~ 壱ノ刻 寄辺 ~
薄暗い、木造りの社の中で、九条照瑠は鉢植えの中にあるブナの木の苗を撫でていた。
時折、根から昇って来る水の流れに耳を澄ますようにして、照瑠は指を止め、撫でる角度を変えてゆく。愛でるというよりは、自らが木に近づき、木のことをわかろうとするように、照瑠は呼吸まで相手に合わせて意識を集中した。
実家が神社の照瑠にとって、これは修業の一環だ。今は亡き照瑠の母は、生前は地元でも名の知れた癒し手だった。俗にヒーリングと呼ばれる力の持ち主で、腰や肩の痛みを訴えるお年寄りを中心に、今を生きる神の使いとして知られていた。
触れただけで人を癒す。父から話には聞いていたが、照瑠も最初は半信半疑だった。そんな魔法のような力があれば、それこそ医者など要らない。オカルト漫画ではよくある話だが、現実にそんな力が存在するなどとは、照瑠も信じてはいなかった。
だが、そんな照瑠の日常は、昨年の六月に一変した。
盗掘者によって掘り起こされた遺物と、それに憑いていた太古の魔物。その魔物によって憑依された人間が、次々に凄惨な猟奇殺人事件を引き起こした≪八ツ頭事件≫。それこそが、照瑠が霊的な存在の世界、向こう側の世界に関わった初めての出来事だった。
最終的には照瑠も巻き込まれ、怪物によって命を狙われる羽目に陥った。そんな彼女を助けてくれたのは、白金色の髪と赤い瞳、それに雪のように白い肌を持った、不思議な少年だった。
犬崎紅。照瑠の目の前に現れた少年が名乗った名前だ。彼は自分のことを、闇を用いて闇を祓う、赫の一族の末裔と説明した。そして、事件の解決後は、なぜか照瑠の住んでいる火乃澤町に住みついて、そのまま同じ学校に通っている。
紅が、いったい何を考えて照瑠の町に住んでいるのか。それは、照瑠自身もわからない。彼の説明では、この地は≪八ッ頭事件≫の影響で、陰湿な気が集まりやすい場所になってしまったとのこと。それ故に、同様の心霊事件が起こりやすい土地柄にあり、紅はそれらの脅威から人々を守るために町に残っていると言っていた。
本当のところ、その話がどこまで真実なのか、今の照瑠には証明する術がない。ただ、紅の言っていることも嘘ではないようで、彼が町に現れてから、既に何件もの心霊事件が起きていた。その内のいくつかには、照瑠も自分の意思とは関係なく巻き込まれてしまったこともある。
中でも照瑠の心に未だ影を落としているのが、昨年の晩秋に起きた≪魄繋ぎ事件≫だった。医学的には既に死亡している人間を、狂気の術で現世に生きながらえさせる儀式。その儀式によって仮初の生を与えられていた友人を、照瑠は救うことができなかった。
自分の中に、本当に不思議な力があるのなら。そして、自分が少しでもその力に目覚めていたのなら。まだ、彼女を救う術があったのかもしれない。否、彼女だけでなく、今までに関わってきた事件の犠牲者たちも、もしかすると救う手立てがあったのかもしれない。
おこがましい、思い上がりのような考えであることは承知している。それでも照瑠は、自分にも何かするための力が欲しいと願い、父に頼み込んで巫女としての修業をさせてもらうことにした。母と同じ、癒し手としての力。その力を手に入れるための、九条家に代々伝わる秘密の行を。
今、照瑠が行っているのも、そんな修業の一つである。鉢植えに植えられた木を、己の気力だけで癒し、育てる。自らの癒しの気で生命力を活性化させ、枯死させないように注意しながら。
その際に重要なのは、相手の気の流れを知ることだった。人間とは違い、植物は呼吸のリズムから身体の作りまで、全てが異なっている。気の流れもまた同様で、少しでも集中力を途切れさせれば、直ぐにつかめなくなってしまう。
最初の内は、照瑠もどうしていいかわからないことの方が多かった。だが、この数カ月で、随分とコツをつかめるようになったと思う。
現に、全盛期の母ほどではないにしろ、照瑠も確実に癒し手としては成長しつつあった。友人のちょっとした腹痛や頭痛程度であれば以前から治療することもできたし、今年の二月には、下らない騒動に巻き込まれ、その際に暴走する野球部員たちを鎮めて回ったこともある。紅ほどではないが、照瑠もまた霊能力者としての階段を、着実に昇っているところだった。
「ふぅ……。今日は、この辺で終わりにしようかな。葉っぱも随分、元気になったしね」
最後に、新緑の芽を軽く撫で、照瑠は鉢植えを抱えて部屋を出た。薄暗い本殿を抜けて拝殿に戻ると、そこには父である九条穂高が待っていた。
「やあ、照瑠。今日の修業は、終わったかい?」
「ええ、勿論よ。それよりも、これ見て、お父さん。とうとう、全部の枝に芽が出るようになったのよ」
