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~ 四ノ刻   対峙 ~

 階段を降りると、相変わらず一階には湿っぽい空気が充満していた。


 最初、地元の住民に案内されて、初めてこの家を訪れた際のことを室井は思い出す。あの日、現場の下見と≪やらせ≫の仕込みを兼ねて家の中に入ったときも、こんな陰鬱な湿気に満ちた空気に歓迎を受けた。あのときは、単に家の造りが古いだけだと思っていたが、もしかすると、この空気もまた、何か霊的な存在が撒き散らしているのだろうか。


 一階へ続く階段を降り、魁はそのまま屋敷の奥へと入ってゆく。老朽化の激しい一階の中でも、特に痛みの酷い際奥の部屋。黒カビに覆われ、ところどころに穴の開いた畳が敷き詰められた、なんとも嫌な場所へとやってきた。


「うっ……。なんか、他の部屋にも増して、この部屋の湿気は凄いな。これもまた、お前の言う悪霊みたいなやつの仕業なのか?」


 部屋中に溢れたカビの臭いと強烈な湿気。その二つをまともに嗅いでしまい、室井は自分の口元をハンカチで覆って言った。その一方で、魁も総司郎も、何ら動揺することなく部屋を見て回っている。時折、不快な表情を浮かべることはあっても、それは室井ほどではない。


 まったくもって、恐ろしいまでにタフな連中だと室井は思った。ホストのような格好をした優男だが、その内に秘めているものは、常人の感覚とは明らかに違う。現に今も、服が汚れることを気にしつつも、この部屋の中に潜む何かを見つけ出すのを楽しんでいるような雰囲気さえある。


「えっと……。たぶん、俺の勘だとこの辺かな」


 突然、そんなことを言いながら、魁が畳の一つに手をかけた。それは部屋の中にある中でも、特に痛みの激しい畳の一つだった。黒いカビが、まるで日食のときの太陽のように円を描いて生えており、虫に食われて穴の開いた表面からは、中身がところどころ露出していた。


「悪いけど、総ちゃんは反対側を持ってくれない? これ、俺だけでひっくり返すの、ちょっと大変だからさ」


「了解っす……」


 魁に言われ、総司郎もまた古びた畳に手をかけた。その動きがあまりに滑らかなので、見ていた室井は思わず自分の目を疑った。


 魁の話では、総司郎は既に自分の光を失っているとのことだった。要するに、完全に失明してしまい、今は盲目ということだ。


 そんな総司郎が、こうも器用に魁の作業を手伝うことができる。そのことが、室井には不思議でならなかった。


 本当は、あの男は目が見えているのではないか。サングラスで目を隠しているのは、果たして本当に目を失ったことを隠すためのものなのか。


 新たに疑念のようなものが浮かんで来たが、それを室井が魁に尋ねることはなかった。彼が二人に声をかけるよりも先に、目の前の朽ち果てた畳が取り外されたからだ。


 畳を持ち上げて、魁と総司郎はそれを壁に立てかける。なにやら土埃のようなものがパラパラと落ち、畳を剥がされて剥き出しになった床の上では、小さな虫のような生き物が、慌てて隙間に隠れていった。


「あちゃあ……。やっぱ、畳の下にも床があるな。こいつはちょっと、大仕事になるかもしれないぜ」


 珍しく困ったような顔をして、魁が茶色く染まった髪の毛に指を絡ませながら頭をかいていた。もっとも、本気で困っているようではないらしく、仕事の手間が増えたことを、純粋に面倒臭がっているようだった。


 畳の下から現れた床板を指差して、魁は総司郎に二言、三言で何かを伝えた。それを聞いた総司郎は無言のまま頷くと、音もなく立ち上がり足早に部屋を去って行った。


 いったい、魁は総司郎に何を告げたのか。いや、それ以前に、そもそも二人は何の目的で畳など剥がしたのだろう。


 傍から見ている室井には、何から何までがわからないことだらけだった。それでも、魁だけは自分の行いを納得しているらしく、独りで勝手に床板についた染みを眺めているだけだ。


 それから程なくして、総司郎が何やら物々しい道具を持って戻ってきた。よくよく見ると、それは巨大なバールのような工具の一種。鍵爪のように曲がった先端部分は、叩きつければ老朽化した廃屋の床程度なら簡単にぶち破るだろう。


「おいおい、何考えてんだよ、お前ら。まさか……そこの床板を、その物騒な道具でぶっ壊そうってのか!?」


「ああ、そうだよ。俺の見立てでは、この下に隠されているものが、この屋敷に巣食っている亡霊たちの根源だからね。悪い物は根っこから経たないと、雑魚をいくら祓ったところできりがない。ここらで潰しておかないと、また変な幽霊どもがあちこちから引き寄せられてやってくるよ」


「しかし……本当に、床板を壊す気か? いくら廃屋でも、持ち主はいるんだぞ。こういうことは、ちゃんと許可を取ってだな……」


「何を今さら言っちゃってんのさ。今度の番組で流す≪やらせ≫映像作るのに、あんた達、この家の人に許可取って細工したんでしょ? だったら、今さら床の一つや二つ、ガタガタ言っても始まらないさ」


 飄々とした顔で言いながら、魁は総司郎からバールを受け取った。そこまで言われては、室井もこれ以上は何も言えない。


 今度の番組で流す映像が≪やらせ≫であること。そのことは、魁にも殆ど伝えていない。それにも関わらず、魁は映像に≪やらせ≫が仕込まれていることを見抜いている。誰かから情報をもらったのか、それとも本人の持つ不思議な力で察知したのかはわからないが、トリックを仕掛けたことを引き合いに出されては言葉もない。


