後編
――8月△日、晴れ時々夕立。
普段よりも燃料補給が遅れて九時前後に起動してしまった。
入道雲がいつもより増して大きいという予想通り、一気に辺りは夕立に包まれてしまった。ニュースでも報じていたほどのゲリラ豪雨だったようだが、遠くに見える山の木々は心なしか嬉しそうだった。
幸い私の研究室は雨漏りすることなく、博士は研究にいそしんでいた。日記に記す内容は少なく、残念である。
――8月☆日、快晴。
今日も相変わらず暑い。
最近ずっと自分の部屋を中心に動かない博士だが、今日は数日振りに私と一緒に外へ遊びに行った。近くで近所の子供たちに出会ったが、彼らは塾の帰りだという。子供たちはいつも勉強ばかりに追い回されている、将来それが役に立つわけでもないのに、などと深刻なことを考えてしまったが、事情を聞くと単に教室が涼しくて家よりのんびり出来るということで行っているという。博士の言うとおり、きっと将来大物になることだろう。
帰ってきた後は、そのまま博士は寝てしまった。よっぽど日々の研究が疲れていたのだろう。
――8月×日、快晴、日記最終日。
今日を持ってマナ・ダラーケル氏を中心とした観察日記は終了する。結果的に博士は期間中ずっと真面目に研究を続けていたのだが、残念ながらそれ故に日記に記す内容は博士中心ではなく、その周辺に見えるものが多くなってしまった。当初の目標である博士自身の観察日記とは異なる結果になってしまったが、私はそこから博士が以前に言っていた『観察日記は遊び心が必要』であるという言葉の意味を知ることが出来た。子供たちが書く日記には、こういった平凡な日常に様々な脚色を加え、自分自身が飽きないように様々な工夫が凝らされているのだろう、そして……
『……以上で、マナ・ダラーケル博士、そして私の発表を終わります。ご静聴ありがとうございました』
丁寧にお辞儀をした、ロボットのフラタック、通称「フララ」と、彼女を発明したマナ・ダラーケル博士に割れんばかりの拍手が送られました。決してお世辞ではなく、少々堅苦しいのですがしっかりと内容を纏めており分かりやすい日記の内容を褒め称えるための拍手です。何よりも、本番前日に受けたマナ博士からのアドバイスを参考に、丁寧なものから分かりやすさ重視へと変えた絵の内容も受けが大きかったのでしょう。そして、『彼女』はその音の渦の中で鼻高々のマナ博士の姿を自身の隣に見ました。今頃、彼女はこの拍手を全て自分宛てのものとして変換しているのでしょう。確かに自分はロボット、実質博士の「備品」という立場です。ですが、その博士は、フララが日記を付けている間ずっと……。
「では、何か質問はありませんか?」
司会の女性が、会場の研究者の人たちに尋ねるや否や、真っ先に上がる手がありました。その少々しわの多い掌と、自分の唇の上のヒゲを触る癖に、一瞬博士は驚いてしまいました。まさかいきなり、自分と同じ大学の先輩から手が上がるとは思わなかったのです。毎回彼は優しそうな顔で核心を突くという油断ならない人、どんな質問をされるか分かりません。しかし、今回はしっかりとフララは対策を練っている、どんなことを言われても大丈夫だ……と思っていました。
もう一人、発表者が立つステージ上にいる自分の対策を忘れていたことに気づかないまま。
「フラタック……フララ君の日記、ありがとうございました。
そこで疑問なのですが、マナ博士は観察日記をつけている間、ずっと『研究』にいそしんでいた、とありましたね」
『はい、その通りです』
「一体、マナ博士は「何を」研究していたのですか?」
……一瞬顔が真っ青になりかけながらも、慌ててマナ博士は答えようとしました。今までの発明品をチェックし、よりよりものにしようと努力していたという言い訳で誤魔化そうと。ですが、今回先輩博士が質問をしたのはフララの方。隣にいるマナ博士のことなどお構いなしというかのように、『彼女』は自身のスピーカーを伝って、見たままをずばり答えてしまいました。
『はい、博士は怠慢である状態を続けたまま、どうすればより良いことを私の日記に書かれるか、ということを研究していました』
