47.捕獲
『捕獲』
山奥のコテージ。
外界から切り離された場所。
鳳グループが密かに所有する別荘地の一角だった。
周囲はすべて鳳グループの土地。
民家もない。
店もない。
携帯の電波もほとんど入らない。
完全な隔離空間。
リナはそこに連れてこられた。
説明は簡単だった。
ここは当面の隠れ場所。
食料は定期的に届けられる。
仕事は在宅のパソコン業務。
外に出る必要はない。
出られる場所でもない。
人が去ったあと。
コテージの中は静かになった。
そして——
リナは床に崩れ落ちた。
「……っ」
声が出ない。
胸が痛い。
息が苦しい。
そして。
涙が溢れた。
「……いや…」
小さな声。
「いや……」
手で口を押さえる。
でも止まらない。
「嫌だ……」
「嫌だよ……」
声が震える。
「心くんが……」
涙が床に落ちる。
「私以外の誰かに触って……」
「私以外の誰かに笑って……」
「私以外の誰かを……愛して……」
嗚咽が止まらない。
「嫌だ……」
「嫌だよぉ……」
肩が震える。
「心くん……」
涙で視界が滲む。
「助けてよぉ……」
誰もいない。
声はコテージの中に消えるだけだった。
どれくらい泣いたのか分からない。
涙が枯れる頃。
リナは静かに呟いた。
「もう……」
心はいない。
あの優しい手も。
温かい体温も。
あの穏やかな眼差しも。
全部。
誰かのものになる。
昔から思っていた…
心が幸せになればいい。
近くで見守れればいい。
そう思っていた。
でも。
リナは気づいてしまった。
自分はそんなに強くない。
愛している人が。
別の人と。
家庭を作り。
子供を抱き。
幸せそうに笑う。
そんな姿…
見ていられない。
だから逃げた。
せめて。
見えない場所へ。
心のいない世界へ。
「……それでも」
生きていかなきゃいけない。
その時。
ふと。
思い出す。
優しい声。
「リナ……大好きだよ」
胸が締め付けられる。
「あんなに……」
「暖かい人……」
涙がまたこぼれた。
「もう……」
いない。
そして。
ぽつりと呟く。
「子供のため……なんて」
「かっこいいこと言ったけど」
「私……」
笑った。
歪んだ笑い。
「どす黒いよ……」
「全部……」
「全部……」
拳を握る。
「心くんがいない世界なら……」
「誰か……」
言葉はそこで消えた。
それから……
半月。
リナはそこにいた。
眠れない夜。
何度も夢に見る。
心の顔。
声。
触れた手。
それでも。
生活は少しずつ慣れていった。
朝。
洗濯を持って外へ出る。
庭。
山の空気。
青い空。
冷たい風。
リナは大きく深呼吸した。
肺に空気が満ちる。
(この風が……)
(私の黒い感情を)
(全部……)
(運んでくれたらいいのに)
シーツを干す。
風に揺れる布。
その向こうに。
人影。
リナの心臓が跳ねた。
一瞬。
時間が止まる。
咄嗟に振り向く。
そして。
走った。
見ちゃだめ。
走れ。
走れ。
捕まったら。
終わる。
あの人に触れられたら。
もう。
戻れない…
リナは山の中へ駆け込んだ。
枝に腕を切られる。
足がもつれる。
それでも走る。
やがて。
木陰にしゃがみ込む。
膝を抱え。
息を殺す。
(あれは……)
心くんだった。
少し…
やつれていた。
ちゃんとご飯食べてる?
その瞬間。
後ろから声。
「みつけた」
腕を掴まれた。
リナの体が震える。
「リナ」
耳元で囁く声。
「俺言ったろ?」
低く。
優しく。
「かくれんぼは」
「俺としちゃだめだって」
リナの腕は傷だらけだった。
心はそれを見て眉をひそめる。
「ああ……」
「山の中逃げるから」
「こんな傷だらけ」
リナは小さく抵抗する。
「待って……」
「行かない……」
「ダメ……」
でも力は弱い。
心はそっと抱き上げた。
横抱き。
「だーめ」
優しく言う。
「行くよ」
そして。
コテージへ戻った。
ベッドの横。
リナは座らされた。
静かな部屋。
心は立っている。
リナは俯いたまま。
沈黙。
やがて。
心が言った。
「なんで」
「逃げた?」
声は静かだった。
怒鳴っていない。
責めてもいない。
ただ。
聞いている。
「リナの口から」
「ちゃんと聞きたい」
リナの唇が震える。
そして。
小さく言った。
「私……」
「心くんのこと……」
涙が落ちる。
「もう」
「好きじゃなくなった」
静寂。
「へぇ」
心の声。
「そうなんだ」
少し間。
「それで?」
リナは続ける。
「鳳さんって人……」
「心くんの婚約者……」
声が震える。
「お腹に……」
「赤ちゃん……」
「いるんだって」
拳を強く握る。
「鳳さんなら……」
「心くんを幸せにできる」
「そう思った」
涙が止まらない。
「だから」
「逃げるの手伝ってもらった」
沈黙。
「へぇー」
心の声は低い。
「それが」
「リナの気持ち?」
少し間。
そして。
「悪いけど」
静かに言った。
「無理だわ」
空気が変わる。
「リナには」
「選択肢なんてない」
「俺の傍以外」
声が低くなる。
「聞いてるんじゃない」
「俺が」
「そうした…決めたんだ」
リナは膝をついた。
手を組む。
「お願い……」
涙が止まらない。
「もう……辛いの……」
「私は……汚いんだよ」
「心くんの幸せ願ってるって言って」
「本当は……」
嗚咽。
「誰かに笑う姿」
「誰かに触れる姿」
「誰かを愛する姿」
「見てられない」
「お願い……」
「解放して……」
「せめて」
「遠くに……」
その瞬間。
空気が凍った。
心の雰囲気が変わる。
闇が落ちる。
「……なんでだよ」
低い声。
「なんで」
「これだけ愛してるって言ってるのに」
「なんで」
「他のやつ信じるんだよ!!」
怒鳴り声が部屋に響いた。
「リナ」
声が震える。
「お前」
「分かんねぇだろ」
「いなくなった時の」
「恐怖」
拳が震える。
「もしかしたら」
「もうこの世界にいないかもしれない」
「その絶望」
息が荒い。
「必死に探した」
「街を潰した」
「人を潰した」
「情報集めた」
「でも」
「いないんだよ」
声が割れる。
「この恐怖」
「分かるか?」
沈黙。
そして。
低く言った。
「子供?」
「そんなもん」
「最初からいない」
リナが顔を上げる。
心は言った。
「お前以外で」
「反応しないのに…」
「できるわけない」
部屋が静まり返る。
「孤児院出てからずっと」
「リナのために」
「全部やった」
「再会してから」
「住処奪って」
「交友関係管理して」
「仕事も用意して」
「全部」
「お前が離れないように」
息を吐く。
「とっくに」
「選択肢なんてない」
そして。
小さく笑った。
「俺」
「お前に」
「狂ってるよ」
その言葉を聞いて。
リナは…
心を抱きしめた。
泣きながら。
心も。
離さなかった。
まるで。
存在を確かめるように。
何度も。
何度も。
互いを求めた。
長い夜が。
静かに。
山のコテージを包み込んでいた。




