三章・魂呼び◇友
お待たせしました。
……公園の木立ちから、軽やかな小鳥の囀りが響く。
摩南にとって、いつもと同じ目覚めの時。
彼女は目覚ましの音よりも早く意識が覚め、潜り込んだ布団から壁に目を向けた。
蓮と一夜を過ごした証しの、彼の真白な着物。
そして、軽く握った手には、もう証しの、帯と指輪が碧の煌めきを写している。
日常に戻った安堵も有るが、摩南の口元からは小さな溜め息が漏れる。
立て続けに蓮と会っていた為、時間の感覚が少し麻痺してしまったのか心に喪失感が残っていた。
「今から、こんな欲張りになってどうするの?
今日か明日にでも逢える筈なんだから…」
彼女は、自分に言い聞かせる様に独り呟く。
「さぁ、蓮に逢えるのを楽しみに仕事頑張ろ!」
摩南は、う~んと伸びをしてベッドから起き上がり身支度を始める。
カーテンを開け、がらりとベランダの窓を開け放ち、摩南は洗面所に向かった。
◆◆◆◆
「おはようございます」
小さなビルの一階。
和柄の雑貨や、アンティークの家具が品良く並ぶ店の扉を開け摩南は朝の挨拶を交わす。
「おはよう~~」
店の奥には喫茶のスペースが有り、そのキッチンの中から寝ぼけた男性の声が返って来た。
柔らかな長めの前髪が眠たげな瞼にはらりと掛かかり、片手で髪を掻き揚げながら、コーヒーネルに湯を注いでいる。
「……摩南、なんだか疲れるけどすっきりした顔してる…何か有った?」
「そう言う蛍太は徹夜でもしてたの?」
摩南はバッグをカウンター下の棚に置き、欠伸をしながら摩南に問い掛ける同僚の元に近付いた。
蛍太と呼ばれた彼は、この店のオーナーの息子でも有る。
両親の経営していたアンティークショップを任され、此処は彼のデザインの商品を置くショップとカフェを兼ねた店となった
数年前に摩南と彼が出会ったのは、共通の知り合いが居るバー
互いに服飾のデザインに関わり気が合う二人はすぐに意気投合した。
その当時から、彼は和風の意匠をモチーフにしたデザインで、ネット販売に向けた作品作りに動いていた。
手軽に買える小物から、オーダーで仕上げる洋服
徐々に仕事が軌道に乗りこのビルの二階に事務所を構え、店にも商品を飾った所、かなり評判も良くショップを兼ね店を任せる話となる。
そこで、摩南に声が掛かったと言う訳だ。
「まぁね。
サンプルで作ったのが評判良かったじゃない?
折角だから、同じの何枚か仕上げてしまおうかと思って、根詰めた訳。」
「言ってくれれば、今日出て来てから手伝ったのに。あ、そっか。
思い付いて作り始めたら調子良く集中出来たんでしょ?」
蛍太は注ぎ終えたコーヒーをマグカップに移し、摩南に手渡した。
「正解!
それに、一枚は彼の友達からも発注受けたから、気合い入っちゃった!」
蛍太の眠たげな顔付きがぱっと晴れやかに輝く。
テーブルの椅子に腰掛けコーヒーを飲む摩南に蛍太が近寄った。
「…で?摩南の休日はどうだった?
何も無かったなんて言わせないからね?」
少し口を尖らせ、摩南の顔を覗き込んで言う。
…やっぱり蛍太にはばれちゃうな。
くすっと笑いながら、摩南はどう話をして良いのか戸惑いを感じていた。
「あのね…すっごく昔に会った子に、偶然…再会したの。
二人で居るのが楽しくて…又逢う約束して…」
考えながら言葉を綴る摩南の声を、唐突に蛍太の声が遮った。
「昨日、ずっと一緒に居たんでしょ?
そんな襟首詰まったシャツ着て、どーせ跡でも残ってんじゃないの?」
にやりと口元に笑みを浮かべながら、彼はマグカップに口を付けた。
摩南は、図星を刺され一瞬言葉に詰まる。
「ねぇ…蛍太…は、こことは違う世界が有るって信じたりする?
私達が生きる次元とは、全く違う世界が有るかもって…」頬をほんのり朱に染めながら、摩南は言った。
「…何?
いきなり話変えて。
まぁ、御存じの通り精神世界やら神話、民俗学好きだから、絶対否定はしない。
だけど、どこまで信じるかは内容次第だよ。
だって、体験してない事なら当たり前でしょ。」
さらりと言う蛍太。
「じゃあ、自分が経験した事なら…自分で信じてても良いよね…」
訝しげに眉を寄せ、蛍太はマグカップを置いた。
「摩南!
