~ 逢魔ヶ刻 怪死 ~
目の前に映し出されたものが、全て真実とは限らない。
闇はときに、一瞬の隙間を縫うようにして、日常の中に紛れ込む。
本当にあった呪いの館。心霊ブームも下火になりつつある昨今、そんなサブタイトルが冠せられた番組があったら、果たして人はどこまで興味を持つのだろうか。
オカルトマニアにとっては懐かしいと感じる人もいるかもしれないが、殆どの人は、そこまで興味も示さないはずだ。せいぜい、ちょっと怖い映像や、いかにもな演出溢れる再現映像を見て、その場だけキャーキャーと騒ぐだけだろう。
番組の収録が始まったスタジオで、篠原まゆは、ふとそんなことを考えた。既に本番が始まってはいるものの、自分は所詮、二流のタレント。怖い映像が流されるシーンで適当に震えて、後は質問を振られた際に、「怖いです~」と涙目で訴えていればよい。そんな風に思いながら。
まゆにとって、芸能界という場所は一般人以上に日常の一部だった。
子役として、この業界に入ったのは小学校二年生のとき。まだ、右も左もわからない中、将来はテレビの中で歌っている歌のお姉さんみたいになりたいという夢を叶えるため、両親がオーディションに連れて行ってくれた。
結果、まゆは無事にオーディションを通過し、それ以降は芸能界に身を置くこととなった。が、所詮まゆはどこにでもいる普通の子ども。子役といっても端役ばかりで、気がつけば中学生になっていた。
演技も平凡、歌など現役のアイドルには到底及ばない。これでは何のために自分が芸能界に入ったのかわからない。そして、高校生になった現在も、特に看板番組さえもらえずに今に至るというわけである。
今回の出演も、まゆにとっては棚ぼたのようなものだった。なんでも、本来であれば出演を予定していたレギュラーの女の子が、急遽出られなくなったとのことで、急に代役の仕事を回されたのだ。
要するに、穴埋め要因として呼ばれただけということだ。なんとも情けない話であるが、まあ、仕事が来ないよりはマシであろう。それに、普段は端役しかもらえない自分が、こうしてバラエティ番組のゲストとして呼ばれただけでも奇跡に等しい。
司会者の台詞を横に聞きながら、まゆはふと隣の席に座っている男の方へ目をやった。
そこにいたのは、まゆよりも一回りほど年齢を重ねていると思われる、長身で長髪の男だった。歳は、二十代後半か三十歳になったばかりだろうか。妙に軽薄そうな表情で、服装もホストクラブにいそうな感じの男である。使っている男性物の香水の匂いが、先ほどからまゆの鼻先に漂ってきて仕方がない。
初め、スタジオの裏で会ったとき、まゆはこの男もゲストのタレントだろうと思った。なにしろ、ここまで露骨に周りを意識して格好をつけているのだ。大方、元男性アイドルグループの一員か、まゆの知らないイケメン俳優の一人ではないかと思っていた。
だが、そんなまゆの考えは、スタッフから説明を受けた瞬間にひっくり返された。
まゆの隣にいる男の名は、御鶴木魁。あんな格好をしているが、なんと今を生きる陰陽師の末裔ということらしい。その軽薄そうな顔とホストのような服装からは想像できないが、この業界では比較的有名だそうだ。最近では様々な心霊番組に顔を出し、かなりの金を稼いでいるという噂もあった。
心霊番組にはお約束の、現代を生きる霊能力者。なんとも胡散臭い男であるが、番組としては、こういう男がいた方が盛り上がるのだろう。とりあえず、イケメンが出ていれば良いという視聴者がいる限り、寺の坊さんや自称霊能力者の婆さん、単に怖い話が好きなだけの中年男などを置いておくより、視聴率が取れるのかもしれない。
もっとも、そんなことは、頭では思っても決して口には出せない。魁の隣にいる男の存在が、まゆにそうさせている。
先ほどから、始終無言のまま微動だにしない無愛想な男。陰陽師である魁の弟子ということらしいが、その格好は師匠よりもさらにいかがわしい。
癖のある短い髪の毛を赤に近い茶色に染め、ド派手な色のアロハシャツに身を包んでいる。スタジオの中でもサングラスは外さず、その目がどこを見ているのかさえわからない。そんなヤクザ者のような外見から、まゆは魁の弟子というよりは、男がボディガードかなにかではないかと勘繰ったほどだ。