 魁の振りかぶったバールが空を切り、鈍い音を立てて床板に突き刺さった。初めは軽く弾かれてしまったが、そもそもが酷く痛んだ床板だ。腐っていたことも相俟って、床板は思ったより簡単に崩れ落ちた。


 バラバラという音と共に、木製の板が木屑を撒き散らしながら下に落ちる。その下から現れたのは、巨大な暗い空洞だった。床板を剥いだら地面が現れるに違いない。そう思っていた室井にとって、これはあまりにも意外な出来事だった。


 床板の下から現れたもの。それは、家の土台などではない。暗く、大きな穴がぽっかりと空き、まるで地獄へ繋がる入口のように、こちらを無意識に誘っているような感じさえ受ける。石を積み上げて作った簡素な造りだが、それいて今もなお崩れ落ちていない。遠い昔に忘れ去られた、戦前より存在していたであろう古井戸だった。


「なんだよ、これ……。なんで、家の下に井戸なんか……」


 あまりの不気味さに、室井はそう呟くのが精一杯だった。


 お化け屋敷と謳われた廃屋の一室で、床を剥いだら下から古井戸が現れた。こんなホラー映画のような展開が、果たして本当にあってよいのだろうか。自分たちは視聴者を怖がらせるために≪やらせ≫まで仕込んだというのに、それを越えるほどに薄気味の悪い物が家の下から現れた。正に、事実は小説より奇なりというやつだろう。


「どうやら、当たりだったみたいだね。この井戸が、屋敷に巣食う亡霊どもを集めていた原因さ」


 バールを放り出し、魁は井戸の底を覗きこむようにして室井に説明した。先ほどまでは魁の荒唐無稽な話に半信半疑だった室井も、今度ばかりは素直に彼の力を信じる他になさそうだった。


「しっかしなぁ……。まさか、こんな場所に井戸があるなんて、俺は思ってもみなかったぞ。これもお前の、霊能力とやらで探したのか?」


「うーん……。半分正解だけど、半分はハズレだね。確かに俺は、最後に井戸の場所の見当をつけるため、この部屋の中で霊気の流れを探ったりはしたさ。でも、それより前に、とっくに気づいていたんだよ。この家が、増築に増築を重ねて作られた、とんでもない欠陥住宅だってことがね」


「欠陥住宅だぁ!? そんなことと、今回の幽霊騒動に、いったい何の関係があるってんだよ!!」


「何の関係って……大いに大ありなんだけどなぁ」


 室井の言葉を鼻で笑いながら、魁は部屋の壁を拳で軽く叩いてゆらす。他の部屋は脆い板張りの壁もあったというのに、妙にその部分だけ音が違う。なんというか、まるで家の外から壁を叩いているような、固くしっかりとした音がするのだ。


「ここの壁、他の部分とはちょっと音が違うとは思わない? 他の部屋がうすっぺらい板張りの仕切りみたいな感じなのに、ここだけは、随分と固い壁なんだよね。まるで、家の外と中を隔てる、頑丈な土壁みたいでさ」


「そう言われれば、確かにそうだな。家の中で、部屋と部屋を仕切っているだけなのに、妙に壁が分厚い気がする……」


「でしょ? まず最初に、俺はこの家の間取りを見て、何か変だと思ったんだよね。一階は普通に廊下を行き来するだけで部屋と部屋を渡り歩けるのに、二階に上がるのには二つの階段が必要だ。その上、二階に上がったら上がったで、家の北側と南側を繋ぐ扉なんかがない。まるで、一つの家の上に、二つの家が別々に乗っかっている。そんな不自然な造りになっているんだ」


 事もなく流すように言っていたが、魁の言葉は的を射ていた。今度ばかりは室井も納得したようで、ただ、魁の話に耳を傾けているだけだ。


 通常、一階から二階へ昇る階段など、一つあれば十分だ。一階は一階、二階は二階で、それぞれ廊下や部屋を造り行き来ができるようにすればいい。わざわざ階段を別々に造り、二階を北と南で分断する。忍者のからくり屋敷ならいざ知らず、極一般の民家でしかない家を、そんなややこしい構造にする必要はない。


「この家は、もともとは南側部分しかなかったんだろうね。北側は、それこそ物干し場とか裏庭みたいな感じでさ。この井戸も、最初は家の外にあったんじゃないかな?」


「だとすると、家を改築……いや、増築した際に、井戸の真上に部屋を作っちまったってことか?」


「そういうことになるね。家主にお金がなかったのか、それとも依頼を受けた業者が悪質だったのか……。とにかく、この家の湿気の原因は、全部床下に放置された井戸のせいなんだよ。幽霊云々は関係なく、井戸の底から溢れ出した湿気が、家全体を蝕んでいたんだ」


「なるほど。じゃあ、このカビやら辛気臭い空気やらは、全部井戸が原因なんだな?」


「その通り。普通、こういった井戸には神が住んでいるって言われているから、ちゃんとした手順を踏んで埋めないと祟りが起きるんだ。それをしないで無理な増築なんかして、更には家そのものを放棄したもんだから……井戸の神が怒って、完全に祟り神になっちゃったんだね」


「祟り神って……。なんか、随分と話が大きくなってきたな……」


 相変わらず、魁の口調は軽快なままだったが、室井はその中に出て来た≪祟り神≫という言葉に妙な恐怖感を覚えて仕方がなかった。


 祟り神。本来は祭神として祀られていた神が、何の因果か妖怪のような存在と成り、人間に仇成すようになったもの。神の存在など信じてはいない室井だったが、以前に番組でさびれた神社を心霊スポットとして扱った際に、そんな話を聞いたことがある。


