第3話 「おで、兀突骨。ちょうちょさん捕まえる。花鬘ちゃんのおねだり」
1.銀坑山の「しわしわ」な昼下がり
南蛮の支配を象徴する巨岩の要塞、銀坑山。その奥深き岩屋には、南蛮大王としての威厳に満ちた男……の皮を被った、一人の哀れな中間管理職……。
「……ああ、胃が。胃が灼ける。祝融、すまないが薬草を。いや、あの苦いだけの草はもういい。お湯をくれ。白湯でいいんだ。できれば、何も考えなくていい静かな場所で飲みたい……」
孟獲は、岩の椅子にぐったりと身を預けていた。外では、大陸最高の天才・諸葛亮率いる蜀軍が、虎視眈々とこちらを狙っている。偵察報告を聞くたびに、彼の顔には深い「しわ」が刻まれていくのであった。
「……報告によれば、蜀軍は高台に鏡を設置し、光の信号で兵を動かしているという。あんな魔術のような真似をされては、元・文官の俺にはさっぱり理屈がわからん。捕まったら、まず間違いなく油茹でにされるんだ。俺の人生、どこで間違えたんだろう……」
「とうちゃ!おかお、しわしわー!ぶっぶー、なの!」
そこへ、孟獲の愛娘・花鬘が、トテトテと危なっかしい足取りで駆け寄ってきた。彼女は孟獲の膝によじ登ると、父の頬をむぎゅっと引っ張り、さらに「しわしわ」にしたのである。
「花鬘……。ああ、お前だけが癒やしだ。だが、その無邪気な瞳が、逆にパパの逃避願望を刺激するよ……。お前はいいなあ、鏡の光を見て『綺麗だね』なんて言ってられるんだから」
「とうちゃ、元気ないの。おかお、しわしわ、かわいそうなの」
花鬘は孟獲の胸に顔を埋めると、ふと思い出したように顔を上げ、洞窟の入り口の方を見た。そこには、二十尺を超える怪異が、入り口を塞ぐようにして四つん這いで待機していた。
「おじちゃーん!おっきな、わんわんおじちゃーん!」
「……ん。おでを、呼んだか。花鬘、今日も、小さい。かわいいな」
地響きと共に、兀突骨が首を突っ込んできた。彼があまりに巨大なため、王宮である銀坑洞に入るには、四つん這いになって這いずるしかない。その姿は、まさしく山のような巨犬そのものであった。
「おじちゃん!とうちゃ、お山にある『キラキラちょうちょさん』を見たら、元気が出るって言ってたの!あれ、花鬘、ほしいの!とってきて!」
花鬘が指差したのは、遥か遠く、雲海を突き抜けるほどに鋭い峰の頂であった。そこには蜀軍の観測拠点があり、巨大な銅鏡が太陽の光を反射して、ピカピカと輝いていたのである。
「キラキラ……ちょうちょさん。ああ、あれか。お空で、ピカピカ、踊ってるな。……孟獲、あれ、好きか?あれ、食べられるのか?」
「あ、いや、兀突骨。あれはちょうちょではなくて、蜀軍の通信用鏡面というか、軍事的な――」
「王、お言葉ですが」
脇に控えていた執事、土安が、銀のトレイを掲げながら滑らかに割り込んだ。
「あれは『ちょうちょ』ではなく、北の方角から来たお客様が設置した『反射式お茶会用ライティング』かと思われます。お客様なりに、王の鱗に光を当てて美しく見せるための、いわばスポットライトの演出を試みているのでしょうな。諸葛亮とかいう照明係の者、なかなかの気遣いを見せると見えます」
「(……照明係!?丞相をそこまで格下げしたの!?)」
孟獲の驚愕を余所に、土安はさらに話を畳み掛ける。
「花鬘様が欲しがっておられるのは、いわばお土産の『キラキラした玩具』でございますな。王、行軍のついでに、あの眩しい玩具をいくつか摘んでこられてはいかがでしょうか。王宮の『大窓』に飾れば、王の鱗の輝きもさらに三割は増すことでしょう」
「……そうか。……おでの鱗、キラキラ。……諸葛亮どの、いいもの、用意してくれたんだな」
「わーい!おじちゃん、いってらっしゃーい!キラキラ、いっぱいとってきてー!」
「よし。花鬘、いい子だ。孟獲のために、おで、お土産、とってくるぞ。……奚泥、いこう!」
兀突骨の言葉に、影の中からひょいとすばしっこい男が飛び出した。
「うっひょお!昆虫採集っすね!負けないっすよ王!俺は地上から、最短ルートを全速力で行くっす!」
奚泥は巨大な捕獲網(本来は敵を捕らえるための頑丈な投網)を担ぎ、目にも留らぬスピードで山肌を駆け抜けていった。
「奚泥、ずるいぞ。おでも、負けない。……土安、ピクニック、準備。おねがい。しょかつりょう、どの。待ってる」
「承知しました。王、足元の岩盤の強度にはお気をつけて。あと、捕まえた『ちょうちょ』は潰さないように優しくお持ち帰りくださいね。鱗磨きの油も用意して待っております」
「じゃあ、いってくる。せーの……」
――ズドォォォォォォォォン!!
