春雷
少しづつ長くなった、春の陽射しが傾きかけていた。
山間を流れる澄んだ水。
大きな岩が重なり削られ、様々な風景を見せるこの上流は、名勝と謳われている。
薄く雲が棚引く空。
ほんのりと、夕焼けの色を映す雲が美しい。
そんな中、遠くでゴロゴロと微かに響く雷鳴。
「あぁ、龍神様か?」
社の境内に集っていた者達が、空を見上げた。
「ここ何年も、春になると決まって、見事な稲光が拝めるからなぁ。」
「あれやな、志柳の婆さんがおったら、龍神さんが天に昇られる日じゃ言う筈や。」
皆は、あははと顔を見合わせ、微笑み合った。
「今は、婆さんみたいに勘の鋭いもんはおらんけど、あの見事さ見たら、龍神さんて信じてまうわ。」
「ほんまになぁ。」
どんどんと雷鳴は大きくなり、黒い雲が社の周りに集まり始めていた。
雲の隙間から、閃光が走る。
白く輝き、弾ける鋭い光の束。
「さぁ、しばらく中入って、春雷を拝ましてもらおか。」
「多分、すぐに雨が降りよるじゃろ。
雨が止むまで、茶でも飲もうや。」
神主衣装の年配の男が、皆を先導し中へと招く。
集っていた者達は、他愛ない世間話に花を咲かせながら、境内から姿を消していった。
社の上、薄暗く立ち込める雲はぱらぱらと、細かな雨を散らし始める。
バリバリバリッ……
轟音が鳴り響き、雨脚は激しくなり、幾重にも厚く重なる雨雲。
閃光は徐々に大きさを増し、山頂を駆け抜け、空を走る。
ゴオッと風を巻き上げる音が轟いた瞬間、真っ直ぐに天と地を結ぶかの如く、眩い閃光が走り抜けた。
まるで、長い龍体をくねらせたかの様に、それは厚い雲を切り裂く。
春雷…龍が空翔ける証し。
それは、蓮と韻が、水底の宮から結界を抜け、宙空の結界へと移動する姿。
春の宴が始まる合図……
龍の姿となり、空を翔ける二人。
蓮は、雲の隙間からちりと覗く里山を眺め、懐かしい日々に想いを馳せる
摩南と始めて出会った山の祠。
はしゃいで遊んだ、あの小川。
一人で散策し、自然の精を持つ者達と触れ合った数の方が多いにも関わらず、この土地で懐かしく想うのは、彼女との出会いだった。
彼女と再び出会い、尚更その想いを強く感じる蓮。
…忘れていた様でも、この風景を懐かしく想っていたのは、やっぱり、摩南との出会いが、どこかに残っていたからか。
雨混じりの風が、心地良く蓮の身体を、宙へと押し上げてくれる。
閃光の中、白く輝く龍の鱗。
その隣りには、稲光を跳ね返し煌めく漆黒の鱗。
轟々と風のうねりが聞こえる中、蓮の目線に気付く韻。
鱗が煌めく長い身体は、まるで水を泳ぐ様にしなやかに宙を舞う。
「何の物思いに耽ってるんだ!蓮!」
声ならぬ声が、蓮の頭の中に届いた。
笑いを含んだ韻の声に、蓮も笑って答える。
「風が気持ち良いのも確かだが勿論…彼女の事を思い出してたよ。
初めて出会った頃もな!」
二人の笑い声に反応するかの様に、辺り一面に稲妻が走る。
韻は、蓮の周りをぐるりと泳ぎ、尾を振り上げて悪戯に小さな竜巻を起こす。
風が渦巻く竜巻の中心を、真っ直ぐにその身を伸ばしながら旋回し、宙へと突き進む蓮。
戯れ合いながら、二人が空翔ける姿を、遥か眼下の人界の者達は、龍が昇ると眺めている事だろう。
そして、宙空の結界からも、数々の龍達が誇らしげに、次元の境を見つめていた。
花園の端から下を覗けば、まるで薄い硝子を嵌め込んだ空間が、ぽっかりと雲の間に空いていた。
閃光の中心に、身を踊らせる二匹の龍体を、皆惚れ惚れと眺め早く来ないかと待ち侘びているのだ。
「このままお前と、こうして遊んでる方が、気楽で楽しんだけどな。」
韻は、悪戯を止め、蓮の隣りに並んで言う。
「お前が、いないと皆がつまらぬだろうよ。
それに、本音は、僕も場をやり過ごす相方がいないのは窮屈なんだ。
今日も、上手く立ち回ってくれるだろ?」
くすりと笑い、蓮は韻の身体を長い尾で軽く叩き、上空へと促した。
「さぁ!
次元の境を超えるぞ韻!」
「分かったよ。
素直に従うさ!」
脚を一翔けすれば、しなやかな龍の身体が、ぐんと宙を泳ぐ。
次元の境に近付くに連れ、白い鱗と黒い鱗を纏う身体の表面は、一層きらきらとその輝きを増した。
雨に濡れたその輝く龍体は、正に稲妻の如く閃光を発し、硝子の様な空間の穴へ、身を翻し飛び込んでゆく。
硝子に吸い込まれ、宙に消えてゆく二匹の龍。
その瞬間、雷鳴は辺り一面に轟き、白い閃光は、厚い雲の間から地上へと降り注いでいた。
それを最後に、徐々に雨脚は弱まり、稲光は治まり始める。
重なり合った雲は、風に散り始め、隙間からちらりと空を覗かせる。
天と地を駆け抜けた龍の姿。
人界の者、天に待つ者。
両者が共に眺める中、春の空を彩る。
「……今日も、見事な稲光やったなぁ。」
社の縁側から、空を眺める者達は、目を細め語っている。
「春雷言う位じゃ。
これからどんどん暖こうなって、春真っ盛りになるわな。」
明るさを取り戻す空の下、再び鳴き始める鶯の声が山に響く。
薄れた雲の間から、黄昏が近い柔らかな陽射しが山々を映し出していた。