 幸い、その神社の撮影を済ませたときは、何の心霊現象も起きることはなかった。が、後日、その神社のある地元の神主から忠告を受け、二度と同じ場所に近づかないようにと釘を刺された。なんでも、祟り神の祟りは相当に強力なものらしく、場合によっては一族が滅びるまで憑いてまわるとか。そんな話を思い出してしまっては、いくら室井とて心が安らかではない。


 あの時は神主の話など馬鹿にしていたが、今となっては普通に恐ろしい。魁による除霊を目の当たりにした室井にとって、心霊現象は既に空想の産物などではないのだ。


 魁の話では、この井戸が全ての心霊現象の大元だということだ。と、いうことは、彼の言う祟り神もまた、今もなお井戸の奥に影を潜めているということだろうか。


「さぁて……。解説も終わったところで、そろそろ締めと行きますか。今日は久しぶりに大仕事になりそうだからね。俺も、ちょっと派手にパフォーマンスさせてもらおうかな?」


 そう言うが早いか、魁は自分の懐に手を突っ込むと、そこから小さな水晶玉を取り出した。街頭などでたまに見かける、占い師の老婆が用いているようなものではない。もっと小柄で、それこそ掌に乗ってしまうほどの小さなものだ。


 水晶玉に念を込め、魁は井戸の底に潜む邪悪な気配に意識を集中させる。本当は、こんな道具に頼らずとも、もっと伝統的な手法がないわけではない。しかし、魁はそんな形式よりも、己を格好良く見せることに重きを置く人間だ。


 素人目に見てもわかりやすい道具を用い、自分の凄さを強調する。魔を祓う行いというものは、魁にとって、あくまで自分の名声を上げるための手段に過ぎない。そうやって、表の世界を生きる霊能力者としてやっていくのが、御鶴木魁という男の生き方なのだ。


 閉じられていた魁の両目がカッと開かれ、水晶玉が妖しい紫色の光を放ちだした。そして、その光りに導かれるようにして、井戸の奥底から白い湯気のような物が立ち上ってくる。


 霧とも煙ともつかない、実に奇妙な色をした乳白色の物体。俗に言われる、エクトプラズムと呼ばれる物の類だろうか。室井も以前、霊媒師の女の口から白い煙のような物が伸びている写真を、番組で扱ったことがある。


 だが、それにしては、目の前の物体は妙に生々しく感じられた。あれは、ただの霧ではない。増してや、何かのトリックなどでもない。確証はないが、室井はいつしか完全に心霊現象を信じ込んでしまっている自分がいることに気がついた。


 やがて、現れた霧が徐々に塊、一つの帯のような姿を成してゆく。人間の胴体ほどもある、実に太く長いものだ。固まった霧の表面には鱗のような斑紋が現れ始め、不快な臭気を放つ一体の巨大な魔物と化す。


「あれは……」


 井戸の底から現れし異形の者。それを見た室井は、大きく口を開けたまま動けなかった。


 そこにいたのは、一匹の巨大な蛇だった。ニシキヘビを裕に超える巨体を誇る、赤く禍々しい瞳の大蛇。全身を覆う白い鱗は、その所々が黒く朽ち果ててしまい見る影もない。かつては神々しいまでの美しさを誇っていたのだろうが、今となっては、陰の気によって腐り果てた肉体を持つ醜い怪物であった。


「先生……。さすがにこいつ、ちょっとヤバいっすよ……」


 梵字の刺青が刻まれた腕を構え、総司郎が魁を庇うようにして言った。反射的に師を守ろうとしたのだろうが、その声は明らかに震えていた。


「まあ、さっきまでの雑魚みたいに、軽くいなすってわけにはいかないだろうね」


 水晶玉を掲げたまま、魁が不敵な笑みをこぼしながら大蛇を睨む。この期に及んで、まだ笑っていられるほどの余裕があるというのだろうか。


 もし、これが単なるはったりでないのだとすれば、本気になった魁はどこまでの強さを見せるのだろう。室井の知っている魁の力でさえ、あくまで彼の能力の一端に過ぎない。魁はまだ、室井の知らない切り札を、このときのために隠し持っていたとでもいうのだろうか。


 井戸から首を伸ばした大蛇が、その口を大きく開けて威嚇した。間違いない。相手は完全に怒っている。それは、自分の土地に無断で入り込まれたことに対する怒りだろうか。それとも、身勝手な人間によって床板の底に封じられてしまった、積年の恨みが成せる業なのだろうか。


 その、どちらでも、魁にはさして関係はなかった。次の瞬間、大蛇の首が素早く動き、その口の中にある牙を突き立てんと魁に迫る。慌てて総司郎が身構えるが、速さでは相手の方が上だ。


 果たして、そんな総司郎の努力も虚しく、大蛇の首は魁の顔目掛けて一直線に伸びていた。このままでは、魁が大蛇に飲み込まれる。その場にいた誰もがそう思ったが、魁はあくまで落ちついた様子で、大蛇の動きから目を離さなかった。


 ジュッ、という何かが焦げるような音がして、室井は瞑ってしまった目をそろそろと開けた。もしかすると、魁はあのまま大蛇の毒牙にかかってしまったのではないか。そんな最悪の事態が頭をよぎったが、二人の前にあったのは、彼らの予想に反した魁と大蛇の姿だった。


 大蛇の頭が、魁の手前で止まっていた。いや、実際には、止められていたと言った方が正しいか。


 いつの間にか、魁の手には銀製の扇が握られており、それが大蛇の頭に突き刺さるような形で動きを止めていたのだ。扇を作っている銀の板は、その表面に不可思議な呪文のようなものが刻まれている。単なる飾りなどではない、列記とした魔物と戦うための武器だった。