銀坑山全体が、巨大な杭を打ち込まれたかのように激しく沈み込んだ。孟獲の椅子は木っ端微塵になり、洞窟の鍾乳石が一斉に降り注ぐ。凄まじい風圧が岩屋を駆け抜け、遅れて届いた爆音は、数里先の密林をなぎ倒す。兀突骨が銀坑山に巨大なクレーターを作り飛び立ち、真空の尾を引きながら天空へと消えていった。
「……ああ。まただ。また山が削れた。諸葛亮に謝る項目が、また一つ増えてしまった……」
孟獲は瓦礫の中で、ただ静かに涙を流した。
蜀軍が心血を注いで築いた最先端の光通信ネットワークが、今、烏戈国の「昆虫採集」によって物理的に消滅しようとしていた。
2.蜀漢軍・観測拠点『甲一号』:理律の崩壊
銀坑山を眼下に収める、標高数千尺の断崖絶壁。そこには、蜀軍の軍事的規律が結晶化したかのような、張り詰めた静潔があった。
「――銅鏡、展開。方位三・一・二。仰角マイナス五。一分の狂いも許すな。我らの光こそが、丞相の目であり、耳である」
観測長の声が、定規で引いたような冷徹さで響く。
選りすぐりの精鋭兵たちが、磨き抜かれた銅鏡を操り、光の信号を本陣へと送っていた。
諸葛亮が構築したこのネットワークは、情報を物理的限界を超えた速度で伝達する、蜀軍の神経系統そのものであった。
「……?観測長、下方より異常な物体が土煙を上げ接近!速度、時速百里を超えています!何かが……山壁を垂直に駆け上がってきます!」
「何だと?猛獣の類か?弓隊、構え!――いや、待て、空からも何かが……」
観測兵が上空を見上げた瞬間、昼間だというのに太陽が完全に隠れた。
「上空!真上です!巨大な……巨大な『岩塊』が降ってきます!」
「……違う、あれは岩ではない。……人間だ!?人間が空から降ってくるのか!?」
兵士たちが絶望的な声を上げた瞬間、視界が「黒い壁」で埋まった。
雲海を突き破り、重力を嘲笑うかのように落下してくる、二十尺を超える黒い巨躯。
それはまさしく、山頂を目指して精密に誘導された、数万斤の質量を持つ「隕石」であった。
――ズドドドドドォォォォォォン!!
それはもはや、戦闘ですらなかった。山頂の観測拠点は、小惑星が直撃したかのような衝撃波に包まれた。
強固に組まれた観測台は一瞬で原子レベルに粉砕され、土砂と共に天空へ巻き上げられる。
「……あ。ちょうちょさん、いた。……おとなしくしててね。花鬘が、まってる」
塵煙の中から現れたのは、山の如き巨躯、兀突骨であった。
彼は、腰を抜かして泡を吹き、鏡を抱えたまま虚空を凝視する鏡を掲げた兵士を、まるで傷つきやすい蝶を扱うように、優しく二本の指先でつまみ上げた。
「これ、キラキラ、きれい。孟獲、よろこぶぞ。よしよし。……あ、もう一匹、にげた」
「ヒィッ……あ、あ、ああああ……!」
兵士は声にならない悲鳴を上げ、そのまま白目を剥いて失神した。
二十尺の怪物が、慈愛に満ちた(と本人は思っているが、実際には悪夢そのものの)笑みを浮かべて自分を凝視しているのだ。その顔には、牙のような鱗がぎらついていた。
そこへ、地上から猛烈な土煙を巻き上げて駆け上がってきた奚泥が合流した。
「うっひょお!王、早いっすよ!俺も、中腹のちょうちょ、全部捕まえたっす!」
奚泥が、数百の銅鏡と数十の兵士を詰め込んだ巨大な網を得意げに掲げた。網の中では、蜀軍の精鋭、斥候たちが、芋虫のようにひしめき合い、理性を失ってぶつぶつと経文を唱えていた。
「おお、奚泥、すごいな。大漁だ。でも、おでのちょうちょの方が、元気がいいぞ。ほら、足がバタバタしてる」
「いやいや、数なら俺の勝ちっす!さあ、王、あっちの峰にもまだキラキラがいるっすよ!どっちが先に捕まえられるか、競争っす!」
「奚泥、負けない。おでも、いくぞ!」
彼らにとって、これは春の野山で行う楽しい「昆虫採集」に過ぎなかった。彼らの純粋な遊び心が、蜀軍が数ヶ月かけて構築した精密な軍事機構を、文字通り物理的に「摘み取って」いたのである。
次なる標的は、雲海に突き出した『絶壁の観測拠点』。そこには蜀軍が誇る最新鋭の巨大銅鏡が据え付けられ、十数名の精鋭が配置されていた。
「報告!南南西、第四観測拠点が消滅!……いえ、拠点のあった『岩棚』ごと、何者かに持ち去られた模様!」
「莫迦な!岩棚が持ち去られただと!?意味がわからん!」
観測拠点の蜀兵たちが混乱に陥る中、空が急に暗くなった。見上げれば、太陽を遮る巨大な「足の裏」が迫ってくる。
ドォォォォォォォォン!!