「おお、これは凄いね。この分なら、後少し修業を積めば、照瑠も癒し手としての仕事が本格的にできるようになるかな?」
「うーん……そうだといいんだけど……。なんか、今一つ実感が湧かないのよねぇ……。凄い力を使えるようになってるのはわかるんだけど、別に私自身に変化があるわけじゃないし……」
自分の掌をまじまじと見つめながら、少しばかりの不安を漏らす照瑠。確かに、癒し手としての力は、修業前とは比べ物にならないほどにまで上がっている。だが、それで自分の中に何かの変化があるかというと、別にそういうわけでもない。
修業を終えた後は、普段通りに朝食を摂り、学校へ行く。そして、これまた普段通りに学校生活をこなし、帰ってきたら、また修行。その繰り返しだ。霊能力者として覚醒しつつはあるのだろうが、その過程で霊的なパワーのような物が降りて来て……それこそ、いきなり頭がよくなったり、人格が変わってしまったりするような、妙なことは起きてはいない。
まあ、起きたら起きたで困るのだが、それでも照瑠は未だ自分の力に半信半疑だった。犬崎紅のような戦う霊能力者と比べると、どうしても今の自分に納得ができなくなってしまう。
「どうしたんだい、照瑠。いつになく、難しい顔をして?」
照瑠の微妙な気持ちの変化に気づいてか、穂高が気遣うような声をかけた。その声に引き戻され、照瑠もまた現実に戻って首を振った。
「あっ、なんでもないの。それよりも、早く朝ご飯食べないと、学校に遅刻しちゃうわ。お父さん、悪いけど、この子をお願いね」
そう言って、手にした鉢植えを父に押しつけ、照瑠は巫女の衣装のまま社務所に続く廊下を走って行った。こうして見ると、格好こそ巫女の姿だが、照瑠はどこにでもいる普通の女子高生だ。父である穂高から見ても、そう思える。
本当は、このまま静かに普通の女の子として育って欲しい。時折、穂高は照瑠の姿を見てそう思う。もっとも、この九条家に生まれた以上、いつかは癒し手として覚醒して後を継がねばならない。願わくば、凶暴な向こう側の世界の住人たちを、己の力で払いのけるだけの力を身につけて。
自分の手に残された植木鉢に目を移しながら、穂高はそんなことを考えた。よくよく見ると、鉢植えに根付いた小さな木からは、若々しい黄緑色の葉があちこちから顔をのぞかせていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
学校に到着し、いつものように教室のドアをくぐった照瑠は、その先に見慣れた少女の姿を見た。
「照瑠~! おっはよ~!!」
照瑠の姿を見つけるや否や、その少女が手を振って叫ぶ。照瑠と同じ制服を着ていながら、その身長は小学生ほどしかない。照瑠の友人であり、都市伝説オタクで有名な少女、嶋本亜衣だ。
「相変わらず、朝から元気ねぇ……。なにか、特別にいいことでもあったの?」
訝しげな表情を浮かべつつ、照瑠は見降ろすようにして亜衣に訊いた。
亜衣が上機嫌になるとき。それは、新しい都市伝説のネタを仕入れたときか、おいしい物が食べられる店を見つけたときが殆どである。後者であれば喜ばしいが、前者であれば、願わくばご遠慮願いたい。
「ねえ、照瑠。昨日の夜にやってた、≪奇跡空間ミラクルゾーン≫見た?」
机の上に手を置いて、亜衣が身体を前のめりにして尋ねてきた。いきなりわけのわからない話を振られ、しばし困惑する照瑠。時折、亜衣はこうやって、周りの空気を読まずにいきなり話を始めることがある。
「ちょっと、いきなり何よ。その、あなたが言う奇跡なんたらっての……私は全然知らないんだけど……」
「えっ、そうなの? 私はいつも、録画までして見ているお勧め番組なんだけどね。今度、照瑠も見てみるといいよ」
「なるほど、テレビ番組か。それだったら、悪いけど遠慮しておくわ。歌番組ならまだいいけど……あなたの勧める番組じゃ、大方、下らないオカルト番組の類に決まってるからね」
「むぅぅ、失礼な! こう見えても、私だって、日夜照瑠の力になろうと、都市伝説研究に力を入れてるんだからね! 照瑠こそ、今までになんどもお化けや幽霊なんかに会ってながら、なんで自分から情報収集しようとしないのさ!!」
わざとらしく、顔をふぐのように膨らませながら亜衣が言った。確かに、照瑠は神社の巫女で、今までも霊的な存在に関わる事件に巻き込まれて来た経験がある。が、それと亜衣の言う都市伝説の研究が、いったいどうやったら結びつくのか。どうも、個人的な趣味を強引にこじつけただけのような気がするが、照瑠はあえて黙っておいた。
