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~ 六ノ刻   零系 ~

 ビルとビルの谷間。大都会の中心に、まるでそこだけ切り取られたかのようにして、その喫茶店は存在していた。


 間接照明の多い店内は、昼間でもどことなく薄暗い。増してや、これが夜ともなれば、少しばかり目が慣れないと足下さえ見るのに苦労する。


 店の奥に置かれているのは、あれは古いレコードプレイヤーだろうか。昼間は昔風のジャズ喫茶として経営しているようだが、さすがに夜では音楽も流していない。ただ、店の中を行き交う店員の足音だけが、やけに鋭く響いている。


 店の中でも特に奥の方に位置する席に、犬崎紅は一人の男と並んで座っていた。壁側の、洗面所の近くにありそうな薄暗い席。他人に話を聞かれる心配は、ほとんどないような場所だった。


男の年齢は、既に四十歳に差し掛かろうとしているといったところだろうか。初老というには程遠いが、それでも顔にはところどころ、若者にはない皺が刻まれているのが見てとれる。


「さて……。とりあえず、何から話したものかな……」


 グラスの中身を一口だけ飲んで、男が紅に言った。氷とグラスがぶつかる音がして、水面が軽く揺れた。


「そうだな……。まずは、そっちの正体と目的を訊かせてもらおうか」


 相手の姿を横目に、紅がぶっきらぼうに答える。未だ相手と顔を合わせることさえしないで、赤い瞳から刺すような視線だけを向けている。


 あの、路地裏で感じていた妙な殺気。それは他でもない、この男のものだった。尾行がばれて紅の前に姿を晒したときも、その隙の無さが顕在だったことは記憶に新しい。


 この男は、いったい何者か。なぜ、自分の後をつけ、更にはこんな喫茶店まで案内したのか。その理由を聞くまでは、紅も油断はできないと思っていた。


「生憎だが、回りくどい自己紹介は苦手なんでな。こいつを見れば、俺がどんな人間だか、お前にも一目瞭然だろう」


 スーツの内側に手を挿し入れて、男がなにやら手帳のようなものを取り出した。カウンターの上を滑らせるようにして、男はそれを紅の前に差し出す。


「これは……」


 手帳を前にした紅の目が、一瞬だけ大きく開かれた。彼の目の前にあったもの。それは他でもない、本物の警察手帳に他ならなかった。


 正面に葵の紋を備え付けられた、正真正銘の警察手帳。だが、単に警察の人間であるというだけならば、紅もそこまで驚きはしない。以前、火乃澤町で様々な怪事件を解決してきた際にも、紅は警察の人間と接触したことが何度かある。


 問題なのは、男の差し出した警察手帳が、現行の警察官が用いるものとは異なっていたということだ。地方の警察署ではおろか、警視庁に務める警察官でさえ使わない、黒い旧式の警察手帳。それが意味するものがなんなのか、紅とてまったく知らないわけではなかった。


「なるほど。あんたは公安の人間ってわけか……」


 公安警察。警備警察の公安・外事部門を担当する団体で、極右や極左、果ては外国の諜報機関やテロ集団に対してまで捜査、情報収集を行うことがある。主に、国家の治安や体制を脅かす敵と戦う、極めて特殊な位置づけの警察官である。


 要するに、日本におけるスパイのような組織ということだ。その活動の特殊性から一般の警察とは情報共有をせず、極秘に内偵などを行ったりすることが多い。故に、スパイという表現もあながち間違いではない。もっとも、そういった諸々の行動の結果、地元警察や一部の人権擁護機関などと、深刻な対立をすることも少なくはないのだが。


 そんな公安警察官が、いったい自分に何の用だ。訝しげに思いながらも、紅は手帳を男に突き返し、初めて彼の方へと顔を向けた。


 改めて見ると、男の顔が随分と戦い慣れしているそれだということに気がついた。紅の知る限り、警察官にこのような顔をした人間の姿を見た例はない。しかし、自衛隊や機動隊ともまた違うようで、一種、独特な近寄りがたさを醸し出している。


 傭兵。男の見た目を一言で言い表すならば、まさにその言葉が似合っていた。向こう側の世界・・・・・・・の住人を相手にし、時に人知を越えた怪物と戦ってきた紅でさえ、目の前の男を相手にして勝てる自信はない。少なくとも、純粋な肉弾戦においては、男の方が確実に上だろう。


 いったい、どれだけの修羅場を掻い潜れば、人間はこのような顔ができるようになるというのか。公安警察などキャリアのエリートがなるものだとばかり思っていたが、どうやら認識を改めねばならないようだ。


「それで……。いったい、公安の人間が、俺に何の用だ? 俺は別に、国家の機密に関するような事件を起こした記憶はないんだがな」


 できるだけ自分の感情を悟られないようにしつつ、紅は男に向かって言い放った。油断したら、その瞬間に相手のペースに飲まれる。そんな気がしたからだ。


「国家の機密か……。だが、お前にその気がなくとも、お前は既に国の機密に触れているとも言えるんだよ。それは、お前たちのような霊能力者の類が裏の世界……向こう側の世界・・・・・・・での連中を相手に仕事を始めたときから、必然的にな……」


 低く、押し殺すような声で、男は紅に言った。その言葉を聞いた紅の顔が、一瞬だけ震えて強張った。


 向こう側の世界・・・・・・・。霊だの神だのといった存在と関わる者たちの間で使われる、常世の総称でもある言葉。それを知っているということは、この男もまた霊的な力を持った人間なのか。だとすれば、自分に接触を試みて来たのは、やはりあのプロデューサー変死事件に関することだというのだろうか。


