宙空の花園にて
春。
見渡す限り満開の春の花。
薄紅色の花びらを散らす樹々だけではなく、足元を見やれば黄色いタンポポ、菜の花、蓮華草。
有りとあらゆる春の花が、春の宴を賛美するかの様に、豊かに咲き乱れる宙空の花園。
霞漂う幻想的な光景の中には、寄り添い仲睦まじい二人の姿。
一族の長である、蓮の父の鎮耶と、母の朱璃が宙に手を翳し微笑みを浮かべ佇んでいる。
「さてと…
この位、湿り気を与えておけば宴の最中も、綺麗に咲き誇ってくれているでしょう。」
極上の笑みを浮かべ、鎮耶に向かい朱璃が言う。
額の真ん中で分けられた黄金色の豊かな髪は、輝き波を打って腰を覆う程長い。
頭に止められた額飾りの中央には、瞳と同じ色をした紫水晶が飾られている。
巫女装束にも似た、緋色の袴と真白な着物。
その上から重ねた、裾の長い透けた白い羽織物には、手の込んだ金糸銀糸を取り混ぜた刺繍が、艶かな蝶達を浮かび上がらせていた。
「昇龍を迎える春の宴を花も木も喜んでいるだろう。
それに、我等夫婦が揃って精気を与えているのだからな。」
声高らかに笑い声を上げるのは龍の長の鎮耶。
濡羽色の漆黒の長い髪は後ろで束ねられ、妻と同じく腰まで続いている。
繊細な蔦模様が織り込まれた艶やかな黒の袍、深い紫の袴姿。
長としての誇りと威厳に満ちた眼差しは、優しく妻を見つめていた。
「蓮は…宴を楽しんでくれるかしら?
周りの者ばかりが浮かれているよりも、本当は蓮に一番楽しんで貰いたいのに。」
「いつもならば、卒無く皆をあしらうだろうが…
今回は、どうだろうな」
結界から戻った蓮が、心配する長老達を宥めた後、両親に告げた話。
『滞りなく、一夜を過ごしたのは確かな事です。
幼い頃の、顔を見知った相手だと言うのも真実。
只…皆に告げなかったのは、僕が彼女を愛しいと思い、少しでも長く共に過ごしたいと願った事』
真摯な眼差しで語る息子に、余計な言葉は掛けず、静かに頷いた二人だった。
「同じ年頃の龍体は側にいず、一人あの社の結界で遊んだ頃の出会いですもの。
蓮にとっては、大切な思い出なのでしょうね。」
「そうであろうな…
何せ子守役、指南役の大人ばかりだったのだから。」
「鎮耶…その娘が言い伝えの、魂の片割れと言う可能性は?」
深い溜め息が、鎮耶の口から漏れる。
顎に手を掛け、首を捻り、彼は妻に語り始めた。
「朱璃。お前も承知しているだろう?
先祖が、人界での痕跡を辿る事すら出来なかったのを。�
魂魄が一族の結界を離れ、皆で急ぎ探索したが、解らぬままなのだから。」
「その娘は、微弱でも、龍の神気を宿してたりはしないのかしら?
人の世に転生した者は、多かれ少なかれ、必ず龍の気を残している筈…。」
「それなら、とっくに蓮が気付いているだろう。
何も言わぬなら、その痕跡が無いと言う事だ。」
鎮耶は、そっと朱璃の肩に手を回した。
ごく自然に、彼女は長の胸元に頭を預ける。
「私…蓮が心配なのです
皆と同じ、単一の性しか操れぬ龍体の方が、幸せだったかもしれなかったわ。」
鎮耶は指先で、黄金色の豊かな髪を梳く。
「まぁ、意に染まぬ儀礼もこなさねばならぬ身だ。
今の時点で、この宿命からは逃れる手段が無い上、替わる物も見つからぬからな。
だからと言って、他の者に愚痴も零せぬ身というのは、かなり辛いとは思うが…」
「是ばかりは、仕方有りませんものね。」
長い年月を経て、漸く誕生した完全たる龍。
朱璃が腹に宿した時点で、彼女の持つ水以外の精気を感じ、夫婦共に驚愕した日の記憶は、今でも鮮明に残っている。
更に二人が驚いたのは、産まれ出た赤児の肌に浮かび上がった模様。
全身に巻き付く二体の龍の姿。
そして、薄く煌めきを纏う模様と共に、蓮の枕元に朧に浮かぶ、銀色の髪を持つ男の姿。
ゆっくりと瞼を開けば、澄んだ空色の瞳が覗き、鎮耶と朱璃を静かに見つめている。
「貴方は…」
『我の魂は、赤児の魂の奥深くに眠るだろう。
子が半身を求め哀しむ事が有っても、それは魂に刻み込まれた想い。
片割れに惹かれるも、新たな出会いを望むも本人次第だ。
この者の選ぶ人生を、他者が曲げる事が無い様、長の口から皆に伝えよ…』
そう言い終えると、朧げな姿はその場ですうっと立ち消えた。
「貴方…」
「あぁ、話に伝わる通りのあの容姿。
あの、研ぎ澄まされた神気。
間違え無い…
燎駕様だ…」
誉れと伝わる番いの龍。
この一帯のみならず、龍王と呼ばれた古の長。
鎮耶と朱璃は、遥か昔の長の言葉を重んじ、臣下にもその言葉を伝えた。
