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~ 伍ノ刻   接触 ~

 照瑠が雪乃の暮らしているマンションに着いたとき、既に時刻は夜の八時を回っていた。


 オートロックによって管理された入口をくぐり、照瑠と亜衣、それにまゆの三人は、雪乃に案内される形でマンションの中に入ってゆく。


 普段、このマンションで過ごしている雪乃にとっては慣れたものなのだろうが、それでも照瑠は、いつしか尻込みしてしまっている自分がいるのに気がついた。


 閑静な田舎町に住む自分は、当然のことながら、こんな凄いマンションの中に入ったことはない。高級というにはいささか物足りなさもあるが、オートロックのマンションなど、照瑠の住んでいる火乃澤町では、駅前くらいにしか見受けられない。


 また、それ以上に、照瑠は雪乃がこんなマンションで独り暮らしをしているということに、改めて感心せざるを得なかった。気が弱く、引っ込み思案で大人しい雪乃だが、なかなかどうして芯は強い。


 事務所の金で貸し与えてもらっているのだろうが、なんにしても、独り暮らしができるというのは立派なことだ。こんな都会の真ん中で、親と離れて暮らすことを考えると、照瑠自身、寂しさに耐えかねてホームシックにならないとも限らないというのに。


 エレベーターを使って五階まで上がり、照瑠たちは五〇七と書かれた扉の前で立ち止まった。雪乃が持っている鍵で扉を開けると、そこには落ちついた雰囲気の玄関が広がっていた。


「着いたわよ。みんな、遠慮なく上がって」


 そう、雪乃に言われても、どことなく遠慮をしてしまう。それは照瑠だけでなく、まゆもまた同じだった。雪乃と違い、そこまで名の売れているわけでもない彼女にとっては、こんなマンションを事務所から貸してもらえるなど、夢のまた夢である。


「なんか……凄いところに着ちゃったわね……」


「うん……。汚さないように、気をつけないと……」


 同い年の少女の自宅に招かれているだけだというのに、なんだかセレブの暮らす一室を覗かせてもらっているような申し訳なさが湧いてきた。これが、俗に言うカルチャーショックというものか。


 目の前に広がっているのは、神社の跡継ぎである自分とは無縁の世界。「お邪魔します……」と言いながら、照瑠は馬鹿丁寧に靴を揃え、そっと部屋の中に足を踏み入れる。もっとも、そんな彼女たちの考えを知ってか知らずか、約一名だけ、まったく畏まらずにはしゃぎまわっている者もいたが。


「わぁお! これが、ゆっきーが東京で暮らしているマンションなんだね! なんか、すっごいゴージャスじゃん!!」


 声の主は嶋本亜衣だ。照瑠やまゆとは違い、亜衣は脱いだ靴をその辺に放り出すと、そのまま部屋の奥に走って行った。なんというか、高二にもなって節操がない。身長もそうだが、頭の中身まで近所の小学生と何ら変わりない。


 雪乃の案内も待たず、亜衣はずかずかと無遠慮に部屋の奥へと進んで行く。その、あまりに大胆な行動に、周りの誰もが目を丸くしたまま固まっている。親しき仲にも礼儀ありという言葉を知らないのか、こういうときの亜衣は、とにかく厚顔無恥なので困りものだ。


「ちょっと、亜衣! そんなに勝手に入ったら、雪乃だって迷惑するでしょ!!」


「むぅ、相変わらず照瑠は固いなあ! アイドルの住んでるマンションに泊まるなんて、一生に一度、あるかないかって経験なんだよ!」


 駄目だ。照瑠の制止も、亜衣はまるで聞いていない。そのまま更に部屋の奥に入り込むと、亜衣は目敏く書棚にあった一冊の本に目をつけて、それを豪快に引っ張り出した。 


「あっ! そ、それは……」


 亜衣が抜き出した本がなんなのか。気がついた雪乃が慌てて駆け寄るが、もう遅い。本の表紙を見た亜衣はにやりと笑い、雪乃が止めるのも構わずにページを大きく開いて中を見た。


 夏の砂浜と、青い海。本の中身は文字ではなく、どこかの浜辺で撮ったと思われる写真だった。その写真の中央では、白いワンピースに麦わら帽子を被った少女がこちらを向いて微笑んでいる。妙にカメラを意識した目線で、しかし見る者に癒しを与える爽やかな笑顔。他でもない、雪乃本人を撮ったものだ。


「へぇ……。ゆっきー、写真集なんて出してたんだ。歌の方ばっかり気にしてたから、全然気がつかなかったよ」


「う、うん……。でも、亜衣ちゃんが見ても、あまり面白いものじゃないと思うよ。だから……もう、しまってくれないかな……」


「なんで? 別に、私が見たって減るもんじゃないじゃん。それに、まさかエロ写真集ってわけでもないだろうしさ」


 隣で恥ずかしそうに俯いている雪乃を他所に、亜衣は慣れた手つきでペラペラとページをめくってゆく。写真は様々なアングルから撮影されており、ページをめくってゆくだけで、まるでちょっとしたスライドショーを見ている気分にさせられる。


 砂浜を背に、こちらに手をふっている雪乃。岩場の影で体育座りをして、少しばかり照れ笑いをしながら丸くなっている雪乃。そんな写真の数々が、流れるように亜衣の目の前を通り過ぎてゆく。なんというか、アイドルの写真集としては、随分と爽やかだ。ともすれば際どいポーズを惜しげもなく晒し、それによって話題を作ろうとするグラビアアイドル達のものとは赴きが違う。


 幼い頃の雪乃を知る亜衣にとって、これはある意味では実に自然な流れだと思った。亜衣の知る限り、雪乃は決して目立ちたがりな人間ではない。今ではステージの上で大歓声に囲まれて歌を歌えるまでに成長したが、本質的に大人しい少女であることは変わりない。


