失われた記憶 +納豆レシピ
ある夜。
その日の仕事をすべて終えて自室に戻った私は、ベッドの縁に腰掛け、ぼんやりと自分の左手首を見つめていた。
そこには、あの「藁縄の腕輪」が巻かれている。
森で目覚めた瞬間から私の手首にあった、出所不明の古びた装飾品。
奴隷商人に捕まった時も、そして主人のマーカスに買われた時も、なぜか誰にも奪われることなく、奇跡的に私の左手に残り続けていた。
(……不思議な藁の腕輪)
指先で、そっと表面に触れてみる。
乾燥した植物特有の、少しチクチクとした粗い感触。
けれど、枯れているはずの藁なのに、指先に伝わる温度はほんのりと温かい。
まるで、微弱な熱を自ら発しているかのようだ。
この腕輪は、一体何なのだろう。
記憶を失う前の「エルフ」が自分で編んだものなのか。それとも、大切な誰かからの贈り物なのか。
私はベッドに仰向けになり、天井の木目を見上げた。
頭の中には、依然として二つの記憶の層が明確に分かれて存在している。
上層にあるのは、日本の東京で納豆を愛し、その情熱のままに死んだ会社員としての記憶。
満員電車の息苦しさも、スーパーの特売日の高揚感も、鮮明に思い出せる。
そして下層にあるのは、この世界のエルフとしての記憶。
風の読み方、簡単な生活魔法の使い方、森でのサバイバル術。これらも、身体感覚として確かにおぼろげだが残っている。
けれど、その、より深層——。
この「エルフ」がどこで生まれ、誰に育てられ、どんな名前で呼ばれ、なぜ一人ぼっちで倒れていたのかという《根源の記憶》が、綺麗さっぱり抜け落ちているのだ。
まるで、ハードディスクの初期領域が物理的に破損し、読み込めなくなっているかのように。
そこだけが、ぽっかりと空いた真っ黒な空白になっている。
(私が転生したことと、関係があるのかな……)
記憶のない空っぽの器だったからこそ、異世界から私の魂が入り込めたのだろうか。
それとも、私の魂が入り込んだ衝撃で、元の持ち主の記憶が弾き飛ばされてしまったのだろうか。
答えは出ない。
深い闇に向かって問いかけても、返ってくるのは静寂だけだ。
ただ、この左手首の藁縄だけが、私の失われた過去を繋ぐ唯一の物理的な手掛かりのように思えた。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
家事の合間にエリザベスと話す機会があった。
彼女はリビングで刺繍をしており、私はその糸の整理を手伝っていた。
穏やかな空気が流れる中、私は思い切って、ずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「あの、奥様」
「なぁに、ナタリー?」
エリザベスは針を動かす手を止め、優しく微笑んだ。
「この国、あるいはこのあたりには……エルフは少ないのでしょうか? 私以外のエルフを、まだ見たことがなくて」
「そうね……とても少ないわ」
少し声を潜めるようにして、彼女は答えた。
「昔はもっといたと聞いているけれど、人間との間に大きな争いが起きて、今はほとんどのエルフ族は亡くなったらしいの。生き残っていたとしても、深い森の奥に隠れ住んでいるそうよ。人間の街に出てくることはまずないから……正直に言うと、私は、あなたが人生で初めて会ったエルフよ」
「森の奥に隠れ住んでいる……」
「ええ。教会が……いえ、人間との関わりを極力避けているみたいね」
エリザベスは言葉を濁した。
何か言いかけた「教会」という言葉に、奴隷商人の牢で見かけた十字架の意匠を持つ剣士を思い出し、背筋に冷たいものが走った気がした。
「エルフは精霊と交信する力を持っていて、とても強い魔法を使うと言われているわ。」
「でも、詳しいことは私も知らないの。あなたに会うまでは、エルフはおとぎ話の中の存在だと思っていたくらいよ」
精霊と交信する力。強大な魔法。
「私には、精霊と交信する力は……」
エルフの私——今のナタリーには、そんな力はない。
物を少し温めたり、スープをかき混ぜたりする程度の、ささやかな生活魔法だけだ。
やはり私は、エルフとしても落ちこぼれなのだろうか。それとも、記憶と共に力を失ったのだろうか。
「そんな力は無くてもいいのよ」
考え込む私を、エリザベスがじっと見つめていた。
その視線は、いつになく真剣で、探るような色を帯びていた。
「でも……ねぇナタリー。……あなた……、本当は何者なの?」
「え?」
突然の核心を突く問いかけに、心臓が跳ねた。
「森で育っただけの野良エルフが、あんなに礼儀正しいはずがないわ」
「そ、それは……」
「言葉遣い、立ち居振る舞い、そして読み書きや計算の能力。それらは森で自然に身につくものではないわ。誰かから、それこそ王宮に仕えるような者から高等な教育を受けていない限り、あり得ないことよ」
エリザベスの指摘はもっともだった。何の言葉も出ない。