兀突骨が隣の峰から「ぴょん」とひと跳びしただけで、拠点のある山頂は巨大な足跡の形に陥没し、衝撃波で木々が根こそぎ吹き飛んだ。
「……あ、いた。……キラキラちょうちょさん。……待って。おで、優しく、捕まえるからな」
兀突骨が、城門ほどもある巨大な指先を銅鏡へと伸ばす。
蜀の兵士たちは、自分たちの身長より遥かに巨大な「指先」が、まるで壊れ物を扱うような慎重さで迫ってくるのを見て、腰を抜かした。
「ぎ、ぎゃあああ!くるな!くるなぁぁ!」
「……ん?ちょうちょさん、鳴いてる。……げんき、いい。……きっと、おなかすいている。……あとでお豆、あげる。土安にお願い、する」
兀突骨は、銅鏡を支えていた頑丈な石台ごと、指先で「ぷちっ」と摘み上げた。
彼にとってはタンポポの綿毛を折るような力加減だったが、蜀軍にとっては戦略拠点の完全なる物理的消失であった。
そこへ、山肌を重力を無視した速度で駆け上がってきた奚泥が、シュタッと岩場に降り立った。
その背中の網(投網)には、さらに数枚の銅鏡と、それにおまけで付いてきた蜀の兵士たちが、わけも分からず「うわあああ」と中で跳ねている。
「うっひょお!王、こっちには『大きな青いちょうちょ(旗を持った伝令兵)』もいたっすよ!こいつ、旗をバタバタさせて逃げるから、捕まえるの苦労したっす!」
「……奚泥、ずるい。……おでも、青いの、ほしい。……でもあっちの山にも、まだ、ピカピカ、いるな」
兀突骨が指差したのは、蜀軍の本陣に繋がる最後の重要拠点。そこには緊急事態を知らせようと、必死に鏡を回転させて信号を送る兵士たちがいた。
「……あ。……あそこのちょうちょ、いっぱい、羽を動かしてる。……おでを、呼んでるのかな。……嬉しいぞ。……おでも、お返事、するぞ」
兀突骨は、摘み上げたばかりの巨大な銅鏡を、自分の顔の前に掲げてにっこりと笑った。太陽の光が兀突骨の純真無垢な笑顔を反射し、超高出力の「殺人的な閃光」となって蜀軍の本陣を直撃した。
「ぎゃあああ!目が、目がぁぁぁ!」
「解読不能、解読不能です!敵の妖術は我らを凌駕しています!」
蜀軍の陣営が阿鼻叫喚に包まれる中、兀突骨は満足げに頷いた。
「……よし。……お返事、できた。喜んでた。……また、ちょうちょさん捕まえるぞ」
戦場という名のピクニック会場で、史上最も平和な「大虐殺」は、いよいよ止まるところを知らぬ勢いで加速していくのであった。
3.知性の崩壊:諸葛亮の沈黙
蜀軍の本陣。丞相・諸葛亮は、手にした羽扇がかすかに震えるのを、生まれて初めて自覚していた。本陣に駆け込んできた馬謖の報告は、もはや軍事的な用語では記述不可能な、黙示録の様相を呈していた。
「……報告を、続けよ。馬謖。……鏡の信号が途絶えたのは、雲のせいだと言ってくれ」
「はっ……。申し上げにくいのですが……。本日未明、銀坑山周辺の観測拠点、計十二箇所が、物理的に消滅。繰り返します、消滅いたしました。拠点を守備していた兵員、並びに通信用資材一切が、まるで『摘み取られた』かのように、一兵の遺体も残さず消え去っております」
馬謖の指先は、報告書を破らんばかりに震えていた。
「さらに、報告によれば……一人の怪人が猛烈な速度で山壁を垂直に駆け抜け、陣地を全て破壊。同時に、推定重量数万斤を超える物体が、天から隕石のごとく正確に拠点へと落下し、山頂の観測拠点は、消失。ええ現地には山ごと消失しているとのことであります。我が軍の兵たちは……『網』で捕獲されたとのことです」
「……落下と、疾走だと?あの峻険な山岳地帯を、垂直に……?空から?」