ここで正論を言っても、亜衣はますます気を悪くしてしまうだろう。こういう場合、一通り話を聞いて、相手を満足させてしまった方がよい。昨年からの付き合いで、照瑠は自然と亜衣の手懐け方を身に着けていた。
「まあ、私が番組を見るかどうかは置いておいて……その番組で、何か面白いことでもあったの?」
とりあえず、相手の話を聞く姿勢に入る照瑠。すると、今しがた不貞腐れていた亜衣の目に、再び先ほどの輝きが蘇った。なんというか、実に調子のいい人間である。
「うん、まあね。昨日は心霊特番ってことで、生放送やってたんだけど……その放送が、途中でとんでもないことになっちゃてさ」
「とんでもないこと? まさか、放送中に本物のお化けでも出たの?」
「うーん……。そこは、私にもわからないんだけど……。なんか、途中でアクシデントがあったみたいで、放送が一時的に中断されちゃったんだよね。で、普通だったら直ぐに復旧するはずなのに、その後も全然駄目でさ。結局、特番は中止になっちゃって、なんか最後は謝罪会見みたいなので終わっちゃった」
「なによ、それ。でも、生放送中に放送を急遽中止するなんて……そんなこと、本当にありえるの?」
「本当だったから、こうして言ってるんじゃん。嘘なんかついたって、何の意味もないよ」
片手を腰に当て、まるで当然のことにようにして口にする亜衣。確かに、彼女がここで照瑠に嘘をつく理由はないが、それにしても、いったい何の意味があってこんな話をするのだろう。
生放送中のテレビ番組に、予定を急遽変更せざるを得ない事態が発生した。番組を楽しみにしていた亜衣にとって、これは愚痴の一つでも言いたくなる事態なのはわかる。が、それが亜衣の話たかったことかと訊かれると、素直に首を縦に触れない。
亜衣は、照瑠の学校でも有名な都市伝説オタクなのだ。それだけでなく、≪人脈の亜衣ちゃん≫を自称しては、妙な人間との関係を自慢する変人でも有名である。
そんな亜衣が、わざわざ朝から照瑠に話を振ってきた。今までの経験からして、これは確実に何かある。
そう、照瑠が思った矢先に、亜衣が再び口を開いて話し出した。やはり、話の本題はこれからだったのだ。覚悟を決め、照瑠は自分の拳に力が入っているのを感じた。どうも、気がつかない内に、自然と身構えてしまっていたらしい。
果たして今日は、どんな突拍子もない話が飛び出すのか。決して期待はしていないが、少しばかり気になってしまうのも事実だった。
「えっと……それで、さっきの話の続きなんだけどね。実は、生放送が大失敗してから、私のところにメールが来たんだよね。それ、誰からだと思う?」
「さあ? 私には、皆目見当もつかないけど……」
「ふっふっふっ……。相変わらず、想像力が今一つですぞ、照瑠どの。私の異名が、≪人脈の亜衣ちゃん≫ってことをお忘れか?」
「なによ、気持ち悪い笑い浮かべて。で、その異名と今回の話、なんの関係があるわけ?」
「なんの関係って……あるもなにも、大ありだよ。テレビと言えば、芸能界。そして、芸能界と言えば、それは私とゆっきーの関係以外にないでしょーが」
にやりと笑い、携帯電話を照瑠の目の前に突き出す亜衣。その画面に映し出されている相手の名前を見たとき、照瑠も亜衣が何を言わんとしているのかを理解した。
「これ……雪乃からのメールじゃない! そう言えば、あの子、今頃はお仕事頑張っているのかな?」
「まあ、あのゆっきーのことだから、間違いはないと思うけどね。それよりも、問題はメールの内容だよ。久しぶりにメールを貰ったと思ったら、なんだかまた、変な事件に巻き込まれているみたいなんだよね、これが」
「変な事件……。まさか、去年のクリスマスみたいなことが、また……」
亜衣の言葉に、照瑠の頭を嫌な記憶が掠めた。
国民的アイドルの一人、長谷川雪乃。そんな彼女と嶋本亜衣は、実は旧知の仲である。なんでも二人は幼馴染の関係らしく、雪乃の出身も、何を隠そう照瑠の住んでいる火乃澤町。
ちなみに、雪乃はあくまで芸名で、本名は蓮薙有希という。こんなことを知っているのも、亜衣が雪乃の幼馴染だからこそだ。昨年末に起きた事件では、この本名も事件解決の鍵の一つとなり、彼女を陥れようとしていた真の黒幕を暴くのに役立った。
そんな雪乃が、何の前触れもなしに亜衣にメールを送ってきた。それも、昨晩に放送されていた生放送番組で、なにやらトラブルがあった翌日にである。
一時は、向こう側の世界に関わって、生死の境まで彷徨った雪乃。そんな彼女からのメールだからこそ、照瑠は絶対に何かあると予想していた。そして、亜衣の携帯電話を受け取って中身を見た際、その予想は瞬く間に確信へと変わった。
― 相談したいことがあります。
― 犬崎君とお話がしたいので、連絡取れませんか?