 柔らかい物腰と、およそアイドルらしくない地味な性格。そんな雪乃にとっては、この程度の写真であっても、やはり見られるのが恥ずかしいということだろうか。


 そんなに恥ずかしがるならば、最初から写真集など出さなければよいのではないか。そう、亜衣が思ったとき、ページをめくる彼女の手がぱたりと止まった。


「えっ……。こ、これ……」


 今までは流すようにして見ていた亜衣の目が、目の前に現れた写真に釘付けとなる。夏の砂浜を背景にした、先ほどと同じような一枚の写真。だが、背景は同じでも、そこに映し出されている雪乃の姿は、今までのそれとは大きく異なっていた。


 そこにいたのは、他でもない水着姿の雪乃だった。水着は身体の前面を覆うようなタイプの物で、決して露出度が高いわけではない。また、そこまでいやらしいポーズを取らされているわけでもなく、浜辺で遊ぶ、年相応の少女を映したものになっている。


 水着撮影とはいえ、雪乃の持つ本来のイメージを損ねないよう、最大限に配慮がなされたであろう一枚。だが、問題なのは水着そのものではなく、水着によって際立たされた、彼女のスタイルそのものだった。


「嘘……。ゆっきーって、脱いだらすごかったんだ……」


 呆然とした表情で、亜衣がとんでもないことを言ってのけた。別に、ヌード写真ではないにも関わらず、亜衣にそれだけの台詞を言わせてしまう。それほどまでに、雪乃のスタイルは同年代の少女から見ても羨ましくなるものだった。


「うわっ、本当だ! 雪乃って、意外と着痩せするタイプなのね……」


 いつの間に部屋に上がったのか、亜衣の後ろからまゆが写真を覗きこんで呟いた。まゆは雪乃よりも一つ年上であったが、年齢と体型は必ずしも比例しないということは、目の前にいる亜衣を見ていれば明らかである。


 手足もウエストも細く、それでいて痩せすぎというわけではない。実にしなやかな肢体を持ちながら、出るべき部分はしっかりと出ている。水着姿を売り物にするアイドルの中には、作り物めいた容姿を持つ者も存在するが、雪乃に限って自分の身体に手を加えているようなことはないだろう。


 ステージ衣装であればいざ知らず、普段の雪乃は割とゆったりとした服を好んで着ている印象がある。それこそ、あえて身体のラインを隠してしまえるような、柔らかい服装をしていることが多かった。そんな服に隠されて、今までは彼女のスタイルがどのようなものなのか、周りもまったく意識してはいなかったのだ。


「もう……。だから、見ないでって言ったのに……。」


 数秒の間、食い入るようにして写真を覗きこんでいた亜衣とまゆ。そんな二人に向かって、雪乃は少しばかり泣きそうな顔になって言った。もう、これ以上は我慢できない。そう叫ばんばかりに、彼女の顔は真っ赤に染まってしまっていた。


 やはり、根が引っ込み思案な雪乃にとって、水着の撮影などは少々辛いものがあったのか。しかし、それではなぜ、彼女はこんな写真集を自分の部屋に置いておいたのだろう。仕事で断れなかったとはいえ、そんなに恥ずかしいのであれば、最初から置いておかなければよかったのに。


「ねえ、ゆっきー。そんなに恥ずかしいんだったら、なんでこんな写真集、わざわざ部屋に置いておいたのさ。それに、そもそも何で、水着撮影なんて引き受けちゃったの?」


「それは……お仕事だったから、やっぱり断れなくて……。それに、折角撮ってもらって、本にまでしてもらったんだし……」


「でも、人に見られるのが嫌だったら、そんな写真集なんて捨てちゃえばいいじゃん。だいたい、私たちに見られても恥ずかしいようなもの、ファンの男どもに見られるのは平気なの?」


「うん……。ファンの人は、顔も知らない誰かだから、まだ我慢できるけど……。代わりに、知っている人に見られちゃうのは、やっぱり何か恥ずかしくて……」


 別に、やましいことなど何もないのに、既に雪乃は耳の先まで赤くしていた。


 赤の他人に見られるのは構わないが、顔見知りに見られるのは恥ずかしい。そんなものなのか、と亜衣は思う。


 自分だったら、やはり見ず知らずの男連中に水着姿の写真を見られ、あれこれと妄想される方が気持ち悪い。この写真集を作った側は、別に水着メインで写真を撮ったわけではないだろう。が、手にした者が何を考えるかなど、完全に相手の自由である。


 もっとも、雪乃とは違って未だ小学生のような亜衣の体型では、誰も見向きもしないことだろう。考えようによっては一部の人間に需要がありそうだが、それはそれで、やはり亜衣にとっても気持ちが悪い。


「はいはい。お約束のセクハラはそこまでよ、亜衣。私たちは別に、雪乃の家に遊びに来たわけじゃないんでしょ」


 なにやら気まずい空気になったのを察してか、照瑠が亜衣の頭の上から手を伸ばし、写真集を取り上げた。本を閉じる際、照瑠の目にも一瞬だけ、雪乃の水着姿が目に入った。


(へぇ……。まあ、確かに亜衣の言う通り、ちょっと羨ましくなっちゃうかな……)


 心の中で呟きながら、照瑠は何も気にしていないような素振りをしつつ、写真集を書棚に納めた。


 照瑠自身、周りからモデルのような体型だと言われることはあるが、それでも雪乃が羨ましい。自慢ではないが、身体のバランスは、確かに自分でも良い方だと自覚はしている。が、それでも写真にあった雪乃のように、男女問わず魅了するようなものはない。自分は単にスレンダーなだけで、胸だけならば確実に雪乃に負けてしまう。