「俺も、長い話をするのは好きじゃない。だから、単刀直入に言おう」


 男の目が、紅をじろりと睨む。返答次第では、相手の口を封じることも厭わない。口では語っていないが、全身から放つ気迫のようなもので、男は紅に告げていた。


「今、お前が関わっているテレビ局の事件。その真相を、決して公にしないでもらいたい」


「いきなりな話だな。それに、公にするなとはどういう意味だ?」


「そのままの意味だ。お前が事件の真相を探るのは勝手だが、こちらにも事情というものがある。事件の裏に霊だの呪いだの祟りだの……そういった話があったことを、世間一般に、大々的に広めて欲しくはない。それだけだ」


「どうも、何かを勘違いしているようだな。俺は別に、オカルト好きな三流雑誌の記者じゃない。霊感商法まがいの手段で金を稼ごうとしているやつを潰そうってんなら、他を当たるんだな」


 グラスの中にある水を少しだけ口に含んだ後、紅は男から顔を背けた。


 公安警察が動いている以上、今回の事件に関しては、何か物凄く大きな裏があるのではないかと思っていた。しかし、目の前の男は紅を逮捕するわけでもなく、捜査に協力をして欲しいと頼んできたわけでもない。こちらの仕事の邪魔をされるかとも思ったが、どうやらそれも違うようだった。


 いったい、この男の真の目的はなんなのだろう。さすがの紅も、今回ばかりは相手の思惑が読めずにいた。それは一重に、男の隙の無い態度からくる部分も大きい。


 店内を再び静寂が支配し、店員が床を歩く足音だけが聞こえてくる。他にも数人の客がいるにはいたが、その誰もが紅たちには興味を示さず、自分だけの時間を過ごしている。


「ところで……お前は、公安四課についての噂を知っているか?」


 ほうっ、と溜息をついて、男が唐突に切り出した。


「公安警察にも色々とあってな。一課は極左、二課は労働組合、三課は極右といった感じで、捜査の対象が決まっている」


「興味はないな。それは、俺が知る必要のある話なのか?」


「そうだな。ここまでは、まあお前にも関係はないだろう。問題なのは、四課の詳細だ」


「詳細か……。だが、そんなことを、俺に話して問題はないのか? 公安警察ってのは、秘密裏に捜査をすることで有名だったと思うが?」


「問題ない。少なくとも、俺が今からお前に話すことは、傍からすれば、単なる都市伝説のような話に過ぎん」


 紅の疑問にも何ら動揺を見せず、男ははっきりと言い切った。


 通常、公安警察の捜査内容は、世間一般には極秘とされている。それは民間人だけでなく、同じく犯罪を取り締まる立場の、警察官相手でも同様だ。警視庁内部でも公安部は特殊な位置づけにあり、現場で捜査する警察官とも情報を共有することは極めて稀だ。


 そんな公安警察が、自分から仕事の詳細を明かす。ますます男の考えが読めなくなる紅だったが、今度は口を挟まずに黙っておいた。


「公安四課の仕事は、公には資料管理とされている。第一系が統計、第二系が資料整理という具合にな。だが、その他に、四課には隠されたもう一つの顔がある」


「隠された顔だと?」


「ああ、そうだ。公安四課第零系、通称火消しの零系。幽霊だの祟りだの……そういった類の話が絡んだ事件の後始末が、俺たちの主な仕事さ」


「なるほど、火消しか。ならば、例のプロデューサー変死事件に関して情報規制をかけたのも、そちらの差し金ということか?」


「察しがいいな。さすがは、その歳で退魔行を生業にしているだけはある」


 愛想笑いさえも見せず、しかし相手のことを認めるような態度。男の言葉が本心から述べられたことくらいは、不器用な紅でも十分にわかる。


「それで……お前達は、なぜ俺に、例の事件を公にしないよう頼みに来た? 見たところ、随分と向こう側の世界・・・・・・・について詳しいようだが……自分たちが主導になって、事件を解決するつもりはないのか?」


「それが出来れば苦労はしない。現に、こちらも人員を配備した上で、独自に捜査を行っている。あのテレビ局の中で、なにやら妙な連中が動き回っていると報告があって、お前の後ろをつけることができたようなものだしな」


 ポケットから煙草とライターを出し、男は素早くそれに火をつけて口に咥えた。自分の苛立ちを相手に悟らせないよう、わざと煙草に手を出したようだった。


「俺たちの管轄は、残念なことに資料管理が主な仕事だ。一応、霊的な存在が絡んだと思われる事件に対しての捜査権も持っているが、犯人逮捕も含め、最後は現実的なところで話をつけなくてはならない。俺たちの仕事はあくまで情報管理であって、犯人逮捕は一般の警察にでも任せておけばいい」


「情報管理か……。まあ、確かに、そちらの言うことも理解はできる」


 自分の方に向かって流れて来た煙草の煙を、紅はわざとらしく吹き飛ばした。それを見た男が、これまた無言で煙草の火を灰皿に押し付けて消した。喫煙はするが、嫌煙権を主張する相手に対し、無理強いはしない。煙草を一種のステータスとしか考えられない、一部の男たちとは違っていた。


 公安四課。火消しの第零系。そして情報管理。


 先ほど、男の口から語られた言葉を、紅はゆっくりと自分の頭の中で反芻してゆく。


 男の話が正しければ、彼の仕事は警察内部における心霊事件の取締りということになる。ただし、捜査はあくまで現実的な路線で進め、本業はもっぱら心霊事件の後始末。即ち、紅を始めとした退魔行を行う者たちが事件を解決した後に、その後処理をするということだ。


 もっとも、この日本における全ての心霊事件が、紅のような退魔師によって解決されているわけではない。中には不幸にも向こう側の世界・・・・・・・の住人に弄ばれ、その魂を闇に食われてしまった者もいるだろう。


 そんなとき、目の前の男は、果たしてどうしているのだろうか。答えは、先ほどの問答の中で、既に男がほのめかしていた。


 資料管理と情報操作。それらの仕事を本業とする者が、わざわざ高名な退魔師を呼んで事件を解決するとは思えない。恐らくは、犠牲者が全て出揃ったところで、適当な理由をつけて迷宮入りにしてしまうのがオチなのだろう。もしくは、事件を捜査していった結果、その情報を秘匿とする必要が生じた場合にのみ、初めて行動を開始するといったところか。


