~ 終ノ刻 邪贈 ~
薄暗い、埃にまみれた階段を抜けた先に、その部屋はあった。
雑多な紙資料を中心とした、ほとんど人の入らない資料室。その奥にある棚を少しだけ退かすと、裏手に金属製の重たい扉が現れる。
その扉を開け、さらに薄暗い階段を降りると、唐突に明るい部屋に出た。先ほどまでの、暗く湿ったような空気はない。空調を含め、全てが最新鋭の設備によって整えられた、すっきりとしたオフィスだった。
「お疲れ様ですね、香取さん。今回の事件、また随分と後味の悪い終わり方だったみたいですけど……」
部屋に入るなり、眼鏡のをかけた優男が挨拶してきた。香取の部下の、氷川である。
「事の顛末に関しては、既に伝えてある通りだ。情報操作に関しては問題ないが……事件そのものが、全て解決したとは言い難かったな」
自分のデスクの前にある椅子に腰かけ、香取が重たい口調で言ってのける。心霊事件の記録と隠蔽が主な任務とはいえ、香取とて警察組織の一員だ。事件を裏で操っていた真の黒幕。それを捕えることができなかったことに、不満を抱いていないわけではない。
「それにしても……今回の事件、いったいどんなやつが、裏で糸を引いていたんでしょうかね?」
「さあな。俺の関わったガキの話では、闇の死揮者ってやつがいるらしい。なんでも、呪いの手法を素人に伝えて、最後は破滅に導くことを生業としている呪殺師ってことだ」
「闇の死揮者……ですか。正直、俺の知っている限り、データにはそんなやつの話はないですね。大方、霊能力者連中の間で流行ってる、単なる都市伝説の類じゃないですか?」
「だと、いいんだがな……。今回のような事件をあちこちで起こされたら、いくらこちらの権限を用いたところで、情報を隠すにも限界がある」
頭に乗せていたソフト帽を取り、香取はポケットから煙草を取り出して口に咥えた。ライターで火をつけたところで、白い煙が溜息と共に吐き出される。
事件の発端は、生放送の本番中に起きたもの。それを抜きにしても、今回の事件は、少々事が大きくなり過ぎた。紅や魁のような人間は別にしても、高槻に雪乃、それに凍呼やまゆと言った、芸能関係者にまで全貌を知られてしまった。
香取が唯一幸いだと思えたのが、そんな彼らの仕事が、全て人気商売であるということだ。自分の芸能界での立場を考えた場合、三人の少女が今回の事件について公の場で他言するとは思えない。
もしもそんなことをすれば、頭がおかしくなったと思われて、仕事を干されてしまうだけだ。真実を伝えたいという義務感や使命感は誰しもが持っているものだが、自分の芸能生命を縮めてまで、それをするとは考えられない。それも、誰にも信じてもらえないということが、ほとんどわかりきっているというのに。
例外的なのは御鶴木魁だが、こちらも問題はないだろう。彼は真実云々よりも、自分の商売のことを気にしているような男である。こちらが少し圧力をかけてやれば、黙らせることは造作もない。
では、香取が今なお憂いに思っている、真の理由はなんなのか。それは一重に、紅の言っていた闇の死揮者の存在だった。
あの事件が終わった後、香取は紅から闇の死揮者の存在について尋ねられた。無論、そんな物は知らなかったので答えようがなかったが、紅の話そのものは、決して聞いて無駄になる話ではなかったように思われる。
もし、紅の言う闇の死揮者の存在が事実であるならば、それは即ち、一般人が簡単に呪いの儀式を手にすることが可能だということを示している。しかも、場合によってはこちら側でさえ正体をつかんでいない、まったく新手の呪詛の方法を手に入れる可能性さえある。
これが一昔前ならば、こちらの仕事も楽だった。事件のほとんどは禁足地に足を踏み入れた結果、心ない人間が祟りに見舞われて亡くなるといったようなもの。後は、好奇心旺盛な中高生が≪こっくりさん≫などに手を出して、不幸にも凶悪な霊を呼び出してしまうなどといったものが大半だった。
それに比べ、闇の死揮者が撒き散らす呪いは、実に多様で無差別なものだ。この現代において、人を呪い殺したいというような、歪んだ欲望を持った人間は数多く存在する。その誰しもが、禁忌の力に触れて心霊事件を引き起こす可能性があるのであれば、これはもう自分たちの力だけで事態を収束させることは難しい。
今後、心霊事件の情報操作を行うに当たっては、闇の死揮者との衝突は避けられないだろう。本当にそんな人物が存在するのかまで定かではないが、少なくとも、調査の一環として意識をしておく必要はありそうだ。