― 雪乃
たった三行のメールだったが、照瑠にはこれだけで十分だった。
怪奇な事件の当事者としての経験を持つ雪乃が、あの犬崎紅を呼ぶ。それだけでも、雪乃か、もしくはその周りの人間に、何かがあったということだけは確実だ。
「どう、照瑠? 昨日の心霊特番で生放送中にトラブルがあった、その次の日にこんなメールが来たんだよ。見るからに、なんかヤバそうじゃない?」
「そうね……。雪乃だって、自分が怖い体験したことくらい、そう簡単に忘れないと思うし……。それなのに、わざわざ犬崎君に相談するってことは、相当のことなのかも」
「だろうね。で……その犬崎君なんだけどさ。最近、あんまり学校に来てないみたいだけど、照瑠は知らない?」
「えっ……!? そう言えば……確かに、ここ最近は学校を休みがちだったわね」
亜衣に言われて、照瑠はふっと先週のことを思い出した。
四月になり、照瑠たちも無事に高校二年への階段を昇ることができた。が、そんなことなどお構いなしに、ここ最近の紅は学校を休みがちだった。
別に、身体の具合が悪いわけでもないだろうに、一年の時と比べても学校に来る日数が減った。まあ、仮に来たところで居眠りばかりしているため、あまり変わりはない。ただ、携帯電話に連絡を入れても、ほぼまったくと言っていいほどに返信がないのだけは気になったが。
「ねえ、照瑠。なんだったら、今日は帰りに犬崎君の家に寄って行かない? 先生から、プリント預かったとかなんとか言って、口実作ってさ。そこで、ついでにゆっきーからのメール見せて、相談に乗ってもらおうよ」
「犬崎君の家に!? まあ、私は構わないけど……。でも、亜衣。あなた、犬崎君の家、どこにあるか知ってるの?」
「えっ……。そ、それは……」
照瑠の言葉に、亜衣はしばし視線を上の方に逸らし、わざとらしく頬を指でかいた。ここまで話が進んでいて、結局はこういうオチか。相変わらず、最後の最後で亜衣は詰めが甘い。
「はぁ……。どうせ、そんなことだろうと思ったわよ。まあ、私も犬崎君の家がどこなのか、実は良く知らないんだけど……亜衣の言う通り、プリント届けるのを口実にして、一緒に行ってみましょう。先生に頼めば、住所くらいは教えてくれると思うしね」
全身の力が抜けて行くのを感じながら、照瑠は自分が早くも厄介事に巻き込まれたのを感じていた。
アイドルグループの一員であることを抜きにした場合、雪乃は照瑠にとっても大切な友人の一人だ。その友人を助けるためであれば、苦労を惜しむつもりはない。問題なのは、亜衣が後先考えず、役にも立たない提案をしてくるくらいである。
だが、それ以上に、照瑠は紅の住んでいる家に興味があった。
昨年の六月に火乃澤町にやって来てから、照瑠は紅と一緒に様々な心霊事件を解決してきた。が、照瑠が紅と話をするのは、決まって駅前の甘味屋か照瑠の家というのがお約束だった。連絡は常に携帯電話を使って呼び出す形で、照瑠や亜衣が紅の家を訪れたためしはない。
ぶっきらぼうで口が悪く、周りの人間とは必要最低限の関係しか望まない。それでいて、普段は金に意地汚い側面を見せながら、向こう側の世界の住人が絡んだ事件が起きると、なんだかんだで無償の奉仕をすることも多い紅。
はっきり言って、紅は亜衣とは別方面での変わり者だと照瑠は思っていた。そんな紅の住んでいる家とは、果たしてどんな場所なのだろう。
(犬崎君の家か……。犬神なんてものを操るくらいだし……まさか、犬小屋ってことはないわよね)
少しばかり失礼だと思いながらも、照瑠は犬小屋から頭を出した紅の姿を想像し、思わず軽く噴き出した。あの、無口で冷静な紅の頭が、犬小屋の穴から飛び出している様。自分で考えたことなのに、それを頭に思い浮かべると、どうにも笑いが込み上げてきて止まらなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
街外れの雑木林の近くに、その屋敷はあった。建てられたのは、恐らく数十年近く前だろうか。一見して、そこまで古びた印象は受けないが、近づいて見るとかなり年季が入っているということがよくわかる。