(火消しの公安か……。確かに、この仕事をするようになってから、そういった連中がいるという噂くらいは聞いていたな……)


 警察が、己の意思で事件を迷宮入りにする。にわかには信じ難いことであるが、今の日本の現状を考えると仕方がない。そう、紅には思えていた。


 公安警察が情報管理をするのは、一重に霊の存在を国家が認めるわけにはいかないという理由からだろう。紅たちにとっては当たり前の心霊現象も、一般の市民からすれば想像の世界でしか起こり得ないオカルトの産物だ。そんな話を大々的に認めてしまっては、国の威厳にも関わってしまう。


 しかし、その一方で、警察が秘密裏に事件を解決するわけにもいかない。そもそも、警察組織は霊能力者の集まりではないため、幽霊や妖怪のような連中と戦うには力不足だ。


 仮に、警察が専属の退魔師を募集すれば、それはそれで問題になる。公に人を集めるわけにもいかず、非公式に契約を結んだとしても、安定的に人員が補充できるわけではない。霊場と呼ばれるような場所を全て封鎖するわけにもいかないだろうし、国が率先して霊能力者を養成するわけにもいかない。


 国家としては霊の存在を秘匿にしたいが、それと戦うための人材を集めたり、霊的な存在から必要以上に一般市民を遠ざけたりすることは、返って己に対する疑念を増幅させるだけになってしまう。心霊事件に関わった人間を拘束、管理しても、あまりにやり過ぎれば、これもまた逆効果だ。


 認めたくないが故に隠す。しかし、現実は受け入れなければならないし、その一方で、自分たちの力だけでは事件を解決できない。だから、後ろめたいとわかっていながらも、情報操作という形で、霊能力者が事件を解決した際の後始末をする以外に道がない。


 結局、最良な方法は、霊的な存在が実在するという証拠を隠滅してしまうということなのだろう。証拠さえ消えてしまえば、後は関係者が何を言おうと、単なる夢物語で済ませられる。巷に氾濫している下らない怪談や都市伝説、作り物の心霊ビデオと同じように、ちょっと怖いお伽話程度に思われて、人々の記憶の中で風化してゆく。


 正に、国家という巨大な組織が抱えるジレンマだと紅は思った。そういう意味では、自分のように全てを認めて生きている人間の方が、まだ少しだけ気が楽なのかもしれない。


 以前、自分も幾度か霊的な存在と大っぴらに戦ったことがあったが、それらの事件が警察内部で大々的に扱われたという話は聞いたことがない。知り合いの警察官、火乃澤署の工藤辺りが上手い具合に報告書をまとめた結果なのかもしれないが、それ以外にも、見えない力が働いていた可能性もある。自分の知らない場所で、上に提出された記録の中から、特に怪奇で説明不能な現象を連想させる内容を、意図して削って保管させていた可能性は十分に考えられる。


「そちらの言いたいことは、俺にもわかった。だが、心配は無用だ。俺は別に、今回の事件を解決して、自分の名前を売ろうなんて考えてはいない。ただ、依頼を受けたからには最後まで仕事をさせてもらうし、場合によっては激しい戦いになることも已むを得ない」


「それは、こちらも承知している。俺としても、お前が必要以上に霊的な存在を人目に触れさせることをしなければ、何も問題視はしないさ。むしろ、呪いだの幽霊だのと言った話を先に片付けてくれた方が、こちらも手間が省けるからな」


「本当に、そう思っているのか? さっきから聞いていたが、そちらも向こう側の世界・・・・・・・の話には、かなり詳しいようだが……。あんた達の仲間に、俺のような能力を持ったやつはいないのか?」


「残念ながら、該当する者は一部の者しかいないな。しかも、運悪く別件で出払っていて、今は東京にいない」


 男の視線が、火の消えた煙草の転がっている灰皿に向かって落ちた。


「先ほども言ったが、俺たちは元々、心霊事件の隠蔽と資料の管理が主な仕事だ。場合によっては霊能力者に仕事を依頼することもあるが、それだって多くはない。互いに不干渉でありながら、利害の一致によっては共闘する。それだけの関係さ」


「利害の一致、か……。だとしたら、当面は対立する必要もなさそうだな。ならば、そちらはそちらで、思うように捜査を進めればいい」


「悪いが、そうさせてもらう。ただ……最後に、一つだけ教えて欲しい」


 今までとは打って変わって、男が急に下手に出た。自分から他人に物を頼むようには見えなかったので、これには紅も面食らった。


「今回の事件、霊能力者として、お前はどう考えている? やはり、呪いや祟りの線が濃厚なのか?」


「まだ、はっきりしたことは言えない。ただ、あのテレビ局に、何か妙な物がいるということはなさそうだ。例の廃屋の映像は……こちらも、俺が見た限りでは、特に危険なものは映っていなかった。目に見えない幽霊の類は映り込んでいたが、既に霊害封じのようなものを施された後だった」


「なるほど。そちらもまだ、事件の真相には迫っていないというわけか……」


「残念ながら、今のところはな。期待に添えなくて悪かったな」


「いや、構わん。何の能力もないこちらとしては、行動が後手になるのが常だからな。今回の件、例のプロデューサーの変死事件を隠蔽するだけで、正直精一杯だった部分もある。田舎の小さな街で起きた事件ならいざ知らず、まさか、生放送の現場であんなことが起きるとは……」


 それ以上は何も語らず、男は再び押し黙った。もっとも、彼の言わんとしていることがわかるだけに、紅もあえて追及はしなかった。


 公安四課、第零系の仕事は、心霊事件の存在が公になるのを防ぐこと。彼らの立場からすれば、プロデューサーの西岡が変死した事件は、是が非でも事故死という扱いにせねばならなかったのだろう。