「せ、先生……」


「大丈夫だよ、総ちゃん。こいつ、確かに強力な霊体だけど、神としては三流だね。長い間、床下の底に閉じ込められて腐っちゃったから、単に他の生き物の命を吸うことだけに特化した妖怪に成り下がっちゃってる。ちゃんとした社に祀られているような神ならいざ知らず、こんな奴に負ける俺じゃないよ」


 扇を握った手を軽く振り、魁は大蛇の頭を跳ね飛ばした。どう見ても圧倒的な体格差があったが、魁はさして力も込めず、払いのけるようにしてあしらった。これが、持っている霊能力の差だ。そう言わんばかりの表情で、魁は大きく腕を左右に広げてゆく。


「さて、遊びはお終いだ。さすがに長期戦になるとヤバそうだし……。それに、俺はどうも、生身で戦うのって疲れるから好きじゃないんだよね」


 魔を滅することを生業とする霊能者の中には、自ら武器を手にして悪霊や妖怪と戦う者がいる。しかし、そういった肉体派の霊能者に比べると、魁は随分とスマートな戦いを好む男だった。


 力押しは望まない。戦いは、あくまで美しく勝利しなければ意味がない。血みどろの肉弾戦でぶつかり合うなど、自分の性には合っていない。


 再び大蛇が体勢を整えるよりも先に、魁の着ている服の袖口から無数の紙が飛び出した。それはどれも、高級そうな和紙で作られた折り紙だった。あの、首吊り女の霊を退治したときに使った鶴だけではない。鶴よりも攻撃的な、猛禽類の姿や犬のような姿をしたものまである。


「やれ……」


 そう、魁が口にするが早いか、折り紙の獣たちが一斉に大蛇に襲いかかった。鶴が、鷲が、犬が、次々と悪霊と化した大蛇の霊に飛び掛かってゆく。折り紙に爪や牙などないにも関わらず、紙人形に貼り付かれた大蛇は奇声を上げてのたうち回った。


 紙の獣が、見るもおぞましい蛇の怪物に挑んでゆく。事情を知らない者からすれば滑稽な見世物なのかもしれないが、室井は何も言うことができず、目の前の光景に目を奪われていた。


「仕上げだ、お前達。トーコちゃんの味わった金縛りの恐怖……その化け物にも、きっちり味わわせてやるんだな!!」


 魁の口元が、意地悪そうに歪んで見えた。その言葉が終わりきらない内に、折り紙で作られた魁の下僕しもべが、一瞬だけ光輝いたような気がした。


 部屋の中に、何かが弾けたような音が響き渡る。強烈な静電気を受けたような気がして、室井は慌てて目元を腕で覆った。


「……っ!! 今度は何をした、陰陽師!?」


「心配は要らないよ。俺はただ、俺の式神を使って、こいつの動きを封じ込めただけだから」


「式神だぁ? おい……まさか、お前の服の中から出て来たあの折り紙。あれが、お前の言う式神ってやつなのか?」


「ああ、そうだよ。陰陽師は、己の配下として式神を使う。少しオカルトに詳しい人なら、誰でも知っていることだと思うけど?」


 事もなさげに、魁は室井に向かってさらりと流すように言ってのけた。もっとも、そうは言われても、室井は未だに自分の頭の中が混乱していた。


 式神。陰陽師が使役する、下級の神のような存在。通常、その姿は人には見えず、実際には鬼のような姿をしていると言われている。怪奇漫画や怪奇映画などでは、それらの存在が劇中で事件を解決することも少なくない。


 だが、そういった類の物に比べると、魁の言う式神は室井の知っているものとは随分と異なっていた。確かに、不思議な力を持っていることには変わりないが、それでも傍目にはただの紙人形なのである。そんな物を見せられて「あれが式神です」と言われても、なかなか信じることは難しい。


「どうしたんだい、室井さん? 俺の説明、なんか納得言ってないみたいだけど……」


 室井の訝しげな表情に気がついたのだろう。魁もまた、何やら少しばかり不満そうな顔で、室井に向かって尋ねてきた。


「いや、まあ、ちょっとな。ほら……式神なんて言ったら、普通はでっかい鬼みたいなやつを想像するじゃないか。だから、ちょっとばかり面食らってな」


「なんだ、そんなこと。言っておくけど、式神ってのはあんたが思っているような化け物じゃないよ。式神ってのは、陰陽師が使役する自分の分身みたいなものさ。要は、自分の力を込めて作った、操り人形みたいな存在だね。一つ一つの力は弱いけど、集まれば、ああやって強力な霊体でも金縛りを食らわせることができる」


「なるほど、操り人形とはな……。それなら、あの折り紙どもが、お前の作った操り人形なのか?」


「そういうこと。あいつらは、ただの紙人形じゃない。作るときに、俺の髪の毛を一緒に折り込んで作った特注品なんだよ。紙に髪を入れて神とする……。我ながら、洒落が効いていると思わないかい?」


 半分は冗談のつもりで言った魁だったが、室井は笑わなかった。一見して子どもの玩具にしか見えないもので、こうも悪霊を圧倒する。そんな魁の姿に、室井もまたいつしか一種の畏敬の念のようなものを抱き始めていた。


「それじゃ、最後の仕上げだな。あいつ、もう自分では動けないみたいだし……後は任せたよ、総ちゃん」


 自慢の冗談が受けなかったことに、機嫌を損ねてしまったのだろうか。魁は急にぶっきらぼうな口調になって、後始末を総司郎に任せてしまった。もう、これ以上は興味もない。普段の魁があまり見せることのない、やけに冷めた瞳が物語っていた。


 全身を式神に押さえつけられ、もはや動くことも敵わなくなった大蛇の霊。かつては井戸の神として、慎ましくも人々に畏怖されてきた存在。そんな神霊の一つではあったが、長い年月を経て魂まで腐り果ててしまった今は、これも一体の悪霊に過ぎない。