話が全然見えてこないよ
まさか、その知り合いが怪しい話でも持ち掛けたの?」
蛍太は椅子に腰を下ろしテーブル越しに摩南をじっと見つめる。
「ま、待ってよ!
そんな事無いって!
ねぇ、この指輪見て。」
摩南はテーブルの上に手を伸ばし、指輪を見える様に差し出した。
勿論、蛍太もそれが摩南のお気に入りの指輪だと知っている。
出会った時から、お気に入りとして指に嵌まっていたし、一緒に働く様になってからは、日常と言える程に見慣れた物だった。
指輪が痛んだのかなどと疑問に思いながら、彼は摩南の指に目を向けた。
「あれ?この石、ムーンストーンだったよね…
こんな碧色の光が入ってたっけ?」
乳白色の中に浮かぶ碧の煌めき。
蛍太は、顔を寄せじっと石の中心を見つめる。
「不思議としか言いようの無い、体験をしたのは確か…。
指輪に彼が念を込めたら、この碧の光が浮かび上がったの。
あのねぇ、蛍太…
お願いだから、その胡散臭そうな目付き…止めてくれない?」
少し目を細め、摩南の指を持ち上げながら、眼差しは石に釘付けになっていたが、彼の口元からは溜め息が漏れていた。
「この石に変化が有ったのは十分判った!
この世に、そういう力が存在してるのは否定しないよ。
僕が勘が鋭い方だってのは、摩南も知ってるでしょ?
でもねぇ、休み明け、いきなり念とか聞かされてもねぇ…?」
蛍太が摩南の話を訝しげに思うには、それなりに理由が有る。
彼自身、幼い頃から人には見えぬ者、ちょっとした事を予見する力を備えていた。
そして、両親の店に出入りする者の中には、同じ様に何かを感知する人達もいたのだ。
だが、その大人の中には微かな気配にしか気付いて無いにも関わらず、口先三寸で人を騙し、高額な商品を売り付けている者もいる。
無論、そんな輩は自然とこの店からは離れていったが、風の噂で良からぬ話は流れて来るのだ。
幼少から、そんな話を見聞きしてきた彼。
摩南の指輪の石から、高貴で澄んだ波動を感じてはいたが、その相手が念を込めたと言うのに少しばかり心配をしていた。
蛍太は持ち前の勘の鋭さで、摩南が自然と周囲に邪な気を寄せ付けないのを感じ取っていた。
だが、本人は全くそんな事に気付く気配も無く、自然体のまま過ごしている。
だからこそ、そんな摩南の側に居るのは蛍太にとって居心地良く、癒される場所でもあった。
「あのね…指輪に込められた念は悪い物じゃないよ。
只、まだ何も知らない相手だって言うのが心配なだけ…」
「うん…蛍太の言う事はすごく判るよ。
私だって反対の立場なら同じ事言うもの。」
摩南は目線をマグカップに落としたまま、ぽつりと呟いた。
少しの沈黙の後、蛍太はテーブルに顔を付け、彼女に優しく問い掛ける。
「夢物語だと思って聞いとくからさ…だから、どんな夢見たのか教えてよ?」
そんな蛍太の言葉に目線を上げ、二人は柔らかな微笑みを交わし合った。
ぽつりぽつりと、摩南は宵闇で蓮と出会った事から、少しづつ出来事を語り始める。
そして、夢路から魂が身体に戻った事を話し終えると、そっと蛍太の表情を窺った。
摩南の顔を見ながら、彼の表情はひどく真面目なものへ変化している。
そして、彼の口から零れた言葉。
「龍神の念が籠った指輪ね…
ふ~ん、澄んだ気を残してる理由が判った気がする…かも。」
「ねぇ…
信じてくれる?」
蛍太に向かい、怖々と摩南が問う。
テーブルの上で首を傾げながら、「さっきよりは、まだ安心出来た。」と彼は言った。
がしがしと、柔らかな前髪を手で掻き揚げる蛍太を、摩南は静かに見つめている。
「さすがに、僕にはそこまでの体験は無いし…
そうだ!お祖母さんが龍の気を感じる巫女さんみたいな人なら、何か話聞いてないの?」
「詳しくはね。
感じるだけで、龍神様と会ったなんて聞いた事無かったし…」
うぅと唸りながら、蛍太は摩南の指輪を指先で触った。
とろりとした乳白色の石の中心に煌めく碧。
ムーンストーンとしては有り得ない輝き。
だが、これを目にしていると、清浄さに不思議と引き寄せられる。
「兎も角…何か有れば僕に話を聞かせる事。
どんなに不思議な話でもね。
僕成りに、龍神について調べてもみるからさ。」
はぁっと息を吐き、やっと摩南の表情が弛み、いつもの自然な笑みが零れた。
「良かったぁ。
蛍太以外に、こんな話出来ないもん。
聞いてくれただけで、何だか気が弛んでホッとしちゃった。」
「僕が、不思議話聞いて貰った時と、同じ気持ちなんじゃないの?