「そう言えば……香取さんの留守中に、ちょっと面白い物を見つけました」
ひとしきり煙草を吸い終えたのを見計らって、氷川が香取に向かって言った。
「香取さんが、今回の事件で関わった犬崎って子……。もしかすると、とんでもない力を持った霊能力者の一人だったのかもしれませんね」
「とんでもない力?」
「ええ、そうですよ。香取さんから話を聞いて、俺もちょっと気になって調べたんですよね。いくら霊感が強いからって、高校生くらいの年齢で一人前の退魔師やってるやつなんて、そういないんで」
「確かにな。それで……何か、やつについてわかったことはあるのか?」
「まあ、ちょっとだけですけどね。実は、彼のことではないんですが……恐らく、彼の身内が関係しているであろう事件を、過去のファイルから見つけました」
氷川の手がパソコンのキーを素早く叩き、画面上に複数のウィンドウが出現する。そこには様々な情報に混ざって、古びた洋館の写真や、紅のような風貌をした一人の女性の写真が映し出されていた。
「陽明館事件。今から十五年以上も前に、四国地方で起きた、前代未聞の心霊事件ですよ。犠牲者は、ホテルの客と従業員全員。その内、大学生グループの六人が、未だに行方不明のままです」
「行方不明? それは、神隠しの類とは違うのか?」
「さあ……。当時は集団ヒステリーってことで解決されたみたいですけど……。俺たちの部署の捜査資料にデータが残ってる限り、ただの事件ってわけじゃなさそうです」
「当然だな。で、これがあの少年と、いったい何の関係がある?」
「重要なのは、ここからですよ。事件の詳細に関しては、残念ながら、俺の権限じゃ細かい部分までアクセスできませんでした。それだけヤバイ事件ってことだったんでしょうが……その事件を解決したってことになってるのが、この女です」
画面上に、赤い瞳の女性の顔がアップになって映し出された。紅と同じ白金色の髪を持ち、その二つの瞳は燃える炎のような色に輝いている。遠くから撮影したものであり、解像度は決してよくはなかったが、彼女が紅と同じアルビノであることは明白だった。
「犬崎美紅……。当時の資料に残ってるのは、この名前だけですね。地元では、かなり名の知れた霊能者ってことだったらしいですけど……。正直、情報が少な過ぎて、これ以上は俺にもわかりません」
「なるほど……。だが、あの少年が、この女の息子か親戚である可能性。それは、否定できないな」
「そういうことです。しっかし……これが本当なら俺たちは、とんでもないやつが関わった事件を追っかけていたってことになるんですかね? 利害の一致で共闘しただけとはいえ……できれば、敵に回したくはない相手ですね」
「だろうな。互いに生身で戦って負ける気はしないが……やつのような人間の力は、これから俺たちが闇の死揮者とやらと戦う際に、必要になってくるのかもしれん」
「ええ。もっとも、その闇の死揮者ってやつが、本当に実在するんであればの話ですけど」
苦笑しながら肩をすくめ、氷川はパソコンのウィンドウを静かに閉じた。それを静かに見守りながら、香取は先程脱いだソフト帽を、自分の目元を隠すようにして頭に置いた。
これから先、心霊事件を追って行く中で、再びあの犬崎紅という少年と出会うことがあるのだろうか。もしくは、その関係者と、再び顔を会わせることがあるのだろうか。
多発する心霊事件。呪いを操り、人を破滅に誘う闇の死揮者の存在。以前と比べても、この国の未来は、確実に破滅に向かって進んでいるような気がしてならない。人の心が生んだ闇が、今に恐るべき呪いや祟りを呼び覚ます。香取には、そんな気がしてならないのだ。
警視庁公安部第四課、第零系。通称、死霊管理室。地下深くに作られた一室で、香取はこれからのことについて、一抹の不安を隠しきれなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ふ~ん……。それで、犬崎君は、もう火乃澤駅には着いたのね? 私は今、亜衣の家にお邪魔しているから……できれば立ち寄って、事件のことを聞かせてちょうだい」
電話の向こうにいる相手に告げて、九条照瑠は自分の携帯電話を折り畳んでしまった。
あの日、紅に言われるままに東京に向かってから、既に四日が過ぎていた。もっとも、自分と亜衣は学校があるため、途中で火乃澤町に帰らざるを得なかったが。