 無言のまま腕まくりをし、総司郎が大蛇の霊へと近づいてゆく。そこには先ほどの、取り乱したような様子はない。まともに戦えば苦戦したかもしれないが、今は相手も完全に動きを封じられている。


 魁に言われずとも、総司郎もまた、この大蛇の霊を放ってはおけないことはわかっていた。祟り神と化してしまった井戸の神。その全身から放たれる腐臭のような陰の気が、この家全体に溢れて嫌な者を引き寄せている。ここで大元を断っておかなければ、いくら雑魚を倒したところで、直ぐに以前の幽霊屋敷に逆戻りだ。


 それに、魁の話では、どうやら凍呼に取り憑いているのはこの祟り神のようだった。確かに、神としては格下の存在なのかもしれないが、何の力も持たない一般人にとっては十分に脅威だ。


 両腕の梵字が赤く発光し、魁は動かなくなった蛇の口に指をかけて大きく広げた。そして、そのままぐっと力を込めると、上下の顎を引き剥がすかのようにして、蛇の身体を真っ二つに引き裂いた。


 実体のない、霊的な存在だというのに、肉が裂かれて何かが飛び散るような音がした。引き裂かれた蛇の身体は直ぐに溶けてどろどろとした液状の塊となり、やがてそれも、床や畳に吸い込まれるようにして消えてしまった。


「お疲れさまだね、総ちゃん。やっぱ、最後の締めは、総ちゃんにやってもらった方が俺も楽だわ」


 先ほど使っていた銀の扇で、魁が胸元を仰いでいた。対する総司郎は、これは照れ隠しなのだろうか。癖毛の酷い頭をポリポリと掻きながら、一言、「どうも……」と言っただけだった。


「さて……。これで大元は断ったけど、まだ家には変なのがうようよいるねぇ。これ、全部やっつけるとなると、かなり骨が折れるよなぁ……」


「どうします、先生? なんだったら、俺が一匹ずつ潰しても構わないっすけど……」


「いや、大丈夫だよ。総ちゃんには大仕事を片付けてもらったばっかりだし、後は俺がやっておくさ。幸い、式神の連中もまだ使えるからね。あいつらを使って、最後の大掃除と行きますか」


 そう言う魁の足下には、いつの間にか、先ほどまで大蛇の動きを封じていた式神たちが集まっていた。一糸乱れぬ隊列を作って並んでいるその様は、やはりどこか滑稽なものがある。


 魁が扇を振りかざし、式神たちに無言の命令を下した。その扇の動きに操られるかのようにして、紙で作られた動物たちは、それぞれが屋敷のあちこちに姿を消して行った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夜のテレビ局にある会議室で、魁が淡々とした口調で話していた。その間、凍呼はただ流されるままに、魁の話を聞いているだけだった。


「……と、いうわけで、俺と総ちゃんで、あのお化け屋敷の幽霊たちは一掃したってわけ。君に取り憑いていた蛇の霊も、本体を総ちゃんが潰したから。現に、俺が除霊をした後は、トーコちゃんの霊傷も快方に向かっているんでしょ?」


「はい……。で、でもぉ……」


 魁に事の次第を説明され、さらには総司郎の腕にある刺青まで見せられても、凍呼は不安な表情を変えられないままに言った。


 確かに、魁の言う通りであれば、あの家にいた幽霊は一掃されたのだろう。現に、あれから凍呼自信も、妙な夢にうなされることはなくなっている。身体についた蛇の絞め跡のような痣も、だんだんと薄くなってきてはいる。


 しかし、では、先日の生放送で起きたというプロデューサーの変死事件。あれは、いったい何なのだろう。全ての霊を祓い終え、祟りの大元を断った今、なぜプロデューサーの西岡が亡くならなければならなかったのか。


 西岡の死は、公には撮影機材の転倒及び落下によるものであると説明されている。実際の現場に居合わせたわけではないため、そう言われてしまえば、凍呼にも言い返す術はない。だが、その一方で、西岡の死が本当に単なる事故だったのか、それを証明するための証拠もないのが現状だ。


 自分のことではないにしろ、それでも凍呼は恐ろしくて仕方がなかった。本当は、まだ悪霊による祟りが続いているのではないか。魁の力を信じていないわけではないが、もしかすると、彼の手を逃れた何かが未だ祟りを引き起こしているのではないか。そんな不安が次から次へと湧いてくる。


「あのぅ……。こんなこと言ったら失礼かもしれませんけど……」


「なんだい? もしかして、まだ何か気になることがあるとか?」


「はい。御鶴木さんの力、私も信じていないわけじゃありません。でも……本当に、祟りは全部終わったんですか?」


「それは間違いないよ。君に取り憑いていた蛇の霊もそうだけど……そもそも、あの屋敷にいたのは、その殆どが自縛霊みたいな連中だ。自分は土地に縛られていて、そこから自由に動けない。だから、その代わりに端末……要は、自分の分身みたいなやつを君たちのところに送り込んで、間接的に祟っていたんだ。その大元を叩いたんだから、もう何も心配は要らないよ」


「そうですか……。だったら、やっぱり西岡プロデューサーが亡くなったのは、単なる事故だったってことなんですか?」


「そうだねぇ……。実は、そこが俺も引っかかっているところなのさ」


 隣にいる総司郎に軽く目配せし、魁は自分の口元に指を添えて言った。総司郎が、無言で頷いて魁に答える。


 あの、生放送の本番中、魁と総司郎もスタジオの中にいた。そして、彼らの目の前で、西岡は見るも無残な変死を遂げた。


 眼球がボールのように膨れ上がり、その頭ごとバラバラに吹き飛んで死亡する。局側は機材の転倒、落下による事故と主張しているが、これが事実を隠蔽するための詭弁であることは、魁からしても明らかだった。


