~ 参ノ刻 蛇憑 ~
葵璃凍呼が御鶴木魁の言っていたスタジオについたとき、既に辺りは暗くなっていた。
もうすぐ初夏とはいえ、さすがに六時を過ぎれば日も落ちる。六月近くになれば七時前でも明るいが、今はまだ、春分を過ぎて一カ月経つか経たないか。いくら冬に比べて明るくなったとはいえ、そこまで日が長いわけではない。
もっとも、昼夜を問わず人が動き回っているこの大都会では、そんなことは、あまり意味のないことかもしれない。現に、凍呼がスタジオに着いたときも、街はまだまだ眠ろうとはしていない。街灯やネオンに照らされた夜の街は、都会で暮らしている凍呼でさえ、その輝きに時に神秘的な何かを感じてしまう。
東京は、決して眠らない街だ。何かの小説で読んだ一節を思い出し、凍呼はなぜか、今になってその言葉に納得した。古来より闇を恐れ、闇に怯えていた人間の姿は、そこにない。
だが、それでも凍呼は知っている。この現代においてなお、人間の常識では測ることのできないものが存在するということを。自分が体験したからこそ、それらの出来事を始めて真実だと信じられるということを。
スタジオのあるビルの階段を昇り、凍呼は待ち合わせの場所へと足を急がせた。この時間、まだスタジオの殆どは撮影で使われている。魁が待ち合わせ場所として指定してきたのは、そんなビルの一角にある、休憩室の一つだった。
「あっ、弓削さん」
目の前に知り合いの男の姿を発見し、凍呼は思わず声に出して彼の名前を呼んだ。その声に、男は一瞬だけ肩を震わせると、ゆっくりと凍呼の方に顔を向けて振り返った。
ド派手なアロハシャツに、色の薄い癖のある髪の毛。目元は大きなサングラスで隠され、どこを見ているのかさえわからない。腕も脚も程良く鍛えられ、服の上からでも頑丈そうな胸板の持ち主だとわかる。
傍から見ればヤクザ者にしか見えないような格好をしているが、彼が決してそういった類の人間でないことは、凍呼が一番良く知っている。彼こそが、あの御鶴木魁の一番弟子。弓削総司郎その人なのだから。
「どうも……。お待ちしてましたっす……」
外見に反して気弱そうな声で、総司郎が凍呼に頭を下げた。他人と面と向かって会話することに慣れていないのか、彼は常に必要最低限の言葉しか発しない。それは何も目上の人間に対してだけでなく、凍呼のような少女に対してもまた同じことだった。
「もう、そんなに畏まらないでよ。私は別に、そこまで気を使ってもらわなくても平気だから」
本当は、その言葉の半分は嘘だ。未だに響く頭痛を薬で抑えて家を出たため、完全に本調子というわけではない。そんな凍呼の気持ちを知ってか知らずか、総司郎はやはり無言のままだった。
踵を返し、総司郎が目の前にあった扉をゆっくりと開く。きっと、この向こう側に魁が待っているのだろう。仕事は終わったと言っていたが、それでは、あの電話の後からずっと凍呼を待っていてくれたのだろうか。だとすると、少しばかり申し訳ない気分にもなってくる。
「失礼します……」
別に、遠慮する必要などない。そう、わかっていても、凍呼はそっと足音を忍ばせるようにして部屋に入った。部屋の中は空っぽで、中央に大きなテーブルが置かれている以外には、取り立てて見るような物もない。そして、そんな部屋の中央に、パイプ椅子に腰かける魁がいた。
「やあ、トーコちゃん。待ってたよ」
実に自然に、さらりと流すようにして魁が言った。女の扱いに慣れている男の態度だと凍呼は思った。
「すいません、お待たせして」
「いや、別に構わないよ。俺も、ちょうど仕事が終わって暇だったしね。それに、君の受けた霊傷が、どこまで回復しているかも気になったし」
茶色く染まった髪をかき上げるようにして、魁が探るような視線を凍呼に送ってくる。凍呼は返事をする代わりに頷くと、何も言わずに袖をまくって自分の腕にある痣を見せた。
「へぇ、随分と薄くなったじゃない。まあ、この分なら、もう一週間くらいすれば完全に治るよ。それまでは、ちょっとだけ身体が重たいかもしれないけどね」
「そうですか……。でも、こんなこと、あまり言いたくないんですけど……」
「なんだい? 遠慮しないで、何でも言ってくれよ」
「はい。実は……例の、西岡プロデューサーの件なんですけど……収録中に亡くなったって、本当なんですか?」
「ああ……。残念だけど、本当だよ。彼は収録中に、俺たちの目の前で亡くなったんだ。それも、とてもこの世のものとは思えない、壮絶でむごたらしい死に方でね」
魁が、一瞬だけ凍呼から視線を逸らせる。陰陽師の末裔を名乗り、時に大悪霊と戦ったこともあると豪語する彼でさえ、あの日の西岡の姿を直視したいとは思わなかった。あんなグロテスクで凄惨極まる最後など、できればあまり頭に残しておきたくない。
「あのぅ……。むごたらしい死に方って、具体的にはどんな……」
恐る恐る、凍呼は魁に訊いてみた。魁の様子からして、西岡の死に様は相当に酷い物だったということは凍呼にもわかる。そして、魁が凍呼にそれを伝えるのを、できれば避けたいと思っていることも。
しかし、凍呼にしてみれば、それらの真相を確かめるために魁の下へやってきたのだ。例え、ここでどれほど恐ろしい話を聞かされようと、それを受け止めるだけの覚悟はできている。自分の頭の中にある靄を放っておいて、このまま恐怖に怯える生活をするよりはマシなはずだ。
永遠の恐怖よりも、一時の恐怖を選んだ方がいい。そんな凍呼の決意が伝わったのだろうか。重たく口を噤んでいた魁だったが、やがて再び凍呼の方へ顔を向け、当日のことを少しずつ話し出した。
「あの日、俺は番組のゲストの一人として、総ちゃんと一緒にスタジオに入っていたんだ。いつもの席に座って、番組の最後に解説をする。普段通りの流れでやれば、よかったはずだったんだけどね」
「そうですね。幽霊関係の番組になるときは、いつも御鶴木さんが来て、最後に解説をするっていうのがパターンでしたし」
「だろ? だから俺も、あの日はとっておきのトークを用意しておいたんだ。もっとも、それは番組が途中で中止になっちまったせいで、全部お流れになっちゃったけどね」
わざとらしく肩を竦め、魁は大きな溜息を吐いた。西岡が亡くなったこと以上に、自分の話したかったネタが話せなかったことが残念だ。そんな風にも受け取れる態度だった。
「まあ、プロデューサーが変死したのは事実だし、あんなんじゃ番組も続けられない。それは仕方ないことだと思うよ。問題なのは、むしろその後さ」
「その後って……。もしかして、まだ何かあるんですかぁ……」
「おいおい、そんな泣きそうな顔するなよ。西岡プロデューサーが亡くなったのは事実だけど、それから先は、怪談話ってわけでもないからさ」
凍呼に向けられた魁の口調が、幾分か優しいものに変わった。怪奇番組にレギュラー出演していながら、凍呼が怖い話を苦手としていること。それは、魁も知っている。
「例の事件があった後、俺は総ちゃんに頼んで色々と調べてもらったんだよ。でも、結果は駄目駄目。なんか、テレビ局の方でも、強引に事故死ってことにしちゃってさ」
「事故死って……本当に、事故だったんじゃないんですか?」