紅の話では、事件はなんとか解決し、変死の謎も解けたとのことだった。だが、それにしては、電話越しに聞いた彼の声が、さして明るくなかったように思われる。無愛想なのはいつも通りなのだろうが、なんというか、力が入っていない。事件を解決したというのに、実に不満に満ちた口調だったのは記憶に新しい。
いったい、紅はどうしてしまったのだろう。この数日、自分と離れて東京に残っていた間に、彼の身に何かあったのだろうか。
まあ、考えていても仕方のないことだ。紅は既に火乃澤町に戻ってきているのだから、後は彼の口から、改めて事件の全貌を聞けばよい。
気を取り直し、踵を返して歩き出すと、照瑠は友人達の待つ部屋へと向かった。今日の学校は、既に終わって授業はない。だが、その代わりに大量の宿題が出されてしまい、それに悪戦苦闘しているというわけである。
こと、数学の宿題が多いのは、文系の照瑠にとって問題だった。亜衣はあの通りで勉強はまるで駄目だし、親友の加藤詩織も、照瑠同様に数学は苦手だ。
結局、苦手な物は全員で分散して片付けるに限るということで、今は亜衣の家で宿題を終わらせる作業に追われている。亜衣曰く、「三人寄れば文殊の知恵」とのことらしい。が、それは少しでも、頭の良い人間が言う言葉ではないかと照瑠は思う。少なくとも、数学嫌いな少女が三人集まって考えたところで、大した知恵も浮かばないと思うのだ。
「お待たせ、亜衣。犬崎君、もうこっちに帰って来てるってさ」
部屋の扉を開け、照瑠は中で待っていた亜衣に言った。どうやら早くも挫折しているようで、鉛筆を口に咥えたまま、机に突っ伏して伸びている。
「うへぇ~。三人で力を合わせれば、なんとかなると思ってたけど……やっぱ、駄目なものはどうにもならんね、こりゃ……」
開始三十分にして、亜衣は早々に戦線離脱を宣言した。自分から人を呼んでおいて、いったい何ということだろう。思わず呆れて声も出ない照瑠だったが、横を見ると、既に詩織も同じように、ぐったりと伸びて項垂れていた。
「ごめんなさい、九条さん。悪いけど、私も限界かも……。今日の宿題、ちょっと難し過ぎるわよ……」
「はぁ……。こんなことだったら、亜衣の家なんかじゃなくて、詩織の家で勉強すればよかったかもね。私たちには駄目でも、詩織のお兄さんだったら、なんとか解けたかもしれないし……」
そう言って詩織に話しかけた照瑠だったが、詩織は答えなかった。どうやら、二人ともかなりやられているようで、今にも脳みそがパンクしそうな顔になっている。残念ながら、これでは到底、今日の内に宿題を終わらせることはできそうにない。
こうなったら、最後の頼みの綱は紅だ。彼には電話で、亜衣の家に来るように言っておいた。東京から戻って来て早々で悪いが、ここは彼の力を借りる他にない。
問題なのは、果たして紅が、照瑠たちの代わりに宿題をやってくれるかどうかである。無愛想な彼のこと、普通に頼んだ場合、まず可能性は低い。あまりやりたくはないが、亜衣がいつもやっているように、彼の好きな食べ物で釣るというのが得策かもしれない。
そう、照瑠が考えたとき、何やら玄関の方で音がした。どうやら郵便物が届いた音のようだが、それにしてはやけに重たい音だ。
「ねえ、亜衣。なんか、届いたみたいだけど……そんなところで伸びているくらいだったら、ちょっと気分転換に見に行ったら?」
「う~ん、そうですなぁ……。それじゃ、お言葉に甘えて退室させていただきますか」
僅かな時間でも、宿題から解放されて部屋から出られる。その言葉が、亜衣の瞳に再び輝きを取り戻させた。なんというか、見ていて実に飽きない人間だと照瑠は思う。少なくとも、ここまで調子のいい人間は、照瑠の知る限り亜衣を除いて他にいない。
バタバタと、階段を駆け降りる音がして、亜衣の姿が照瑠の目の前から消えて行った。が、程なくして、直ぐに階段を駆け上る音がして、再び亜衣が照瑠の目の前に現れる。彼女の手に薄茶色の大きな封筒が握られており、中には何やら角ばった物が入っているようだった。
「ちょっと照瑠! 何か、変な物届いたんだけど!!」
「いきなり何よ、騒々しい……。確かにちょっと大きいけど、普通の郵便物じゃない」
「でも……私には、何の心当たりもありませんぞ、照瑠殿。これはちょっと、調べて見る価値がありそうですな」
「調べるって……。それ、あなたのお父さんかお母さんに宛てたものじゃないの? だとしたら、勝手に開けたら怒られない?」
「大丈夫、大丈夫。ちゃーんとここに、私宛てに名前が入ってるしね」
封筒の中央にある宛先を指差して、亜衣は得意げな顔をしている。なるほど、確かにそこにあるのは、亜衣の名前に他ならない。