諸葛亮は、机の上に広げられた緻密な『南蛮人心掌握計画』の書面を見つめた。そこには、蛮族の心理を誘導し、補給線を断ち、孤立させるという完璧な論理が並んでいる。だが、いま。その論理は、「物理法則を無視して遊ぶ神々」という暴力の前に、一文字残らず霧散していた。
「……丞相。全軍、恐慌状態にあります。兵たちは、戦おうとしていません。『南蛮の魔神たちが、我々を標本にするために虫捕りを始めた。次は自分たちが網に入れられる番だ』と……」
「……馬謖よ。……予備の鏡は、あるか」
「……あ、ありません。先程の襲撃で、集積所ごと、何者かに『網』でさらわれました……」
諸葛亮は、静かに目を閉じた。彼の脳内にある天才的な軍事モデルが、初めて「計算不能」のエラーを吐き出し、停止した瞬間であった。
4.銀坑洞の平和な地獄
ドスン、ドスンと、山を飛び越えて戻ってきた兀突骨たち。銀坑洞の入り口には、一日の「収穫」であるキラキラとした物体と、意識の混濁した人間たちが山積みされていた。
「孟獲。ほら。ちょうちょさん。……奚泥、おでたちの勝ちだな」
「ちぇーっ、最後のでっかいヤツ(拠点隊長)は俺が狙ってたのに! まあいいや、これだけいれば、お祭りには十分っす!」
そこには、巨大な網の中で、ガタガタと震える蜀の斥候兵たちと、彼らが必死に守っていた軍事用銅鏡が無造作に転がっていた。
「わあ! ちょうちょさん! ぴかぴかー! とうちゃ、見て見てー! おっきなの、いたのー!」
花鬘が、鏡を抱えたまま白目を向いている兵士の頭を、よしよしとなでている。兵士は極限の恐怖により、精神が別の領域へ到達したのか、「私は蝶です……私は蝶です……今、花の蜜を吸っております……」と呟きながら、魂が抜けたような目で微笑んでいた。
「……あ、ああ。……きれいだな……。花鬘……その『ちょうちょさん』を、あまりいじめてやるなよ。……死んでしまうからな。……いや、もう死んでいるのかもしれないが……」
孟獲は、目の前の「蜀軍の精鋭の入った虫かご」を眺め、胃を抑えてその場に蹲った。そこへ、土安が一切の動揺を見せず、銀のティーポットを掲げて歩み寄る。
「ご安心ください、孟獲大王。我が王が捕らえたこれら『ちょうちょ』は、我が国の虫かごで大切に飼育いたします。蜀の軍服を脱がせ、藤甲を着せれば、数日でおとなしく懐くことでしょう。……ところで王、おやつのお時間です。今朝捕れたばかりの特大ワニの尻尾、甘く煮えておりますよ」
「わあ、土安、ありがとう! お腹空いたぞ。……孟獲も、お魚食べるか? ちょうちょさん見て、元気になっただろ?」
兀突骨は、本当に嬉しそうな、朝露のように混じりけのない笑顔で孟獲を覗き込んだ。その巨大な指先には、まだ蜀軍の旗の端っこ(ちょうちょの羽の一部)が挟まっていた。
「……ああ。元気になったよ。元気になりすぎて、明日には故郷の漢へ歩いて帰れそうだ。もう二度と戻ってこないかもしれない。……ありがとう、兀突骨……」
孟獲は、平和に笑い合う二十尺の怪物と幼女、そして理不尽に拉致された蜀兵を眺め、深く、深く、宇宙の深淵を覗き込むような目で絶望するのであった。
帯来洞主は、その傍らで「……あ、ワニの尻尾、意外と美味しい」と、もはや考えることをやめて咀嚼に専念していた。
こうして、蜀軍が数ヶ月かけて築いた観測拠点網は、わずか半日の「昆虫採集」によって壊滅した。諸葛亮の計算にはない、圧倒的な質量と「ほのぼの」の暴力が、いよいよ戦場という名のお茶会場へと雪崩れ込んでいくのである。
「おで、兀突骨。今日も南蛮は、とっても平和だぞ」