「確かに、事故死と言えば事故死だよ。もっとも、局側としては、スキャンダルみたいなのを恐れてたってのもあるだろうね。ただ……殆ど緘口令みたいなやり方で関係者の口を封じたのは、俺も解せない部分があったけど」
「緘口令……。それじゃあ、御鶴木さんも、西岡プロデューサーの死の原因はわからないってことですかぁ!?」
「残念だけど、そういうこと。普通じゃない死に方したのは確かだけど、それ以上は俺にもわからない」
「そ、そんなぁ……。まさか、私や他のスタッフの人まで、プロデューサーみたいに死ぬってことはないですよねぇ……」
もう、声が完全に震えている。魁は言葉を選んで話をしていたつもりだが、凍呼は泣き出す寸前だ。
これが心霊番組の収録であれば、凍呼の反応は番組を盛り上げるものとして歓迎されただろう。しかし、今はそんな場ではなく、魁としては凍呼にこんなところで泣かれるのは御免だった。
仕方ない。これ以上は、下手に凍呼を怖がらせても意味がない。そう思い、魁は少しばかり宥めるような口調になって、そっと凍呼に語りかけた。
「まあ、落ちついてよ、トーコちゃん。トーコちゃんは現場にいなかったかもしれないけど、俺がちゃんと、あの屋敷にいた霊を除霊したのは本当だから。現に、あの後はトーコちゃんの霊傷も収まって、変な夢も見なくなったんだろ?」
「は、はい……。でもぉ……」
「だから、そう怖がらないでくれって。なんだったら、俺がどうやって屋敷の幽霊たちを除霊したか、ちゃんと教えてあげるからさ」
そう言いながら、魁は今まで隅の方で黙っていた総司郎の方へと目をやった。言葉にはしなかったが、そんな魁の瞳を見て、総司郎は静かに頷き服の袖をまくり上げた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日は、春先にしては妙に暗く、灰色の雲が空を覆っていた。
撮影を終えた古い屋敷から、葵璃凍呼はなんとも怯えた顔のまま外に出た。作り物とはわかっていても、やはりお化け屋敷の類は苦手だった。
本当にあった呪いの館。それが、今回撮影された映像のタイトルだった。一見して何の変哲もない廃屋を、お化けの出る呪われた館と称し、スタッフと一緒に潜入取材を試みる。今までも何度かやったことのある、廃墟探検の撮影だ。
もっとも、単なる廃墟探検とは違い、今回は随分と手の込んだ仕掛けが施されていた。特に、屋敷の奥の部屋に仕掛けられていた襖のからくり。あれは、凍呼からしても見事なものだったと思う。
こちら側からは決して開かないように襖を固定され、さらには中に赤い水の入った水槽のような物が仕掛けられている。襖も特注品で、外から見ただけではわからないが、一部が異様に薄い作りになっている。そこを蹴り飛ばすと襖に穴が開き、中から水が飛び出すという仕掛けだ。
初め、スタッフから話を聞かされたとき、凍呼は比較的余裕の表情を浮かべていた。確かに、襖が破れて血のような水が溢れ出すというのは恐ろしいものがあるが、仕掛けがわかっていれば、別にそこまで怖くはない。どうせ、今回も下らない≪やらせ≫なのだから、適当に怖がっておけば番組的にも盛り上がるだろう。
もっとも、凍呼のそんな甘い気持ちは、問題の家に入った途端に消え失せた。
薄暗い、電気さえ通っていない古びた廃屋。もう、何年も人の手が入っていないのか、至るところに埃が積もっている。木製の床は凍呼が歩く度にぎしぎしと嫌な音を立て、染みや割れ目の目立つ土壁からは、カビと埃の入り混じったような臭いが漂ってくる。
いつの間にか、凍呼はこれが≪やらせ≫であることも忘れ、家の空気に飲み込まれていた。もしかすると、打ち合わせにはなかった場所にも仕掛けがあり、いきなり驚かされるのではないか。そんな考えも頭に浮かび、余計に身体が強張ってしまう。
古びた床板を踏みしめながら、凍呼はスタッフと一緒に屋敷の奥へと入って行った。事前に見取り図は見せてもらっていたが、いざ入ってみると、その奇妙な作りを改めて実感した。
今回の撮影で使われることとなった廃屋は、単に古いだけの屋敷ではない。一階は普通の作りなのだが、問題は二階だ。
通常、二階に上がる階段というものは一つだけで、それを上がれば二階の廊下から各部屋へと行くことができるようになっている。ところが、この廃屋に関しては、そういった常識が通用しない。
二階へ続く階段は、玄関前のものと屋敷の奥にあるものの二つ。それぞれが独立した作りになっており、奥の階段からは二階の北側、手前の階段からは二階の南側に上がることができる。そして、二階は北側と南側で完全に分断されており、上がってからもそれぞれを行き来する手立てはない。
要するに、家の二階が完全に二つに分かれており、それぞれを行き来するためには、どうしても一階に降りねばならない作りになっているのだ。こんな不自然かつ不便極まりない作りをした家など、凍呼は今までに見たことも聞いたこともなかった。
今回、凍呼たちが撮影で使ったのは、そんな奇妙な家の最深部だった。屋敷の奥にある階段を昇った北側の部屋。その襖にあらかじめ仕掛けがしてあり、ADの一人が仕掛けを発動させるという手順になっていた。
(それにしても……)
撮影の終わった廃屋に降り返り、凍呼は改めて考えた。
屋敷の北側。今日の撮影で使われた、廃屋の最深部。あそこに近づけば近づくほど、周りの空気が湿ってカビ臭いものになったのは何故だろう。
家が古いと言われればそれまでだが、それにしても酷い湿気だった。玄関先とは異なり、床はあちこちが腐って黒ずんでいた。それは壁も同様で、北側に入った瞬間、朽ち果てた土壁一面に黒カビが生えていたのを見たのは記憶に新しい。その、あまりに酷いカビと埃の臭いに、スタッフが一時的にマスクを貸してくれたほどだ。
本当は、この屋敷には何かあるのではないか。ディレクターも、他のスタッフも心配ないとは言っていたが、それでもここは、地元では有名なお化け屋敷なのだ。スタッフの仕込んだ≪やらせ≫以外には何もなかったが、もしかすると気がついていないだけで、撮影した映像には何かが映り込んでいるかもしれない。
自分の頭に恐ろしい考えが浮かんだことで、凍呼はすぐさま頭を横に振ってそれを打ち消した。
廃墟探検などをやっているのは、これが自分の仕事だからだ。本当は怖い話など好きではないし、もっと明るく華のある舞台にも立ってみたい。ただ、今の自分には、それを成すための実力が伴っていないというだけで。
これはあくまで、自分にとって過程に過ぎない。そう、割り切らねばやっていられないと思い、凍呼はそれ以上、今日の撮影について悪く考えるのを止めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
撮影を終え、凍呼はスタッフに軽い挨拶を終えた後、早々と自分の住んでいるマンションへと帰宅した。疲れていたということもあったが、何よりも、あんな薄気味悪い家の建っている場所になど、あまり長くいたくはないというのが本音だった。
いつもより念入りにシャワーを浴び、凍呼は全身を擦るようにして何度も洗った。髪の毛に廃屋の埃やカビがついていると思うと、なんだかそれだけで気持ちが悪くなってくる。あの手のロケは≪やらせ≫とわかっていても、どうしても身体が拒絶反応を示してしまう。