 プロデューサーが変死したことで、自分の除霊が不完全だったと思われる。それは確かに魁にとって不名誉なことだったが、問題なのは、そんなことではない。


 魁にとって最も許せなかったのが、自分の目の前で一人の人間が不審な死に方をしたということだ。もし、彼の死の原因が呪いや祟りによるものであれば、白昼堂々、大衆の眼前で霊的な存在が関わった事件が発生したことになる。しかも、よりにもよって、陰陽師の末裔と称され世間的にも知名度が上がってきた、この御鶴木魁の目の前でだ。


 表の世界を生きる霊能力者として、これは決して許してはならない事態だった。このまま妙な噂が立てば、彼の看板番組である≪奇跡空間ミラクルゾーン≫は打ち切りに追い込まれてしまう。それに、事件の犯人が人間であれ悪霊であれ、こちらが一方的に舐められているような気がして腹が立った。


 こうなれば、事件の謎は自分が解明してやろう。局側は事態をこのまま隠蔽するつもりらしいが、そんなことは関係ない。このまま出し抜かれて終わっては、陰陽師の末裔としてのプライドにも関わる。


(ま、久々に面白いことになってきたってのは事実だね。それに、ここで事件を解決しておけば、俺の名前を売るのにも役には立つか……)


 自分の感情を凍呼に気取られないように注意しながら、魁は口元を隠すようにして腕を組んだ。一瞬、部屋から音が消え、無音の静寂だけが辺りを包む。


 突然、部屋の隅で音がした。紙が擦れるような、何やら妙に軽い音。部屋が静かだったことも相俟って、それは随分と大きな音のように聞こえた。


 凍呼の意識が、音のした方へと向けられる。大方、会議室に忘れられたレジメでも落ちたのだろうか。そんなことを考えながら、何気なく部屋の隅へと目を移す。すると、今まで不安そうに俯いていただけだった凍呼の顔が、見る間に驚きの表情へと変わってゆく。


「えっ……。何、あれ……」


 そこにいたのは、一匹の小さな犬だった。いや、正確に言えば、犬の姿をした小さな紙人形だった。


 人形が、まるで生きているかのようにして、するすると床を這いながら魁の下へやってくる。歩くというよりは、むしろ滑ると言った方が正しい動きだ。


 目の前で起きている不思議な光景に、凍呼はしばし言葉を失ったまま我を忘れていた。もっとも、魁と総司郎は慣れたものなのか、その程度では微動だにしない。


 床を滑り、紙人形が自分の足下までやってきたところで、魁はそれをひょいと摘まみ上げた。そのまま人形の頭の部分を自分の顔に向け、何も言わずに見つめている。


「おやおや……。どうやら、妙なお客さんが来たみたいだな。こいつらに局の中を探らせていたんだが、思わぬ相手に引っ掛かったみたいだ」


 勝手に独り納得したような表情を浮かべ、魁は紙人形を自分の懐にしまって言った。そして、すぐさま席を立ち上がると、スーツの上着を取って羽織り、部屋の出口へと向かって歩き出した。


「先生。どこへ行くんっすか?」


「ちょっと、野暮用が入ってね。この局に、俺以外にも妙な力を持ったやつが入って来たみたいだ。こいつは少し、相手の顔を見ておいた方がよさそうだと思ってね」


 悪戯っぽく笑いながら、魁は凍呼と総司郎へ、一緒に来るように促した。まったくもって話の流れがつかめない二人だったが、ここはとにかく魁に従って着いてゆく他になさそうだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夜のテレビ局というものは、思ったよりも静かだった。収録中のスタジオ内は別なのだろうが、廊下は打って変わって落ちついた空気が流れている。


 思っていた場所よりも、随分と静かなところだと照瑠は思った。高槻に案内され、紅に同伴する形でテレビ局などに来てはみたが、予想外に静かだったので拍子抜けしてしまった。


 これが、収録中のスタジオであれば、製作スタッフや出演しているタレント達によって、実に盛り上がった場が提供されていることだろう。場合によっては、観客席に招待された一般人達の黄色い声も聞けたかもしれない。


「ほぇぇ~……。初めて来てみたけど、テレビ局って広いんだね。それに、思ったより静かだし……」


 照瑠の隣では、やはり同じく紅に同伴して来た亜衣が、妙に感心した表情で辺りの様子を窺っていた。いつもの彼女らしくない反応だったが、これはこれで構わない。少なくとも、どこかで知っている芸能人の一人でも見つけ、勝手に追いかけて行方不明になられるよりはマシだ。


 完全に呆けている亜衣を横に、照瑠は高槻や雪乃が案内する方向へと足を進めた。途中、数人の人間と擦れ違ったが、どれも照瑠の知っているような相手ではなかった。


 恐らく、この局に務める番組作成スタッフなのだろう。いくら東京のテレビ局だからといって、そう簡単に芸能人と出会えるわけでもない。出演者よりも番組の制作そのものに携わる人間の方が多いことも相俟って、芸能人と鉢合せるようなハプニングには、幸いにして巻き込まれなかった。


 いや、それ以前に、雪乃やまゆと言ったテレビに顔を出す人間と一緒に歩いていることで、照瑠もまた、この局の中では既に部外者として見られていないのかもしれない。高槻からもらった入館許可証のようなタグを首から下げてはいたが、通りすがりの誰しもが、照瑠たちに好奇の視線を向けて来るようなことはない。


(それにしても……)