 気にしないようにとは思っても、照瑠はいつの間にか自分の胸元に手を添えているのに気がついた。そのことを周りに気取られないようにしつつ、照瑠は近くにあったクッションに腰かける。他の者たちも、そんな照瑠につられたのか、次々にベッドやクッションの上に腰を降ろし始めた。


「えっと……。とりあえず、その辺でゆっくりして。四人もいると、なんか狭いかもしれないけど……」


 まだ、少しばかり恥ずかしさが抜けないのだろうか。雪乃の声が、いつもより小さい。色々な意味で気まずくなってしまったのか、照瑠も亜衣も無言のまま頷いただけだ。


「ねえ、ところでさ……」


 場の空気の流れを変えるためか、唐突にまゆが切り出した。彼女は別に雪乃の家に泊まる必要などなかったが、気づけば成り行きから同行する羽目になっていた。


「あの、犬崎紅って人、いったいどんな人なの? 私は初めて会ったから、よく知らないんだけど……。雪乃は、あの人と知り合いなの?」


「えっ……。まあ、確かに、知り合いは知り合いなんですけど……。でも、そんなに詳しくは知らないです。以前、まゆさんみたいに変な事件に巻き込まれたとき、犬崎君に助けてはもらいましたけど……」


 最後の方は、少しだけ言葉を濁して答える形になった。


 そう言えば、まゆと初めて出会ったときも、雪乃はこのような言い方をしていた。恐らく、本当に思い出したくないくらい、嫌な事件に巻き込まれたのだろう。


 雪乃が嘘を吐くような人間ではないことは、今までの流れからしてまゆにもわかる。彼女とのつき合いは浅かったが、それでも雪乃が紅を心の底から信用していることくらいなら、まゆも十分に理解できた。


 もっとも、単にそれだけの理由で、紅に対する不信感が完全に拭いされたわけではない。まゆの中では、未だにあの犬崎紅という少年に対し、なんだか妙な違和感のようなものが残っていて仕方がない。


 別に、彼の力を信用していないわけではない。雪乃や亜衣、それに照瑠が、嘘を言っていないということもわかっている。ただ、あの初対面での無愛想な印象と、燃えるように赤い二つの瞳。およそ人間離れした容姿と無遠慮な態度が、まゆにとって紅を近づき難い人間にしてしまっていた。


「まあまあ。ゆっきーも犬崎君とは去年の暮れに会っただけだし。ここは一つ、私が説明してあげましょう」


 ようやく、自分の出番が来た。そう言わんばかりの口調で、亜衣が身を乗り出してきた。


「犬崎君はね、この都市伝説マニアの亜衣ちゃんをも唸らせる、最強の霊能力者なんだよ。自分の影に犬神なんてものを飼ってるし、他にも幽霊をやっつける刀とか、凄い武器をたくさん持ってるんだ! それを使って、悪霊でも妖怪でも鬼でも悪魔でも、バッサバッサと斬り捨てちゃうくらい強いんだよ!!」


「へ、へぇ……。なんか、ちょっと普通じゃ信じられないような話だけど……」


「まあね。でも犬崎君の力は、正真正銘の本物だよ。この私が言うんだから、絶対間違いなしってね!!」


 自分のことではないのに、腰に手を当てて亜衣は胸を張った。もっとも、そんな説明の仕方では、返って紅の信用を落としていることに、本人はまるで気がついていない。


 このままでは、紅に対して妙な誤解を抱かれたまま終わってしまう。そう思った照瑠は、すかさず亜衣の頭を小突いて、その行動をたしなめた。


「痛っ! もう、なにすんのさ、照瑠!!」


「なに、じゃないわよ。本物のお化けや幽霊を見たこともない人に、そんな説明したって胡散臭いだけでしょう?」


「むぅ、失礼な。私はただ、本当のことを言っただけじゃんか!!」


「いや……。むしろ、かなりあなたの主観が入り混じった、誇張入りまくりの説明だったと思うけど……」


 あくまで自分が正しいと譲らない亜衣に、照瑠は少々呆れた顔をして呟いた。オカルトや都市伝説に関する亜衣の知識が凄いのは認めるが、ときにこうして話を盛るのは考えものだ。巷に溢れる都市伝説の多くは、きっと亜衣のような人間が、こうして嘘と誇張を織り交ぜて話をした結果、生まれてしまうものではないかと思う。


「とりあえず、訂正の意味も込めて、私の方から説明させてもらうわよ。えっと……篠原まゆさん、でしたよね」


「ええ、そうよ。雪乃とは比べ物にならないけど、一応はテレビに出る仕事をやってるわ」


「九条照瑠です。改めて、よろしく」


 まゆの方に向き直り、照瑠は軽く会釈した。そう言えば、東京に来てから色々と慌ただしく、まともに自己紹介さえしていなかったのを思い出した。


「えっと……。それじゃあ、犬崎君について、私の方から誤解のないように説明させてもらいますね。亜衣の言っていることは、半分はホラ話程度に思ってくれても構いませんから」


 ホラ話と言われて亜衣がすかさず不機嫌そうな顔になったが、照瑠は無視して話を続けた。ここで亜衣に構っていては、話がいつまで経っても先に進まない。


「亜衣の言っていたことですけど、とりあえず、半分は本当ですよ。ただ、ヒーロー番組の主人公みたいなイメージとは、ちょっと違いますけど」


「確かにそうよね。こう言っちゃ悪いけど……あの人、随分と無遠慮で無愛想な感じだったじゃない。なんか、こっちの方が気が引けちゃってさ」


「ごめんなさい。犬崎君、人と話すときは、いつもあんな感じなんです。学校にいるときも寝てばっかりだし……なんていうか、不器用なんですよね」


「不器用、か……。そう言われれば、そんな感じもしないではないけど……。でも、それだけで、あんなに刺々しい感じになれるものなのかな?」


 カフェで話をしていたときの姿を思い出しながら、まゆが照瑠に尋ねた。照瑠と違い、まゆは紅のことを殆ど知らない。そのため、単に不器用なだけだと言われても、どうしても納得がいかなかった。


