに負けると、あんたらの仲は引き裂かれ、あんたの持ってる財産はすべてそのなんとかっていう男の手に渡っちまうと」

「お願いします! 今度のレースに勝てるように、あなたの力を借りたいの!」

 リアは椅子を引いて深々と頭を下げた。隣のエドワードもリアに倣う。オールコックも後ろで腰を折っていることだろう。

 恥も外聞も捨てた懇願。しかし返ってきたのはつれないため息だった。

「悪いが、今の話を聴いただけじゃ、あんたらに手を貸すなんてとても約束できねえな。俺は人助けをするために馬の商売をやってるんじゃねえ。俺たちが馬を転がしてるのは、飯を食ってくためさ」

「それは分かってるわ! タダで力を貸せなんて言わない。お礼ならなんでもするわ! たいしたことはできないかもしれないけど……」

 負債を抱える我が身を思い出してリアが恥じ入ると、アルは煩わしそうに頭をかきむしった。

「金の問題だけじゃねえ。だいたいな、あんたら、まともに競馬に使える馬すら持ってねえんだろう? レースまであとひと月もないのに、今から馬を探すつもりか? そんな都合よく強い馬がそこらへんで買えるとでも思ってるのかよ?」

「そ、そこはだから、あなたの腕を見込んで……ね。それに、うちにいる馬だってこれから鍛えれば……」

「あのなあ」

 アルは呆れたように語気を強めた。

「『ターフの錬金術師』なんて怪しげな呼び名から魔術めいたもんでも期待してるんなら、勘弁してほしいね。いいか? 俺はただの馬買いだ。素質を持った馬がいないことにはなにもやりようがない。もし馬喰だから馬を鍛えられるだろうなんて考えてるんなら、筋違いもいいところだ。いや、長いことレースに使っていない馬を急に強くするなんて芸当、どんな調教師や騎手にだって無理だね」

「う……」

 正論だったのでぐうの音も出なかった。しかし、リアだって引き下がるわけにはいかない。

「無茶なお願いをしてるのは分かってる。でも、私たちだけじゃもうどうしようもないのよ……。あんな……ベイトニアンなんて怪物みたいな馬に勝つなんて……」

「ベイトニアン?」

 その名を耳にしたとたん、アルはぴくりと眉を動かした。

「知ってるの?」

 思わず訊き返したけれど、考えてみればこれは愚問だ。アルが馬喰の仕事をしている。ならば、名門マクニール牧場の出身で、今評判になっている馬を知らないはずがない。

「そうか……、あんたらが対戦する馬は、あのベイトニアンなのか……」

 アルはそうつぶやくと、なにやらひとりで考え込みはじめた。

「ベイトニアンが、どうかしたの?」

 リアが尋ねてみても、アルは依然として考えを巡らせていた。マルタを窺ってみるが、彼女も困り顔で首を振るばかり。

 ほとほと困りはてたが、しばらくしてようやくアルがリアを見返した。

「分かった。賭けってのはマッチレースでやるんだよな。それならあんたの話を受けてもいい」

「え、えっ?」

 あまりに唐突に掌を返されたものだから、リアは目を白黒させた。

「ほ、本当に協力してくれるんだね!?」

 エドワードが眼鏡の奥の瞳を大きくした。

「ただし、一つ条件がある」

 テーブルに身を乗り出したエドワードを、アルは片手で制した。

「じ、条件?」

 リアが息を呑むと、アルは不敵に口の端をつり上げた。

「明日もこの町で競馬があるのは知ってるな? そこでだ。明日のレースで俺と勝負しようじゃねえか。お互いにレースに賭けて、一度でも俺に勝てたら、あんたらの頼みをなんなりと聴いてやろう。なあに、難しい話じゃねえ。あんたらの覚悟の程を見せてもらいたいだけさ」

 アルはそう言うと、困惑するリアたちをおもしろそうに眺めた。

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