男の全身から発せられる無言の威圧感。それは、魁を挟んで反対側にいるまゆにもはっきりとわかった。苛立っているのとは少し違う。しかし、他人を容易に寄せ付けない何かはある。まるで、自分の師匠の側に、穢れた者が近寄らないよう見張っているかのようにして。
(っと、いけない。いくら下らない心霊番組でも、少しは真面目にやらないとね……)
代役とはいえ、まゆにとっては初めてのバラエティ番組出演。しかも、実はこの番組、生放送の真っ最中なのだ。よほどの無茶ぶりをされない限り、ヘマをやらかすことはないだろうが、あまりぼうっとしているのも考えものだった。
気を取り直し、まゆはスタジオの大画面に映し出されている再現映像に目をやった。どうやら視聴者から寄せられたはがきの内容を元に、恐怖体験を再現したものを流しているようだ。
暗い廃病院を、懐中電灯の灯り一つで進む男女のグループ。恐らく、廃墟探検にやってきた大学生だろうか。怖がる者、辺りを散策しながら冷静に分析する者、わざとふざけて騒ぐ者、色々といる。
なんというか、まあお約束の展開だとまゆは思った。どうせ、この先で何かよからぬことをして、霊を怒らせた結果、怪奇現象に遭遇するのだろう。
案の定、先ほど悪ふざけをしていた者の一人が、廃病院に残されていた患者のカルテを持ち出した。帰り際、怯える女の子の前でも余裕の態度を取っていたが、しばらくして様子がおかしくなってきた。
病院から持ち出したカルテを、戦利品として家にまで持ち帰ってしまったお調子者の男。だが、深夜、男が寝静まった際に、なにやら幻聴のようなものが聞こえてきた。そして、最後は男の枕元に、顔面蒼白な気味の悪い病人の霊が現れて再現映像が幕を閉じた。
観客席の女性たちが、わざとらしい悲鳴を上げて怖がっている。まゆも、一応は怖がっている素振りを見せるものの、内心はそこまで怖いとは思っていなかった。
廃墟から戦利品を持ち出して祟られるなど、今やどこにでもある怪談話の一つだ。まゆも、初めて聞いたときは怖くて眠れなくなった記憶があるが、今となっては馬鹿らしい子ども騙しの話だとしか思っていない。
だいたい、病院からカルテを盗んで、なんで病人の幽霊が男の枕元にやってくるのか。カルテは患者の物ではなく病院の物なのだから、普通は医者の霊が現れるのが筋ではないか。もっとも、病院内では医者が死ぬことはなくとも患者が亡くなることはあるため、患者の幽霊が出ると言われれば納得せざるを得ないが……それでも、やはりアイテムと幽霊の組み合わせが上手くない気がする。
生放送でやっているとはいえ、こんな低レベルな怪談話で盛り上がれるとは、かなりお目出度い連中だ。隣の男、御鶴木魁が本物の陰陽師かどうかは置いておくとしても、わざわざ霊能力者の類まで呼ぶほどの番組なのだろうか。
映像が終わり、ふと、まゆがそんなことを考えた時、司会を務めている女子アナが怯えた表情でマイクを握った。
「いや、怖かったですね……。でも、今日はこれだけでは終わりません。なんと……今日、この場に、我らが≪ミラクルゾーン≫のスタッフが決死の思いで撮影した、本物のお化け屋敷探索映像があるんです! 今からそれを、皆さんにも特別にお見せしましょう!!」
司会者の声に合わせ、再び画面に映像が映し出される。真黒な背景に、血の様な赤い色で、≪恐怖! 本当にあった呪いの館!!≫という文字が書かれている。
いよいよ、本日の番組のメインが始まったのだ。ちなみに、司会者の言っていた≪ミラクルゾーン≫とは、このバラエティ番組のタイトルである。正しくは、≪奇跡空間ミラクルゾーン≫。今日は心霊物を特集しているが、それ以外にも様々な怪奇、超常現象などを、幅広く扱っている番組でもある。
映像は、曇天の空の下に置かれた一件の屋敷の前から始まった。先ほどのような再現映像ではなく、どうやら本当に現地に行って、実際に撮影を敢行したもののようだった。
ボロボロの、今は使われていない和風の家。木造の日本家屋というにしては、妙に小ぢんまりしていて格式がない。どちらかと言うと、あれは昭和の初期に建てられた、木と土壁によって造られた家といった方が正しかった。
戦争で焼け残ったのか、それとも戦後の物資の無い中で、高度経済成長期以前に建てられたものなのか。そのような難しいところにまで、まゆの頭は回らない。ただ、家の中に広がるじめじめとした陰鬱な空気と、壁に染みついたカビの香りだけは、画面ごしにも感じられた。