「まあ、まゆさんの言うことも、確かにわかる気はしますけどね……」


 少しばかりの間を置いて、照瑠が続けた。照瑠自身、初めて紅に出会ったときは、嫌悪感の方が大きかった。尊大で、ぶっきらぼうで、口も悪い。亜衣とは別の意味で一般的な常識に欠け、人との関わりを極度に避ける。おまけに、こちらが相談事を持ちかけても、報酬の話をちらつかせて断ろうとする素振りさえ見せる。


 正直なところ、照瑠から見ても、紅の態度には色々と問題があるとは思った。こと、初対面の相手に対する横柄な態度には、なんとかしてもらいたいとも思ってしまう。


 だが、それでも照瑠は知っている。紅が、本当は誰よりも、人の命を大切に思っているということを。闇の中に蠢く向こう側の世界・・・・・・・の住人たちと戦うとき、その優しさと強さの片鱗を垣間見せるということを。


「まゆさんが、犬崎君のことをどう思っているかは、なんとなくわかります。でも、あれでも犬崎君、優しいところもあるんですよ」


「優しいところ? あの、幽霊みたいな男が?」


「はい。さっきも言いましたけど、犬崎君は、単に不器用なだけですから。そりゃ、私から見ても、ちょっと改めて欲しいと思う部分はありますけど……。それでも、あれはあれで、色々と考えているんだと思います」


 紅が他人に冷たい素振りを見せる理由。それは一重に、自分の立場をわきまえてのことではないかと照瑠は思っていた。


 向こう側の世界・・・・・・・の住人たちと関わることは、その身に危険を伴うことも多い。何の力も持たない一般人が彼らの領域に踏み込んだ場合、その力に抗える保証は皆無に等しい。


 それがわかっているからこそ、紅はあえて、人との関わりを必要最小限に抑えようとしているのではないか。自分に関わることで、他の人間が向こう側の世界・・・・・・・に深く引きこまれてしまうこと。それを何よりも心配して、あのような態度でふるまっている。そう、思うのだ。


(でも……。それにしては、今日の犬崎君は変だったな。なんだか随分と、苛々しているような……)


 そこまで考えて、照瑠は唐突に今日の紅の様子を思い出した。東京に来るまでもそうだったが、あの陰陽師――――亜衣の話では、御鶴木魁とか言ったか――――に出会ったときは、いつになく苛立ちを隠せない様子で対峙していた。なんというか、意味もなく敵対心をむき出しにし、周りに当たり散らしている。そんな風にも受け取れた。


 紅の口が悪いのは、今に始まったことではない。しかし、同時に彼は、決して無意味に当たり散らすようなことはしない人間だ。


 では、今日の紅のあの態度。あれは、いったい何なのか。あの陰陽師が、今回の事件の重要な鍵を握っているのか。それとも、何かまったく別の理由があるのか。それは、照瑠にもわからなかった。


 結局、自分は紅のことを知っているようで、その実、何も知らないに等しいのだ。彼と出会って、そろそろ一年近くが経とうとしていたが、性格以外は何もわかっていることがない。


 心の中に、なにやら寂しさにも似た感情を覚え、照瑠は自分でも意識しない内に自分の手を胸元に添えていた。それに気づいて周りを見ると、他の三人の視線が自分に向けられておりハッとした。


「ねえ、照瑠ちゃん。急に黙り込んだりして……どうしたの?」


「えっ? あ、ごめんね、雪乃。ちょっと、考え事してただけだから」


「考え事? それって、犬崎君についてのこと?」


「うん、まあね。あいつ、今回は妙に乗り気で、いきなり東京に行きたいなんて言い出すし……。思い返してみたら、なんだかちょっと、いつもと違うなって思ったのよ」


「ふぅん……。ところで、その犬崎君なんだけど……今、なにやってるの?」


「さあね。なんだか、独りで考えたいことがあるとか言って、どこかをほっつき歩いてるわよ。明日になったら連絡するとか言ってたし……それまでは、雪乃の家で女子会でもしながら、気長に待つ他ないんじゃない?」


 両肩をすくめ、照瑠が雪乃に答えた。紅が今、どこで何をしているのか。それは照瑠だけでなく、この場にいる全員が知らなかった。


 テレビ局を出た後、紅は照瑠たちに別れを告げて、独りで夜の街に出て行った。泊まる場所は、カフェで高槻に言っていたように、漫画喫茶でもはしごするつもりとのことだった。


 だが、それにしても、紅は何を考えているのだろう。彼のことだから、夜の街を一人で歩いていたとしても、不思議と心配はないと思われる。問題なのは、彼が行き先さえ告げずに自分の前から消えたこと。自分の考えも話さずに、妙に追い詰められたような表情をしていたことである。


 自分にとって、犬崎紅とはなんなのだろう。ふと、そんな疑問が照瑠の中に浮かんできた。


 紅が火乃澤町にやってきてから、自分もまた妙な事件に巻き込まれることが多くなった。今までは霊的な存在などとは無縁の生活を送っていたが、その価値観は、彼と出会ってからの数カ月で、物の見事に覆された。


 もっとも、それで紅を恨んでいるかというと、それは違うと照瑠は思った。時に妙な事件に遭遇することはあっても、彼が照瑠を救ってくれていたのは紛れもない事実。そして、そんな紅のことが、なぜか気になっている自分がいるのもわかっていた。