 仮に、あの事件が生放送ではなく、収録された映像を流した際に起きたとしたら、ここまで問題は大きくならなかったはずだ。本放送の際にカットすることもできるし、西岡の死を単なる事故死として片付けても騒ぎにはならない。単に、ネット上で噂される都市伝説の類として、多くの情報の下に埋没してゆくだけだ。


 そもそも、≪奇跡空間ミラクルゾーン≫のような番組の存在を容認しているのも、必要悪という考えがあってのものである。視聴者も、心霊番組で放送されることが全て真実とは思っていないため、ああいった番組がやらせで怖い話を盛り上げてくれることは、返って都合がいい。


 嘘を隠すための場所は、二つの真実の狭間である。ならば、その反対に、真実を隠す場所は二つの嘘の狭間ということになる。


 作り物の心霊話や心霊映像が適度に流通している間は、本物の心霊事件が起こっても、さしたるパニックを起こさないで済む。「あの手の話は、どれもよくできた作り物に過ぎない」という印象を一般人に与え続けることで、世間一般に霊の存在を深く認めさせずに済むのだ。


 だが、今回ばかりは、そんな番組の存在そのものが裏目に出た。なにしろ、生放送の本番中に、プロデューサーが関係者の目の前で変死したのだ。テレビ局側に圧力をかけて緘口令を強いても、当然のことながら、情報は漏れる。


 篠原まゆのような関係者が、事件の扱いに疑念を持つこともあるだろう。また、御鶴木魁のような、表の世界にいながら本物の力を持った存在が、妙なやる気を出して積極的に首を突っ込んで来るかもしれない。


 心霊事件の存在を認めたくない者たちからすれば、今回の事件は、まさに冷水を浴びせられたようなものだったに違いない。今までは不干渉の立場を保っていた公安が、ここに来て急に紅と接触したことも気にかかる。それだけ、公安の側も追い詰められているということなのだろうか。


「とりあえず、今日は互いにここまでしか話せないようだな。勘定は俺の方で支払っておくから……次に何かあったときは、こちらに連絡して欲しい」


 男がスッと席を立ち、紅の前に一枚の名刺を差し出した。それを受け取った紅は、名刺に書かれた文字を見て、一瞬だけ怪訝そうな顔をした。



――――警視庁公安部第四課 死霊・・管理室所属 香取雄作かとりゆうさく



 男の手渡した、名刺に書かれていた言葉である。その、およそ公安警察にあるまじき部署の名前に、紅は苦笑を堪えることができなかった。


「なるほど。資料と死霊をかけているわけか。あんた達の上の人間も、少しは洒落のわかるやつがいるらしいな」


「まあ、そういうことだ。もっとも、俺はその名前も、言い得て妙だと思っているがな」


「確かに、一理あるな。しかし……本当に、構わないのか? 公安警察ってやつは、もっと疑り深い連中だと思っていたが……」


「普通はな。だが、何度も言っているように、俺たちの仕事は心霊事件の火消しだ。そのためには、今は手段を選んでいる場合ではない。一刻も早く事件を解決しなければ、騒ぎが大きくなる一方だ」


「ならば、俺以外の霊能力者に依頼をすればいい。警察官の中にはいなくても、お抱えの霊能力者ぐらいはいるだろう?」


「残念ながら、それも難しいな。不干渉の立場をとり続けて来た俺たちにとっては、霊能力者の類と頻繁に会うことも問題だ。それこそ、相手の顔が世間に売れているようならば、尚更なんでな」


 最後の方は、少し言葉を濁すような感じになった。それが、香取たちの抱えるジレンマの一つであるということに、紅も直ぐに気がついた。


 表向き、心霊事件の存在そのものを否定しているはずの警察が、白昼堂々と霊能力者に会う。それも、下っ端の捜査員ならいざ知らず、それなりの地位がある者が。


 そんなことをすれば、それは即ち、警察が心霊事件の存在を認めていると言っているようなものだ。心霊事件を一刻も早く解決したいのは山々だが、それでも霊能力者との接触は、必要最低限に絞らねばならない。それに、秘密主義を貫き通すためには、信頼できる霊能力者がいなければ意味がない。


 信じるが故に情報を隠し、しかし、信じるが故に表向きは存在を否定している者達と会合する。そのようなジレンマを抱えている人間が、あえて自分と接触を試みた。その事実が、相手の窮状をそのまま表しているようで、紅も香取には何も言えなかった。


 このまま、香取の話を全て信じるわけにはいかない。状況は向こうも同じなのだろうが、今は互いに手持ちのカードを見せながら、相手の顔色を探っているような状況だ。それでも、互いに反目したまま事件の捜査に当たるよりは、個々に動きつつも情報を交換し合う必要もあるだろう。


 利害の一致。先ほど、香取が言っていた言葉が頭をよぎる。


 目の前の相手は敵ではない。が、別に味方というわけでもない。互いに職務として果たさねばならぬことがあり、その優先順位を保ちつつ、相手の力を利用し合うような関係だ。その関係が崩れたとき、香取は紅の敵として、容赦なく目の前に立ち塞がることになるのかもしれない。


 できれば、そんな状況は招きたくない。そう思いながら、紅は香取から受け取った名刺を懐にしまった。無論、紅としても、ただで相手の要求を飲んだつもりはない。


 火消しの零系が心霊事件の隠蔽を行っているのであれば、その中に闇の死揮者が絡んだ事件もあるかもしれない。ならば、闇雲に呪いの話を追いかけるよりも、香取のような人間と接触し、情報を得た方が話は早い。


 もっとも、向こう側の目的が心霊事件に関する資料の管理である以上、そう簡単に情報は引き出せないこともわかっていた。ただ、このまま霧の中を彷徨うように死揮者を探すよりは、香取のような男とのパイプも、これからは大切にしてゆかねばならないと感じていた。