しかし、それにしても、差出人不明の郵便物など、普通は警戒するものではないだろうか。都市伝説などに興味を持っているためか、亜衣の場合、警戒心よりも好奇心の方が勝ってしまうようだ。
「しょうがないわね。それじゃあ、ちょっと見てみましょう。でも……中身が下らないものだったら、直ぐに勉強に戻るからね」
「へいへい、わかってますよ。それじゃあ、中身を御開帳~!!」
忘年会の酒の席で、中年親父が好みそうな台詞を言いながら、亜衣は封筒の上の方を乱暴に破り捨てた。毎度思うが、彼女はいったい、どんなところから下ネタの類を仕入れて来るのだろう。妖怪や幽霊の話以前に、照瑠のにとってはそちらの方が、十分に都市伝説だったりする。
封筒を破り、亜衣はその中身を取り出して手に取った。中から出て来たのは、白いプラスチックケースに入った箱上の物体。今ではあまりお目にかからなくなった、一本のビデオテープだった。
「なにこれ? なんかのビデオ?」
「見ればわかるわよ、そんなの。で、いったい何のビデオなの?」
「さあ? ラベルも貼って無いし、これだけじゃわかんないよ。再生して、中身を確認して見れば別だけど……」
ビデオテープをまじまじと眺めながら、亜衣が照瑠にすがるような視線を送ってくる。このテープを再生する許可を貰いたい。そう、目で訴えているのが見え見えだ。
「はぁ……仕方ないわね。何のビデオか知らないけど、確かに再生すれば、わかることがあるかもね。願わくば、何かの広告ビデオみたいなものであって欲しいんだけど……」
「そうですなぁ……。でも、世の中、どんな物が出回っているかわかんないからね。広告は広告でも……もしかすると、エロビデオの試供品かもしれませんぞ、照瑠殿」
「なに、変なこと期待してんのよ! もしもそんなビデオだったら、直ぐに止めてゴミ箱行きにするからね!!」
「まあまあ、そう怒らないで下さいな。まずはビデオの中身を確認。全てはその後、考えればいいでしょ」
にやけた口元を隠すようにして、亜衣は自室に置かれた小さなテレビの電源を入れた。小型ながら、旧式のビデオデッキを内蔵しているタイプの物だ。
鈍い機械音を立てて、テープが吸い込まれるようにして消えた。リモコンを持った亜衣は、なぜだか少しそわそわしている。これから始まるビデオの中の映像が、果たしてどんなものなのか。それを知るのが楽しみで仕方がないといったところか。
程なくして、テレビの画面が砂嵐からまともな映像に切り替わった。場所は、どこかの林道の中だろうか。薄暗くてよくわからないが、夜の山のような場所を歩いているというのは三人にもわかった。
「なんだろう、これ……。何かの記録ビデオなのかな?」
予想に反して面白みのない映像に、亜衣が怪訝そうな顔をしている。詩織も数学の問題を解く手を止めて、不思議そうに画面を見つめている。
だが、そんな二人の傍らで、照瑠だけは何故か嫌な予感がして仕方がなかった。これ以上、このビデオを見るのは危険だ。なぜだかわからないが、本能がそれを告げているような気がしてならない。
やがて、画面が切り替わり、撮影者は林道を抜けて広場のような場所に出た。相変わらず、辺りは薄暗く様子がわかり難かったが、その広場の中央に何かがあることだけは、ビデオを見ている三人にもはっきりとわかった。
だんだんと、画面が広場の中央に向かって動き出し、そこにある物との距離が縮まってくる。ズーム機能でも使用しているのか、歩いて近寄っているにしては、やけに画面が広がるのが早い。
「えっ……? なんなの、あれ……」
そう、詩織が口にしたとき、画面の中央には不気味な鳥居が姿を現していた。三本の柱を持ち、その上部が三角形を描くようにして伸び、奇妙な鳥居を形作っている。三方向、どの角度から見ても鳥居になるように組まれたそれは、照瑠や詩織、それに亜衣でさえ見たことのないものだった。そして、その鳥居を見た瞬間、照瑠は未だかつてない、物凄い悪寒に襲われたのである。
これ以上は危険だ。この映像を、見続けてはいけない。
そう、思ったときは、既に遅かった。
「あっ……かはっ……」
湿った咳と共に、自分の身体が痙攣を始める。まずい。なんだか知らないが、物凄く冷たく暗い気が全身に襲いかかり、自分の身体を食らい尽くそうとしているのがわかる。
それは、言うなれば、照瑠の使う力とは正反対の性質を持つものだった。彼女の力が人の魂を癒すことに特化しているならば、これは人の魂を穢し、破壊するための気だ。ビデオの映像を通し、それらの淀んだ負のオーラが、次々に肉体を、魂を侵食し始める。