調査班に同行してレポートを行っているのは、まゆと同じくらいの年齢の少女だ。どうやら、いつもはこの番組にレギュラーとして登場しているらしく、今のまゆは彼女の代役だった。腰まで垂らした黒髪に、なぜかゴシックロリータ風の服装に身を包んでいる。なぜ、そんな格好で幽霊屋敷のレポートを行うのかはわからないが、あれが彼女の芸風ということなのだろうか。
染みの残る天井、崩れた土壁、そして埃だらけの畳。それらを通り抜け、家の最深部と思われる部屋まで来たところで、スタッフが少女に押入れの襖を開けるように指示を出した。怯えながらも、少女はそっと襖に手をかけ、それを横に動かそうとする。
開かない。なぜだか知らないが、襖は少女が全身の力を込めても、まったく微動だにしていない。
画面に映し出された映像を見ながら、さすがのまゆも、これはおかしいと思った。普通、何かがつっかえているのであったとしても、襖は少しだけ揺れ動くはずだ。ところが、映像から確認する限りでは、襖はまったくといっていいほど動いていない。まるで、空間ごと固定されてしまったかのように、しっかりと枠に貼り付いてしまっている。
結局、少女の力だけではどうにもならないとわかり、奥からスタッフの一人が顔を出した。恐らくはADの一人だろう。二人がかりで力を込めるが、やはり襖は開かない。
湿気が多く、建てつけも悪いからだろうか。それとも、何か超常的な力が働いて、襖を向こう側から押さえつけているのだろうか。
開かない襖に苛立ったのか、とうとうスタッフの男が乱暴に襖を蹴り飛ばした。瞬間、襖が大きな音を立てて破れ、中から錆びついた色の不気味な液体が溢れ出した。
悲鳴と絶叫。画面の中からだけでなく、それは会場にいた観客からも巻き起こった。あまりのことに、さすがのまゆも口元を手で覆って息を飲み込んだ。
下らないお化け屋敷探索だと思っていたのに、いったいこの展開はなんなのだろう。まさか、少し襖を蹴っただけで、あんなものが飛び出して来るなんて。いったい、なにがどうなって、押入れの中に液体などを閉じ込めていたのだろうか。
震える指で、画面の中の少女が赤黒い液体の中に散っていた何かを指差した。ADの男が拾い上げると、それはなんと人間の毛髪。細長く、それでいて決して千切れることのなさそうな、いやらしくまとわりついてくるような黒い髪。赤錆びのような液体の中に浸っていたにも関わらず、それは今もなお生前の艶を保ち続けているような気がして仕方がない。
薄気味悪そうな顔をして、ADの男が髪の毛を畳みの上に放り投げた。まさか、こんなことになるとは思っていなかったのだろう。慌てて洗面所に駆け込むと、他のスタッフからペットボトルに入った水をもらい、手についた液体を洗い流した。
漆黒の髪と奇妙な液体。それらを洗い流したところで、今度は男が妙なことに気が付いた。
水が流れていない。洗面台に溜まった水の上で、洗い落とされた髪の毛が静かに揺れている。
家が古く、何かが詰まっているのだろうか。本当は嫌だったが、男は再び水の中に手を入れて、排水溝の奥に詰まっているものを引っ張り出した。
「うわっ!!」
男の声に合わせ、会場からも小さな悲鳴が聞こえてくる。男の指には、先ほどと同じような黒髪が、互いに絡まった状態で巻き付いていた。これが、排水溝の中に詰まっていたのか。しかし、なぜ、こんな場所に大量の髪の毛があるのだろう。先ほどの液体といい、この家はやはりおかしい。
結局、最終的には満足な調査もできず、調査班は古びた家を後にした。映像を見ていたまゆの中に残されたのは、言い様のない不快感。得体の知れない者に対する、純粋なる恐怖心といった方が正しかった。
先ほどまでわざとらしい悲鳴で溢れていた会場は、いつしか静まり返っていた。再現映像などではない、生のテレビカメラで撮影された実録映像。その生々しさに、まゆも、他のゲストも、そして観客たちさえも、何も言えずに飲み込まれていた。
「はぁ……実に恐ろしい映像でしたねぇ……」
司会を務めている女子アナが、重苦しい溜息と共に言った。会場は未だ静まり返っており、唯一、まゆの隣にいる魁だけが、余裕の表情を浮かべている。
「さて、皆さん。これだけでも、かなり恐ろしい映像だったとは思いますが……実は、この話には続きがあるんです。なんと、この映像の撮影後、撮影スタッフもまた奇妙な出来事に巻き込まれてしまったんです!!」