 喫茶店の壁際に置かれた大時計が、夜の十時の鐘を告げた。そろそろ、店自体も閉店する。そう急ぐ必要はなかったが、会計を済ませる香取を横に、紅は一足先に店の外へと出て行った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 九条照瑠が目を覚ましたのは、時計の針が朝の九時を回ったところだった。


 眠たい目を擦りながら、照瑠は大きな伸びをして辺りを見回す。朝の陽射しが射し込む部屋の中には所狭しと布団や毛布が散らかって、ソファーやクッションまで寝床代わりに使われている。


(うぅ……。昨日はちょっと、夜更かしが過ぎたかもね……)


 腰まで届きそうなほどに長い髪を手ぐしで掻き分けながら、照瑠はもそもそと毛布の中から這いずり出た。


 周りを見ると、他の人間は未だまどろみの中にいるようだった。ベッドの上では雪乃が軽い寝息を立てており、その直ぐ隣に敷かれた布団の中では、亜衣が大の字になって広がっている。


 篠原まゆは、ソファーの上で丸くなっている。彼女は実家に帰ることもできたのだが、なにしろ夜も遅かった。それに、独りでいるのは不安とのことで、なんだかんだで雪乃の家に泊まっていた。


 まゆの年齢は、照瑠たちよりも一つ上だ。しかし、こうして見ると、先輩としての威厳のようなものは、あまりない。両手で毛布をつかみ、小動物のように丸まっている様を見ると、自分の高校の同級生として見ても違和感がない。


 周りにいる友人達を起こさないように気をつけながら、照瑠はそっと枕元に置いておいた携帯電話へと手を伸ばした。


 着信、メール、共になし。見慣れた壁紙だけが表示され、照瑠はがっくりと肩を落とす。


 結局、昨日の晩から今朝にかけて、紅からは何の連絡もなかった。考えがまとまらなかったのかもしれないが、それにしても、少しばかり冷たいと思ってしまう。今、どこに泊まっていて、何をしているのか。その程度なら、教えてくれてもいいはずなのに。


「なんか……信用されてないのかな、私……」


 ふっと、そんな言葉が口から零れた。


 別に、紅が不器用なのは、今に始まったことではない。便りがないのは無事な証拠。紅の場合、それを地で行っているような節があるのは否めない。


 ただ、それでも、やはりどこか寂しく思ってしまうのは気のせいか。


 自分の力を過信しているわけではないが、照瑠自身、随分と癒し手としては力をつけてきた。父である穂高の話によれば、照瑠の霊能力者としての成長は、極めて早く優れたものだという。親馬鹿を抜きにしても、それは遠からず当たっていると照瑠は思った。


 普通、何らかの霊的な力を身につける場合、数年から数十年に渡って、厳しい修業を積まねばならないという話の方が多い。確かに自分は優れた才能を持って生まれて来たのかもしれないが、一年も経たない内に、癒し手としての基本的な力を習得しつつあるというのは異常だ。


 自分の両手を広げてみながら、照瑠は自らの中に流れている血の力を、改めて恐ろしく感じてしまった。


 今は亡き、母と祖母の二人の癒し手。その二人とて、こうまで早く力をつけたという話は聞いたことがない。今の自分は生前の二人には及ばないのだろうが、それでも、二人が生きていたなら、今の照瑠を見てなんと言っただろうか。


 生まれ持って授かった、天性の才能。その力を解放してゆくことは、それは即ち、自分が犬崎紅のような存在に近づいてゆくということを意味している。彼のような外法を使う力は持たないが、強い癒しの力を持った霊能力者として、自分は確実に浮世から離れた存在になりつつある。


 初めは、自分から望んだこと。人を癒すための力を手に入れ、向こう側の世界・・・・・・・の住人とも関われる力を持てば、それで多くの人を助けることができる。紅の世話になりっぱなしということもないだろうし、今までは救えなかったような人でさえ、自分の力で助けることができる。そう、思っていた。


 だが、実際に力がついてくると、照瑠は自信と同時に少しばかりの不安を覚えていることに気がついた。


 そもそも、霊だの呪いだの祟りだのと言った話は、普通の人間からすれば、眉唾ものの話なのだ。そんな連中に通じる力を持ち、また自分自身がそういった類の存在を強く信じることで、今までの日常が壊れてしまいそうで怖かった。


 癒し手として、自分が真の力に目覚めたとき、自分は本当に今までの日常を失わずに済むのだろうか。紅のように、自分の生き方や在り方に疑問を持たず、自分の存在を強く保ち続けることができるのだろうか。


 およそ、馬鹿馬鹿しい、下らない不安だと照瑠は思った。照瑠の知る限り、友人達は、他人を偏見の眼差しで見て嫌悪するような人間ではない。嶋本亜衣などはその典型だし、他の友人達も、なんだかんだで変わり者が多い。


(結局……私は犬崎君に、一緒にいて欲しかっただけなのかもね……)


 今の自分が、紅に対して求めていること。それが彼に対する甘えだと気づき、照瑠は自分の気持ちを堪え、ぐっと中に飲み込んだ。


 自分の日常が少しずつ非日常に侵蝕されてゆく不安。それを、常に非日常の中に生きている人間と一緒にいることで、自分は少しでも和らげようとしていた。紅と一緒にいることで、そうした不安から逃げ出して、知らない間に彼の存在に依存しようとしている自分がいた。


 人として、それに、何よりも紅の友人として、照瑠は今の自分の気持ちが恥ずかしく思えて仕方がなかった。


 確かに、紅から連絡を貰えなかったのは不安だし、彼の安否も気にかかる。それに、単なる依存心だけでなく、彼に対しては、もっと複雑な感情を抱いているのも事実である。


 しかし、それでも自分が紅に対し、一方的に甘えてよいという理由にはならないはずだ。彼は彼で、色々なものを抱えて生きているであろうに、一瞬でも付抜けた考えに身を寄せようとしたことが後ろめたい。


(しっかりしろ、九条照瑠! 全ては、自分が望んだことじゃない!!)


