第14話 重力魔法とインクの染み
書斎の扉を閉める前に、私はもう一度だけ床を見た。
――黒い点。
光の加減で目立ったり、消えたりする。けれど消えない。机の脚の近く、歩く動線の端に、薄く残っている染みだ。埃とは違う。乾いた汚れでもない。
私はしゃがみ込み、距離を詰めた。インク。黒ではなく、青に近い。乾いて、表面が少しだけ硬い。書斎らしい汚れだ、と妙に納得してしまう。ペン先を拭った手が触れたのか、瓶を置いた指が揺れたのか。あるいは――わざと、ではない。
ここは、生活の汚れよりも、作業の汚れが残る場所だ。ただし。私は視線を上げた。机の上の書類。積み方。椅子の角度。ひとつでも動けば、困る人がいる。床の掃除は、床だけの問題ではない。私は息を整え、指先に意識を集めた。
重くする。ほんの少し。部屋全体を。紙も、本も、羽根ペンも――動かない程度に。音もなく、空気が落ち着く。紙の端が、ぴたりと静まった。……これでいい。
次に、もう一度、窓を開ける。けれど開け放たない。風を通すだけ。冷たい外気が、薄く混ざる。インクの匂いは、残していい。ただ、こもった湿りだけは抜きたい。私は布巾を取り出し、染みの周囲を確かめた。
床材は――木。磨かれているが、表面は硬すぎない。このまま擦れば、艶が乱れる。削れば終わりだ。消すより、壊さないことが優先になる。
私は布巾を一枚、軽く湿らせる。水は少なめ。いきなり染みに当てない。まずは、周囲から。外側を押さえて、吸わせる。押して、離す。押して、離す。擦らない。広げない。それでも、乾いたインクは頑固だった。
私は小さく息を吐く。――水だけでは、足りない。魔力を、ほんの少しだけ指先に集める。水を足すのではなく、温度を上げる。冷たさを消す程度に。布巾の湿りが、わずかに柔らかくなる。
そのまま、染みの縁を押さえた。色が、少しだけ動く。動いた分だけ、布巾が吸う。ここで風を使うのは、危険だ。強い風は、乾かすより先に、匂いを立てる。紙を揺らす。空気を暴れさせる。だから、風は必要なところだけ。
私は布巾を持った手元に、細い空気の流れを作った。乾かすためではない。染みが広がらないよう、表面の湿りを一定に保つためだ。風は肌を撫でる程度で、紙の端を揺らさない。静かな作業。誰にも気づかれない程度の、加減。
インクの輪郭が、少しずつ薄れる。完全には消えない。だが、目立たなくなる。艶も乱れない。――これで十分。私は布巾を畳み、床を一度だけ見渡す。書類も、本も、何ひとつ動いていない。それが一番大事だ。
私は立ち上がり、椅子の位置を目で確かめてから、道具をまとめた。手を触れない。触れないことが、最上の掃除になる場所がある。扉の外へ出る直前、壁際の小さな置き時計が目に入った。針が、思っていたより進んでいる。
私は一瞬だけ立ち止まり、呼吸を整えた。急ぐ理由はない。けれど、遅れている事実はある。私は視線を上げ、前を見た。
次は、応接間。
――ようやく、人目につく場所だ。