屋敷を覆う鉄柵は、雨と風にやられてボロボロだった。塗装は剥げ落ち、赤錆びも酷く、その下にあるブロック塀もひびが入っている。それは小さな門も同様で、既に壊れてその用途を果たさなくなった閂の欠片が、風にゆれてきぃきぃと音を立てている。
誰もいない、忘れられた家。埃の積もった窓ガラスと、痛みの激しい屋敷の壁。誰がどう見ても、まともな人間の住んでいる場所とは思えない。が、そんな屋敷の一室には、古びたソファーに一人の少年が腰かけていた。
白金色の髪の毛と赤い瞳。犬崎紅だ。
先天的な白子障を持ちながらも、日中の陽射しの強さに弱いことを除いては、特に日常生活に支障は見られない。いや、むしろ、こんな廃屋同然の家に住めることからして、精神的にも肉体的にも、かなりタフな方だと言えるだろう。少なくとも、同年代の少年たちに比べても、紅の体力や精神力、それに運動神経などは、明らかに標準のそれを越えていた。
天井の脇に張られたクモの巣に目をやりながら、紅は手にした鏡を弄ぶようにしていじっていた。赤と青。二枚の鏡はそれぞれが、実に美しい錦模様で染められている。かなり年季の入った物であるらしく、骨董品屋に持ち込めば、それなりの値段で引き取ってくれるかもしれない。
もっとも、紅にとって関心があるのは、この鏡の値打ちなどでは決してなかった。彼にとっての関心の対象。それは、鏡の持っている呪力とも呼べる、不思議な力についてのことだった。
今年に入ってからすぐ、まだ雪も溶けていない季節のこと。二月の初頭に起きた怪事件、≪鏡さま事件≫のことが、どうしても頭から離れない。
鬼門の方角に備え付けられた大鏡の前で、古来より大切にされてきた鏡を用いて、夜中の二時に合わせ鏡を行う。すると、異界への扉が開かれて、術者の魂は常世の一つである鬼の世界、≪鬼界≫へと導かれてしまうという儀式。
向こう側の世界の事件に数多く携わってきた紅でさえ、こんな術を目にしたのは初めてだった。実際、最後には自らも鬼界へと乗り込んで戦う羽目になったため、術の信憑性に関しては疑いようがない。が、問題なのは、いったいどこの誰が、こんな術を生み出したのかということだ。
自らは直接に手を下さず、呪いの道具を配ることで世界に闇を広める者。闇の死揮者と呼ばれる者の存在が、否応なしに紅の頭に浮かんでくる。
霊能力者達の間でも、死揮者の話は単なる噂に過ぎない。実際に死揮者と出会った者などいなかったし、その存在を証明するための証拠も見つかっていない。
現に、今、紅が持っている二枚の鏡も、単なる古びた鏡以外の何物でもなかった。術が行われた際には不思議な力を持っていたのかもしれないが、どうやら使い捨ての一回切符だったらしい。知り合いの退魔具師――――魔を祓う道具を作る職人のことである――――に調査を頼んだが、やはりただの古い鏡でしかないとの返事しかもらえなかった。
自分の存在した証拠さえ残さず、常に影で暗躍する闇の死揮者。こうまでして尻尾をつかませないと、本当に死揮者などいるのかと、疑わしくもなってしまう。
だが、それでなければ、昨年から立て続けに火乃澤町で起きている、不可解な事件の原因を説明できなかった。
この火乃澤町は、陰の気が流れ込みやすい地形にある。紅が来るまでは賽の結界によって阻まれていたが、その結界も、今は完全に破壊されてしまっている。応急処置的な対処はしておいたものの、それでも完全に気の流れを阻むことはできない。せいぜい、流れを弱めて街が完全に毒されないようにする程度が限界だ。
流れ込む陰の気によって、魑魅魍魎の類が街に集まって来ること。それは仕方のないことだと紅も思う。問題なのは、自分がこの土地にやって来てから起きた事件の、半数以上が呪いや禁術に関係するものだということだ。
霊的な存在に近づき過ぎたが故に惨事を招く祟りとは違い、呪いはあくまで人が人にかけるもの。禁術も同様であり、基本的には呪いの道具がなければ成立しない。