いったい、自分はなぜ、こうまでして仕事を続けているのだろう。時折、ふっとそんな考えが頭をよぎる。
秋葉原で、売れないゴスロリアイドルとして、水面下で活動をすること数年。ようやく日の目を浴びたと思ったら、よりにもよってオカルト番組のレギュラーだった。
怖い話は、生まれつき苦手だ。本当は、あんな仕事などしたくはない。廃墟の探検や心霊スポットの探検など、できれば少しでも減らしてもらいたい。
そう、頭では思っていても、しかし凍呼は自分に言われた仕事を断ることなどできなかった。事務所に迷惑がかかるというのもそうだったが、なにより凍呼自身、下手に我侭を言って仕事を干されてしまうのが怖かった。
この業界で成功するには、多少のことは我慢しなければやっていられない。今は売れていても、流行というものは変わり易い。それに、今の事務所にだって、自分の代わりなどいくらでもいる。どんな仕事でもこなせねば、役立たずの烙印を押されて直ぐに捨てられてしまうだろう。
一度、芸能界に身を置いた者は、なかなか普通の生活を送れない。中には過去の栄光を忘れられず、どうしても業界から離れられない者も存在する。果ては、そのまま業界の闇の部分へと堕ちてゆき、アダルトビデオの類に出演して食いつなぐような人間もいると聞いたことがある。
自分の裸を売り物にするくらいなら、怪奇番組で心霊スポットに送り込まれている方がマシだ。自分はまだ、なんとか我慢できる範囲での仕事しかしていない。そんなことを自分自身に言い聞かせながら、凍呼はシャワーの栓を閉めてバスルームを出た。
「ううっ、寒っ! ちゃんと、湯船につかった方がよかったかな……」
バスルームから出ると、思ったより冷たい空気が肌に触れて驚いた。もう季節は春だというのに、今日は妙に冷え込む日だ。雨が降っているわけでもないのに、いったいこの気候の変化はなんだろう。昼間、撮影のときでさえ、あの家の中に入るまではそれなりに温かかったというのに。
なんだか言いようもない不安にかられ、凍呼は足早に布団の中に潜りこんだ。こんな日は、さっさと寝て嫌なことを忘れるに限る。明日になれば、またいつもと変わらぬ日常が始まり、お化け屋敷の話などは記憶の彼方に押し込めてゆくことができる。そう、信じて。
一度、布団に入ってしまうと、思ったより眠りに着くのは早かった。久しぶりのロケで、疲れていたのもあったのだろうか。凍呼は直ぐに軽い寝息を立てて眠り始め、後には傍らに置かれた目覚まし時計の針だけが、無常に時を刻み続けている。
一時間、二時間、そして三時間。どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。
凍呼が目を覚ましたとき、辺りはまだ薄暗かった。夜明けとも夜中ともつかない微妙な時間。東の空が白み始めるには、まだ少しだけ余裕がある。
なんとも変な時間に目が覚めてしまったものだ。そう思って両腕を動かそうとしたとき、凍呼は自分の身体に妙な違和感を覚えて顔をしかめた。
手が、動かない。いや、手だけでなく、足も身体も、その全身が何かに押さえつけられたようにしてまったく動かない。
(これ……金縛り!?)
噂には聞いたことがあったが、自分が金縛りに遭うのは初めてだった。まさか、あの幽霊屋敷を探索したことで、何か変なものでも連れ帰ってしまったのだろうか。嫌な想像が頭に浮かび、凍呼はなんとかして指先を動かそうと力を込める。
金縛りは、医学的にも解明されている、ごくありふれた現象の一つに過ぎない。頭は起きていても、身体が疲れて眠っている。そのアンバランスな状態が、一見して心霊現象のようなものを引き起こす。
何かの本で読んだ一節を思い出しながら、凍呼はなんとか手を動かし、声を出そうと頑張った。もっとも、頭では理解していても、身体は言うことを効かない。まだ、心霊現象と決まったわけでもないのに、自然と焦りから額に汗が滲んでくる。
このまま自分は、身体の動かせない恐怖に耐えながら、朝が来るまで固まっていなければならないのか。そんなことを考えた矢先、今度は凍呼の全身を、何かが絞めつけるような痛みが襲った。
「……っ!?」
声に出して叫ぼうにも、それは声にならなかった。いきなり胸元が苦しくなり、全身を押さえつける力が強まった。
「あっ……ぐぁっ……かっ……」
全身を震わせながら、凍呼は両目を大きく開いたまま自分の胸元を見る。そこには何もなく、何か重たい物がのしかかっているというわけではない。だが、その間にも、凍呼の身体はさらに強く絞めつけられ、呼吸をすることさえままならなくなってくる。
(な……なに……これ……)
薄れゆく意識の中で、凍呼は自分の身体の上を何かが這い回るような感覚を覚え、この金縛りの正体をうっすらと理解した。
パジャマと肌の間、自分の服と身体の隙間を、何かが這うようにして動き回っている。それは不快なぬめりを持ちつつも、妙にざらざらとした鑢のような感触を併せ持っている。両手、両脚、それに腹から胸にかけてまで、その奇妙な力は容赦なく凍呼を絞めつける。
痛い。苦しい。気持ち悪い。得体の知れないものに全身を絞めつけられる恐怖から、凍呼はいつしか声も出さずに泣いていた。大きく見開かれた瞳はそのままに、大粒の涙が休むことなく溢れ出した。
身体の自由を奪われたまま、凍呼の口がぽっかりと開く。本人の意思とは無関係に、顎の力が抜けてゆく。
「うぐぅっ!!」
一瞬、身体の絞めつけが収まったかと思うと、今度は口の中に異様な感触を覚えて呻いた。生臭く、なにやら細長いものが、凍呼の口から身体の中に入ってくる。目には見えないが、何か力のようなものが、ずるずると凍呼の中に入り込んで体内を侵食してゆく。
涙と鼻水と、それから涎を垂らしたまま、凍呼は見えない力に成す術もなく翻弄されていた。身体の中に妙な力が入り込んでくる度に、全身が小刻みに痙攣して悲鳴を上げた。
やがて、どれほどそうしていただろうか。
気がつくと、辺りは既に明るくなっていた。東の方から白い光が射し込んで、凍呼は自分がようやく金縛りから解放されたことを知った。
「はぁ……。助かった……の……?」
自分でも不思議なくらい、はっきりと声が出た。試しに両手に力を入れてみると、なんなく拳を握り締めることができた。
いったい、昨晩のあれは何だったのか。納得のいかない表情のまま、凍呼はゆっくりと起き上がる。
全身に残る、あの絞めつけるような不快な感覚。あれが気のせいだったとは、残念ながら思えない。夢にしては妙にリアルで、しかし現実にしてはあまりにも不可解。その、どちらとも言えぬ不気味さが、凍呼の恐怖心を否応なしにかき立てる。
「うっ……」
突然、妙な吐き気を覚え、凍呼は思わず自分の口に手を当てた。腹の奥から何かが這い上がってくるような感覚に加え、喉にも何かが詰まっている。金縛りのときとは別に、あまりの気持ち悪さに声を出すことができない。
洗面所まで走る余裕など、凍呼にはなかった。情けなくも、布団の上に胃の内容物を全て吐き出し、凍呼は肩で息をしながら自分の口から吐き出された物へと目をやった。