 高槻に案内されて先頭を進む紅を見て、照瑠はふと軽い疑問を抱いた。


 先ほどから、紅は何も言わないまま、ただひたすらに高槻の後に着いて歩いている。一見していつもの紅と変わりがないが、それでも照瑠は妙に感心せざるを得なかった。


 東京のテレビ局の空気は、照瑠や紅が住んでいる火乃澤町とはまったく違う。それは、彼が育った四国の田舎の村と比べても明らかだ。大都会の中心にある、一種異様とも言える空気の中に、照瑠自身、自分がどこにいるのかわからなくなりそうだというのに。


 なんというか、紅はあらゆる意味でタフなのだと照瑠は思った。彼とて、テレビ局の中に入ることなど初めてのはず。それにも関わらず、こうまで落ち着き払って行動できるとは、その神経の図太さに敬服してしまう。


「さあ、着いたよ。ここが、例の番組を撮影するのに使っていたスタジオさ」


 程なくして高槻が立ち止まり、紅や照瑠の方に向き直って言った。そんな彼の正面には、なにやら重たそうな扉がある。きっと、この扉の先に、例のプロデューサー変死事件が起きたスタジオがあるのだ。


「なんだ。折角来たのに、鍵かかってるじゃん!!」


 扉が封印されているのを目敏く見つけ、亜衣が拍子抜けしたような顔をした。


「それは仕方ないよ。僕も、実際に見たわけではないけど……そこの篠原さんが言うには、相当に酷い事故だったらしいじゃないか。そんな事故が発生したスタジオなんて、そう二、三日で使えるようにするってのも、妙な話だと思うけど……」


「でも、それだったら、どうやって調べるのさ。部屋に入れないんだったら、ここまで来た意味が全然ないよ」


 腰に手を当て、珍しく正論を口にする亜衣。胸を大きく張っているのは、自分の小さな背丈を少しでも大きく見せようとしているためか。小学生と同じくらいの身長しかない亜衣にとって、こういうとき、必要以上に子ども扱いされたくないのかもしれない。


 もっとも、現状では亜衣の言うことも確かに正しく、高槻もそれ以上は何も言えなかった。とりあえずは紅を局に案内したものの、いざ現場に入ろうとして、その術がない。なんというか、自分の無計画さに、少々情けなくもなってくる。


「どいていろ、嶋本。扉の封印など、俺にはさしたる問題じゃない……」


 目の前で困惑している高槻を見かねてか、今まで黙っていた紅がすっと前に出た。亜衣と高槻。その二人を押しのけるようにして扉の前に立つと、紅は静かに目を瞑り、自分の影に意識を集中させてゆく。


「ねえ。あの人、何を始めるつもりなの?」


 雪乃の後ろから、まゆが怪訝そうな顔をして尋ねた。照瑠や亜衣、それに雪乃や高津にとっては、紅が不思議な力を使うということも当たり前である。しかし、今日初めて紅に会ったばかりのまゆは、他の者とは違い、紅のことをよく知らない。


 無言のまま口に指を当てて制する雪乃を他所に、まゆはその後ろから、じっと紅の背中を見つめていた。


 いったい、あの少年は、これから何をするつもりなのか。雪乃の話では優れた霊能力者ということだったが、その特異な容姿を除いては、年齢も自分たちとさほど変わらない。そんな少年に、いったい何ができるというのだろう。


「行け、黒影こくえい……」


 その目をしっかりと閉じたまま、紅がそっと呟いた。すると、今までは彼の足下で大人しくしていた影が、ゆらゆらと揺れて一気に黒味を増してきた。


 紅の赤い瞳が、カッと開かれて正面を見据える。同時に、影は彼の足から音もなく離れ、そのまま流動的な水たまりのように、ずるずると扉の隙間に吸い込まれてゆく。


「えっ……。影が……消えた?」


 人間の足から影が離れ、さらにはそれが、まるで生き物のように動いて姿を消す。照瑠たちにはお馴染の光景だったが、まゆだけは大いに驚いて、その目をしばし丸くさせていた。


 己の影に宿りし、犬の姿をした下級の神。時に巨大な犬の姿を象り、術者の思うままに行動する紅のパートナー。代々、犬崎家を始めとする赫の一族に伝わりし、究極の外法である存在、犬神。


 今、紅がスタジオの中に向かわせたのは、紛れもなくその犬神であった。扉を封印され、人間が入ることができなくとも、黒影のような霊的な存在であれば侵入することができる。単に情報を集めるだけであれば、犬神だけを向かわせても問題はない。


 十分、二十分、それに三十分。本当はもっと短い時間だったのかもしれないが、まゆにはそれが、まるで数十分もの時間を要した出来事のように感じられた。


 程なくして、影が部屋の中から戻って来た。影はそのまま紅の側にやってくると、再び彼の一部として、その足下に収まった。


 これで、調査は終わったということなのだろうか。思わず気になり声を掛けそうになった照瑠と亜衣。が、そう思って紅の後ろに近づいた途端、あまりに強い殺気のようなものを感じ、ついその場に踏みとどまってしまった。


 いったい、紅はどうしたというのだろう。こんなに張り詰めた空気の紅は、照瑠も早々お目にかかったことはない。普段の眠たそうな様子からは勿論のこと、霊的な存在に関係する話をしているときでさえ、こうまで酷い殺気は感じたことがない。


 紅が、ここまで強い緊張と警戒を露わにするとき。それは、彼が向こう側の世界・・・・・・・の住人と戦うときだけだ。普段のぼんやりした様子からは想像もできないほどに、戦うときの彼は、まるで獲物を狙う肉食獣の如き凄まじさを発揮する。