観客たちが、途端にどよめき始めた。
怪奇番組を作成中に、スタッフが怪現象に見舞われるという話は珍しくない。だが、まさかこのタイミングでこんな話が出て来るとは、誰が予想しただろうか。失敗の許されない生放送で、この流れ。普段は出来過ぎた話に首を傾げる者もいたかもしれないが、今日に限って、それはなかった。
「それでは、我々ミラクルゾーン調査班が遭遇した、世にも恐ろしい怪奇現象とはなにか!? 続けて、再現映像にてご覧ください!!」
しばらく間を置くことで、いつもの調子を取り戻したのだろうか。司会の女性は再び普段の声で喋り出し、画面が再現映像のそれに切り変わった。
先ほどの映像とは明らかに異なる、いかにも作り物めいた再現ドラマ。だが、今度は誰もが無言のまま、画面に映し出された映像に見入っている。今や、観客たちは完全に場内の空気に飲まれ、その感情の一端は、番組を動かしている者たちの手中にあった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
番組の撮影会場となっている場所の裏、様々な機材が積まれた、決して視聴者の目には映らない場所で、室井徹雄は自分の関わった番組の出来に満足げな表情を浮かべていた。
通常、こういった心霊番組では、収録映像を流すのが常である。ここだけの話になるが、心霊特集などは、俗に言う≪やらせ≫も多い。収録映像を流すのは、そのトリックを視聴者に見破られないようにするために、不要な部分をカットできる強みがあるからである。
だが、今回の放送は、正真正銘の生放送。決して失敗が許されない、一発勝負の現場である。
テレビ業界に少しでも通じた者であれば、こういった番組の生放送が、いかに綱渡りなのかわかるだろう。司会やゲストがヘマをしないかどうかは勿論のこと、音響や照明、ADの動きなど、様々なことに気を配らねばならない。
室井が見る限りでは、それらは今のところ、なんとか上手く機能しているらしかった。唯一の不安要素と言えば、代役でスタジオに入っている篠原まゆだ。彼女が妙なことをしでかして、番組そのものをぶち壊しにしかねないかどうか。それだけが不安だったが、思ったよりも大人しくしている。
どうせ、彼女は今日だけの代役なのだ。室井はまゆについてはあまりよく知らなかったが、大方、売れない二流のタレントだろう。枯れ木も花の賑わいということで、とりあえずは大人しく座ってくれてさえいればよい。そう思っていた。
「おう、室井。番組の方は、順調みたいじゃないか」
突然、後ろから声をかけられ、室井は思わず声のした方に降り返った。目の前に現れたのは、恰幅の良い眼鏡の男。この番組のプロデューサーを務めている、西岡悟だった。
「西岡さん……。確か、昨日は酷い風邪だって言ってましたよね。ちゃんと寝てなくて、大丈夫なんですか?」
丸めた台本を片手に、室井が言う。その言葉の通り、西岡の口からは、時折湿った咳が漏れていた。
「なに言ってやがる、この野郎。プロデューサーが、本放送の日に家で寝てられるか。それに……そう言うお前だって、俺と同じ風邪ひきだろうが」
西岡が、負けじと室井に言い返した。かくいう室井もまた、実は数日前から体調が優れていない。西岡ほどではないが、やはり時折、喉の奥から湿った咳が這い上るようにして外に出て来る。
「ったく……それにしても、嫌な時に風邪をひいたもんだな。例のお化け屋敷の映像、ちゃんと、あの陰陽師の若造に除霊させたってのに……。まだ、なんか身体の中に残ってる気がするぞ」
眼鏡を取り外し、片目を擦りながら西岡が言った。室井も頷くと、再びスタジオの方に顔を向け、無言のままカメラマンや照明などのスタッフに指示を出す。大声を出すことはできないので、無論、身振り手振りを活用してのことなのだが。
ディレクターという仕事は、即ち現場の監督だ。ここで失敗すれば、その責任は全て自分が被らなければならなくなる。否応なしに緊張してくるが、それも仕方ない。この生放送を成功させれば、周りからの自分に対する評価も上がるのだろうから。
どんなやり方でも、とりあえずは結果を出せればいい。そのためには、まずは目の前の仕事をきちんと片付けることだ。ふと、そんな当たり前のことを考えながら、室井は隣に座っている西岡を見た。