前触れもなく、いきなり吐き戻してしまうとは、何か変な病気にでもなってしまったのか。そう思って布団の上に撒き散らされた吐瀉物を見たとき、凍呼の瞳が再び恐怖に凍りついた。
「ひぃっ!!」
軽い悲鳴を上げ、布団を跳ねのけて後ろに下がる凍呼。自分が吐き戻した物の中にあったのは、乳白色をした薄い皮のようなものだった。
これはいったい何だ。なぜ、自分の身体の中から、こんな物が出てくるのだ。
吐瀉物の中に埋もれるようにして顔を覗かせている、一繋ぎになった奇妙な皮。気持ちが悪いとは思ったが、凍呼はそれを恐る恐る摘まみ上げた。
皮が、まるで今もなお生きているかのように、ぷるぷると震えて揺れた。そして、その皮をよくよく眺めたとき、凍呼は再び悲鳴を上げて、今度こそ部屋を飛び出した。
鱗のような表面をした、乳白色の薄い皮。それを見たとき、凍呼は理解してしまったのだ。自分の身体の中から出て来たものが、他でもない蛇の抜け殻であることを。
昨晩、目に見えない力が体内に入り込んできた際のことを思い出し、凍呼は慌てて洗面所へと直行した。汚れたパジャマを着替えたかったというのもあるが、それ以上に、口の中をゆすがないと気持ちが悪くて仕方がなかった。
酸っぱい臭いの残るパジャマを脱ぎ棄てて、凍呼は洗面台の鏡に映る自分の姿と鉢合せた。なんのことはない、見慣れたいつもの自分の裸身。そうとばかり思っていた凍呼は、次の瞬間、マンション中に聞こえんまでの悲鳴をあげて、その場にしゃがみ込んでしまった。
「い、いやぁぁぁぁっ!!」
絶叫が、早朝の浴室に響き渡る。鏡に映った凍呼の身体には、蛇に絞められたような鱗の痕が、あちらこちらに青黒い痣となって残っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
凍呼がスタジオに姿を見せたとき、時刻は昼も少し過ぎた頃になっていた。
今朝、布団の上で成す術もなく吐き戻し、その中にあった物を見て悲鳴を上げたこと。その上、自分の身体に残った痣を見て、さらに絶叫してしまったこと。
およそ、馬鹿馬鹿しいことだとは思ったが、ここまで酷いと凍呼も信じざるを得なかった。この世には自分の頭では理解不能なことがあり、お化けや幽霊といった類の者は、確かに存在するのだということを。そして、それらの存在に不用意に関われば、自分の寿命を縮めかねないということを。
こんな酷い目にまで遭ってしまっては、さすがに心霊番組のレギュラーなど務められそうにない。事務所には叱られるかもしれないが、しばらく休暇をもらうというのも手だろうか。仕事がなくなるのは怖かったが、こんな状態では満足に今まで通りの仕事さえこなせそうにない。
なんとも言えぬ不安を抱えながら、凍呼は会議室の扉を開けた。今日は、ここでスタッフと一緒に番組の打ち合わせをすることになっている。新春特番として生放送で流される、≪奇跡空間ミラクルゾーン≫の演出をどうするか。細かい部分の調整含め、再確認することになっていた。
本当は、そんなことをしている余裕さえない。暗い面持ちのまま、凍呼は力なく会議室の中へと足を踏み入れた。
「お、おはようございます……」
返事はない。ディレクターもカメラマンも、誰もが目を下に落として俯いている。中には明らかに睡眠不足に陥っている者もおり、目の下に大きな隈を作っていた。
いったい、これはどうしたことか。昨日の夜から今朝にかけて、妙な現象に巻き込まれた者。それは凍呼だけでなく、他の人間も同じということだろうか。
疑問が次から次へと湧いて来る。このまま自分は、妙な世界に取り込まれ、最悪の場合はとんでもない死に方をするのではないだろうか。それこそ、ホラー映画の一幕のように、誰もが顔を背けるような結末で。
「あの……。皆さん、どうされたんですか?」
用意されたパイプ椅子に腰かけながら、凍呼は恐る恐る訊いてみた。だが、それに答える者はなく、ディレクターの室井が代わりに目で合図するだけだった。
室井の向けた視線の先。部屋の中央に用意された椅子に、何やらホストのような格好をした男が座っている。両腕を胸の前で組み、傍らにアロハシャツを着たヤクザのような男を侍らせて、実に自信に満ち溢れた表情で笑っている。
「さて、と……。どうやら、これで役者は全部揃ったってところかな?」
凍呼の目の前に座っていた男が、唐突に口を開いた。彼の名前は、凍呼もよく知っている。この番組で心霊関係の話をする毎に呼ばれている、現代を生きる陰陽師。御鶴木魁、その人だ。
「今日、ここに集まってもらったのは、他でもない。俺がそこのディレクター、室井さんから依頼を受けてね。ちょっと、この間の撮影で関わった、幽霊屋敷について調べてみたんだよ」
誰も尋ねていないのに、魁は自分から喋り出した。この場の主役は自分だ。そんな主張に溢れた、やけに上から目線の口調だった。
「結論から言うと……とりあえず、ここにいる全員が、西岡さんを除いて取り憑かれているね。あんた達、あの家で撮影するとき、何か細工を仕込んだでしょ。そのせいで、家に溜まってた色々な霊が怒って……それで、現場にいた全員に取り憑いちゃったんだ」
「取り憑かれたって……。まさか、本当に幽霊なんてもんがいるって言いたいのか?」
真っ先に異論を唱えたのは、他でもない室井だ。オカルト番組のディレクターでありながら、彼はそういった類の話を基本的に信じていない。
今回、魁を呼んだのも、他のスタッフからの強い要望あってのことだった。なんでも、あの幽霊屋敷の撮影の後、音響を担当していたスタッフが奇妙な体験をしたとか。まあ、霊の存在を単なる金儲けの材料としてしか見ていない室井からすれば、そんな話は単に荒唐無稽な与太話に過ぎなかったが。
「おいおい。幽霊番組なんか作ってるのに、お宅は幽霊の存在を信じてないってわけ? だったら、俺の力も信じてないってことになるけど……そういう認識で、構わない?」
「いや、それとこれとは話が別だ。我々だって、そっちの力というやつは、信用しているつもりだ」
「随分と都合のいい解釈だよね、それ。まあ、俺としては、別にあんた達に信じてもらおうともらえまいと、大したことじゃないんだけどさ」
あくまで軽く流すようにして、魁は片手をひらひらとさせながら言った。こういった反応を示されることは慣れている。そう言わんばかりの態度である。なんというか、若い割には随分とふてぶてしい。
「とりあえず、そこの音響スタッフの人。確か、古澤さんだっけ? あんたには、女の霊が取り憑いているね。昨日の夜、何か妙なことがなかったかい? それこそ、変な女が枕元に立ったとか、女のすすり泣きが聞こえたとか……」
「ちょっ!! な、なんでわかるんですか!?」
「どうやら、図星だったみたいだね。女の正体は不明だけど、君の後ろに、なんとな~くそういった者の影が見えたんだよ。これ以上は、もっと詳しく調べてみないとわからないけど」
「ま、マジかよ……。昨日のあれ、本当に夢じゃなかったんだ……」
馬鹿みたいに口を大きく開けたまま、古澤正昭はそれ以上何も言えなかった。
昨日、あれから仕事を終えた後、どうにも寝苦しくて夜中に目が覚めた。すると、何やら自分の足下に、白い足がぶら下がっているのがわかった。恐る恐る顔を上げて天井を見ると、そこから前髪で顔の正面を隠した不気味な女が吊り下がっていたのである。
