45.元婚約者
45.元婚約者
その日、リナは珍しく心の会社を訪れていた。
普段は組織の拠点にいることが多いが、今日は届け物があった。
受付に声をかける。
「すみません、真田代表に届け物があって…」
受付の女性が微笑む。
「真田代表でしたら、ただいま応接室で来客対応中です」
「ありがとうございます」
リナは軽く頭を下げて、廊下を歩いた。
会社のビルは静かだった。
落ち着いた高級な内装。
心の世界は、いつもどこか物騒なのに——
ここはまるで別の世界のようだった。
(心くん…すごいな…)
そんなことを思いながら、応接室の前に立つ。
扉の向こうから、かすかに人の気配。
リナはノックしようとして——
ふと、ガラスの隙間から中を覗いた。
そして。
時間が止まった。
そこには——
綺麗な女性がいた。
長い黒髪。
上品なドレス。
その女性が。
心に抱きついていた。
リナの呼吸が止まる。
心の腕が女性の背中に回っているのが見えた。
何か話している。
でも、声は聞こえない。
頭の中が真っ白だった。
(あ…)
(だめ…)
(見ちゃいけない…)
リナは咄嗟に後ずさる。
一歩。
また一歩。
胸が痛い。
(だめ)
(ここにいたら)
(心くんに会っちゃう)
リナはその場を離れた。
そして。
走り出した。
廊下。
エレベーター。
外。
走る。
走る。
走る。
息が切れる。
それでも止まれない。
(だめ)
(今)
(心くんの顔)
(見れない)
胸が苦しい。
視界がにじむ。
(いつか)
(こんな日が来るって)
(わかってたのに)
リナは走り続けた。
その時。
横に一台の黒い車が止まる。
静かな高級車。
窓がゆっくり下がった。
そこにいたのは——
さっきの女性。
リナの足が止まる。
女性は静かに言った。
「如月リナさんですね」
穏やかな声。
「私…鳳沙織と申します」
その名前。
リナでも知っていた。
鳳。
日本三大財閥の一つ。
沙織は続ける。
「突然で申し訳ありません」
「少しだけ、お時間をいただけますか」
リナは迷った。
でも。
このままだと。
(心くんに…捕まる)
それだけは、今は無理だった。
「……はい」
リナは車に乗った。
その頃。
後ろで様子を見ていた警備が慌てて通信を入れる。
「こちら警備」
「リナさんが…突然走り出しました」
『何?』
「不明な車両に接触」
「現在…対象に巻かれて見失いました」
通信の向こう。
一瞬。
沈黙。
車の中は静かだった。
エンジン音だけが響く。
沙織が口を開く。
「突然お引き止めして申し訳ありません」
「改めて…」
「私は鳳沙織」
「鳳グループの娘です」
リナは小さくうなずく。
「はい…知って…います」
沙織は柔らかく笑った。
「知っているなら話が早いです」
そして。
真っ直ぐリナを見る。
「単刀直入にお話しします」
一呼吸。
「私」
「心様の元婚約者ですの」
リナの指が震えた。
沙織は静かに続ける。
「心様に好きな方がいると聞いて」
「婚約は解消されました」
「ですが…」
視線を落とす。
「別れる前に」
「一度だけ…とお願いして」
「心様に抱いていただきました」
車の中の空気が凍る。
「一度だけのつもりでした」
「ですが…」
沙織はバッグから写真を取り出した。
エコー写真。
「お腹に…」
「心様の赤ちゃんが」
リナの視界が揺れる。
沙織は頭を下げた。
「お願いです」
「この子を」
「父親のいない子にしないでください」
リナの胸が締め付けられる。
(ああ)
(やっぱり)
(いつか…)
(こういう日が来るって)
わかっていた。
心くんは特別だ。
自分とは違う。
もっと。
ふさわしい人がいる。
それでも。
離れたくなくて。
隣にいた。
でも。
リナは孤児院育ちだった。
家族というものに。
弱かった。
(私のせいで)
(この子から)
(お父さんを奪うなんて)
(できない)
(心くんの幸せを奪うなんて)
(できない)
沙織はさらに続ける。
「心様は今、大事な時期です」
「私なら」
「経済的にも」
「人脈面でも」
「支えて差し上げられます」
そして静かに言った。
「失礼ですが」
「あなたは…孤児院育ちですよね」
リナはうつむく。
「はい…」
「あなたでは」
「心様を支えるには」
「不十分です」
「守ってもらうことはできても」
「支えることは…」
沙織は封筒を差し出した。
「これは手切れ金です」
「足りなければもっと」
「子供と心様の気持ちが私に向けば」
「あなたは愛人でも構いません」
そして。
深く頭を下げる。
「だから」
「お願いします」
車内は静まり返った。
長い沈黙。
そして。
リナは言った。
「……わかりました」
沙織が顔を上げる。
「でも」
「お願いがあります」
「何かしら」
「何でも言って」
リナは小さく笑った。
「心くんの顔を見ると」
「揺らいでしまうので」
「しばらく…」
「身を隠せる場所と」
「仕事をください」
沙織はすぐ答えた。
「もちろんです」
「鳳グループで居場所は保証します」
「一生遊んで暮らせるお金だって」
しかしリナは首を振った。
「いいえ」
「お金は…当分の生活だけで」
「仕事をください」
(もう)
(心を解放して)
(私も一人で立たなきゃ)
こうして。
リナは。
自分の意思で
心の檻から。
出た。
その頃。
心の元に報告が届く。
「リナさんが失踪しました」
部屋の空気が凍る。
「車両に巻かれ」
「現在位置不明」
沈黙。
長い沈黙。
そして。
心が静かに言った。
「……そう」
その声は。
驚くほど。
静かだった。
だが。
次の瞬間。
机の木材が。
握りつぶされた。
「……探せ」
その声は低い。
「日本中」
「いや」
「世界でもいい」
「リナを」
「連れて帰れ」
その瞳は。
今まで誰も見たことがないほど。
暗く、冷たく光っていた。