「…あの後、皆には言い聞かせたが、期待をするなと言うのも無理な話だ。
まぁ、だからこそ海底の宮から離して育てたのだがな…」
「でも、燎駕様のお言葉がなければ、皆はもっと多くの期待を蓮に背負わせたでしょうね。」
「先見の明と言うべきお言葉だったな。」
二人は顔を見合わせ、互いに頷いた。
「蓮は、彼女に逢いにゆくのかしら?」
「…まだまだ、迷いの中から抜けてはいまい。
確かに、その娘は蓮との波長が合うのだろうが、普通の恋人同士とは訳が違う。
…辛い事の方が多い…」
朱璃は、そっと鎮耶の腕に指を絡ませる。
「身体を繋げる事さえままならぬ上、人の寿命は余りにも短いのですもの。
理も、時の流れが違う次元の者
ましてや、蓮は次代の長…」
鎮耶の手が、そっと朱璃の指を包み込んだ。
「蓮の選ぶ道だ…
余程の無茶をしない限り反対はせぬよ。」
「そうね…
彼女との恋に走っても、二人が過ごせる時が短いのは、蓮が一番判っている筈。」
「我々から見れば、蓮の生はまだ始まったばかりだ。
儂の跡を継ぐまでに、時間はたっぷりと有る。
人の娘に、想いを寄せるのも若い内だけだろうよ。」
「そうね…
長い生を、共に過ごせる相手も良いと思う日が、きっと来るでしょうから。」
朱璃は、鎮耶の腕を引き寄せ身体を預けた。
二人は、幻想的な花園の光景を見渡し、幸せを噛み締める。
「蓮にも、儂の様に良い伴侶と出会い、共に生きる幸せを感じて欲しいものだな。」
思わず顔を綻ばせ、朱璃は答えた。
「鎮耶、嬉しい言葉をありがとう。
でもね、蓮は貴方の息子。
数年もしたら、一人に決め兼ねる時期が来るかもしれないわ。ねぇ、お兄様?」
朱璃は、鎮耶に比べるとかなり年若い龍。
幼い龍体の頃に、若い長の鎮耶が、妹代わりに可愛いがっていた時期がある。
昔から、男性としての魅力と、才気溢れる若き長の周囲には、朱璃も見惚れる眩い女性達が、彼を取り巻いていた。
昔と変わらずに、長に面と向かい、嫌味などでは無く、素直に言葉を告げるのは心許せる愛しい者。
苦笑しながらも、優しく朱璃を見つめる鎮耶の眼差し。
正に、彼女は幼い日から龍神の掌中の珠。
美しく花開き、凛とした清冽な物腰は、男女を問わず皆を魅了した。
妻となり、艶やかさを増した今でも、鎮耶と朱璃は昔と変わらず、互いに本音を話す。
朱璃は、長の孤独を分かち癒すであろう、自分の立場を良く判っていた。
だからこそ、蓮にも良い相手と巡り逢って欲しいと願うのだ。
人の世に転生した魂が、人の器を亡くした後に、再び龍の魂として甦るかは定かでは無い。
ならば、年若き内に半身と巡り逢い、幸せな想い出となれば良いと望んでいた。
そして、人の娘を愛しく思うのも若い内なら良いだろうと。
年を経て跡を継いだ頃、長い生を共に生きる相手を、一族の中から娶れば良い。
二人は、そんな風に思っていた。
只、今回の蓮の話は、全く予想外だったが。
転生した魂を宿す相手ならば、身体を繋げても影響は無いだろうが、波長が合いやすいと言うだけでは訳が違う。
求めるままに彼女を抱けば、神気に当てられ、身体から生気を奪う事になる。
一度位で衰弱はしないだろうが、何度も繋がれば身体が弱ってしまうのは間違い無いだろう。
龍の力を押さえながら、長年側に居るのも、人に与える影響は大きい。
様々な方法を試みたとしても、多大な負担が掛かるのは確かなのだ。
「もうそろそろ、皆集まって来る頃だわ…」
「あぁ、中に戻って支度を整えるとしようか。」
朱璃を抱いた腕を開き、鎮耶は彼女の手を取った
霞の中にぼんやりと浮かぶ、春の宴が催される神殿へ向かい、二人は足を進める。
「きっと、韻が蓮を伴って来てくれるわね。」
「蓮の話も聞いてくれているだろうよ。
良い友がいて良かったな。」
未来の長と、それを支える未来の臣下に鎮耶の顔が綻ぶ。
「二人の昇龍する姿。
とても楽しみだわ。」
朱璃も、鎮耶を見て微笑んでいる。
春、龍が空に昇る日。
兄とも慕う鎮耶が、友を引き連れ空翔ける姿。
若き長となり、憧憬を抱き見つめた日。
そして、後に愛しい者の晴れ姿となった。
蓮が成人してからは、夫婦共に、子供の成長に目を細める至福の時間。
目と目を見交わし微笑む、龍の番い。
言葉に出さずとも、心の中で二人が願うのは、蓮の事だった。
自分達の様に、互いを支え癒せる伴侶に。
そして、切なさを埋めてくれる、魂の半身に早く巡り逢えるようにと。
咲き誇った春の花の中で、ぴたりと寄り添う龍の長と最愛の妻
春の宴が、もうすぐ始まる……