このまま食われてなるものか。仮にも巫女としての修業を積んだ自分でさえ、これだけの負荷がかかるのだ。何の霊感も持たない亜衣や詩織では、瞬く間に魂を食いつくされてしまう。
(し、しっかりしなきゃ……。私が……やらなきゃ……)
薄れる意識の中、照瑠はなんとか隙をついて息を深く吸い込むと、そのまま精神を一点に集中させて瞑想を始めた。
あのビデオから発せられる、暗く淀んだ気の流れ。それを読んで、自分の身体の中に入らないように受け流す。同質の力をぶつけて対抗するのではなく、相反する性質の力を使い、この部屋の中の気の流れそのものを操って、邪悪な念を逸らすのだ。
以前、≪君島邸事件≫の際に呪いの札に触れた際は、このような技は習得していなかった。あのとき、自分はまだ何の力も持たない女子高生であり、闇の力に抗う術など持ち合わせてはいなかった。
しかし、あれから半年以上の時間が流れ、自分は劇的な成長を遂げた。犬崎紅には未だ敵わないかもしれないが、何もせずに邪悪な力の餌食なるようなことは願い下げだ。どこまでやれるかはわからないが、自分だって九条神社の跡取りなのだ。
どうせ死ぬなら、やれるだけのことをやってから死んでやる。そんな照瑠の、決死の覚悟が功を制したのだろうか。
全員を覆う冷たい気の呪縛から、照瑠は一瞬だが開放された感じがした。その隙を逃さず、照瑠は亜衣の手からビデオのリモコンを奪い取る。そして、すかさず電源のボタンを押し、ビデオを再生を食い止めた。
「はぁ……はぁ……」
時間にして、物の数分の出来事だった。それでも照瑠自身、まるで数時間にも及ぶ全力疾走を行ったときのような虚脱感に襲われていた。
あのビデオは、いったい何だったのだろう。あんな恐ろしい物が、何の目的を持って、亜衣の家に届けられたのだろう。
本来であれば、宿題をして、それから趣味の話で盛り上がって過ごせたであろう、何気ない日常。それが、一瞬にして崩壊し、命の危険に晒された。今までも数多くの心霊事件に関わってきたが、こんな悪夢に襲われたのは、照瑠にとっても始めてのことだった。
「そ、そう言えば……詩織は!? それに、亜衣は!?」
身体に少しだけ力が戻り、照瑠は慌てて横を振り向いた。自分でさえ、ここまで酷い影響を受けたのだ。何の力も持っていない詩織や亜衣が、果たしてどうなってしまったのか。答えは火を見るより明らかだったが、それでも照瑠は、自分の頭に浮かんだ想像を、どうしても信じたいと思わなかった。
「あ……あぁ……」
視界に映る、見慣れた二人の友人たち。だが、その姿を目の当たりにしたとき、彼女の口から声にならない絶望が毀れた。
詩織は全身を痙攣させ、口から泡を吹いて卒倒していた。気のせいか、顔は赤く腫れ上がり、今にもこのまま破裂しそうになっている。
亜衣の方は、こちらはまだ辛うじて意識があると言えるのだろうか。もっとも、両目を剥き出しにして湿った咳を吐き続ける姿は、既に照瑠の知る彼女の物ではない。それこそ、なにかに取り憑かれたようにして、苦しそうに胸を押さえたまま動こうとしない。
「そ、そんな……。どうして……どうして、二人が……。なんで、こんなことに……」
目の前で起きている現実が、到底信じられなかった。このままでは、亜衣も詩織も確実に死ぬ。呪いなのか、祟りなのか、その原因は定かではないが、あの恐ろしいまでに冷たい負の波動の影響を受けて、魂の芯まで破壊されつくしてしまう。
もう、手段を選んでいる場合ではなかった。体力が落ちているとか、今までにない経験だとか、そんなことを口にしている時間さえ惜しい。
二人の腕を同時につかみ、照瑠は再び呼吸を整えた。負の波動によって穢されし魂を浄化するには、自分の持っている癒しの力を使うしかない。二人の人間を同時に癒すことなど初めてだったが、手遅れになってからでは全てが遅い。
極限まで意識を集中させて、照瑠は詩織と亜衣の二人の魂に、自分の魂を同調させた。外部から癒しの気を送るのでは、力が及ばない可能性がある。ならば、内部から魂の奔流とも呼べる気の流れ、霊脈を探り出して直接癒す。かつて、紅の力を借りたとはいえ、彼女はこの方法で長谷川雪乃を救ったことがあるのだ。
まったく異なる人間の魂に、果たして同時に意識を同調させることができるのか。難しいことだとは思ったが、照瑠は諦めなかった。
亜衣の右手と詩織の左手。その双方から、二人の魂の鼓動を感じ取る。負の波動にやられて弱々しくなっているものの、まだ彼女達の魂は完全に死んではいない。
