第4話 母の言葉
いつものようにひっそりと、指先に魔力を集めようとした、その瞬間だった。
――だめ。
また頭の奥に、静かな声が落ちてくる。もう何年も前に失ったはずの声なのに、不思議と色褪せない。私は手を止めた。あの人は、いつもこうだった。声を荒らげることも、感情をぶつけることもない。ただ、落ち着いた調子で、当たり前のことのように話す。
母、エリシア。私が覚えている母は、いつも穏やかで、少しだけ距離のある人だった。抱きしめてくれないわけじゃない。でも、必要以上に触れない。子どもだからといって、言葉を選びすぎることもなかった。
――あなたは、分かるでしょう?
そう言われている気がして、私はいつも背筋を伸ばした。あの日のことを、よく覚えている。窓から差し込む光の中で、私は無邪気に魔法を使った。床に落ちた埃を風で集めて、水で浮かせる。今思えば、掃除の延長みたいなものだった。
母は、それを見ていた。驚いた様子はなかった。声色も、変わらない。ただ、私の手をそっと止めて、静かに言った。
「母さまと一緒にいる時だけって、約束してくれる?」
理由は言わなかった。危ないとも、悪いとも。私は、少し迷ってから頷いた。その時、母は困ったように笑った。決して私を叱るためじゃない。怖がらせるためでもない。ただ、何かを避けるためにそう言っているのだと――今なら分かる。母は、私の髪を撫でて、「ありがとう」とだけ言った。それで、その話は終わった。
約束は、いつの間にか私の中で重くなった。破ってはいけないもの。理由は分からなくても、守るべきもの。母は、父と並んで立っていても、どこか周りとは違って見えた。夫婦なのに、距離がある。会話は必要なことだけ。感情をぶつけ合うことはなかった。
それでも、母は不満を口にしなかった。決められた役割を、淡々とこなしていた。奥方として、この家の一員として。そして、私の母として。母が魔法について語ることはなかった。けれど、私が使えることを前提にしているような言い方をする時があった。特別視もしない。ただ、「そういうもの」として扱っていた。それが、ずっと不思議だった。
ある夜、寝る前のことだ。灯りを落とした部屋で、母は私の髪を梳しながら、いつものように静かな声で言った。
「リーナ、いい子ね。愛してるわ」
それは、何でもない言葉のようでいて、なぜか胸に残った。その後、母は亡くなった。理由を知る前に。約束の意味を聞く前に。それでも、母の言葉だけは残った。魔法を使おうとするたびに、思い出す。叱らない声。理由を言わない約束。
――あの人は、何を知っていたのだろう。そして、私に何を隠そうとしていたのだろう。
私は手を下ろし、雑巾を握り直した。母はいない。でも、あの言葉は、今も私を止めている。守っているのか、縛っているのかは分からないまま。