しかし、そういった道具を素人が簡単に手に入れていることなどが、そもそも不可解なことなのだ。例えば、呪いの藁人形一つにしても、素人が作った物では効果がない。霊的な存在に通じる者が、それ相応の手順を踏んで作った道具を用い、更に正しい手順で儀式を行わねば、そう簡単に他人など呪えない。
では、それにも関わらず、この火乃澤町で呪い関係の事件が多発しているのはなぜか。原因は、陰の気などではない。もっと、直接的な何かがあるはずだ。
火乃澤に降りかかる災厄の原因。それは、本当に闇の死揮者なのだろうか。だとすれば、その死揮者は、なぜこうも回りくどい方法を用いて、悪戯に闇を広めようとするのだろうか。
色々と、わからないことが多過ぎる。事件が起きてからしか動けないという分、こちらに不利があるのは百も承知だ。それでも、ようやく手掛かりを見つけたと思った矢先に、その可能性が雲をつかんだようにして消えてしまうやるせなさ。これでは、紅でなくとも苛立ちを隠しきれなくなってくる。
二枚の鏡を薄汚れた机の上に置き、紅はそっと立ち上がった。家の外で、何やら扉の軋むような音がする。いつもの風が家を叩き、揺らすような音ではない。紅にとっても珍しいその音は、この廃屋のような古い屋敷に、久方ぶりの客人が訪れたことを示していた。
「客か……。こんな時に、珍しいな」
自分の影に語りかけるようにして、紅は独り呟いた。その声に、影が一瞬だけ肯定の意思を示すようにして揺れる。
「誰だか知らんが、物好きなやつもいるものだ。とりあえず、害のない連中だったら、ここまで案内してやれ」
再び、影が揺れた。紅の言葉に、影は彼の足下からすっと離れると、まるでそれが一つの意思を持った生き物のようにして、そのまま扉の隙間から外へと抜け出て行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夕暮れ時、メモ用紙に書かれた住所へ向かった照瑠と亜衣は、自分たちの目の前に現れた屋敷に言葉を失った。
柵も壁もぼろぼろで、およそ人の住んでいる気配がしない。ほとんど立ち腐れの空き家であり、今にも中から幽霊が飛び出してきそうな感じである。もう春になって久しいというのに、妙に冷たく陰気な風が、錆びついた門を叩いている。
本当に、ここがあの犬崎紅の家なのだろうか。もしかすると、自分たちは学校の教師からもらったメモ書きを読み間違えて、まったく見当違いの場所に来てしまったのではあるまいか。
思わず互いに顔を見合わせた照瑠と亜衣。だが、メモ用紙に書かれた住所と目の前の電柱にある住所を見比べると、確かにこの屋敷が紅の家と考えて間違いない。辺りには、他にめぼしい家もなく、草むらと雑木林が広がっているだけだ。
仕方ない。とりあえずは、家の扉だけ叩いて、人がいるかだけ確かめよう。そう思い、照瑠が門の前に来たとき、その瞳の中に奇妙な物が飛び込んで来た。
「ねえ、亜衣。これって……」
「うん。木の板でできた表札だね。ちゃんと≪犬崎≫って彫ってあるよ」
「そうね。でも……これ、よく見ると、カマボコの台になっていた木で作られているようにも見えるんだけど……」
ぼろぼろだが、かつては格式の高そうな装飾が施されていた門とは、明らかに不釣り合いな安っぽい表札。それを見て、照瑠はしばし言葉に詰まったまま立ち尽くした。
普段の紅が、とかく金銭的な面で煩いこと。それは照瑠も知っていたが、まさかここまで酷いとは。こうなると、節約云々を越えて、もはや単なるネタだ。貧乏性、ここに極まれり。もしかすると、こんな酷いボロ屋に住んでいるのも、単に賃料が破格であるという理由だけかもしれない。
まったくもって、紅はいったい何を考えているのか。およそ、普通の人間には理解できない、彼なりの基準というものがあるのだろう。
半ば呆れた表情のまま、照瑠と亜衣は屋敷の門をそっとくぐった。すると、誰が触れたわけでもないのに、屋敷の扉が音もなく開いた。