当然、古澤は魁に、このことを直接話していない。それにも関わらず女の存在を言い当てるとは、やはり魁の力は本物だということか。
「次は、カメラマンの加瀬さんだね。あんた、問題の屋敷の映像を撮った張本人だろ? 直接誰かが撮り憑いているってわけじゃないけど、ファインダー越しに、随分とたくさんの幽霊を見たね。中には凶悪なやつもいたみたいだから、そいつの放っていた負の波動を直に受けちゃってる。昨日は身体がだるい程度で済んだかもしれないけど、このまま編集まで関わっていたら、いつかは命が無くなっていたかもね」
古澤の隣に座っているカメラマン、加瀬順平へと目を向けて、魁が物騒なことを平気で言ってのけた。加瀬もまた魁の霊視に驚いているようで、なにやら肩を回しながら、上に乗っている埃を払うようにして口を開いた。
「おいおい、俺もかよ……。まあ、でも……確かに、あの屋敷に入ってから変だとは思ってたよ。なんだか昨日は身体が重たかったし、それは今日も変わらないし……」
「でしょ? やっぱ、俺に霊視させといて正解だよ。それに、何も映像から影響を受けているのは加瀬さんだけじゃない。プロデューサーの西岡さんだっけ? あんた、加瀬さんが撮った映像を、確認か何かのために回して見たでしょ。霊害封じもしてない心霊映像なんて見たら……それこそ、あんたの方が先にくたばりかねないよ」
「何を馬鹿な。だいたい、あんな映像一つで、どうして俺がくたばるなんて断言できる!?」
突然、自分の名前を出されたことで、西岡が驚きのあまりに目を丸くして言った。自分は屋敷に向かっていない。だから、何かが起きることもない。そう、高をくくっていたからだ。
「それは簡単だね。人間にも、霊の攻撃に強いやつと弱いやつがいてさ。バイキンに対する抵抗力みたいなもんか? 俺みたいに修業を積んだ人間なら別だけど……。西岡さん、あんた、霊に対する耐性が特にないみたいだからさ。一応、死なれる前に警告しておいたってわけ」
「なんだか、随分と物騒な話だな。だが、そもそも、あれのどこが心霊映像なんだ? こっちでも見てはみたが、これといって、幽霊の映っている場面なんて……」
「まあ、素人さんが見ても、ちょっとやそっとじゃ幽霊なんて見つからないよ。俺みたいに、ちゃんとした力を持った人間が霊視すれば、あの家に色々な霊がうようよと漂っているのが見れたけどさ」
飄々とした口調で、魁は肩をすくめて言い放つ。なんだか小馬鹿にされているようで腹が立ったが、西岡はそれをあえて口に出さずに堪えた。
オカルト番組のプロデューサーではあるが、西岡もまた、幽霊だの超能力だのといった話は信じていない。魁を起用しているのも、あくまで視聴率が取れるためだ。そんなお飾りの若造に好き勝手言われるのは好かないが、ここで怒れば自分の尊厳が揺らぐことになる。それだけは、いくら西岡とて避けたかった。
「さて……残るはADの宮本くんと、ディレクターの室井さん。それに、トーコちゃんの方だね。宮本くんは、まあいいとして……室井さんとトーコちゃんの方は、ちょっと問題かな」
「も、問題って……。私、そんなに悪いんですかぁ!?」
「正直に伝えると、かなりマズイね。他の連中には気まぐれで霊が憑いているような部分もあるけど、君に憑いているのは別格だ。憑依っていうよりは……むしろ、祟りに近い物が起きている可能性があるな」
「祟り……」
昨日の夜から今朝にかけての出来事が、走馬灯のように凍呼の頭の中を駆け抜けた。呪いや憑依ではなく、祟り。その違いなど凍呼にはわからないが、確かに思い当たる節はある。今朝、ベッドの上で吐き戻した物の中身と、全身につけられた青い痣。あれらを祟りと言わずして、なんと言えばいいのだろう。
先ほどから、魁の探るような視線が凍呼に向けられている。今まで見せていた、どこか人を食ったような感じは既にない。テレビに映っているときでさえ滅多に見せない、本気の意思が伝わってくるような眼差しだ。
「この中で、一番酷い霊傷を負っているのは間違いなくトーコちゃんだ。なんだか知らないけど、一夜にして魂まで酷く損傷しているね。霊的な強い力で魂を絞め上げられて、更には内部からもボロボロにされたってところかな。こんな酷いやられ方をして、よくもまあ無事だったと思うよ、俺も」
最後の方は、感心しているとも呆れているとも取れる言い方だった。魁の話が本当ならば、昨日、自分は金縛りに遭ったまま、あの世へ連れ去られていたとしてもおかしくはないのだ。そう思うと、凍呼の背筋を冷たいものが一気に走り、彼女は思わず両腕で胸元を隠すようにして抱き締めた。
「その様子じゃ、昨日の晩は随分と怖い思いをしたんじゃない? まあ、言いたくないなら別にいいけど……このまま放っておいていいわけじゃないのは確かだね」
「そんな……。私……私、まだ死にたくありません!!」
魁の口から告げられた、絶望的な一言。昨日の件が現実だったというだけでなく、このままでは遠からず自分は死ぬ可能性もある。あの、奇妙な力に屈服し、身も心もボロボロにされて朽ち果ててしまうのか。そんな終わり方など、絶対に嫌だ。
自分は今まで、なんのために仕事をしてきたのだろう。辛いことも多かったが、それでもこの業界で、陽の目を見ることを夢見て我慢してきたのではないだろうか。大嫌いな心霊番組のレギュラーを務めていたのも、全てはその日のための下準備。そう、割り切っていたと言うのに、これではあまりに救いがない。
こんなところで死にたくない。一度、そう思い始めると、涙が溢れて止まらなかった。何かを言葉にしたかったが、それさえも適わない。湧き上がってくる色々な感情を一度に処理できず、凍呼は本能のままにひたすら泣いた。
「あのぅ……」
凍呼の横で、先程から小さくなっていたやせ気味の男が手を上げた。
「なんだい? えっと……君は確か、ADの宮森君だったっけ?」
「は、はい。それで……他の人の話はわかりましたけど、俺にはいった何が憑いているんですか? まさか、凍呼ちゃんと同じくらい、危険なものとか……」
「あっ、それは心配要らないかな。君に憑いているの、あの家に巣食ってた古狸の霊だから。悪戯好きなだけで、特に害はないけど……ついででいいなら、まとめてお祓いしてやるよ」
「ついでって……勘弁してくださいよぉ、御鶴木先生……」
沈痛な面持ちのスタッフや泣いている凍呼を横目に、ADの宮森良太が情けない声を上げた。しかし、そんな彼の叫びに耳を傾けてくれるような者は、当然のことながら、この部屋の中にはいなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
御鶴木魁が問題の屋敷を訪れたとき、既に時刻は入相の鐘が鳴りだそうとしている頃合だった。
逢魔ヶ刻。昼とも夜ともつかない中途半端な時間は、古来より魔と出会い易い時間だと言われている。普段であれば、こんな時刻に幽霊屋敷へ出向くなどは自殺行為なのだが、今回ばかりは話が違う。
連中の動きが活発になる時間は、一日の間でも、そうたくさんあるわけではない。この機を逃せば、後は夜中の丑三つ時まで機会を窺って待たねばならない。凍呼の身体に残った霊傷のことまで考えると、いつまでも悠長なことを言っている場合ではなかった。