「ちょっ……西岡さん! そんなに目を擦ったら、変なバイキンが入りますって!!」
思わず、口から声が漏れていた。スタジオのマイクに拾われなかったか、一瞬だけ心配になったが、それ以上に室井は西岡の奇行に目がいった。
パイプ椅子に座ったまま、西岡は執拗に自分の右目を掻いていた。眼鏡を外し、まるで動物アレルギーに苦しむ子どものように、必死になって目を擦っている。その目は酷く充血していたが、西岡は自分の目が腫れることなどお構いなしのようだった。
「ちょっと、西岡さんってば! 目、擦り過ぎじゃ……」
忠告を受けてもなお、目を擦り続ける西岡に、室井は少々苛立った表情になって言った。が、次の瞬間、自分の方へ向いた西岡の顔を見て、室井は言葉を失い自分の息を飲み込んだ。
「ひぃっ……!!」
そこにあったのは、巨大な眼球だった。西岡の擦っていた右の目が、大きく膨らんで室井を見ている。その大きさは、既に顔の四分の一ほどまでに膨れ上がり、西岡の口から掠れた呻き声が漏れていた。
「あ……あが……がぁ……」
西岡の震える手が、そのまま室井に伸ばされる。だが、その手は室井に届くことはなく、西岡は身体を仰け反らせて、そのまま椅子ごと後ろに大きくひっくり返った。
「目……目……」
辛うじて言葉になるものを発すると、西岡は右手で顔を、目を押さえながら室井に迫った。その手は酷く痙攣し、口からはだらしなく涎が垂れている。右目が大きく膨れ上がったその姿は、既に室井の知る西岡のものではなかった。
「大丈夫ですか! なにが起きたんです!?」
さすがに、異常な事態が起きていることに気が付いたのだろうか。手の空いていた他のスタッフ達も集まり、西岡の周りを一斉に取り囲んでその顔を除きこむ。
だが、そうして集まった者たちは、直ぐに一斉に悲鳴をあげて動かなくなった。いや、動けなかったと言った方が正しかった。
泡を吹き、頭を抱えて苦しむ西岡の右目は、既に野球ボールよりも大きく肥大化していた。それは彼の頭蓋骨の中に収まりきらず、瞼を押し上げて中から醜くはみ出している。
いったい、これはなんなのだ。なぜ、プロデューサーの目が、いきなりこうも膨れ上がってしまったのか。
誰も答えを出せないまま、無言の時が流れていった。それは、時間にしてたった数秒のものだったが、その場に居合わせた誰しもが、数十分近い出来事のように感じていた。
――――バンッ!!
突然、風船の弾けるような音がして、周りにいたスタッフたちの顔に生温かいものが降り注いだ。生臭く、それでいて赤黒い。スタッフの一人が指で顔を擦ると、ぬるぬるとした感触と共に、その指先が赤く染まった。
「う、うわぁぁぁぁっ!!」
「いやぁぁぁぁっ!!」
自分たちの顔に、身体に降り注いだもの。それが砕け散った西岡の眼球と頭部の欠片だということに気がついた瞬間、スタジオは恐ろしいまでの悲鳴と叫び声の嵐に包まれた。
こうなると、もうパニックは止まらない。何が起きたのかわからないまま、観客席の方がにわかにざわつきだす。その間にも、身体に血や肉を浴びたスタッフの一人が錯乱し、他の一人は泣きながらその場にへたり込んでいた。
心霊番組の生放送会場で、突如として起きた恐るべきハプニング。しかし、その原因を答えられる者など、この場には存在しなかった。ただ一人、ゲスト席に座っている魁だけが、妙に訝しげな表情をしながら砕け散った西岡のことを睨みつけていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
収録を終えたスタジオの脇にある洗面所で、まゆは今しがたスタジオで起きたことを思い出していた。
番組の途中、スタジオに入ってきたプロデューサー。名前は確か、西岡とか言ったか。その男が突然目を掻きむしり始めたかと思うと、次の瞬間、スタッフ達がわらわらと西岡の周りに集まってきた。そして、風船の弾けるような音と共に血飛沫が飛び、辺りは一瞬にして悲鳴と絶叫に包まれたのである。
生放送の本番中、突如として起きた謎のハプニング。スタッフからは、撮影機材の転倒によって、下にいたプロデューサーが重傷を負ったと説明された。
撮影中に起きた不慮の事故。そう片付けてしまえれば、どんなに楽か。だが、まゆは自分でそうできないことを知っている。あのとき、再現映像から目を離して、たまたま別の方向を向いたまま考え事をしていたのが災いした。
