48.心の闇
『心の闇』
帰路__
山道を抜け、街へ向かう黒い車。
運転席には心。
助手席にはリナ。
車内は——
静まり返っていた。
エンジン音とタイヤが路面を擦る音だけが続く。
リナは小さく膝の上で手を握っていた。
そして気づく。
心の左手。
ハンドルを握る右手とは逆の手が。
ずっとリナの手を握っている。
離さない。
強くでもなく。
でも逃げられないくらい。
「……あの、心くん」
リナが小さく声を出す。
昨日のような暗い空気ではない。
でも——
明らかにおかしい。
心は前を見たまま言った。
「リナ」
静かな声。
「帰ろうね」
少し間。
「少し……話を」
リナが何か言おうとした瞬間。
心の声が少し低くなった。
「リナ」
「今は」
「黙って」
「ね?」
「でも……」
リナが言いかけた瞬間。
心が吐き捨てるように言う。
「……もう黙れって」
声は荒い。
でも怒鳴ってはいない。
むしろ。
必死に抑えている。
「俺今……」
「リナに優しくできない」
ハンドルを握る手に力が入る。
「傷つけたくないから」
「今は……」
「黙ってて」
それ以上。
リナは何も言えなかった。
ただ助手席で静かに座っていた。
握られた手の温度だけを感じながら。
マンション。
地下駐車場に車が入る。
エンジンが止まる。
二人は無言で車を降りた。
リナは心の後ろを歩く。
エントランスに入ると——
人影。
「……!」
警備担当たち。
その中心に。
真。
全員がリナを見る。
そして。
一瞬で空気が変わった。
安堵。
「……よかった」
誰かが小さく言う。
真も息を吐いた。
「おかえり」
いつもの軽い声。
リナは胸が痛くなった。
迷惑をかけた。
謝らなきゃ。
お礼を言わなきゃ。
リナは一歩近づこうとした。
その瞬間。
後ろから声。
「リナ」
静かな声。
振り向かなくても分かる。
心。
「……真」
少し間。
そして。
「殺したいわけじゃないなら」
空気が凍る。
「戻れ」
静か。
淡々と。
低い。
でも。
誰も逆らえない声。
リナは足を止めた。
警備たちも動けない。
真だけが。
一瞬だけ。
苦笑した。
(あー……)
(ボス完全に限界だな)
リナは何も言えず。
心の後ろに戻った。
部屋。
扉が閉まる。
リナはリビングに立っている。
心はコートを脱ぎ。
椅子にかけた。
そして。
何も言わない。
沈黙。
まるで。
何かを恐れているように。
リナが小さく呼ぶ。
「心くん……」
心は振り向いた。
「何?」
声は普通。
でも。
どこか壊れそう。
リナが言う。
「あのね……私……」
「聞きたくないって言ったろ」
即答だった。
壁を作るように。
拒絶する声。
リナは一歩近づく。
「聞いて」
涙がにじむ。
「ごめんなさい」
「私……」
「心くんの愛」
「疑って……」
心は何も言わない。
ただ立っている。
リナは続ける。
「あの日」
「応接室に行ったの」
声が震える。
「心くんが……」
「綺麗な人と」
「抱き合ってた」
心の目が少し揺れた。
「そのあと」
「赤ちゃんの写真見せられて」
涙が落ちる。
「心くんを」
「私じゃ幸せにできないって」
拳を握る。
「でも……ほんとは」
「赤ちゃんいても」
「心くんの幸せ奪っても」
「私」
「傍にいたかった」
嗚咽。
「近くにいたら」
「絶対見守れないから」
「だから逃げた」
少し間。
「でも」
「間違いだった」
涙が止まらない。
「ちゃんと」
「心くんに聞けばよかった」
その時。
心が口を開いた。
「ねぇ」
小さな声。
「リナ」
リナが顔を上げる。
心の目は。
どこか怯えていた。
「俺のこと」
「嫌いになったって」
その言葉。
リナの胸が締め付けられる。
(この人……)
(ずっと)
(それを怖がってたんだ)
心は続ける。
「俺」
「怒鳴って」
「優しくできなくて」
視線が揺れる。
「鳳も……」
「全部ヤッて」
「血まみれで」
「怖いとこ見せて」
笑った。
乾いた笑い。
「婚約とか」
「過去でも」
「リナの嫌がることみせて」
「子供の嘘…」
声が震える。
「リナの傍に」
「あいつ行くのを防げなくて」
少し間。
そして。
ぽつり。
「リナ」
「嫌い?」
「俺が失敗したから…」
沈黙。
「ねぇ」
「計画」
「うまくいかなかった」
自嘲する。
「でも」
「次はうまくやるから」
「完璧にやるから」
目が虚ろ。
「俺」
「ちゃんとやるから」
一歩近づく。
子供みたいに。
縋る声。
「俺をそばに置いて」
「捨てないでよ」
「リナ」
そこに。
いつも組織を率いるボスはいなかった。
ただ。
一人の男。
壊れかけた。
孤独な男。
リナは。
迷わず抱きしめた。
強く。
「嫌いなんて」
涙が落ちる。
「嘘」
顔を胸に押し付ける。
「大好き」
「世界で一番」
「好き」
二人とも。
分かっていた。
もう。
お互い無しでは生きられない。
リナは顔を上げた。
涙のまま笑う。
「心くん」
小さく言った。
「私と」
少し照れて。
でも。
真っ直ぐ。
「結婚してください」
そして。
そっと。
心の瞼にキスをした。
その瞬間。
心の瞳に。
光が戻った。
まるで。
長い夜が終わったみたいに。
心はリナを抱き寄せる。
そして。
何度も。
何度も。
口づけた。
確かめるように。
失わないように。
「……リナ」
かすれた声。
「もう」
小さく笑う。
「逃がさない」
リナも笑った。
「うん」
「知ってる」
その夜。
マンションの窓から見える街の灯りは。
いつもより少しだけ。
暖かく見えた。