 結局、自分は紅に、何を望んでいるのだろう。そして、自分にとって、犬崎紅という存在はどのような意味を持っているのか。


 喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、照瑠はそれを心の奥にしまいこんだ。本当は、答えなど既に出ているのかもしれない。しかし、簡単な言葉で片付けてしまえるほど、自分の紅に対する気持ちを安っぽいものにしたくはなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夜の東京に吹く風は、東北のそれとはまるで違っていた。季節外れの黒いコートに身を包んだまま、犬崎紅は、ネオンの輝く街中を独り歩いていた。


 空気が重い。今の自分の気持ちがそう感じさせるのかもしれないが、それだけが原因ではないだろう。夜でも眠らないこの街の空気は、火乃澤町に比べても随分と淀んでいる。


 それは、絶え間なく通り過ぎる自動車の排気ガスによるものなのか。それとも、通りに投げ捨てられた煙草の吸殻から、かつては赤い光と共に放たれていた紫煙によるものなのか。


 その、どちらも正解であり、どちらも間違いであると紅は思った。田舎に比べて都会の空気が清んでいないことなど、当然のことながら知っている。問題なのは、この街の中に漂う空気が、実に様々な欲望に満ち溢れているということだった。



――――心病みし者が向こう側の世界に触れるとき、病みは闇となり現実を侵蝕する。



 外法使いとして生きる紅にとっては、既にお馴染となった言葉だ。人の荒んだ心、歪んだ欲望、狂気に走るしか他になかった、やり場のない悲しみや苦しみ。そういった感情を抱えた者が、闇の力を持った忌むべき神霊に関わったとき、心の闇は現実の世界に、具体的な恐怖の形をとって現れる。危険なのは向こう側の世界の住人そのものではなく、それを呼び寄せ、闇を現世に開放してしまう、人間の心の弱さそのものなのだ。


 では、そんな闇を心に抱えた人間が、果たしてこの大都会にはどれだけ存在しているのだろう。そんな疑問が、ふと頭をよぎる。


 魔都、東京。初めて訪れたこの国の首都を、紅はいつしか自分の中で、そう呼んでいた。


 金や名誉、権力などを求め、それを手にするために手段を選ばない者がいる一方で、生まれながらにして様々な不幸を抱え、この都会のど真ん中で、常に泣きながら苦しい人生を送らねばならない者も存在する。その数は、紅の知る田舎の村や街の比ではないだろう。人が多く集まるが故に、そこには多くの喜びや楽しみと同じく、無数の悲しみや痛み、苦しみもまた集まってくる。


 これだけ多くの闇が集うのであれば、向こう側の世界・・・・・・・の住人たちは、さぞ獲物に苦労しないことだろう。昔から土地に巣食っていた魑魅魍魎の類は、都市部の発展と共に姿を消して久しい。が、人を魔道に誘う者は、何も古来より存在する神霊だけとは限らない。


 人が向こう側の世界・・・・・・・に触れるとき。それは別に、禁忌を犯して神の怒りに触れたときだけを指すのではない。人が、その恨みや妬み、悲しみの感情を内に溜めこみ、それを大いなる負の力として一度に開放する。即ち、呪いという忌まわしき行為に手を染めたときこそが、最も恐ろしい闇を呼ぶ可能性がある。


 呪いと祟り。この二つは、似ているようでまったく異なるものだ。祟りはあくまで人間の身勝手な振る舞いに神が怒り、半ば制裁のような形で降りかかる物。それに対し、呪いは人が人に仕掛ける、恐るべき怨念を込めた霊的な攻撃なのだ。


 刃物を持って人を刺すか、それとも呪詛によって呪い殺すか。違っているのは方法だけで、人を傷つけ、場合によっては殺してしまう行為という点では相違がない。そして、心の病んだ者を言葉巧みに誘惑し、そういった行為に手を染めるように仕向ける者を、紅は一人だけ知っている。


≪闇の死揮者コンダクターって名前、聞いたことある?≫


 昨年の夏、知り合いの退魔具師たいまぐしである鳴澤皐月の口から出た言葉だ。この世界には、呪いの道具を作って心の病んだ人間に手渡し、現世に闇を噴出させようとする者がいる。自分は決して手を出さず、あくまで道具を渡すだけの傍観者に徹していることから、裏で事件を操る黒幕的な意味合いを込め、そう呼ばれている。


 あのときは、紅も単なる噂話としてしか考えていなかった。しかし、今となっては紅もまた、いつしか死揮者の存在を強く信じる者の一人になっていた。


 実際、本当に闇の死揮者なる者が存在するのか。それは、紅にも断言できない。ただ、今年の二月に起きた≪鏡さま事件≫以来、紅が本格的に死揮者の存在を意識し始めたのは確かだ。昨年の夏より立て続けに起きた様々な事件。その殆どが呪いの儀式に起因するものだったことを考えると、死揮者の話を単なる都市伝説として片付けるわけにもいかなかった。


 人気のない路地裏へ続く角を曲がったところで、紅は道端に転がっていた空き缶を無造作に蹴り飛ばした。乾いた金属音と共に、空き缶はビルの壁に激しくぶつかり路地の向こう側へと消えて行く。それを見ながら拳を握り、紅はそれを、歯噛みしながらコンクリートの壁に叩きつけた。


 拳の先から、じんわりと痛みが伝わって来た。自分でも珍しく思ってしまうほど、今の紅は湧きあがる苛立ちを抑えきれていなかった。


 先ほどから感じている重苦しい空気。それは、この東京の街を抜ける、淀んだ風のせいだけではない。増してや、そこに住んでいる、穢れた欲望を持った住人たちのせいでもない。


 自分の苛立ちの原因。それは、自分自身が一番良く知っている。焦りにも似た感情に支配され、自分でも周りが見えなくなっている。そのことが、何よりも許せず、また歯がゆくも思えた。