彼女は見てしまったのだ。プロデューサーの西岡の顔が大きく腫れ上がり、その中から野球ボール大にまで膨れ上がった眼球が飛び出すのを。そして、何かの弾けるような音と共に、その眼球を中心に、西岡の顔が粉々に砕け散るのを。
(うぅっ、気持ち悪い……。いったい、あれ、なんだったの……)
思い出しただけで、胃の奥から酸っぱいものが込み上げて来た。自分が直接血を浴びたわけでもないのに、鼻の奥にまでどす黒い血の臭いが漂ってくるような気がして仕方がない。
瞬間、胃の中から這い上がってきたものを、まゆは本能のままに便器の中にぶちまけた。止めようと思っても、あのときの西岡の姿が何度も頭の中で再生され、胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。
「あっ……かっ……はぁ……」
気がつくと、自分の頬を熱いものが伝わっている感触がした。知らずの内に、まゆは泣いていたようだった。
あれは、絶対に普通ではない。西岡は、恐らくは助からないだろう。あんな死に方を目の前で見て、普通でいろという方がおかしな話だ。
(だ、だめ……。また、戻しそう……)
もう、胃の中には吐く物など何もないというのに、吐き気だけがまゆの背中から喉の奥にかけて伝わってくる。吐きたくても吐けない。その苦しみだけが、何度も何度も押し寄せる波のようにまゆを襲う。
どれくらい、そうしていただろうか。
やがて、吐き疲れてしまったまゆは、便器にもたれかかるようにして倒れていた。遠くから、誰かの近づいて来る足音が聞こえてくる。
こんなみっともない格好を、できれば他人には見られたくない。そう思っても、立ち上がる気力が残されていなかった。何かを考えようとすると、それだけで先ほどの西岡の姿が頭に蘇りそうで、考えたくても考えられない。
やがて、聞こえてきた足音は、まゆの後ろでぴたりと止まった。そして、まゆが後ろを振り返ろうとした瞬間、こちらを気遣う様な優しい声がした。
「あの……大丈夫、ですか?」
声は、まゆが思っていたよりも若い。もしかすると、同年代くらいの少女かもしれないと思い、まゆは口元を拭きながらゆっくりと後ろを向いた。
「あ……」
果たして、そこにいたのは、まゆの想像した通りの相手だった。
飾り気のない服装に身を包んだ、自分と同じくらいの年齢の少女。スタッフの一人とは思えないが、それにしても地味だ。肩まで伸びた髪の毛はうっすらと茶色く染まっていたが、それ以外はどこにでもいる、普通の女の子といった感じである。
「ご、ごめんなさい、変なところ見せちゃって……。なんか、ちょっと気持ち悪くって……」
自分の吐瀉物を隠すようにして、まゆはそろそろと立ち上がる。言いながら、咄嗟にトイレのレバーを倒し、自分の吐いたものを流して見えないようにした。
「本当に、大丈夫ですか? ちょっと、外で休んだ方がいいかもしれないですよ?」
「う、うん……」
「だったら、途中まで私も一緒に行きます。また、廊下のどこかで具合が悪くなったりしたら、大変ですから」
「あ、ありがとう……」
むかつく胃を押さえながら、まゆは力なく頷いて言った。
初対面だというのに、目の前の少女は、なぜこうも自分に優しくしてくれるのか。いや、そんなことは、今はどうでもいい。このまま洗面所で倒れていても、この気持ちの悪さは収まりそうにない。
見ず知らずの相手に、それも自分と同じくらいの歳の子に甘えるなど、本当はあまり好ましいことではない。それでもまゆは、今の自分がどうにもならないことを知っていたので、あえて少女の好意に甘えさせてもらうことにした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
少女にまゆが案内された場所は、建物の屋上にあるちょっとした庭のような場所だった。夜風に当てられて肌寒いかとも思ったが、春先の風は、そこまで意地の悪いものではなかった。
ビルの屋上と言えば、殺風景な室外機の森を想像する人も多いだろう。だが、昨今のエコブームによって、最近は屋上に緑を植えているビルも増えた。このビルも、そんな建物の一つであり、屋上は田舎の池を再現したかのような作りになっていた。