意識が溶け合い、暗闇の中に堕ちて行くような感覚が照瑠を襲った。このまま気の流れを同調させ、霊脈の動きを探って行けば、二人を危機から救うことができる。そう、心に信じ、照瑠は更に自分の意識を二人の魂と同化させてゆく。
だが、そこまで行ったとき、彼女の身体に物凄い負の波動が流れ込んで来た。それは、闇の力に侵食されている魂に、まとめて二つも触れたことに対する代償だったのだろうか。詩織と亜衣の魂を蝕んでいた負の波動が、今度は一斉に照瑠を標的にして動き出したのだ。
「くぅっ……」
苦悶の表情を浮かべ、二人の手を握ったまま歯を食いしばる照瑠。駄目だ。ここで手を離してしまったら、これ以上は癒しの気を送ることができなくなってしまう。二人の魂からも切り離され、彼女達を救うことができなくなってしまう。
ここで負けてなるものか。そう思い、更に強く手を握って念じたところで、照瑠の精神が限界を迎えた。
「あっ……がぁっ……」
大きく見開かれた二つの瞳から、赤く滴り落ちる血の涙。そのまま闇に飲まれるようにして、照瑠の意識はそこで途絶えた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
照瑠が次に目を覚ましたとき、そこは病院の一室だった。
「大丈夫か……。随分と、うなされていたな」
聞き覚えのある声に、照瑠はそっと顔だけを動かして声のする方を見た。そこにいたのは、白金色の髪と赤い瞳をした一人の少年。照瑠のよく知る、犬崎紅のものだった。
「け、犬崎君……」
「嶋本たちを助けるために、随分と無茶をしたようだな、九条。修業を積んで、多少は力を使いこなせるようになっていたからいいものの……一昔前のお前なら、確実に障害反動で死んでいたぞ」
淡々とした口調で言っていたが、その瞳は照瑠を心配するように窺っていた。それを見た瞬間、照瑠の中に、あの時の恐怖が唐突に溢れ出して来た。
「あ……あぁ……」
ベッドの上で起き上がり、頭を抱えたまま照瑠は震えた。わけのわからないビデオを見て、自分が負の波動に魂を削られる寸前だったこと。二人の友人もまた、その餌食になったこと。そして、その二人を助けようとして、意識を失ってしまったこと。
あの時は、怖いと思うよりも先に身体が勝手に動いていた。しかし、今となっては恐怖に抗う術はなく、気がつくと照瑠は大粒の涙を流して泣いていた。
「犬崎君……。私……私……」
「心配するな、九条。お前は助かった。もう、何も心配することはないんだ。何も……」
紅の手が、照瑠の頭にそっと伸ばされる。その手を取り、最後は紅の胸に顔をうずめるような形で、照瑠は声に出して泣き続けた。誰かに見られたら恥ずかしいとか、そういった類のことは、既に頭の中から消えていた。
それから、どれくらい泣いていたのだろう。やがて、気持ちも落ち着いたところで、照瑠は紅と改めて向かい合った。
亜衣の家に送られた謎のビデオ。その正体が何なのか、紅であれば知っているかもしれない。また、それ以前に、詩織や亜衣は無事なのか。自分の無事を確認できた今、気がかりなのは友人達の安否だ。
「ねえ、犬崎君。亜衣は……それに、詩織はどうなったの!? もしかして……助かったのは、私だけとか……」
「いや、そんなことはない。加藤も嶋本も、なんとか一命は取り留めた。お前の処置が早かったからだろうな。嶋本のやつは、今では起きて話もできる」
「そっか……。それじゃあ、亜衣も詩織も無事なのね」
「ああ、一応はな……。だが、残念ながら加等の方は、無傷というわけにはいかなかった……」
紅の顔に、一瞬だけだが影が射した。まさか、詩織は助からなかったのか。いても立ってもいられなくなり、照瑠はスリッパをはいて立ち上がると、紅の腕を取って引っ張った。
「ねえ、犬崎君。詩織も、この病院にいるんでしょ? だったら、あの子の病室まで、私を案内してくれない?」
「それは構わないが……お前の方は大丈夫なのか? 見たところ、かなりの力を使ったようだが……」
「私は平気。それよりも、詩織の方が心配だから」
「わかった。ならば、俺について来い。ただ……そこで何を見ても、決して取り乱さないと約束しろ」
いつになく鋭い口調で、紅は照瑠に約束させた。そこまで言われては、照瑠も頷いて答えるしかない。詩織の安否は不安だったが、少なくとも死んでしまったわけではないのだから。
病室を抜け、いくつかの部屋を通り過ぎたところで、紅が唐突に立ち止まって指差した。照瑠の部屋から少しだけ離れたその場所が、詩織の寝かされている病室だった。