 長谷川雪乃からの依頼として受けた、今回の事件。これが果たして何らかの霊的な存在によるものなのか、紅も確証は持てていない。それにも関わらず、呪いの可能性があるというだけで、わざわざ東京まで足を運んだ。その理由が、あの闇の死揮者にないとすれば、それは嘘になる。


 呪いの疑いがある事件に関われば、もしかすると死揮者の足取りをつかめるかもしれない。今までは後手に回るだけだったが、足取りさえつかめれば先手も打てる。敵の正体が判明すれば、こちらから攻撃を仕掛けることも可能となる。そんな感情に支配され、気づけばさしたる確証もなく、東京のど真ん中まで足を運んでいる自分がいる。


 もしかすると、今回の事件は単なる事故なのかもしれない。仮に何らかの呪いだったとしても、その裏に死揮者の存在があるかどうか、その証拠もない。


 客観的に考えれば考えるほど、今の自分が小さく思えて仕方がなかった。相手は存在するかどうかさえ定かではない、都市伝説のような存在だ。その上、存在していたらいたで、その正体も目的も不明。神出鬼没に現れる謎の相手を、いったいどうやって捕まえればいい。


 呪いに関する事件を解決し続ければ、いつかは死揮者に近づける。その考えが、八方塞がりの現実から逃げているだけだと、紅も薄々は感づいていた。ただ、それ以外に現状で自分のできることがなく、そのことが、一層の苛立ちと焦りを生んでいる源にもなっていたが。


「くそっ……。いったい、何をやっているんだ、俺は……」


 誰に聞かせるともなく呟いて、紅は再び人気のない路地裏を歩き出す。別に、当てなどあるわけでもない。外の空気を吸って頭を冷やさねば、それこそ照瑠や亜衣に当たり散らしそうで嫌だっただけだ。


 外法使いとして、赫の一族の末裔として、自分は今までも様々な相手と戦ってきた。が、こうまでして苛立ちと焦りに支配されたことは、後にも先にもまったくなかった。


 自分のやっていることは、本当に正しいことなのか。己に対する贖罪と称して退魔師の仕事をしてはいるが、それにしては、一人の相手にこだわり過ぎているのではないか。そう思い、ビルとビルの合間から、ふと空に浮かぶ月を見上げたときだった。


 月明かりに照らされて細長く伸びた影が、急にざわついて紅に知らせた。夜の闇よりも深い黒に染まった影が、辺りの様子を警戒するかのようにして揺れている。その形は既に人のものではなく、いつしか大きな犬の姿を思わせるものに変貌していた。


(誰だ……。誰が、俺を見ている……?)


 自分の背後から感じる奇妙な視線。その存在に気づき、紅の赤い瞳が険しさを増した。


 後ろから、誰かが自分の後をつけている。この路地裏に入ったときから軽い違和感を覚えてはいたが、もしかすると、かなり前から尾行されていたのかもしれない。


 こんな夜更けに、いったい誰が自分の後をつけているのか。テレビ局で出会った陰陽師かとも思ったが、直ぐにその考えは否定した。


 背後の気配は、式神のような霊的な存在ではない。あれは間違いなく、生きた人間のそれである。が、ここまで隙のない気を感じたことは、当然のことながら紅にもない。


 向こう側の世界・・・・・・・の住人たちとはまた違う、戦い慣れしたプロの空気。殺し屋のような人間がいるとすれば、こんな気を発するとでも言うのだろうか。百戦錬磨の戦闘のプロを窺わせる、幽霊とはまた違った恐ろしさがある。


 油断なく後ろを振り返りながら、紅はそっと背中の棒に手を伸ばした。梵字の書かれた白布に封印されし、貪欲な闇を宿した一振りの刀。闇薙の太刀の柄をしっかりと握り、紅は己の背後から迫る、謎の気配と対峙した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 深夜のテレビ局には、昼とは違い閑散とした空気が流れていた。


 喫煙所の一角にある椅子に腰かけて、高槻護は今しがた自販機から買ったコーヒーを飲み干し、ふっと大きな溜息をこぼした。


 空腹の胃に、ブラックの缶コーヒーが染み渡る。煙草を吸わない高槻にとって、これは目覚まし代わりになる数少ない刺激の一つだ。


「やれやれ……。こんな時間になったけど、結局は何もわからずじまいか……」


 安物の腕時計を見ながら、高槻は誰に言うともなく呟いた。時刻は既に夜の十一時近くになっており、人の気配もまばらだった。


 昼間は様々な番組の撮影で賑わうテレビ局も、夜になれば一転して静寂に包まれる空間となる。未だ、ビルに残って仕事をしている者たちもいるが、半数以上の人間が、既に仕事を終えて帰宅している。


 飲み終えたコーヒーの缶を傍らに置き、高槻は今日の出来事を振り返ってみた。


 犬崎紅を局に案内し、封印されたスタジオの調査をさせてから数時間。高槻は自分なりに、今回の事件に関して調べてみた。


 生放送の収録中に、プロデューサーが変死する。そして、関係者は貝のように口を固く閉ざし、局側からも緘口令のようなものが敷かれている。公には目撃者の精神的な面を考慮した措置との話だが、確かにこれは、高槻も疑念を抱かざるを得ない。


 テレビ局側が、こうも事件の全容を隠蔽しようとする理由は何か。心霊現象の有無に関係なく、もしかすると、何かとんでもないことが裏で起きているのではないだろうか。だとすれば、それらの件に雪乃たちを巻き込ませないようにすることが、彼女のマネージャーを務める高槻の仕事だ。


 もっとも、そう頭ではわかっていても、高槻にできることなど微々たるものでしかないのもまた現実だった。実際、紅と別れてから自分なりに調査を進めてはみたが、これといって進展はない。