こういった物を、巷では果たしてなんと言っていたか。確か、ビオトープなどという名前で呼ばれていたような気がする。そう、とりとめもないことを考えていると、先ほどの少女がペットボトルに入った水を持ってやってきた。
「はい、お水です。外の空気を吸って、少しは落ちつきましたか?」
「うん……。なんか、ちょっとだけ気持ち悪いのも収まった気がする……」
「よかった。ここ、空気も綺麗ですし、眺めもいいですからね」
少女が屈託のない笑顔をまゆに向けてくる。演技のようなものは微塵もない、純粋にこちらの回復を喜んでくれている顔だ。今時、こんな笑顔で笑える人間など、なかなかどうして珍しい。
「なんか、色々と迷惑かけちゃったみたいね。ところで……パッと見じゃテレビ関係者に見えないけど……あなた、名前は?」
「ああ、ごめんさない。まだ、言ってませんでしたっけ」
自分で自分の頭を軽く叩き、少女が少しだけ恥ずかしそうにして言った。先ほどの様子からして、少々天然なところもあるようだ。見ず知らずのまゆを、ここまでして助けてくれるなど、面倒見だけはよいみたいだが。
「私、長谷川雪乃です。同じ事務所の子と一緒に、T-Driveっていうユニットでアイドルやってます」
「えっ、長谷川雪乃!? ちょっと……マジで!?」
一瞬、まゆは自分の耳を疑った。
長谷川雪乃といえば、まゆとて知らないわけではない。それは彼女の口から出た、T-Driveという名も同じだ。
T-Driveは、今や国民的な人気を誇るアイドルグループの一つだ。昨今のアイドル達が好む、大勢で歌とダンスを披露する芸風とは異なり、彼女達は常に三人だけのメンバーで活動を続けている。
彼女達の出身は、元は業界内でも弱小として扱われていたプロダクションの一つだった。ところが、少し前から急激に頭角を現し始め、今では歌番組以外の出演も増えていると聞く。昨年の末にプロダクションの吸収合併が行われ、今では業界最大手であるj-mixに移籍していると聞くが、それでも人気は落ちることなく、確実にトップへの階段を昇り続けている。
子役から始まり、二流のタレントとして仕事を続けている自分とは大違いだとまゆは思った。
確かに、まゆとて自分の仕事を頑張っていないわけではない。ここ最近は、昔に比べれば仕事も少しばかり回してもらえるようになった。子ども向け特撮番組の脇役や、学園ドラマのその他大勢の一人など、決して目立つ役ではなかったが、そこでの頑張りがなければ、今日のように生放送の代役を任されることもなかったはずだ。
もっとも、その代役を引き受けた結果、あんなおぞましいものを見せられたのでは割に合わない。それに、やはり自分は雪乃とは違い、まだまだ修行が足りないと思ってしまう。
長谷川雪乃を名乗った目の前の少女は、実に地味な雰囲気をまとっていた。およそ、国民的アイドルとは思えない、どこにでもいそうな女子高生のそれだ。
だが、まゆは知っている。ステージに立って歌っているときの雪乃が、時にT-Driveのリーダーである、鈴森夏樹さえも凌ぐ輝きを持っていることを。生で歌っているところを見たことはなかったが、テレビ画面を通したものでも、それは十分に伝わってきた。
その雪乃が、まさか素の状態ではここまで地味な少女だったとは。色々なことが重なって、それらが次々に衝撃となってまゆに降りかかってくる。気がつくと、まゆは自分の気分が悪いのも忘れ、しばし呆然とした顔で雪乃のことを見つめていた。
「あの……どうしましたか?」
雪乃に言われ、ハッとした表情になって我に帰るまゆ。目の前には、不安そうにこちらを見つめる雪乃の顔がある。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと驚いただけだから、気にしないで。まさか、私みたいな人間が、あの長谷川雪乃に会えたって思ったら、なんか驚いちゃって……」
「そんな……。私だって、まだまだですよ。それよりも、気分はどうですか? まだ、どこか気持ち悪いとかありません?」
「うん、平気。でも……さすがに、このまま呼び捨てってのもマズイわよねぇ……。業界では、そっちの方が売れてるんだし……長谷川さん、とか呼ばなきゃだめかな?」
「あっ、別に構わないですよ。オフの時は、皆にも普通に名前で呼んでもらってますし」
およそ、トップアイドルとは思えない、飾らない容姿と飾らない態度。不思議と好感が持てたまゆは、いつしか自分から雪乃に話しかけていた。