「ここだ。この部屋に、加藤が寝かされている。身内には連絡が入っているみたいだが、今日は帰りが遅くなりそうなんでな。今は代わりに、長瀬のやつが彼女を見ている」
「長瀬君が? だったら、詩織も安心ね」
「ああ。そうだといいんだがな……」
意味深な言葉を放ち、紅は照瑠を病室の中へと案内した。自分の部屋を出るときには気にならなかったが、部屋に入ると微かに消毒薬の臭いが鼻先をくすぐった。
病室の中は、ガランとしている。他に患者はおらず、どうやら今は詩織しか寝かされていないようだ。異様なほどに静かなその部屋の一角で、詩織は静かに眠っていた。
「ちょ、ちょっと、犬崎君! あれ、いったいどういうこと!?」
部屋に入り、詩織の姿を見るなりに、照瑠は紅との約束も忘れて声を荒げた。まあ、それでも無理はない。詩織の姿は照瑠が想像していたものとは違い、見るからに重傷であることが見てとれたからだ。
両目を覆うようにして撒かれた純白の包帯。首からは、これは紅が作ったものだろうか。なにやら人間の形をした紙人形が、糸で一繋ぎにされた物がかけられている。その内の何体かは既に色が端から黒ずんで、焼け焦げた後のようになっていた。
「見ての通りだ、九条。加藤のやつは、お前が受けた負の波動の侵蝕に耐えられなかった。辛うじて、魂が腐りきるのは阻止できたが……それでも、あいつの身体から完全に負の波動の影響を取り払えたわけじゃない。あいつの身体は、今この間にも、徐々に侵蝕され続けている」
「そ、そんな……。だったら、早くなんとかしないと……」
「落ちつけ。今のあいつの魂は、既にその芯の部分まで侵蝕が始まっている。下手に手出しをしたところで、中途半端な浄霊で終わるだけだ。それでは、何の意味もない」
あくまで落ち着き払った言い方で、紅は照瑠に説明した。この期に及んで、なぜこうも冷静になっていられるのか。不思議でならない照瑠だったが、紅は構わず説明を続けた。
「現状は、あいつの首から下げている人型を依代にして、その身代わりにしている状況だ。だが……それだって、そう長くは持たないだろうな。あいつを本当に助けるには、その祟りの原因となった存在を叩き潰さねばならない」
「祟りの原因? それって……もしかして、ビデオに映っていた鳥居みたいなやつ!?」
「ああ、そうだ。お前と電話で話した後、俺は嶋本の家を訪ねてお前達を発見した。その際に、部屋にあったビデオの中身も、きっちり調べさせてもらったぜ」
「ビデオを調べたって……。あなた、よく無事だったわね……」
「問題ない。画面は既に砂嵐になっていたし、最初から、中身が如何わしいものだと疑ってもいたからな。何の準備もなしに見れば危険だったが、先手を打って結界を張ってから見れば、お前達のようにならずにも済む」
「そっか……。ごめんなさい、犬崎君。そこまでして助けてもらったのに……なんか、お礼も満足に言えなくて……」
気まずそうに俯いて、照瑠が紅に言った。紅は気にしていないようだったが、それでも照瑠は、紅に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
結局、今回も自分は何もできず、最後は紅に助けられてしまった。それなのに、自分や他人の心配ばかりして、紅に対して満足に礼も言えなかったとは。
つくづく、自分が情けない。こんなことでは、まだまだ自分は未熟だと思う。霊能力者としての力はついてきたが、それでも紅には足下にさえ及ばない。
「気にするな、九条。お前は何も悪くない。本当の悪は、お前の家に例のビデオを送りつけた人間だ。そいつを捕まえて、叩き潰す。それが俺にできる、赫の一族としての務めだからな」
照瑠の肩に手を置いて、紅はそっと横を通り過ぎた。去り際に、詩織の傍ら彼女のことを不安そうに見つめている、長瀬浩二に目配せするのを忘れずに。
ここは頼む。そう、目で訴えて、紅は独り病室を出た。
東京での事件を形だけでも解決し、火乃澤に戻った矢先に新たな事件が起こる。しかも、その元凶となったものは、あの廃墟探検映像に仕込まれていた、三柱鳥居と同じもの。鳥居をコマとコマの間に隠すのではなく、直接凝視できるようにまでしてある辺り、ある意味では東京の事件のもの以上に性質が悪い。
その上、照瑠も含めた三人の人間が、まとめて祟りを受けたこと。これは即ち、映像に込められた一種の邪念が、特定の人間に対してのみに向けられていないことを意味している。西岡や室井を死に至らしめたものよりも、邪念が集中していないために威力は劣る。が、反面、誰にでも負の波動を送り込めるという点で、やはり悪質なものだった。