ここから先へ、入って来いということなのだろうか。仕方なく、照瑠と亜衣は遠慮がちに、そっと家の中に入ってゆく。どうやらインターホンさえないようで、玄関を抜けると黄色いカステラのような色をした壁が彼女達を歓迎した。
「うへぇ……。外から見たときもそうだったけど、中も相当にボロイですなぁ。こうなると、ますますお化け屋敷って感じだね」
亜衣の言葉に、照瑠も無言で頷く。床は比較的綺麗に掃除がされているが、それでも家が古く傷んでいるのには変わりがない。見たところ、電気もまともに通っていないようであり、紅がどのような生活を送っているのかますます気になってくる。
(お化け屋敷か……。まあ、確かに、この家の中にいる犬崎君のことを夜に見かけたら、誰もがお化けと思うかもしれないわね)
暗闇の中に光る赤い瞳と、深雪のように白い肌。そんな容姿の人間が、廃屋一歩手前の屋敷の中に住んでいる。それを外から知らない者が見れば、間違いなく幽霊と誤認するだろう。
屋敷の奥にある扉が、音もなくすっと開いた。風はなかったが、照瑠はなぜか、何者かが自分を案内しているような気がして、そのまま導かれるように扉の奥へと歩を進める。
「ごめんください。誰かいますか?」
扉の影から顔を覗かせ、照瑠は恐る恐る訊いてみた。返事はない。だが、その代わりに、彼女は部屋の中央に置かれたソファーの上に、見慣れた少年の姿を発見した。
「なんだ、お前達か。俺はてっきり、また物好きなアホが廃墟探検に来たのかと思ったぞ」
白金色の髪の毛をかきながら、少年が照瑠に言った。犬崎紅だ。初め、この家にやってきたときは自分が道を間違えたのではないかと思ったが、どうやら紅は本当に、このボロボロの屋敷に住んでいるらしい。
「犬崎君……。いるならいるで、返事くらいしてよね」
「悪いな、九条。だが、見ての通り、ここはこんな家だ。一応、表札は出しているが、それでも何を勘違いしたのか、たまに廃墟マニアなんかが不法侵入して来るんでな。念のため、警戒しておいた」
「廃墟マニアって……。まあ、確かに、こんな家じゃねぇ……」
天井の隅に張られたクモの巣に目をやりながら、照瑠は改めて部屋の中を見回した。
紅が生活している空間は、最低限の掃除くらいはされている。が、それでも部屋がボロボロなのは相変わらずで、天井は色々な部分がしみだらけ。それは床も同様で、破れた窓ガラスはガムテープで補修してある。部屋にはソファーとテーブル以外の家財道具がなく、随分と殺風景な場所に感じられた。
「で、今日はいったい何の用だ? わざわざ、俺の家を突き止めてまで押し掛けるなんてくらいだからな。よっぽどのことがあったと考えるのが普通だが?」
口元を隠すようにしたまま、紅が照瑠たちに赤い瞳を向ける。さすが、同年代の他の男子と比べても、紅は鋭い。無愛想な態度とぶっきらぼうな喋り方は好かないが、こういうときは話が早くて助かる。
「やっぱり、犬崎君に隠し事はできないわね。実は、ちょっと亜衣に頼まれて、相談事があって来たの。後、ついでに学校休んでたときのプリントの束、一緒に持って来たから」
「そうか。だったら、その紙屑の山は適当に置いておいてくれ。どうせ、俺は読まないからな」
「紙屑って……。犬崎君、あなたねぇ……」
学校のことなど、まるで興味はない。そう言わんばかりの口調で言い放つ紅に、照瑠は自分の頭が痛くなってゆくのを感じていた。
やはり、紅の感覚は一般人のそれとは違う。不良というわけではないのだが、興味や関心の対象が、一般市民の日常生活におけるものとは大いにかけ離れている。
長い間、向こう側の世界の住人と隣り合わせの生活をしていると、こうなるのだろうか。と、いうことは、神社の巫女として霊的な修業を続ける自分も、いつかは紅のような感覚になってしまうのだろうか。さすがに、それはないと思いたい。
呆れた顔をしたまま鞄からプリントの束を取り出すと、照瑠はそれを強引に紅に押し付けた。続けて、今度は亜衣に目配せすると、彼女に携帯電話を取り出させて紅に見せる。あの、長谷川雪乃から送られてきた、メールの本文を画面に表示させて。