 やはり、自分だけでは限界がある。警察や探偵じゃあるまいし、そうそう簡単に事件の裏まで探れるはずもない。


 今日は、そろそろ引き上げて、明日また紅に話をしてみよう。もし、幽霊のような存在が相手なのであれば、自分にできることなど限られている。そう思い、高槻が立ち上がろうとしたときだった。


「すいません。隣、いいですか」


 いつの間にか、自分の横に一人の男が立っていた。年齢は自分と同じか、それよりも少し若いくらいだろうか。線の細い身体つきをしており、どこにでもいそうな平凡な顔をしている。このビルにいるということは局の関係者なのだろうが、芸能界に通じている人間とは違った空気を持っていた。


「なんだい、君は? 僕はそろそろ帰ろうと思っていたところだし、邪魔だったら退くけど?」


「いや、そうじゃないんです。ただ……少し、お話ができないかと思いまして……」


 いきなり話を振られ、高槻はしばし戸惑った様子で男の顔を見た。


 いったい、彼は何者だ。なぜ、なんの目的があって、自分に話など振ってくるのだろう。


「ああ、別に構わないよ。僕に断る理由はないからね」


 何やら胡散臭いものも感じたが、それでも高槻は、とりあえず男の話を聞いてみることにした。男の目的は不明だったが、とりあえずは話を聞いてみないことには始まらない。


「俺、宮森って言います。例の、生放送がぶち壊しになった番組で、ADやってました」


「生放送がぶち壊し……ってことは、君は≪奇跡空間ミラクルゾーン≫の制作に関わっていたのかい?」


「ええ、まあ……。もっとも、ADの自分ができることなんて、ただの雑用に過ぎないものでしたけど……」


 宮森と名乗った男は、最後の方だけ言葉を濁して鼻の頭をかいていた。謙遜などではなく、彼の言っていることは事実なのだと高槻も思った。実際、ADという役職は雑用係のようなもので、何でも屋のような位置づけにあることは知っていたからだ。


「俺、今日になって、あの番組で起きた事故のことを調べている人がいるって聞いたんです。それで……いろいろと局の中を探しまわって、とうとうあなたを見つけたんです」


「へえ、そうなんだ。局の側としては、あまり公にしたくないみたいなことがあったから、僕もできるだけ慎重に動いていたつもりなんだけどね。やっぱり、どっかでドジ踏んだかな?」


「いや、そんなことはないと思いますよ。それに、俺は別に、あなたのことを責めるつもりで探していたわけじゃないですし……」


「だったら、いったい何の用だい? 番組関係者が僕に直接話をしに来るなんて、正直、口止め以外に考えられないんだけど……」


 訝しげな視線を送りながら、高槻が宮森に尋ねた。口止めでないのであれば、いったい何の用だろう。それも、番組のディレクターであればまだしも、ADが個人的に用事など、高槻にはまったく見当もつかない。


「あの……俺の関わっていた、例の番組のことなんですけど……」


 徐に、宮森が下を向いたまま話し出した。周囲の空気が急に重たくなった感じがして、高槻は思わず身構えたまま、宮森の顔から目を離すことができなかった。


「あれ、もともとは、心霊物やオカルト物を中心とした番組じゃなかったんですよ。日本に限らず、世界のあちこちで起きている感動的な奇跡。それこそ、奇跡の生還エピソードから、キリスト教の聖人が起こした神秘まで、超常現象も含めた感動のエピソードを取材して放送する番組だったんです」


「へえ、そうなのか。そいつは、僕も初耳だ」


 宮森の話に、高槻は本気で驚いた様子を見せて言った。心霊番組だとばかり思っていが、ミラクルゾーンは、元々は随分とまともな番組だったらしい。それこそ、宮森の話を信じるならば、海外取材をさせてくれるくらい、製作費にも恵まれた環境にあったのだろう。


 初めは単に、感動的なエピソードを奇跡と称し、それを取材して世に伝えるだけの番組だった。それが、何を間違ったのか、いつしかお化けや幽霊などをネタにした、オカルト番組へと変わってしまった。その理由がなんなのか、もしかすると、宮森は知っているのかもしれない。


「最初、番組が放送され始めたときは、今とはディレクターが違っていたんです。室井さんじゃなくて……神居結衣かみいゆいっていう、女の人がディレクターでした」


「女の人でディレクターか……。きっと、随分と仕事のできる人だったんだろうね」


「はい。この業界では、変な差別意識を持っている輩も、少なからずいますからね。俺も、まだまだ未熟ですけど……それでも、男に生まれただけ、まだマシな扱いを受けていると思います」


 途中、言葉を濁しつつも、宮森は最後まで高槻に言ってのけた。その言葉の意味するものが何か、高槻もわからないわけではない。


 職種や業界によっては、女性が露骨な差別を受ける職場もある。テレビ業界が一概にそうだとは言えないが、中には旧態依然とした考えに縛られている者がいることも確かだ。アイドルのマネージャーを務めている高槻も、それは日々の仕事から、確かに感じていたことだった。


 まだ幼い少女たちを一人の人間として見ることをせず、その美貌を用いた商売道具程度にしか考えない。アイドルは使い捨ての駒であり、プロダクションの思い通りにできる物である。そんな考えにとらわれた結果、最終的には己の身の破滅を招いた人物を、高槻も知らないわけではない。


 鴨上裕司かもがみゆうじ。かつて、雪乃が所属していたプロダクションの社長であった男だ。表向きは優しく思いやりのある男を演じつつ、裏では雪乃たちのことを、単なる消耗品としてしか考えていなかった。そして、己の歪んだ欲望を満たすために禁じられた術に手を出して、最後は化け物に成り果てた上で、犬崎紅に退治された。