(あのビデオが入っていた郵便物の封筒は、確かに火乃澤の消印が押してあった……。だが、その日付は今日のものではない。恐らくは、誰かが封筒を再利用する形で、一見して疑わないような形で郵便物に偽装させたものを、直接ポストに投函したか……)
亜衣の家で見た、ビデオが入っていたと思しき破れた封筒。それを見た時のことを思い出し、紅は心の中で呟いた。
あのビデオの送り主は、何も無差別にテロ行為を行おうとしたわけではない。最初から、照瑠たちに狙いを絞って、あのビデオを送りつけたのだ。照瑠や亜衣、それに詩織が一カ所に集まっていることを知った上で、彼女達をビデオに込められた邪念で殺すために。
いったい、何の目的で、照瑠や亜衣をい殺すのか。考えられる理由は、ただ一つ。あの事件の裏に潜んでいた真の黒幕。闇の死揮者を名乗る者による報復だ。
これ以上、こちらの邪魔をするならば、お前に関わる者の命を奪う。こちらが直接手を下さなくとも、お前の仲間を殺す方法などいくらでもある。あのビデオを送ってきた裏には、そんな意味も込められていると紅は考えていた。
「くそっ! 結局、俺はやつの手の内で踊らされているに過ぎないのか!!」
病院を抜け、夜道を歩いて抜けたところで、紅はいつしか自分の家に戻って来ていた。久方ぶりに見る、廃屋と見紛う様なボロボロの屋敷。所詮は仮住まいという意識があってか、不思議と懐かしい気はしなかった。
紅の拳が門を叩き、ガシャンと言う金属音が響き渡った。これ以上、遊ばれてなるものか。そう思っても、次の策が見当たらない。こうしている間にも、詩織の魂は徐々に削られ、明日にでも頭を破裂させられて亡くなってしまうかもしれないというのに。
もう、迷っている時間などなかった。加藤詩織を救うためには、あのビデオにあった三柱鳥居を見つけ出し、そこに巣食う魔物を退治するしかない。例え僅かな望みであっても、今はそれに賭けるしかないのだ。
今度の遠征は、東京に出た時とのそれは比べ物にならないだろう。だが、立ち止まっている時間はない。まずは出掛ける仕度を整え、全てはそれから考える。
家の鍵を開け、中に足を踏み入れたところで、紅は自分の影が妙にざわついているのに気がついた。紅の苛立ちを受け、それを反映させているわけではない。自分の縄張りを敵に侵された。そんな怒りを感じさせる揺らぎだ。
「何者だ……。姿を現せ……」
暗闇の中、赤い二つの瞳だけが、真っ直ぐに正面を見据えていた。その瞳の先にある闇の奥から、ゆっくりと何者かが姿を現す。
そこにいたのは、赤い服を着た一人の少女だった。背丈は亜衣より、少しだけ高いくらいだろうか。頭の上には二つのお団子が結われており、そこには簪のような物が突き刺してある。
もっとも、飾り気のようなものはまるでなく、どちらかと言えば、ただ鉄の針金が刺さっていると言った方が正しい風貌だ。首にしているものは、これは何かのアクセサリーだろうか。髑髏の姿をした鈴のついた、いかにも悪趣味な首輪をつけていた。
「私ノ名、マオ……。私、紫苑ノ命令デ、ココマデ来タ……」
片言の日本語で、少女が言った。抑揚のない、ともすれば機械の音声と間違えるような声だった。
「紫苑、アナタニ会イタガッテル。自分ノ呪イヲ次々ニ暴イタアナタノコト、トテモ興味持ッテル……」
「自分の呪い……。まさか、その紫苑とかいうやつは……」
「女ノ子ニカケラレタ呪イ、解キタイデショウ? ダッタラ素直ニ、紫苑ノトコロニ来ルトイイヨ……」
少女の顔が、闇の中で歪んで見えた。こちらに拒否権がないのをわかっている。それでいて、あれて選択肢をチラつかせることで、こちらの反応を窺っている。
不気味な少女だ、と紅は思った。あれは、恐らく人間ではない。かといって、自分の操る犬神のような、下級神というわけでもない。
正体がわからない相手の話に耳を貸す。それは確かに不安だったが、今の状況を考えると、残された選択肢は一つしかなかった。
「わかった。そちらの条件を飲んで、お前の主とやらに会おう。だが、こちらにも準備がいる。今しばらく時間が欲しいが……問題ないか?」
「構ワナイ。今日ノ丑寅ノ時刻ニ、モウ一度迎エニ来ル。ソレマデニ、準備ヲ整エテオケ……」
最後の方は命令するような言い方になって、それだけ言うと少女は消えた。闇の中、鈴の音が鳴る音だけがして、続けて紅は、猫の鳴き声のような音を聞いたような気がしていた。