「ねえ、犬崎君。去年の暮れに会った、ゆっきーのこと覚えてる? ほら、あの蟲がどーしたって事件のやつ」
「ゆっきー? ああ、長谷川雪乃のことか。一応、覚えてはいるぞ。今、どうしているのかは興味ないがな」
「むぅ、なによそれ。そんなこと言ったら、ゆっきーが可哀想じゃん!!」
「事実を言ったまでだ。それよりも、相談の内容は何だ? 俺としては、そっちの方にしか興味がない」
ほとんどひったくるようにして、紅は亜衣の差し出した携帯電話をもぎ取った。画面に映し出されている本文を見ると、しばし顔をしかめて難しそうな顔をする。
メールの本文には、依頼の内容まで書いてはいない。ただ、紅に相談したいことがあると、端的に綴られているだけだ。
だが、それでも紅は、そのメールが悪戯の類ではないことを知っていた。
紅の知る限り、長谷川雪乃は悪戯でこんなメールを送るような少女ではない。ましてや、アイドル歌手としての活動も忙しい中、単なる悪ふざけで紅のことを呼ぶとは考えにくい。
怪異の当事者として、一度はその命さえも落としかけた長谷川雪乃。そんな彼女が、改めて紅を頼る理由はなにか。こればかりは本人に訊いてみないとわからない。
「とりあえず、このメールだけでは何とも言えないな。ただ、何か良くないことが起きているってことは確かだろう」
「えっ……それじゃあ!?」
「勘違いするなよ、嶋本。俺はまだ、こいつからの依頼を引き受けると決めたわけじゃない。ただ、長谷川雪乃が悪戯でこんなメールを送って来るとも思えない。まずは、お前が本人に確認をとって……全てはそれからだ」
はしゃぐ亜衣に釘を刺し、紅は淡々とした口調で言った。
長谷川雪乃は、いったい何を考えて、再びこちらに接触を測ってきたのか。もしや、また彼女の周りで、よくないことが起きているのではないだろうか。
本当は、こんなことに時間を割いている場合ではない。今は一刻も早く、闇の死揮者の存在を突き止め、その足取りや目的を判明させなければならない。
そう、頭ではわかっていたが、やはり紅には雪乃のことも気になった。
ここで自分が依頼を承諾しなければ、今度は照瑠が雪乃を助けるために勝手なことをし始めるかもしれない。巫女としての力を確実につけてきている今、照瑠が先走って暴走しないとも限らない。
面倒見がよいのも、時には考えものだと紅は思った。嶋本亜衣のようなトラブル―メーカーとつき合うことが、果たして照瑠にとってプラスに働くのか。ふと、そんなことを考えてしまう。
もっとも、こんな話の展開は、今に始まったことではない。それに、自分がこの土地に住まうことを決めたのは、なによりも九条照瑠を守るためという理由が強い。
生まれながらにして高い素質を持ちながら、その力を制御できない者は、いつしか闇に堕ちてゆく。陰の気が流れ込み、怪異が発生しやすい状況にある火乃澤町において、照瑠のような人間は闇の格好の餌食だ。巫女としての修業が終わっているならいざ知らず、半人前の状態では、逆に闇に取り込まれないとも限らない。
かつて、自分が救えなかった少女、狗蓼朱音のことを思い出し、紅はそっと目を瞑った。あれから既に二年以上の月日が流れていたが、未だに彼女の存在は、心の奥深くで紅を縛り続けている。
彼女のような人間を、二度と再び生み出さないようにすること。それを自ら≪贖罪≫と称し、紅は今まで戦ってきた。九条照瑠を守るというのも、その使命感に起因する部分が大きい。
このまま亜衣の話を無視して、照瑠を事件に関わらせるのは気が引けた。長谷川雪乃が、果たして本当に再び怪奇な事件に巻き込まれているのかどうか。その真偽は定かではないが、手を引くにはあまりにも早過ぎる。
どちらにせよ、死揮者に対する情報がない以上は、一人で悩んでも無駄なだけだ。それならば、今はまず目先の問題を解決し、その上で死揮者の情報を探った方が賢明だ。
無償で働くのは、紅の本意ではない。だが、照瑠の性格を考えると、紅に選択肢というものは残されていなかった。