「あれ、室井さん。そっちの方が、早かったみたいだね」
車から降りた魁が、問題の家の前に佇む室井を見て言った。対する室井は、こちらはまた随分と不機嫌そうな顔をして、車から降りたばかりの魁のことを睨み返した。
「おい、陰陽師。約束の時間より十分ほど遅いぞ。こんな薄気味悪い家の前で、いつまでも人を待たせるな」
「あれ、室井さん。俺と違って、そっちは幽霊なんて信じていないんじゃなかったの?」
「やかましい。それよりも、お前……あの会議室で、俺だけ霊視をしなかったよな。あれはいったい、どういう理由からなんだ?」
「おやおや。心霊現象否定派のくせに、自分に関係することは、随分と気になるみたいだねぇ。まあ、俺としては、そういった人間臭い部分も嫌いじゃないけどさ」
「御託はいい。会議室で俺の霊視をしなかった理由。とりあえずは、それを教えてもらおうか?」
落ちつきなく、妙にそわそわした様子で、室井は魁に用件だけを告げた。もっとも、魁はそんな室井のことを半ば無視し、傍らにいた総司郎を連れて家の中へと入ってゆく。
「おい、何処へ行く! 話はまだ、終わっちゃいないんだぞ!?」
室井の言葉など、魁には聞こえていないようだった。俺は、俺のやり方でやらせてもらう。その言葉を背中で語りながら、魁は躊躇うことなく廃屋の扉を開け放つ。
外の空気が入ると同時に、入れ違いで中にこもった空気が溢れて来た。暗く湿気てカビ臭い、嗅いだ瞬間、誰もが陰鬱な気分になりそうな不快な匂いだ。
魁の斜め後ろに立っていた総司郎が、一瞬だけ肩を震わせて歩みを止めた。この屋敷の中から溢れ出て来る、恐ろしいまでの陰鬱な気。それに躊躇いを覚えたのだろうか。
「どうしたの、総ちゃん? もしかして、柄にもなくびびっちゃってる?」
「いえ、そんなことは……。ただ、あまりに酷い臭いだったので、ちょっと……」
「なるほど。まあ、感覚で言ったら、総ちゃんのそれは俺よりも敏感だからね。あまり緊張し過ぎると、返って毒気にやられちゃうかもしれないよ。その辺、ちゃんとコントロールしてよね」
「はい、先生」
その身に違わぬ無骨な声で、アロハシャツ姿の総司郎が答えていた。その様子を後ろから窺っていた室井は、今一つ話がつかめない様子で二人の姿を見比べている。
そもそも、この番組にディレクターとして携わり、あの陰陽師を呼んだときから妙に思っていた。
弓削総司郎。魁の話では単なる弟子だということだったが、それにしては奇妙な男だ。どう見てもボディガードにしか見えない身体つきに、ヤクザを思わせる型破りな格好。その瞳を隠すようにして身につけているサングラスは、片時も外されることがない。まるで、目元を見られては困るかのように、常に総司郎の身体の一部としてそこにある。
ホストのような外見の陰陽師に、これまたヤクザのような格好の弟子。なんとも珍奇な取り合わせだが、視聴率が取れるなら構わないと思っていた。少なくとも、今日になってスタッフの誰もが奇妙な体験をしたと転がり込んで来るまでは。
果たして、この男の力は本当に当てになるのだろうか。会議室では随分と饒舌に霊視をしていたが、あれだって、当てずっぽうに言っていただけの可能性もある。自分も含め、関係者の誰もが霊に憑かれているなどとは、未だ信じられない部分がある。
魁と、それから総司郎に続く形で、室井も家の中へと足を踏み入れた。瞬間、その中の空気があまりに外とは違うので、室井は思わずそのまま家から飛び出しそうになった。
(なんだ、こりゃぁ……。前に来たときは、こんなに薄気味悪い家じゃなかったぞ……)
お化け屋敷として地元では有名な家だったが、番組の仕込みをしに来たときでさえ、ここまで酷いカビと埃の臭いはしなかった。しかし、今はまるで、家全体が侵入者の存在を拒むようにして不気味な胎動を続けているような錯覚さえ抱きそうになる。それこそ、魁や総司郎の存在を、この家が全力で排除しようとしている。そう言っても差し支えないくらい、妙に張り詰めた空気まで漂っていた。
古びた廊下を抜け、まずは魁が一階の玄関先にある部屋へと入る。ボロボロに痛んだ畳のある、昭和の初め頃の家にありそうな食卓だった。もっとも、無人となった今となっては、卓袱台の類は見当たらないが。
「さて……。まずは、ここで一仕事ってところかな? 室井さんは、俺の肩につかまっててくれ。何が起きてるのか見えないと、信じてもらえそうにないからね」
「お前の肩に? それで、俺にも幽霊が見えるのか?」
「ほんの少し、俺が見ている映像を、頭の中にわけてあげられるってだけだけどね。ま、難しいこと考えず、今は言われたとおりにしてくれないかな?」
こんな気味の悪い家の中でも、魁は普段の調子を崩すようなことがない。テレビ局のスタジオも、幽霊の出る廃屋も、この男にとってはさしたる違いはないということか。
男にしてはやけに細い左腕を前に差し出して、魁が静かに目を瞑り、意識を集中し始めた。瞬間、部屋の中の空気が今まで以上に張り詰めて、その緊張感が魁の肩を通じて室井にも伝わってくる。
畳の臭い、カビの臭い、それに辺りを漂う空気そのものの臭い。様々なものが入り混じった臭気が一段と強くなり、なにやら風の音まで聞こえてきた。
ぎぃ、ぎぃ、という、木の軋むような音が室井の耳に響いてくる。どこか、立てつけの悪い扉でもあったのだろうか。それに隙間風が触れて、軋む様な音を立てているのか。
いや、違う。音は廊下からではなく、この部屋の中央から聞こえてくる。しかし、ガラス張りの窓しかないこの部屋に、そんな音を立てるようなものがあっただろうか。
いつの間にか、室井は視線を自分の足下に落としていた。なぜ、そうしたのかは、自分でもわからない。ただ、本能的な何かが告げるままに、室井は部屋の中央にあるものを見ないように、自分の首を下に傾けていた。
魁の呼吸が激しくなり、音がさらに強くなる。間違いない。この音は部屋の真ん中、自分たちにとって目と鼻の先から聞こえてくるものだ。
もう、我慢することなどできなかった。室井は何かを決意したようにして首を上げ、部屋の中央にいるであろう何者かに顔を向けた。音の発生源でもある、何やら正体のわからぬもの。それが何なのかを、この目で確かめるために。
「う、うわっ!!」
軽い悲鳴と共に、室井が魁の肩を握る力を思わず強めた。彼の目の前にあったもの。それは、かつて人間の女であったであろう、一つの物体。天井から下がった縄に首をかけ、そのまま吊り下げられている遺体だった。
青白い顔と剥き出しの目。口からはだらしなく涎を垂らし、ふらふらと左右に揺れている。風などないのに、いや、それ以前に、今まではこんな遺体などなかったのに、これはいったいどういうことだ。
「どうやら、あんたにも見えたみたいだね。そう。あれが、音響の古澤さんに憑いていた幽霊の正体さ」
「しょ、正体? それじゃあ……この、首吊り女は……」
「もう、気づいているんでしょ? こいつ、この家に昔住んでた女の自縛霊。何が原因で自殺したのか知らないけど、古澤さんのことが気に入ったみたいだね。だから、家まで一緒に着いて来ちゃったってところかな?」