 出演者と制作者では立場も異なるのだろうが、やはり、業界内部に差別的な感情を抱いている者がいるのは間違いない。きっと、宮森の言う神居結衣という女性も、かなりの苦労をしながら仕事をしていたのだろう。それこそ、女性ならではの、高槻などにはわからない苦労があったに違いない。


「ここから先は、俺の単なる妄想みたいな話になります。だから、もし気を悪くしたら、適当に流してくれて構いません」


 なにやら意味深な言葉を前置きに、再び宮森が話し出した。先ほどと同じように、視線は下に向けたまま、重く静かな口調で話していた。


「もう、二年ほど前の話ですけど……神居さん、自宅で首を吊って自殺したみたいなんです。仕事のストレスが原因ってことで、片付けられてしまったみたいですけど……」


「自殺!? そいつはまた、穏やかな話じゃないな……」


「はい。俺も、後から番組の制作に関わったんで、詳しいことは知りません。ただ、それからディレクターが今の室井さんに変わって、番組の方向性もガラリと変わってしまったんです」


「なるほどね。まあ、感動的な奇跡体験なんてものを探し出して、それを視聴者に訴えかけるのは、確かに女性の方が向いていたのかもしれないな。正直、僕みたいな男でも、毎週のように感動のエピソードを集めて編集するなんてこと、なかなかできそうにない」


 暗い面持ちの宮森を励ますつもりで言った高槻だったが、宮森はそれには答えなかった。だが、それでも少しは気が晴れたのか、今までは下にばかり向けていた視線を、高槻の方へと向けてきた。


「ありがとうございます。ADの俺が言うのもなんですけど……正直、今のミラクルゾーンのやり方って、かなり納得できない部分もあるんですよね。これは秘密なんですけど……≪やらせ≫なんて日常茶飯事ですし、扱う内容も、なんていうか安っぽい物ばかりで……。亡くなった神居さんが見たら、きっと怒るんじゃないかって思うんです」


「亡くなった神居さんが見たら、か……。確かに、君の言う通りかもしれないな」


「はい。実際、ディレクターが神居さんから室井さんに変わったところで、番組の視聴率もどんどん落ちていましたしね。自分の作った番組が、変な形に歪められて……それで、怒らない人っていないと思うんですよ」


 だんだんと、宮森の言葉に熱がこもってきた。先ほどまで沈んだ雰囲気が漂っていたが、今の宮森のそれはない。


「こんなこと言うと、馬鹿らしいと思われるかもしれませんけど……。俺、今回の事件、起こるべくして起きたんじゃないかって思うんです」


「起こるべくして起きた? それ、どういうことだい?」


「プロデューサーの西岡さんが亡くなったの、やっぱり俺も、事故だとは思えません。もし、この世に怨念みたいなものがあるなら、西岡さんが亡くなったのは、神居さんの祟りみたいなもんじゃないかって……。亡くなった神居さんが怒って、俺たちを含めた番組関係者を、一人ずつ殺そうとしているんじゃないかって……。そう、思うんです」


「神居さんの祟り、か……。でも、現状では、まだ何とも言えないんだろう? それに、今になって、その神居さんが君たちを祟るっていうのも、なんだか急な話のような気がするけど……」


「確かに、そうかもしれませんね。ただ……今回は、ちょっと俺たちもやり過ぎたんだと思います。なにしろ、生放送で流す幽霊屋敷の映像を、大がかりな≪やらせ≫を仕込んで作りましたからね。そういった、今までの中でも随分と罰当りな演出をたくさんやったから……神居さんも、堪忍袋の緒が切れたのかもしれません」


 事件はあくまで、神居結衣の祟りによるものだ。宮森の言葉から察するに、彼は完全にそう思いこんでしまっているようだった。


 心霊番組で≪やらせ≫が行われることなど、別に珍しいことではない。視聴者の側も、その辺りは暗黙の了解として、番組を見ている部分がある。


 だが、宮森の話では、今回のミラクルゾーンの取材をする際に、随分と罰当りなことをしたようだった。その結果、今までは状況を静観していた神居結衣の霊が、怒って罰を下そうと動き出したと言えなくもない。


 結局、プロデューサーの死の原因はなんなのか。それは高槻にもわからずじまいである。ただ、事件の裏に神居結衣の怨念が潜んでいるというのであれば、彼女の祟りによる線も否定はできない。


 自分でも、およそ馬鹿馬鹿しい考えであると高槻は思った。どうも、あの犬崎紅に関わってから、お化けや幽霊といった類の存在を、疑うことさえ忘れてしまっていたようだ。霊能力者でもないのに霊の話を信じ、果てはそういった類の話に耳を傾けてしまう。一昔前の自分では、およそ考えられなかったことだと高槻は思った。


「すいません。いきなり捕まえて、変なこと話しちゃって。今日のことは、忘れてください」


 先ほどから聞き役に徹していた高槻に、宮森が思い出したようにして謝った。いきなり妙な話をして、頭のおかしな人間と思われたら困る。そんな考えが見え隠れしているようだった。


「いや、別に構わないよ。僕も信心深い方じゃないけど、君の言っている話が完全に嘘だとも思っていない。幸い、知り合いにそういった話に詳しい人もいるし……ちょっと、話をしてみるよ」


「ほ、本当ですか! ありがとうございます! なんだったら、俺の連絡先も教えておくんで……何かわかったら、連絡してください!!」


 地獄に仏の姿を見た。そう言わんばかりの表情で、宮森は高槻の手を握ってきた。その、あまりの豹変ぶりに、高槻は驚きを隠せない様子のまま、独り言葉を失っていた。


 プロデューサーの変死事件は、果たして宮森の言うように、神居結衣の祟りによるものなのか。その真偽まで高槻にはわからなかったが、新たに解決の糸口となる可能性が開けたのは大きかった。

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