 携帯電話を閉じ、照瑠は自分の頬を軽く叩いて気合を入れ直した。少しばかり痺れた頬に、朝の冷たい空気が沁みる。


「さて……。それじゃあ、そろそろ皆を起こさないといけないわね。いくら日曜日でも、そういつまでも寝ていられるほど、私達も暇じゃないし……」


 未だ足下で口を広げて夢を見ている亜衣の顔を覗きこみ、照瑠は誰に聞かせるともなく呟いた。


 犬崎紅が、自分のことをどう思っているか。それは、今は考えないことにしよう。紅が何を考えていようと、自分自身が己を強く持たなければ、それが紅の迷惑へと繋がってしまう。


 自分の力で、困っている人間を助けること。向こう側の世界・・・・・・・の住人と戦う紅のために、少しでも力になれるようにすること。それを叶えるために、自分は巫女の修業を申し出て、ここまで力をつけて来たのではなかったか。


 初心、忘れるべからず。ありきたりの言葉だが、照瑠の頭の中に、ふとそんな言葉が浮かんできた。使い方を少しばかり誤っているような気もしたが、今の照瑠にとって、それはほんの些細な問題にしかならなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 葵璃凍呼が宮森良太から連絡を受けたのは、日も少し昇り、昼に近付いた時刻だった。


 宮森のことは、凍呼も仕事の関係でよく知っている。例の、≪奇跡空間ミラクルゾーン≫の撮影スタッフの一人で、ADとして様々な雑用をこなしていたからだ。休憩中に話をすることも珍しくなく、気さくで話し易い人間という印象を抱いていた。


「いや、ごめんね、凍呼ちゃん。なんか、急に呼び出しちゃって……」


 くたびれたワイシャツを少しばかりズボンからはみ出させながら、宮森が頭をかいて現れた。


「大丈夫ですよ。私も、今日はそこまで忙しいスケジュールじゃありませんから」


「そうかい。そう言ってくれると、俺も助かるよ」


 そう言いながら、宮森は、はみ出たシャツを乱暴にズボンの中にねじ込んだ。その様子を、凍呼は少しばかり苦笑しながら見つめている。


 凍呼が宮森に呼び出された理由。それは他でもない、ディレクターの室井に関することだった。


 あの日、例のプロデューサー変死事件が起きてから、室井とは連絡が取れていない。それは凍呼だけでなく宮森も同じようで、彼もまた、あれから室井の顔さえ見ていなかった。


 プロデューサーの西岡が亡くなってしまった以上、番組スタッフに指示を出せるのは室井しかいない。ディレクターとは、即ち番組制作における現場監督のようなもの。室井の指示がない間は、宮森たちは自分の好き勝手に動くわけにはいかないのだ。


 今後、番組の行く末がどうなるのか。せめて、それだけでも聞いておきたい。継続するにしろ、打ち切りになるにしろ、そろそろ次の話をしてくれなければ困ってしまう。


「それにしても……室井さん、大丈夫なんでしょうか……」


 室井の自宅であるマンションに向かいながら、凍呼はぽつりと呟いた。


 今後、自分の仕事がどうなるのか。凍呼にしてみても、それは気になるところである。だが、それだけであれば、別に自分が出向く必要などない。


そもそも、心霊番組のレギュラーなど、凍呼は好きでやっているわけでもない。この程度の要件であれば、彼女の事務所のマネージャーが、室井と話をすれば済む話だ。


 今回、凍呼が宮森の呼び出しに応じた理由。それは一重に、室井の身を案じてのものだった。もっとも、室井に対して何か特別な感情があるわけではなく、どちらかと言えば、自分の中にある妙な不安を払拭したいという気持ちが強かった。


 西岡の変死の真相は、あの御鶴木魁でさえわかってはいない。局内には緘口令のようなものが敷かれているようだし、マネージャーに頼んだところで、真相は教えてもらえないに違いない。こうなると、後はディレクターの室井から、知っている限りの話を聞く他になくなってしまう。


 テレビ局や事務所は、凍呼を不安にさせないという配慮をしたつもりなのかもしれない。が、それはそれで不安を煽る。既に、心霊事件の当事者となっている凍呼にとっては、己の目で見て、己の耳で聞かなければ、西岡の死について納得のゆく答えを出せそうになかった。


「しっかしなぁ……。この大変なときに、室井さん、なにやってんだろう」


「そう、ぼやかないで下さいよ。室井さんだって、色々大変なんだと思います」


「でもさ。せめて、連絡くらいくれたっていいじゃないか。あんな事件があって、俺たちだって不安になってるって言うのに……この数日間、音信普通ってのは、さすがに酷いと思うけど?」


「そうですね。でも、室井さん、あの日も風邪ひいていたみたいですし……。無理を言ってもしかたないんじゃないですかぁ?」


 収録の前日、室井と携帯電話で話をしたときのことを、凍呼は思い出していた。


 電話越しの室井は、露骨に凍呼の体調を心配する素振りを見せていた。もっとも、本心から心配しているというよりは、どちらかと言えば妙な下心がありそうな口調だった印象が強い。


 室井が女好きなこと。それは、凍子も今までの付き合いから知っている。今回の訪問も、室井がディレクターという立場でなければ、宮森が同伴してくれなければ、特に好き好んで行きたいとは思えなかった。こちらにも事情があるとはいえ、さすがに一人で大人の男の暮らしているマンションを訪問するのは怖い。


 ただ、それにも増して印象に残っているのが、電話越しに聞こえてきた湿った咳だ。室井は風邪だといっていたが、あんな切れの悪い咳は、凍子もあまり耳にしたことはない。少なくとも、自分が風邪をひいたときに比べても、室井の体調が芳しくないことくらいは想像がついた。