「じ、自縛霊? でも、自縛霊ってやつは、その土地に縛られて動けない霊ってやつじゃなかったのか?」
「なんだ、詳しいんじゃない。結局あんた、霊の存在を信じてるの? それとも、信じてないの?」
青白い顔をした女の霊が、目の前で縄に吊るされて揺れている。そんな光景を目にしても、魁は身じろぎ一つしないで室井に問う。まるで、眼前の霊のことはどうでもよく、むしろ室井の考えの方が、気になると言わんばかりの口ぶりで。
「わ、わかった! 俺が悪かった! だから……頼むから、この変な女を早くどこかへやってくれ! こんな奴に取り憑かれてスタッフが死んだりしたら、俺は責任問題だ!!」
「はいはい、最後まで自分のことが可愛いってやつね。まあ、言われなくても、こいつは俺が祓ってやるつもりだったけどさ」
ほとんど呆れたようにして、魁は室井の言葉を軽く流した。別に、お前のためにやってやるわけじゃない。ただ、仕事だからやるだけだ。そんな想いが、魁の表情からも見て取れる。
首吊り女の霊を前に、魁は改めて対峙するような姿勢を取った。もう、これ以上は霊を遊ばせておいても仕方がない。仕事は仕事として、さっさと片付けてしまわないと割に合わない。
「さて……。それじゃあ、まずは軽く、前哨戦と行きますか?」
口元に不敵な笑みを浮かべ、魁は自分の胸元から一羽の折り鶴を取り出した。その辺の店で売られている安物の折り紙で折ったようなものではなく、いかにも高級そうな和紙を使った、かなり本格的なものだ。サイズは手のひらに乗るほどだが、随分としっかり折り込まれている。
折り鶴の羽を広げ、魁はそれを自分の掌の上に乗せると、そのままふっと息を吹きかけた。放たれた吐息は鶴を宙へと舞い上がらせ、一直線に亡霊へと向かってはばたかせる。単に吹き飛ばしたのとは違う、やけに生々しい動きだ。
鶴の羽が、鋭利な刃物のようにして、亡霊を吊るしていた縄を切った。実態などないはずなのに、ドサッという何かが落ちたような音がした。
「おいおい……。どうなってるんだ、こいつは……?」
唐突に始まった、魁の幽霊退治パフォーマンス。その、あまりに予想外な展開に、室井は頭の中が混乱していた。
普通、幽霊退治といえば、お札や数珠などを使うのではないだろうか。しかし、目の前にいる陰陽師の末裔を名乗ったこの男は、折り鶴だけで幽霊の首を吊っていた縄を切ってしまった。あの折り鶴に何か仕掛けがあるのかもしれないが、それにしても、これは前代未聞の話だ。室井も今までに様々なオカルト話を番組で取り上げて来たが、折り紙で幽霊を退治するなどという話は聞いたこともない。
天井から落下した亡霊が、忌々しそうな顔をして魁を睨んだ。首から縄を外してやったというのに、その表情は憤怒の色に支配されている。
余計なことをするな。そう言わんばかりだったが、それでも魁は何ら躊躇う様子を見せなかった。
畳の上を這い回る亡霊に、続けて魁はポケットから取り出した小瓶の中身を振りかけた。それは一見してただの水のようだったが、直ぐにそれが水などではないということが、後ろから見ている室井にもわかった。
――――ひぃぃぃぃぃっ!!
隙間風が吹き抜けるような悲鳴を上げて、亡霊の姿が瞬く間に消えて行く。全身から白い煙を吐き出しているその姿は、まるで劇薬をかけられて溶かされているようにも見える。
「な、なにをしたんだ、お前……」
状況がわからず、魁に尋ねる室井。対する魁も、小瓶をしまいながら室井に答える。
「ああ、これね。こいつは俺が作った、≪神水≫って呼ばれる特別な水なんだよ。キリスト教で言う、聖水に近いやつって言った方が、あんたにはわかりやすいかな? 霊的な力を持ったものに対して効果を発揮する、硫酸みたいなもんだね」
「聖水だと? それじゃあ、この幽霊は……」
「当然、このまま放っておけば溶けて消えてしまうよ。成仏させてやってもよかったんだけど、それは俺の仕事じゃなくて、寺の坊さんの仕事だから。俺が頼まれたのは、あくまであんた達の除霊のみ。そのやり方までは口出しされたくないし、この家に住んでいる亡霊どもを、残らず成仏させてやる義理もない」
足下で溶けてゆく女の霊を見ながら、魁は実に満足そうな笑みを浮かべた顔を室井の方へと向けた。その笑顔に何やら危険なものを感じ、室井は慌てて魁の瞳から目を逸らした。
なんということだ。目の前の男は、敵を倒すことに対して容赦がない。そればかりか、話を聞いて成仏させようとか、墓や祠を作って供養してやろうという気持ちさえない。敵はただ、排除するのみ。淡々と仕事をこなし、それらの厄介事を捌いている自分に、半ば酔いしれているような節さえある。
まったくもって、恐ろしいものを使っていたと室井は思った。こんな人間を、少々イケメンだからという理由で番組に起用していた、自分の判断が何よりも恐ろしい。自分も視聴率のためなら何でもやる人間だが、魁は恐らくそれ以上だ。
やがて、足下の幽霊が完全に溶けてしまうと、魁は何事もなかったかのようにして部屋を立ち去った。もう、この部屋には興味がない。そう、彼の背中が語っていた。
「おい、陰陽師。次はどこへ行くんだよ!?」
何の躊躇いもなくスタスタと歩いてゆく魁を、室井が慌てて追いかける。魁が次に向かったのは、二階にある比較的大きな部屋だった。あの、撮影の際に≪やらせ≫の仕込みがされていた、破れた襖のある部屋だ。襖の向こうに仕込まれていた赤い水が汚した床は、今も薄汚い染みの痕が残っている。
「それじゃ、次はあんたの番だ。あのとき、会議室では霊視をしなかったけど……とりあえず、あんたに憑いているもんが何なのか、それは俺も既に見当をつけてある」
部屋の真ん中で、魁が室井の方を振り返って言った。ここに来て、今度は唐突に自分の除霊を始めると言われ、室井はしばし緊張した面持ちで魁を見た。
魁が、室井の頭に手を乗せてくる。身長は魁の方が高いが、その手の先は女のように細い。それでいて、骨ばった感じもなく、どこか上品な雰囲気さえ感じさせるのだから不思議なものだ。
魁の掌から、なにやら室井の知らない力のような物が流れてくる。掌で、直に頭をつかまれているからだろうか。霊感などまったくないはずの室井にさえ、魁が妙な力を使って何かをしようとしているのは見当がついた。
「ふんっ!!」
気合一番、魁が室井の頭から手を離し、何かを引き剥がすようにして放り投げる。その途端、室井は身体の中から何かが抜け出し、なにやら肩が軽くなったような気がした。
「なんだ、こりゃ? お前、いったい俺に何しやがった!?」
「何しやがったってのは酷いなあ。俺はあんたに憑いていた、幽霊モドキを引っぺがしてやっただけさ。ほら、ちょうど、その部屋の隅に転がってる」
「幽霊モドキだぁ? なんなんだよ、その妙な名前の妖怪は……」
いきなりわけのわからない話を振られ、室井は訝しげな表情のまま部屋の隅へと目をやった。すると、そこには何やら赤黒い色をした、奇妙な塊が転がっていた。
「げぇっ!!」
それ以上は、室井は何も言えなかった。
部屋の隅に転がっていたもの。それは紛れもない、人間の生首と呼ぶに相応しいものだった。いや、正確には、あれは生首ではない。