……普通でしたら、ここでどよめきが走ったに違いありません。何せ「天才博士」がこのようなサボタージュをして、自身を誤魔化そうとすることなど言語道断でしょう。しかし、この発表会場を包み込んだのは、呆れ交じりの空気でした。予想通り、やっぱりそうか……そういう目線が、マナ博士に存分に向けられています。確かに彼らはこの研究においては第三者なのですが、科学という分野においては彼女と度々共同で研究などを行い、博士の性格をじかで体験した人たちばかりなのです……。
その中で、さらにもう一つの手が上がりました。よりによってこちらもマナ博士の同僚、しかも大学時代の同級生でした。
「それでー、マナちゃん……じゃなかったマナ博士はどんな風に誤魔化してたんですかー?」
「ちょ、ちょっと……」
マナ博士が口を挟もうとしても時既に遅し。あっという間にフララは彼女の手口を皆にばらしてしまいました。何より衝撃だったのは、騙せたと持っていた「ICスピーカー」どころか、『彼女』に教えていなかったはずの身代わり人形のことも既に熟知していたということです。いえ、実際は……
「な、何で知ってるのよあれのこと!だれにも言っていない……」
『何を言ってるのですが博士、忘れたのですか?得意げに私に自慢していたこと』
「え、ちょっと待って……私言ったっけ!?」
完全に博士は忘れていますが、フララの記憶には確かにその時の様子が克明に記録され、また映像や文章で入念にバックアップされていました。あっという間に発表用のステージは、マナ博士とフララのコント……それも少々寒いステージへと早代わりしてしまったようです。あいつらしいオチだ、という先輩からの声がマナ博士にとって非常に耳が痛いのは言うまでもありません。
「というか待って!なんでずっと黙ったまま日記を書き続けていたのよ!」
決定的なことを言われて一旦静かになった後、改めてフララは議題の前で皆に向かって言いました。
『私が今回の経験で最も多く得たのは、人間の「生暖かく見守る」という感情です』
このままだと確実に失敗する、自分にとって不利益になるという事を他人が言っても、絶対にその方針を曲げないという人は数多くいます。そういうときにどういう行動を取れば、双方にとって最も良い立場になるか、フララは日記をつける中で知ることが出来ました。普段避けている「放置」という手段を敢えて使うことにより、その間自身や相手にとって不利益なことは一切起こらない。そして、いざこういう形で問題が晒された時に、何故そのような行動を取らなかったのか、と自分は言うことができる。それを受けての相手の反省の感情は、普段よりもより大きいものになる……。
『……何故人間が宿題を夏休みの終わりごろに急いで行うのか。それは恐らくこのように「放置」という手段を自ら選択した結果だと私は考えます』
しかし、これは物事を放置し続けた時に起こりうる最大限の「まし」な形。放置せずに真面目に取り組み続けた形に比べると、非常にその価値は低いものである、とフララは力強く付け加えました。
横で燃え尽きているマナ博士の一方、しっかりと自分の意見を纏め上げたフララには最大限の拍手が再び皆から贈られました……。
===============================
ただ、あくまでそれは『彼女』の中での考えであっただけ。確かにうまくは纏め上げてはいましたが、これが前任にとって同じであるとは限りませんでした。
『博士……』
あの後、博士と共に研究室に戻ったきり、ずっと博士は黙ったまま一言も口を聞いてくれません。あのような場所で恥を晒されるということは人間にとって怒りという感情を引き起こさせる可能性の非常に大きいことである、という事は、フララにとって経験したことのない人間世界の約束。確かに自分の言ったことは間違いないはずだったのですが、今の博士の様子を見る限り、責任が大きいのは……
『申し訳ありません……』
静かに謝罪の念を示したフララ。それでも一切の反応を返さない博士を見ると、さすがの『彼女』でも耐え難いものを感じ取ってしまいます。もしかしたら、ずっとこのまま口を聞いてくれないのではないか……そのような危惧すら脳内からアウトプットされたときでした。
「よおおおおしっっ!決めたっ!!!」
