プロローグ
プロローグ
丘陵の向こうから細長い鼻面が見えてくる。
ウイニングポスト付近でおしゃべりに興じていた人々が一斉にそちらへ目を向けた。
「見ろ! 私の馬が先頭だぞ!」
燕尾服とシルクハットで着飾った男のひとりが、ゴールへ近づきつつある馬群を指さして興奮気味に叫んだ。長い直線の中程まで続く坂をのぼりきったところで、黒鹿毛の馬が一頭、一馬身ほど馬群から抜け出し、先頭に躍りだしていた。
「来い! そのままゴールまで粘れ、粘れ!」
血眼になって戦況を見つめる男は先頭を走る馬の馬主だ。
彼を取り巻く紳士淑女たちも、早くも勝利を期待して歓喜の声をあげていた。
一方、ほかの馬の陣営のあいだには、早くも落胆の雰囲気が漂いはじめていた。
「ねえ、私たちの馬はどこ?」
「まだ後ろのほうだぞ? あんな位置から間に合うのか?」
「なんてことだ! このままじゃ大損だ!」
頭を抱えたのは、このレースに馬を出している馬主の男だ。彼はこの一戦に相当な額をつぎこんでいる。
「やはりあんな芦毛の馬が強いわけが――」
「……いや」
レースが残り二ハロン(四〇〇メートル)を切ったところで、優雅な身なりの集団からはやや離れた位置で観戦していた赤髪の青年がぽつりとつぶやいた。
次の瞬間、レースは大きく動いた。
「あっ、見て! 後ろからなにか……」
シルクの手袋をはめた女性が先頭を走っていた黒鹿毛馬を指さした。
その後方から迫ってくる灰色の影。
「あれは……、我々の馬だ!」
追撃を開始したのは芦毛の一頭だった。その馬は残り二ハロンすぎで馬群の外へ持ち出すと、ぐんぐんと脚を伸ばし、先頭の馬との距離をみるみる詰めていく。
「ば、馬鹿なっ! こ、こんなことあるはずが……!」
慌てだしたのは先頭を走る馬のオーナーだ。自分に賞金をもたらす馬が、あろうことか先頭を脅かされようとしている。
「行けっ! かわしてしまえ! もう少しだ!」
対するライバル陣営は、さきほどまでの落胆から一変、形勢の逆転へ向けて必死に喉を震わせ、腕を振りまわしていた。
紳士淑女たちによるそんな大騒ぎを見て、青年は皮肉げな笑いを漏らした。
「元気だねえ、貴族様方は」
「仕方ありません。自分たちのお馬さんが一生懸命走っているんですから」
舌足らずな口調で青年に応えたのは、淡い色合いのワンピースを着た小柄な少女。
青年は相棒の少女の頭をぽんぽんと叩いた。
「いくら声をあげても無駄、ってな。いつもいってるだろ? 勝ち負けは、スタートを切った瞬間から決まってるのさ」
もちろん青年の言葉は、いよいよ決着の時を迎えようとするレースを見つめる紳士淑女たちの耳には届いていなかった。
「粘れぇぇぇっ!」
「差せぇぇぇっ!」
真っ二つに割れた必死の声援が互いを打ち消しあった瞬間、二頭の馬が馬体を接してゴールへ飛び込んだ。
しかし勝負の行方は明らかだった。
緑の絨毯を切り裂き、半馬身先にゴールへ飛び込んだのは――後ろから迫っていた芦毛の馬だった。
「いやっほぅっ! 我々の勝ちだ!」
レースの決着と同時に、勝者となった馬主は大きく拳を振り上げた。
彼の仲間たちも抱き合ったり手を打ちつけあったりして勝利の喜びを分かちあっていた。
他方、負けた馬主はきつく奥歯を噛み締めた。
「く……っ、あそこから逆転されるなんて……」
「いやぁ、すみません。今日はウチの馬にツキがあったようだ」
悔しさをにじませる敗者に右手を差し出したのは、勝った芦毛馬の馬主だった。
敗者はその握手に応じた。
「おめでとうございます。だが、次は負けませんよ」
「ええ、望むところです」
ふたりの紳士は堅く握手を交わした。勝っても負けても互いの健闘を称えあう。それが競馬をたしなむ紳士の礼儀だ。
レースに参加していたほかの馬主ともひととおり言葉を交わしたあと、彼はひとり馬主席を抜けだした。そしてラチにもたれかかっていた赤髪の青年に駆け寄った。
シュミーズ姿のその男は、どう見ても紳士ではない。しかし彼こそが、この勝利の立役者なのだ。
「グラッチェ! きみのおかげで大儲けだよ! さすがはターフの錬金術師だ!」
「お役に立てて光栄です」
握手に応じた青年は微苦笑を浮かべた。
「ただ……その呼び名はやめてもらえませんかね? どうもむずかゆくてしょうがない」
青年は実際、自らの首筋をぽりぽりと掻いてみせた。
「ハハハ、まあそういうな。あんな、みすぼらしい芦毛馬をレースで勝たせるんだから、まさに魔術だよ!」
青年は再び苦笑した。自分は呪文を唱えているわけでも祈祷をおこなっているわけでもない――ただ、走る馬を選んでいるだけだ。
「まあ、なんにせよ、今日はおめでとうございます。あの馬は、これからもまだまだ稼いでくれますよ」
「本当かい? それは楽しみだ! ああ、これは約束の成功報酬だ」
馬主は青年に小さな革袋を手渡した。なかにはいくばくかの謝礼金を入れてある。
「まいどあり。へへ、俺もこれで食いっぱくれずにすみますよ」
青年はすぐさま革袋を懐に仕舞った。いちいち中身を確かめないのは信頼の証だ。
「今回は本当に助かった。いや、一度きりといわず、毎回きみの力を借りたいくらいだよ。どうだい、きみ、我が家の専属の馬喰にならないかい? きみにだったら、いくら積んでも惜しくない」
「ありがたいお誘いですが、でも遠慮しときます。気ままに馬を探して歩いてるのが、俺の性分なんでね」
それに、やらねばならないこともある――口に出さなかったが、青年は内心そうつけくわえた。
「そうか……残念だ」
誘いを蹴られた馬主は小さく肩を落とす。
「それで、これからどうするつもりだい?」
「イタリアからはしばらく離れようかと。まあ、また戻ってきたら、ご贔屓に」
青年が恭しく腰を折ると、馬主はその肩を力強く叩いた。
「もちろんだとも! こちらこそまたよろしく頼む、ターフの錬金術師!」
「ハハハ……」
意気揚々と馬主席に帰っていく彼を見送っていると、青年は横からちょいちょいと袖を引かれた。
「アル、話は済みましたか?」
場を外していた相棒の少女が、いつのまにか戻ってきていた。
「ああ。ばっちりだ」
青年は懐から革袋を取り出して少女に見せる。次の馬の買いつけに使うぶんを差し引いても、しばらくふたりで飲み食いできるくらいはあるだろう。
「次はどこへ行きますか?」
「そうだな……」
少女から問われ、青年は少し記憶をたどった。この時期に馬のセリをやっているところとなると――。
「そうだな――まとまった金も入ったし、ひさしぶりに本場にでも行ってみるか」
青年は顔を上げ、北西の方角を見やった。
英国へ渡る船賃も用意しておかねばならない。