26.受諾
『受諾』
昼下がり。
静かな部屋のテーブルの上に、珍しくスマートフォンが置かれていた。
いつもは――
心が持っているのに。
リナは少しだけ迷った。
けれど、そのときちょうど着信音が鳴った。
画面を見ると、知らない番号。
けれど、どこか見覚えがあるような気がして――
思わず出てしまった。
「……はい」
すると、すぐに聞き覚えのある声が返ってきた。
「あっ…如月さん?」
「あのね、アパートの件なんだけど…」
大家だった。
リナの胸が一瞬どきっとする。
「案内送ってしまったんだけど、ごめんなさいね」
申し訳なさそうな声。
「あなたが迷っている間に…他の入居の人決まっちゃったのよ」
リナは言葉を失った。
「あら…」
向こうも少し気まずそうに笑う。
「力になれなくてごめんなさいね」
「じゃあ…また保険の件とかは連絡するわね」
通話はそこで終わった。
スマートフォンを持ったまま、
リナはその場に立ち尽くす。
そしてゆっくり座り込んだ。
「はぁーー……」
深いため息。
心くんに――
アパートを借りるって、
あんなに言い切ったのに。
結局、行く場所はなくなってしまった。
あんな喧嘩までしたのに。
リナは足元の鎖を持ち上げる。
金属が小さく音を立てる。
「はぁ……」
またため息がこぼれる。
心くんに頼ってばかりじゃいけない。
そう思っていた。
でも。
この生活が始まってから――
毎日、心くんが帰ってきて。
抱きしめてくれて。
甘やかされて。
気づけば。
ここから出ていくことが
怖くなっている自分もいた。
だけど――
もし。
もし心くんに捨てられたら。
家もない。
仕事も、心くんのところ。
お金も、家財も火事でなくなって。
孤児の自分には
頼れる家族もいない。
一人でも立てるようにならなきゃ。
そう思うのに。
何をするにも
心くんに報告して。
心くんの腕の中で
甘やかされて。
その環境に――
心も、身体も。
もう完全に依存しているのがわかる。
心くんが
見捨てるような人じゃないのは分かっている。
でも。
このままじゃ――
私、心くんがいないと
何もできなくなってしまう。
そんなことを考えていると。
背後から、優しい声がした。
「リナ」
はっと振り向く。
心が立っていた。
「どうしたの?」
すぐに近づいてくる。
「何かあった?」
リナの沈んだ顔を見て、
もう察しているようだった。
「あのね…心くん」
少し迷ってから言う。
「この前アパートの話したけど…」
すると心はすぐ言った。
「何?」
にこにこしたまま。
「その話なら終わったでしょ」
軽い口調。
まるで――
蒸し返さないで、という空気。
でもすぐに、優しく続ける。
「いいよ」
「何かあったんでしょ」
「聞いてあげる」
リナは小さく頷く。
「あのね…」
少しもじもじしながら言う。
「私が大家さんから紹介されてたアパート…」
「その…他の人に決まったみたいで…」
少しの沈黙。
そして心は、あっさり言った。
「へぇー」
肩をすくめる。
「よかったじゃん」
リナが顔を上げる。
「諦めるきっかけできて」
にこっと笑う。
リナは慌てて言う。
「あの…大見得きって…色々言ったのに…ごめんなさい」
視線を落とす。
「心配かけたから…報告したくて」
少しだけ顔を上げる。
「私…ここに置いてもらってもいいかなぁ…」
その瞬間。
心はくすっと笑った。
「いいも何も」
リナの頬に手を添える。
「最初からそう言ってる」
優しく覗き込む。
「リナはどこにも行かない」
甘い声。
「俺に約束させられたの忘れちゃった?」
リナは一瞬で顔が真っ赤になる。
「お…覚えてる…」
小さな声。
「覚えてます…」
「だけど…心配かけたから…それで…」
もじもじしながら話す。
そんなリナを見ながら、
心は思った。
――あと一押し。
それだけで。
もうリナは、
どこかへ行こうなんて思わなくなる。
心は静かに微笑む。
「ねぇ」
優しく言う。
「教えたでしょう」
足元の鎖に手を伸ばす。
ガチャ、と音が鳴る。
鎖が外れた。
「……え?」
リナが驚いて見る。
心は笑った。
「こんなのなくても」
リナの顎を持ち上げる。
「もうリナは俺なしじゃいられない」
静かな声。
「そう教えたでしょ」
耳元で囁く。
「思い出して」
優しく抱き寄せる。
リナの体から力が抜けていく。
「ほら」
心はくすっと笑う。
「すぐ反応する」
リナの耳元で囁く。
「こんな状態で俺から離れたら」
低い声。
「すぐ他の男に狙われるよ」
そしてわざと意地悪に言う。
「リナは俺じゃなくてもいい?」
「望むなら…他の男の前に放り出してあげようか?」
「いや…!」
リナはすぐ首を振る。
「嫌…!」
その反応を見て、
心はすぐ笑った。
「ごめんごめん」
優しく頭を撫でる。
「そんなことしないよ」
「大事なリナなんだから」
そして聞く。
「リナは誰がいいの?」
リナは迷わず言った。
「心くん…」
心は満足そうに笑う。
「もう出ていくなんて言わない?」
リナは小さく頷いた。
「言わない…」
そして心の胸に顔を埋める。
「心くんの傍にいさせて…」
心は楽しそうに言った。
「合格♡」
そして優しく囁く。
「じゃあ」
「安心させてあげる」
そのまま、リナはまた
心の腕の中に閉じ込められた。
気づけば。
鎖はもうないのに。
リナは自分から
心の傍を離れようとは思わなくなっていた。
――とっくに。
おかしくなっているのは、
自分の方なのかもしれない。
そう思いながらも。
それでも、
心の腕の中は――
怖いくらい安心できた。