突然立ち上がった彼女は、反応に困っているフララを自らの人差し指でばっちり見据えました。
「今日の事ではっっきり分かったわ!もうあんなことはこりごり!」
『は、博士……?』
このまま怒られるのか、それとも泣いてしまうのか。いくつかの予想を立てて反応に備えたフララでしたが、博士が取った行動は予想外のものでした。仁王立ちになった彼女は、大笑いし始めたのです。あれくらいでくじけるようでは、自分はまだまだである、と言わんばかりに。そして、そのまま博士は自身のアシスタントに、新たな発明のアイデアが今回の一件で浮かんだ事を告げました。その言葉を受け、先程の『過ち』を償うべく自分も手伝うと言ったフララでしたが……
「いいわよ、今度こそ私一人で大丈夫だから」
『し、しかし……』
「大丈夫、フララはあんなに凄い拍手もらえたじゃない!もっと自信持って、ね!」
なんであんな良いアイデアを今まで思い浮かばなかったんだろう、と言いながら、鼻歌交じりでテンションを上げるかのように廃材や失敗した発明が並ぶ倉庫へと向かうマナ博士。その後姿を見ながら、フララの回路に不思議な気持ちが湧き上がってきました。普段喧嘩ばかりしている彼女が、こうやって自らがあそこまで「恥」をかかせたのに怒りという感情を全く見せていません。それどころか、フララを明るく励ましてくれたのです。今まで一度も見たことがないマナ博士の姿に、彼女の記憶回路は全力で働き、この状態を自らの中で納得させようとしていました。そして得た結論が……
『ありがとうございました!』
最大限の感謝を、自らの生みの親であり、自らの最大の仲間であるマナ博士に伝えるという事でした。
===============================
……間違いなく、それからマナ博士は一気に自らの研究に従事しました。一度アイデアが頭の中に出ると、今までの怠け癖はどこに消えたのかという具合に、自らの体が持つ限り時間を全く無駄にせずに熱中し続けます。ただし逆にそちらに夢中になってしまうとつい無理をしがちという危険性も秘めていますが、そういうときこそアシスタントロボットであるフララの出番。『彼女』がペースメーカーとなって程よい休憩時間やご飯の時間を連絡したり、工場内に残る製造ラインを利用して大まかな形を作ったり、化学薬品を分析し、ちょうど良い形に仕上げたり……。さらに今回の発明品は、無菌室まで大いに利用する形となりました。何故これを夏休みの間やってこなかったのかと言われんばかりの集中力で、気づけばなんと1週間で出来上がってしまったのです。
勿論マナ博士の手ほどきは完璧なもの、今回も見事に失敗無しで発明品を作り上げました。そう、失敗は一切ないのです。ただ……
『博士……』
その「目的」に関しては、大いに失敗しているといわざるを得ない、というのがフララの脳内の感想でした。
「ちょっと、私が食べるのよそのアイス!」
フララの右側のマナ博士が机の上のアイスを取り上げようとすれば……
「何よ、私のアイスだって言ってるでしょ!」
フララの真正面のマナ博士がそのアイスを奪おうとし……
「私だって『今』は貴方たちじゃない、私のものよ!」
フララの左側のマナ博士も争奪戦に加わり続けます。
三人のマナ博士は、外見では全く見分けのつかないほどそっくり。二人の博士が、自分の正体が『代理用ナノマシン複合体・遺伝子搭載アメーボゾア型』……要するに色々な生物に変身できる巨大な人工アメーバが、創造主であるマナ博士に変身した姿であるという事を言わなければ、フララですら判別もつかないほどです。
そう、この身代わりを遣えば確かに口うるさいアシスタントを騙してぐうたらするのは簡単でしょう。ですが、どうやらこの人工アメーバたちはあまりにも優秀すぎて、頭の中の行動パターン……他人任せにしてサボりたいという心までコピーしてしまったようです。
『三人とも、喧嘩しているようでしたら、新しく外から買ってきたほうが……』
「「「暑いからやだー!」」」
三者、異口同音の返答。
……来年の夏も今年のように、いやそれ以上にドタバタ騒ぎになりそうな予感がよぎったフララは、自らの排気を静かに出しました。呆れ交じりですが、何だかんだで面白くなりそう、という意味合いも込めて。