今日、あの撮影現場で起きた忌まわしい事件。スタッフは事故だと言って聞かなかったが、まゆは自分の目が見たものが、決して見間違いの類ではないと思っていた。
こんなことを言って、果たして本当に笑われないか。一瞬だけ、そんな不安が頭をよぎったが、その時はその時として割り切ることにした。ここで誰かに話を聞いてもらわなければ、また、あの嫌な記憶が蘇ってきたときに、今度こそ耐えられなくなりそうで不安だった。
「ねえ、雪乃。これから話すこと……笑わないで、聞いてくれる?」
「えっ……。別に、構いませんけど……」
「実はね……。私、今日は心霊番組の生放送に出てたんだけど……そこで、凄い物を見ちゃったんだよね……」
「凄い物?」
雪乃の顔が、一瞬だけ曇った。まゆの表情を見て、これから語られることが、決して明るい話ではないということを悟ったのかもしれない。
だが、ここまで来て話を止めるなど、今のまゆにはできなかった。一度、口が開いてしまうと、後は自分でも驚く程に多弁になっているのに気がついた。
生放送の本番中、プロデューサーの目玉が風船のように膨れ上がったこと。スタッフの影になってよく見えなかったが、確かにプロデューサーの頭が粉々に弾けたように見えたこと。そして、現場にいた関係者からは撮影機材の転倒と説明され、半ば強引にスタジオを退室させられたこと。最後に、生放送がぶち壊しになって終わったことを付け加え、まゆは自分の話を終えた。
「そっか……。それは、大変なことがあったんですね……」
きっと、こんな話は信じてもらえない。心のどこかでそう思っていたまゆだったが、雪乃の反応は至って真剣で真面目なものだった。
「あの……」
気まずい沈黙の後、雪乃が少しばかり遠慮がちにしてまゆを見た。
「実は、私の知り合いに、そういうのに詳しい人がいるんです。もし、迷惑じゃなかったらでいいんですけど……よかったら、その人に相談してみても構いませんか?」
「本当!? でも……なんか、そこまでしてもらうのも、ちょっと悪いかなぁ……」
「あっ、平気ですよ、それは。おかしな事件に巻き込まれて、誰も信じてくれないっていう不安とか……私も、経験したことがありますから」
最後の方は、雪乃は少しだけ言葉を濁して言った。できれば、あまり思い出したくない。そんな顔をしながら、まゆから少しだけ視線を逸らして。
どちらにせよ、ここで悩んでいても仕方がない。これ以上は自分でも結論が出せそうになかったし、折角の好意を無下にするのも悪い気がする。
「だったら、ここは好意に甘えさせてもらっちゃおうかな? どうせ、自分じゃ結論出せないんだし……なんか、話したら少しすっきりしたしね」
本当は、完全にすっきりしたわけではない。あんた、スプラッター映画顔負けの死に様を見せつけられて、そうそう簡単に忘れられるはずがない。
それでもまゆは、大きく伸びをして雪乃に言った。それを見た雪乃にも、いつしか笑顔が戻っていた。
「よかったです。それじゃあ、私はこの辺で……」
「ええ、助かったわ。私、篠原まゆ。これでも、一応はタレントやってるわ。雪乃ほど、売れてるわけじゃないけど……よかったら、また連絡頂戴」
「わかりました。私で力になれるかわかりませんけど……まゆさんが見たものが本当だっていうのは、私も信じることにします」
そう言って、雪乃は一足先に立ち上がると、まゆを残してその場に去った。その前に、互いに携帯電話を取り出して、軽く連絡先を交換して。なんというか、最後まで本当に絵に描いたような素直な子だとまゆは思った。
まゆの知っている情報では、雪乃は現在、高校二年生である。ちなみに、まゆは一つ上の高校三年。年下に励まされるというのも妙な気がしたが、今日のことに納得のゆかない自分のことを信じてくれただけで、今のまゆは満足だった。
本作品は一部に暴力的な表現を含みますが、これは作中の暴力行為その他を推奨するものではありません。
また、一部の人間が差別的な考え方に囚われて非道な行いを働いたり、それらの人間が法ではなく、個人の意思や超常的な存在によって裁かれる描写が存在します。
これらの描写に対して政治的道徳観、及び宗教観から不快な思いをされる可能性がある方は、これより先の内容を読むことを控えるようお勧めいたします。