これからはお互い様って事で。」
蛍太は、にこやかに笑うと、テーブルに身体を投げ出しう~んと伸びをした。
摩南は壁に掛かる時計を見上げ、
「あっ、もうこんな時間!
折角早目に来たのに。
ごめんね蛍太。
のんびりしてたの邪魔しちゃって。」
「大丈夫。
店の方に居るのは、皆判ってるんだから。
それに、事務所を見たら作業してたのは一目瞭然!
誰も遅刻だなんて思わないからさ。」
蛍太は、まだ少し眠たげに欠伸をしながら言った。
そんな、彼の言葉に頷きながら席を立ち、摩南はマグカップを片付け始める。
カウンターに置かれた、コーヒーネルとサーバーもシンクに下ろす。
摩南の後片付けを眺めながら、蛍太はさっきの話を、頭の中で整理していた。
…まぁ、今は摩南自身からは、変なもの感じないから良いとして…
先を見越して、心身共に弱ったりする前に、誰かに話聞いてみなきゃ。
取り越し苦労かもしれないけど、あの指輪から感じるのは本物だもの…
幾ら高貴だとしても、強い神気は普通の人には負担になる場合も有るんだしね。
「それに…夢物語だとしても、こんなに素直な摩南初めてだもんねぇ…」
彼女に聞こえぬ様、こっそりと呟き、自然に口角が上がってゆく。
「可愛くって良いんじゃない?
僕の恋愛志向が違って、本当に残念。
ま、僕らは兄弟みたいなもんだから…しばらくは見守っておきますか。」
摩南の姿を眺めながら、蛍太は小さく呟いた。
◆◆◆◆
摩南は仕事の切りの良い所で、生地サンプルが散乱するテーブルに上半身を俯せ、ふぅと息を吐く
「摩南!もう良いよ。
先月頑張った分、しばらくは時間に余裕が有るんだし、もう帰ったら?」
「そうですよ。
特に摩南さんは、色んな仕事に関わって動いてくれてるんですから。
暇な時には、ゆっくりして下さいね。」
蛍太の言葉に、傍らで部下達も頷く。
「そうだね…
しばらくは平気そうだもんね。
じゃあ、先に帰らせてもらおっかなぁ。」
身体を伸ばしながら、摩南は席を立ち、デスクを片付け始める。
「あ~あ、僕、気分転換に、摩南を送りがてら散歩してくるわ。
皆も、適当に上がって構わないからね。
一応、鍵だけは閉めといて。」
口々に蛍太に返事をしながら、事務所に居るスタッフ達は摩南と挨拶を交わした。
階段を下りながら空を眺めると、漸く月が輝きだしていた。
「良い月だね。」
「うん…昔から好きだったけど、最近、益々月夜が好きになったかな…」
「お日様だけじゃなくてお月様も、僕らにすごい影響力を持ってるから…
きっと、今の摩南は、色んな不思議話を引き寄せ易い…かな。」
静かな口調で、月夜の下蛍太は語り始める。
「又、夢に迷ったら、必ず指輪に念じて、彼を呼ぶ事!
無闇に夢に引き寄せられるのは、決して良いものばかりじゃあないんだから…」
摩南が見上げた、蛍太の横顔は、真剣な表情を浮かべていた。
「うん…」
「その指輪の気と、摩南の話を信じての助言なんだからね?
今日の所は、それしか言えないかな…
あ、それか、仕事で僕とやり合う勢いで、僕を呼んでみなよ。」
その言葉に、思わず怪訝そうな顔になる摩南。
「何…それ?」
皮肉めいた悪戯な目付きで、ちらりと彼女に目線を合わし、蛍太は言った
「つまり、あれ程強い気持ちでいれば、夢からも覚めるって事。
摩南は自分で気付かないけど、僕らすごい気のやり取りしてるんだよ?」
「私と蛍太が?」
「そうだよ。
自分の力を信じて、必ずどちらかを呼び続けて。それと、これ!」
蛍太が、ズボンのポケットから取り出したのは、透明な石が付いたピアスだった。
「水晶だよ。
昔、僕が御守り代りに貰った石を加工したもの。
気休めかもしれないけど邪気を寄せない様に。」
摩南は指先でピアスを摘むと、普段は何も着けない左耳に嵌めた。
「蛍太…ありがと。」
「成り行き次第では、全く違う態度取るかもしれないけどね。
一応、今は味方が居るつもりで、流されないようしっかりする事!」
彼は、摩南の背中を、ぽんぽんと軽く掌で軽く叩く。
それに応え、彼女は頷きを返す。
そして、二人はゆっくりと夜空を見上げた。
そして、しばらくの間肩を並べて、静かに月を眺めていた。