 待ち合わせの場所から数分ほど歩いたところで、凍呼と宮森は室井の住んでいるマンションに到着した。


 室井の住んでいるのはオートロック式のマンションであり、暗証番号を入力して自動ドアを解錠するタイプのものだ。その他に、カードキーなどは必要ないようだったが、番号を知らねば解錠できないことに変わりはない。


「あれ……? 宮森さん、室井さんのマンションの暗証番号、知ってるんですかぁ?」


 手慣れた様子で暗証番号を入力した宮森を見て、凍呼が怪訝そうな顔をしながら尋ねた。


「うん、まあね。前に、ちょっと仕事の関係で、何度か尋ねたことがあるから」


「へぇ……。宮森さんも、大変なんですね」


「そうでもないよ。仕事とは言っても、半分は飲み会みたいなもんだったしね。後は、俺の持ってるエロDVD貸して欲しいなんて、個人的な要求の方がメインだったこともあるし……」


「なっ……! さ、最っ低……」


 自分の前で躊躇いもなく下ネタを語る宮森に、凍呼は赤面しながら言葉を切った。


 別に、宮森が最低なわけではない。男のたしなみとして、エロビデオの一本くらい、家に置いてあっても普通のこと。そのくらいは、凍呼とて理解していることだ。


 問題なのは、仕事にかこつけてADを呼び出し、公然とエロDVDを借り受ける室井の態度である。職場の上司という立場を利用して、わざわざそんな下らないことで宮森を呼び出していたのだ。半分は仕事の話もしていたのだろうが、それでも凍呼は室井に対する嫌悪感を拭いされない。そして、行き場のない彼女の感情は、どうしても目の前にいる宮森の方に向けられてしまう。


 なんだか妙に気まずい空気になって、二人は無言のままエレベーターに乗り込んだ。別に、自分は何も恥ずかしいことなどしていないのに、凍呼は自分の顔が赤くなったままなのを、どうしても抑えきれないでいた。


 エレベーターのランプが点滅し、四階に到着したことを示す。ドアが重たい音を立てて開き、二人は流れるようにして外に出た。


「こっちだよ、凍呼ちゃん。迷わないように、気をつけて」


 宮森の案内で、凍呼は長く伸びたマンションの廊下を歩いて行った。この歳で迷子になるとは思っていなかったが、しばらく歩いていると、宮森の言わんとしていることがなんとなくわかった。


 室井の住んでいるマンションは、扉の造りや廊下の造りが極めて似通っている。外付けの階段の場所も含め、どうにも似ている場所が多くて困る。別に、迷うというほどでもなかったが、知っている者が一緒でなければ、室井の住んでいる部屋を見つけ出すのは難しそうだった。


 灰色のコンクリートで覆われた廊下を歩き、二人は建物の東側に出る。突き当たりから数えて三番目の部屋の前で、宮森は足を止めてインターホンを押した。


「室井さん。俺です。ADの、宮森です」


 返事がない。ちょうど、昼食時だったことも相俟って、入れ違いに外出されてしまったのだろうか。


「室井さん。いるんだったら、返事くらいしてくださいよ。あれから連絡なくて、俺達も困ってるんですけど!!」


 最後の方は、少しばかり乱暴な口調になって声を荒げた。そんなに叫んだら、室井だけでなく他の住人にも聞こえてしまうのではないか。そう思った凍呼だったが、やはり返事は何もなかった。


「おっかしいなぁ……。室井さん、昼飯でも食いに出かけちゃったのか?」


 訝しげな顔をして、宮森は何気なく扉の取手に手をかける。室井が留守ならば、絶対に開くはずはない。が、果たして、宮森の予想は外れ、ドアは静かに開け放たれた。


「えっ……? ドアが……開いてるの……?」


 怪訝そうな顔をして、凍呼は扉と宮森を交互に見つめた。大方、鍵がかかっているとばかり思っていたのだろう。これには宮森も驚いた様子で、しばし言葉を失って固まっていた。


「ねえ、宮森さん。室井さんって、家の鍵を閉めないような人なんですか?」


「んっ……!? ああ、まあね。マンションがオートロックだからってのもあるけど……自分が部屋にいるときは、鍵を閉めないことが多い人だよ。さすがに、外出するときは鍵を閉めるみたいだけど……」


「だったら、室井さんは、まだ部屋の中にいるってことですよね? なんで、返事がなかったんだろう……」


 不安そうに俯いて、凍呼は自分の足下に目を向けた。


 宮森の話を信じるならば、室井は普段から不用心な人間だったと言える。当然、鍵がかかっていないことは、室井に限っては不自然なことではない。


 では、そんな室井が、凍呼や宮森の再三の呼び出しに答えなかったのは何故だろう。携帯電話も繋がらないし、果てはインターホンの呼び出しにも出ない。普通に考えれば外出していると思いがちだが、室井の部屋の鍵は開いていた。


 いったい、これはどういうことか。まさか、室井の風邪は思ったより深刻で、電話やインターホンにも出られないくらい酷いのではないか。


 だとすれば、これは二人にとっても一大事である。室井に倒れられたら仕事にならないというのもあるが、自力で立てないくらい酷い風邪なら、放っておけば大事に至る場合もある。


「ねえ、宮森さん」


「ああ、わかってる。こいつは、許可を気にしている場合じゃないな」


 皆まで言わずともわかる。そう、頷いて凍呼に答え、宮森は部屋の扉を勢いよく開け放った。


 扉が開くと、そこには狭苦しい玄関が広がっていた。無造作に転がった靴が目に入り、奥へと続くキッチンの床には、ゴミを詰めた袋があちこちに転がっている。


 一瞬、部屋に入るのが躊躇われたが、宮森が中へと踏み入ったことで、凍呼も意を決して彼に続いた。瞬間、なにやら饐えた臭いが鼻をついたが、口で息をして我慢した。


 そろそろと、どこか遠慮がちになりながらも、宮森と凍呼は部屋の奥へと進んで行った。リビングに入ると、これまたあちこちに色々な物が散乱しており、室井が自堕落な生活を送っていたことが容易に想像できる。