「ちょ……。どうしたのよ、犬崎君……」


 それが、照瑠の口からようやく出て来た言葉だった。もっとも、紅はその言葉にも、まったく返事を返そうとしない。ただ、ちらりと廊下の奥に目をやって、その先にいる者を、鋭く光る赤い瞳で睨みつけた。


「そこにいることはわかっている。いい加減、隠れていないで出てきたらどうだ……?」


 いつの間にか、紅の影が再び形を変えていた。今度はやけに細長く、しかも不自然な方向に曲がって伸びている。影は何かを捕まえているようで、よくよく見ると、それは紙で作られた小さな人形のようだった。


「いやぁ……。見つかっちゃったか」


 廊下の奥、ちょうど曲がり角のようになった場所から、ホストのような格好をした男が姿を現した。その隣にいるのは、何やら派手なアロハシャツを着た筋肉質な男。さらに後ろには、長い黒髪をした痩せ気味の少女が立っていた。


「あっ、あの人……」


 白いスーツに身を包んだ男を見て、亜衣が叫んだ。


「亜衣、知ってるの?」


「うん。確か、名前は御鶴木魁。ここ最近で、急に名前が売れだした霊能力者だよ。例の、≪奇跡空間ミラクルゾーン≫にも、たま~に出演することがあったから知ってるんだ」


「霊能力者か……。なんか、それにしちゃ、随分と派手な格好をしてるわね」


 亜衣の口から出た職業と、男の格好のあからさまなギャップ。自分の思い描いていた霊能力者との違いに、照瑠は少々面食らった。


「貴様……。さっきから、俺のことを探っていたようだが……何者だ?」


 追及の手を緩めず、紅が魁に向かって言った。相手が年上だろうと関係ない。いつも以上に無愛想な表情で、紅は魁に凄むような視線を送っていた。


「おいおい、随分と好戦的だな。俺は別に、君の邪魔をしようってわけじゃない。ただ、ちょっと同業者の気配がしたんで、接触しようと思っただけさ」


「ふん、どうだかな。それにしては、後ろからコソコソと式神なんかで探りを入れていたようだが?」


 影が紅の身体に吸い込まれるようにして縮み、紅は足下に引き寄せられた紙人形を拾い上げた。影に捕らわれていたのは、これまた小さな犬の姿をした紙人形。それはしばらく紅の手の中でもがいていたが、やがて紅が拳を握ったことで、人形もまた紙の潰れる音を立てて動きを止めた。


「残念だが、こんな物では俺は出し抜けないぞ。それよりも、貴様の目的は何だ? 何故、俺の後を付け回した?」


「これは、とんだ御挨拶だね。でも、俺から言わせてもらえば、君の方が部外者だ。そういう君こそ、このテレビ局には何をしに来たのかな?」


「答える義理はない。ただ、一つだけ言っておく……」


 丸めた紙人形を魁に放り投げ、紅は魁の鼻先に指先を突きつけるようにして言った。


「俺の仕事の邪魔はするな。今後、俺の後を意味もなくつけ回すようならば、次は容赦しないぞ。俺も……それに、黒影もな」


 紅の言葉と共に、足下の影が揺れて広がった。それがただの影でないということに気づき、魁は仕方なくその場に踏みとどまった。


「やれやれ、嫌われたもんだねぇ……。まあ、別に俺は、どっちでもいいけどさ。俺は俺のやり方で、自分の目的を果たさせてもらうからね」


「勝手にしろ。俺は、端から貴様などに興味はない……」


 それだけ言うと、紅は音もなく踵を返し、さっさと扉の前を後にした。その後ろを、慌てて照瑠や亜衣たちも追いかける。後に残された魁と総司郎、それに凍呼の三人は、そんな紅や照瑠の後姿を、何も言わずに見つめていた。


「さて……。ところで、総ちゃん」


 紅たちの姿が完全に見えなくなったところで、魁は大きく腕を伸ばし、改めて総司郎に尋ねた。


「あの、赤い目をした少年……総ちゃんは、どう思った?」


「そうっすね……。率直に言って、よくわかんないっす」


「わからない?」


「はい……。あいつの影に憑いているやつ。あれ、只者じゃないっすよ。それこそ、この前の幽霊屋敷の除霊で戦った蛇なんか、比べ物にならないくらい……」


「だろうね。それは、俺も感じていた」


「けど、特に邪悪な感じもしなかったっす。真っ暗で冷たいのに……何か、変な感じでした」


「なるほどね。まあ、総ちゃんが言うんだったら間違いはないでしょ。どっちにしても、こいつは少々、厄介なことになりそうだけど……」


 足下に転がった式神のなれの果てを拾い上げ、珍しく魁は難しい顔をして言った。


 いくら単体での力が弱いとはいえ、それでも魁の使役する式神は、それなりの力を持っている。そんな式神を、いとも容易く捕えて破壊する。これだけのことを行うには、かなりの霊能力が必要とされる。


 あれは、恐らくは外法を使う一族の一人だろう。大方、例のプロデューサー変死事件を嗅ぎつけて、さっそく調査に現れたか。だとすれば、とんだ商売敵が現れたものだ。


 本当は、自分のペースでじっくり調査をしたかった。しかし、こうなってしまっては、最早のんびりしているわけにもいかなくなった。


 あの少年が何者であれ、こちらも西岡の変死を放っておくつもりはさらさらない。それに、後からやって来た人間に手柄を取られては、最悪の場合、今後の仕事の進退にも関わってきてしまう。


 丸められた式神をポケットにねじ込み、魁もまた静かに後ろを向いた。そのまま踵を返し、今しがた歩いてきた廊下を戻ってゆく。後にはスタジオに続く巨大な扉だけが残されて、静寂の中、ひたすらに封印を守っていた。

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