29.威厳
『威厳』
子供のように泣いたリナは…
心の胸の中で…顔を上げられなくなっていた…
胸に顔を埋めたまま、肩が小さく震えている。
「んー?リナどうした…もう大丈夫?」
いつも通りの、少し軽い声。
その明るさに、胸の奥の緊張がふっとほどける。
「ごめん…心くん…今顔ぐちゃぐちゃ…ちょっと顔洗ってくるね…」
そう言って離れようとした瞬間――
心は意地悪くリナの顎をクイッと持ち上げた。
涙で濡れた顔が、無理やり上を向く。
「俺が泣かせたんだから…責任とって最後まで面倒みさせてよ…」
にやっと笑う。
「ほら…舐めてあげる…」
「えっ…!?」
涙を舐め取ろうと顔を近づける心に、リナは慌てて身を引く。
「やっ…やめて…!」
ぱっと腕をすり抜けて、洗面所へ駆け込む。
ぱたん、とドアが閉まった。
鏡に映った自分の顔を見て、思わず小さく笑う。
目は真っ赤で、鼻も赤くて、頬もぐしゃぐしゃ。
「もう…私子供みたい…」
蛇口をひねりながら、恥ずかしそうに呟いた。
「恥ずかしいなぁ…」
________
出張当日。
まだ朝の空気が少し冷たい。
リナはスーツ姿で、黒い車の後部座席に座っていた。
隣には、心。
新幹線で行くのかと思っていたけれど――
警備の関係上、それは難しいらしい。
前の席には運転手。
さらにもう一台、護衛の車もついている。
心くん…取締役代表って…
やっぱり警備とか…大変なんだなぁ…
そんなことをぼんやり思う。
……でも、リナはまだ気づいていなかった。
時々、バックミラー越しに
黒いスーツを着た心の部下たちが
ちらちらとリナを見ていることに。
ゔーー…
私、浮いてるよね…
久しぶりの外出だし…
秘書らしいこと、何にもしてないし…
そもそも秘書なのかどうかも怪しいし…
リナは気まずくなって、ふっとミラーを見る。
運転手の部下と目が合った。
「あっ…」
慌てて、ぺこっと小さく会釈。
ついでに愛想笑いもつけてみる。
その瞬間――
ガンっ!!
後ろから、鈍い音。
びくっとするリナ。
隣を見ると、心が足でシートを蹴っていた。
「心くん…?」
「ごめんね」
さらっと言う。
「でっかい虫がいてさぁ」
にこっと笑う。
……でも。
目は、全然笑っていない。
前の席の運転手は、ぴくりとも動かない。
まるで何も聞こえていないみたいに、ただ前を見ている。
車の中には、少しだけ重たい沈黙が流れた。
そのまま車は高速に乗り、景色が流れていく。
最初は気を張っていたリナだけれど――
揺れと、朝の空気と、安心する体温。
いつの間にか…
心の肩にもたれたまま、眠ってしまっていた。
「……ん…」
ふと目を覚ます。
車はもう、街の中を走っていた。
「あっ…!」
慌てて体を起こす。
「ごめんなさい…!お仕事なのに…」
心は少しだけ笑った。
「そんなに気をはらなくていいよ」
優しく頭を撫でる。
「久しぶりの外出で疲れたでしょ?」
それから、少し悪そうな顔で付け足す。
「それに…朝まで離してあげられなかった俺の責任でもあるし♡」
「心くん…!」
リナの顔が一気に赤くなる。
「声大きい…!」
前の席の運転手の耳が、ほんの少しだけ動いた気がした。
リナは慌てて咳払いをして、話題を変える。
「そ、それより…」
少し真面目な顔になる。
「私、お仕事のときはなんて呼んだらいい?」
心が首をかしげる。
「ん?」
「真田取締役?真田社長?真田さん…真田様?」
真剣に悩んでいるリナが可愛くて、
心はくすくす笑いながら頭を撫でる。
「いつも通りでいいよ」
「えぇ…」
「言ったろ?リナに肩書で呼ばれたら俺泣いちゃうって」
「そういうわけにはいかないよぉ…」
リナはまだ真剣だ。
「皆さんなんて呼んでるの?」
心は少し考えてから言う。
「うーん…」
「ボス、とかかな?」
「じゃあ…」
リナは少し考えて――
「ボス?」
その瞬間。
心は頭を抱えて固まった。
「……」
「心くん?」
「もう一回いって」
「ボス…?」
沈黙。
数秒。
心はゆっくり顔を上げた。
「リナ」
「うん?」
「やっぱそれダメ」
「へっ?」
真剣な顔で言う。
「俺…リナにそんな風に呼ばれると」
「威厳とか…色々そういうの全部吹っ飛んで」
小さくため息。
「しまらなくなるから…」
その本気な顔が可愛くて、
リナはふふっと笑ってしまった。
前の席では――
運転手の部下が
バックミラー越しに、
信じられないものを見るみたいに
心のことをちらちら見ていた。




