第9話 噂と動線
扉を閉め、もう一度だけ王女殿下の私室を振り返る。広さに対して、家具は最小限。よく使われているものと、そうでないものがはっきり分かる配置だった。掃除はしやすいが、判断を誤ると機嫌を損ねてしまいそうな部屋でもある。
まずは、掃除道具を用意しなければならない。勝手に探し回るより、聞いた方が早いだろう。私は、教えられた侍女長の部屋へ向かうことにした。
廊下を進んでいると、前方の角に人影が見えた。数人の侍女が集まって、立ち話をしているようだ。声は、妙にはっきりとしていた。
「王女殿下って、やっぱりわがままらしいわよ」
「少しでも気に入らないと、すぐ侍女を追い出すんですって」
「だから、王女付きは皆、長く続かないのよ」
足音が近づいても、話し声は止まらない。まるで、これは日常で、聞こえることを前提にしているかのようだった。
――そういう噂は、どこにでもある。内容が違っても、形はいつも同じだ。私は歩みを止めることなく、その横を通り過ぎた。噂が本当かどうかは、今の私には分からない。分かるのは、任された仕事があることと、確認すべきことがある、という事実だけだ。
侍女長の部屋の前で足を止め、軽くノックする。
「失礼いたします」
中から、落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ」
部屋に入ると、応接室で見た女性――侍女長が、書類から顔を上げた。穏やかな表情だが、その視線には隙がない。
「何か?」
「掃除を始めるにあたり、確認したいことがございます」
私は簡潔に用件を伝える。
「バケツと布巾は、どちらでお借りすればよろしいでしょうか。それと……書斎は、立ち入ってもよろしい場所でしょうか」
侍女長は、ほんの一瞬だけ私を見つめ、それから頷いた。
「掃除道具は、東側の倉庫です。書斎については――入って構いません。ただし、書類や机の上には触れないように」
「承知いたしました」
それだけだ。特別なやり取りは、何もない。私は頭を下げ、部屋を辞した。
廊下を戻りながら、掃除の順番を考える。応接間は、人目につく。来客があれば最優先になる場所だ。けれど――普段、もっとも長く使われる場所はどこか。――寝室だ。一日の始まりと終わりを過ごす場所だ。汚れやすく、乱れやすい。だからこそ、整っていなければならない。
次に、書斎。触れていい範囲が限られる分、慎重さが求められる場所。応接間は、その後でいい。私は掃除道具を揃え、王女殿下の私室へ戻った。
まずは、寝室から。扉の前で一度だけ深呼吸し、静かにノブに手を掛ける。寝室に足を踏み入れた瞬間、視線が一点で止まった。ベッド脇の敷物に、赤紫の染みがある。ぶどうのジュースだろうか。すでに乾いて、色が繊維の奥まで沈んでいる。水をかければ、むしろ広がる。擦れば、毛羽立って余計に目立つだろう。
――順番を、間違えなければいい。一番、気を遣う場所を先に終わらせよう。
それが、私にとっては自然な判断だった。