片目を失った落ち武者の首。完全に白骨化した誰のものともわからない首。犬のような猫のような、見たこともない獣の首。ありとあらゆる奇怪な首が、一つのボールのようになって固まっている。その首の隙間からは赤と黒の水を交互に混ぜたような霧が立ち上っており、腐臭のようなものを撒き散らしていた。
「あれは、ちょっと普通の幽霊とは違ってね。説明が面倒臭いんで、会議室では適当に流したんだ」
「普通の幽霊とは違うって……何が、どう違うんだ?」
「そもそも幽霊ってやつは、何かこの世に未練があって現れるものさ。さっきの首吊り女だって、何か死んでも死にきれない理由があって、未練を残したまま自殺したんだろうね。だから、こうして自縛霊になって、この屋敷にずっと残ってたんだよ」
首の塊の動きに油断なく目を凝らしながら、魁は淡々と説明を続ける。その程度の話であれば、室井も何かの話で聞いたことはあった。
「だけど……幽霊の中には、たま~に妙なやつもいてね。亜種っていうのか、それとも突然変異って言った方が正しいのか……とにかく、普通の連中とはちょっと違う、線引の難しい連中がいるんだよ」
「それが、あの生首の塊だってのか?」
「ああ、そうだよ。あいつらは、この家の中に充満していた陰の気が作りだした、≪幽霊みたいな姿をした物体≫さ。元々が陰の気そのものだから、別に思考や思念なんてありゃしない。ただ、本能の赴くままに、人間にひっついて生気を奪ってゆくんだ」
「なんだか、よくわからない話だな。とりあえず、あの妙な塊は、幽霊じゃないってことなのか?」
「そういう認識で構わないよ。あれは、この家に溜まっていた陰の気が、あんたの思念を受けて実体化したようなものさ。あんた、この番組を成功させるために、本当に心霊現象の一つでも起きないかって思ってなかった? そういった心……それこそ、悪戯に怖い話を作ろうなんて心と、周りにいある陰の気が共鳴しちゃうとね、あんな意識もへったくれもない化け物を生みだしちゃうんだよ」
「マジかよ、それ……。だったら、あの化け物は、俺が生み出したって言いたいのか?」
「そういうこと。まあ、滅多にあることじゃないんだけど、今回は運が悪かったね。とにかく、こういった企画をやるときは、今度からちゃんと俺もロケに呼んでくれなきゃ困るぜ」
わざとらしく両手を広げ、魁は肩をすくめて室井に言った。部屋の隅では未だ例の生首達が、それぞれ好き勝手に口を開けてはわめき散らしている。その度に、口の中からどす黒い陰の気がどろどろと漏れだし、魁や総司郎の鼻先を刺激する。
「とにかく、今はあの化け物を退治しないといけないね。ここは一つ、総ちゃんの出番かな?」
これ以上は、あの生首に近寄りたくない。そう思った魁は、今まで横にいて動かなかった総司郎に全てを任せた。その言葉を聞いた総司郎は何も言わずにアロハシャツの袖をまくり上げる。
中から現れたのは、魁のものとは異なる力強い腕。日頃から、相当に鍛えられているというのが室井にもわかる。が、それ以上に室井の目をひいたのが、彼の腕に刻まれた無数の刻印だった。
「おいおい、なんだよあの腕は。梵字の刺青なんかしやがって……。あれが、あの男の力ってやつなのか?」
「御名答。実は、総ちゃんは昔、ある事故で両目を失っていてね。その代わりと言ったらあれなんだけど、霊感を含めた六感が、普通の人よりも物凄く発達しているんだ。それに、彼が持っている霊能力も、先天的に高かった。だから俺は、総ちゃんに目の代わりになる力をあげる代わりに、その身体にもちょっと細工をさせてもらったのさ」
魁がにやりと笑う。常に相手より優位に立っている際に見せる、あの自信に溢れた笑みだ。
「総ちゃんの腕の刺青。あれ、本当だったら退魔具なんかに刻むためのものなんだよね。俺はそれを、あえて総ちゃんの腕に施した。だから、総ちゃんにとっては、両腕そのものが武器みたいなもんなんだよ。この日本でも数少ない、≪幽霊を殴ることのできる≫人間さ」
最後の部分を殊更強調し、魁はまるで自分のことのように室井に聞かせる。その間にも、総司郎はゆっくりと、しかし確かな足取りで生首の塊に近づくと、無言のままそれを鷲掴みにして持ち上げた。
通常、霊的な存在に、人間が素手で触れるなどは不可能だ。例外もあるにはあるが、基本的には幽霊に触れる人間などいない。それこそ、向こうから触ろうと思って接触して来ない限りには、人が霊に触れる術はない。
それにも関わらず、総司郎は何の苦もなしに生首の塊を持ち上げていた。時折、その口から放たれる黒い息に不愉快そうな表情を浮かべてはいたが、それ以外は、特に問題ないようだった。
「先生……。こいつ、どうします?」
生首を持ったまま、総司郎が魁の方へ振り向いた。なんというか、実に無骨で不器用という言葉が似合う男だ。外見に反して声色はどこか柔らかく、威圧するような雰囲気も今はない。
「とりあえず、適当に潰しちゃってよ。そいつ、この家の一部から生まれたみたいなもんだからさ。その辺の天井か柱にでも埋めとけば?」
「わかりました。それじゃ……」
途中まで言いかけた言葉を飲み込んで、総司郎が深々と息を吸い込んだ。その動きに呼応するかのようにして、両腕に刻まれた梵字が赤く発光する。生首達が今までになく騒いで暴れたが、総司郎は彼らをつかんだ手を決して離そうとはしなかった。
「はっ……!!」
軽い気合を入れ、総司郎が手にした生首に右の拳を叩き込む。その途端、何かが弾けるような音がして、生首の塊は部屋の角にあった柱の方まで吹き飛んだ。
べシャッ、という何かが潰れるような音がして、生首の塊が柱にめり込む。幽霊の類とはいえ、所詮は特定の意思を持たない、恐怖心そのものが具現化された存在。人間に憑いているときは厄介な相手だが、その身体から引きずり出されてしまった今、さしたる力も発揮できないのだろう。
ずるずると、まるで柱に吸い込まれるようにして、生首たちはその姿を徐々に消していった。いや、より正しく表現するならば、柱に同化されてしまったと言った方が正確か。
生首が消えた柱の中央。こげ茶色の年季の入った木に、見慣れない木目が現れていた。それは、よくよく見ると、あの生首たちに見えなくもない。総司郎の一撃を受けて、そのまま柱と一体化してしまったのだろうか。
「終わったっす……」
仕事を終え、総司郎が両手を払うようにしながら魁の下へ戻ってきた。時間にして、実に数秒。なんというか、見ている方があっという間の、実に無駄のない除霊だった。
「さあ、遊んでないで、次へ行こうか。俺の見立てだと、次は少々厄介な相手が待っていそうだからね」
こちらに戻ってきた総司郎の肩を叩き、魁の顔が珍しく真剣な表情に変わった。
前哨戦は、これで終わりだ。ここから先は、いよいよこの屋敷に巣食う大ボスと戦うことになる。そのためには、今まで以上に慎重に、かつ確実に事を進めねばならない。
久しぶりに、手強い相手と戦うことになりそうだ。だが、不思議と恐怖は感じない。下らない心霊番組でコメンテーターしかやっていなかった身としては、今回の除霊に一種の高揚感さえ抱いている。
幽霊屋敷に巣食う闇。その根源を断つために、魁は再び総司郎を引き連れて、古びた階段を下って行った。