 部屋の隅に転がっている本の中に女性の裸を見つけ、凍呼は思わず顔を背けてキッチンへ戻った。ゴミ屋敷と呼ぶのは大袈裟だが、それでも少々汚すぎる。それに、エロ本やエロビデオの類を堂々と部屋に転がしている時点で、室井の私生活がいかに節操のないものなのか、嫌でもわかって仕方がない。


 いったい、自分はここで何をしているのか。ふと、そんな虚しさが湧いてきたとき、凍呼は目の前に白塗りの扉があるのに気がついた。


(あれ、この扉……)


 目の前の扉は完全に閉じてはおらず、半開きのような状態になっていた。奥の部屋がリビングならば、ここは恐らく寝室か何かだろうか。


 くすんだ山吹色の取手を握り、凍呼は扉をそっと開ける。もしかすると、室井は身体の具合が悪く、この部屋の中で寝ているのではないか。そう思って扉を開いた瞬間、なにやらむっとする、酷く生臭い臭いが溢れて来た。


「うっ……。な、なによ、これ……」


 流しの下と言っても物足りない。腐った卵というのも違う。なにやら、物凄く濃厚で、それでいて胸やけを引き起こしそうな酷い悪臭。ちょうど、浜辺に打ち上げられて死んだ魚が、真昼の陽射しにやられて腐ったような臭いだ。


「どうしたんだい、凍呼ちゃん?」


 扉の前で動けなくなっている凍呼に気づいたのだろう。宮森が、リビングから出て凍呼の開けた扉の前に立った。


 瞬間、扉の隙間から漏れた酷い匂いが鼻をつき、宮森もまたハンカチで鼻を抑えて後退さる。いったい、この臭いは何だろう。いかに室井が自堕落な生活を送っていたとはいえ、この臭いはあまりにも酷過ぎる。


「あの……。宮森さん……」


「わかってるよ、言わなくても。ここ、室井さんの寝室だからな。中で、何かあったのかもしれない……」


 それ以上は、宮森も何も言わなかった。寝室の中から漏れてくる悪臭の正体が何なのか。それは、宮森だけでなく、凍呼もまた薄々感づいている。ただ、それを認めてしまうのが酷く恐ろしくて、どうしても口に出せないでいた。


 ハンカチで鼻先を抑えたまま、宮森が凍呼に変わって扉を開ける。途端に、今まで以上の物凄い生臭さが二人を襲い、宮森と凍呼はしばし部屋の中に入るのを躊躇った。


 いったい、この部屋で何が起きた。この部屋の奥に、何が待っているというのか。


 壁伝いに探るようにして、宮森は部屋の中に足を踏み入れた。凍呼も後ろに続く。宮森の背中に隠れるようにして、時折、その顔を覗かせながら、いつになく怯えた様子で部屋の中に入る。


 寝室として使われている部屋は、これまた酷く散らかっていた。脱ぎ捨てられた下着が転がり、他にもいくつか衣服が散乱しているのが見てとれる。が、今の宮森と凍呼にとっては、そんな物は取るに足らない些細な物でしかなくなっていた。


「い、嫌ぁぁぁぁっ!!」


 宮森の後ろから、凍呼の甲高い悲鳴が聞こえてきた。宮森自身、その悲鳴を聞きながら、まったく動けずに部屋の中に立ち尽くしていた。


「そ、そんな……。室井さん……」


 そこにいたのは、室井だった。いや、かつては室井と呼ばれていた、一人の男の成れの果てと言った方が正しいか。


 ベッドの上の死体は仰向けに横たわり、苦しそうに胸元を抑えていた。口は大きく開かれており、その頭部の半分程が既にない。ベッドの上に置かれた枕を中心に、部屋の壁、床、そしてシーツの上にまで、ありとあらゆる場所に血が飛び散っている。それだけでなく、赤黒い血や肉の塊に混ざって、砕け散った脳漿までもが室井の顔の周囲に散らばっていた。


「あ……あぁ……」


 掠れた声と共に、何かの倒れる音がした。慌てて宮森が振り返ると、そこには白目を向き、完全に失神している凍呼の姿があった。


「と、凍呼ちゃん!?」


 倒れた凍呼に駆け寄って、宮森は彼女を抱きかかえて名前を呼んだ。しかし、あまりに壮絶な室井の死に様を目の当たりにしてしまったからだろうか。いくら呼べども、叫べども、凍呼は一向に目を覚まそうとはしなかった。


 その腕の中に凍呼の細く、しかし柔らかい身体を抱えたまま、宮森は改めて室井の方へと顔を向けた。が、直ぐに凍呼の方へと向き直り、彼女を抱えたまま急いで部屋を後にした。


 先ほどから漂っていた酷い臭いは、きっと室井の遺体が発していたものだろう。室井と連絡が取れなくなったのは数日前。恐らくは、その際に、既に室井はこの世を去っていた可能性もある。


 死亡したのが早くとも金曜の夜だったとして、そこまで酷く腐敗しているわけではないはずだ。もっとも、あんな死に様では、部屋を開けた際に漂ってきた生臭さにも頷ける。飛び散った肉と血の臭いが部屋に充満し、それが悪臭の原因になっていたということは、想像に難くない。


 その臭気に吐き気を覚えながらも、宮森はなんとか凍呼を部屋の外へと運び出した。本当は、今直ぐにでも部屋の外に出て新鮮な空気を吸い込みたい。そんな衝動にかられたものの、なんとか気を取り直して携帯電話を取り出した。


 このまま凍呼を放っておくわけにはいかないし、それは亡くなった室井に対しても同じだ。動ける人間が自分しかいない以上、まずは警察に、次には消防にも連絡を取る必要がある。


 額の汗を拭い、宮森はぎこちない手つきで携帯電話のボタンを押した。警察に電話をすることなど初めてだったが、何故か妙に高揚した気分になっていた。

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