私の振る舞いは、前世の日本社会で叩き込まれたビジネスマナーと義務教育、そして終わりのない残業で培われた事務処理能力の賜物だ。
しかし、それを「自分は異世界から転生してきた元日本人です」と正直に説明するわけにはいかない。
「あなたは……ひょっとして、元エルフ貴族の娘か何かなのではないの?」
エリザベスの推測に、私は曖昧に笑うしかなかった。
嘘をつくのは心苦しいが、真実を話せば間違いなく狂人扱いされてしまう。
私は、自分の中にある「記憶の欠落」という事実だけを、正直に話すことにした。
「……分かりません」
「森で目が覚めた時……それ以前の記憶が、ほとんどなかったんです。自分がどこで生まれ、誰に育てられたのか、すべてを忘れていました」
これは、半分以上は真実だ。
「ただ……文字や計算、礼儀作法だけは、体が覚えていました。誰に教わったのかは思い出せないのに、ペンを持つと手が勝手に動くんです」
エリザベスは驚いたように目を見開き、やがて納得したように小さく息を吐いた。
「そういえばあなた……記憶喪失、だったわね」
エリザベスの瞳に、深い同情の色が浮かぶ。
この農園に連れてこられた初日、マーカスからはどんな生まれなのか、家族はいるのかと聞かれた。
その時、私はとっさに「森の中で記憶を無くして彷徨っているところを盗賊に捕まり、奴隷にされた」と話をしたのだった。
それを気の毒に思ったのか、それ以来、彼らは私の過去について深く詮索することはなかった。
「ごめんなさいね、辛いことを思い出させてしまって。自分の家族のことやルーツも分からないなんて……」
「いえ……今は、ここでの生活がありますから……感謝しています」
エリザベスは立ち上がり、私の肩にそっと手を置いた。温かい手のひらだった。
「安心して、ナタリー。あなたが何者であろうと、過去にどんな身分だったとしても関係ないわ」
「奥様……」
「今のあなたは、グランヴェル家の大切な……ええ、大切な働き手であり、家族のようなものよ。あなたのその賢さと礼儀正しさは、私たちにとって得がたい宝物だわ」
エリザベスは「奴隷」という言葉を使わなかった。
その配慮と優しさが、不安で凝り固まっていた胸に染み渡った。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。目頭が少し熱くなるのを感じた。
◇ ◇ ◇
その夜、私は再びベッドの上で左手首の藁縄を撫でた。
エリザベスは、私が「高貴な身分かもしれない」と言った。
でも、この粗末な藁の腕輪は、どう見ても貴族の装飾品ではない。
金糸も宝石も使われていない、ただの植物の茎を編んだものだ。どちらかと言えば、農民のお守りに近い。
それに目覚めたときに着ていた服装も、布一枚の簡素な貫頭衣だった。
他のエルフがどのように生活をしているのかがわからないから、比較対象がない。
私は普通のエルフなのだろうか? それとも特殊な生い立ちなのだろうか?
私のルーツはどこにあるのだろう?
高貴な教育を受けた痕跡(日本人の記憶)と、粗野な藁の腕輪(エルフの遺物)。
この矛盾する二つの要素が、今の私の中で奇妙に同居している。
それは異質でありながら不思議と馴染んでいるようでもあった。
(ま、今は考えても仕方ないか)
私は大きく息を吐き出し、思考を切り替えた。
過去がどうあれ、今の私には「納豆を作る」という明確でポジティブな目標がある。
ディーズ豆を手に入れ、この藁縄のように懐かしい藁を使って、とにかくあの味を再現するのだ。
(今度こそ、藁つと納豆を完成させよう)
窓の外には、見事な満月が輝いていた。
この世界のどこかにいるかもしれない、私の家族や仲間達——エルフのナタリーの本当の家族も、この同じ月を見ているのだろうか。
私はぼんやりと月を見上げた。
夜空に浮かぶ、まん丸い、黄色く輝く月。
(……あ)
月を見ていると、なぜか前世で食べていた「アレ」を思い出してしまった。
あの黄色い丸い形が、熱々のフライパンの上で輝く半熟の黄身と重なる。
(……目玉焼き)
想像してしまう。
カリカリに焼けた白身の縁。とろりと溢れ出す黄身。
そこへ、ネギとタレを絡めた納豆をたっぷりとかけ、ウスターソースを回しかける。
(納豆さえ手に入れば……卵はこの農園にいくらでもあるのに!)
ぐぅ、と盛大にお腹が鳴った。シリアスな感傷など一瞬で吹き飛ぶ空腹感だ。
左手首の藁縄が、また少しだけ温かくなった気がした。
まるで「大丈夫だ、焦るな。いつか食える」と励ますように。
私は腕輪を胸に抱き、布団を被った。
いつか全ての謎が解ける日が来ること、そして何より「目玉焼き納豆」を食べられる日が来ることを信じて、私は深い眠りについた。
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【ネバり姫の納豆料理】背徳の「カリトロ揚げ目玉焼き納豆」
ふと、無性に食べたくなるものがある。
繊細な出汁の味でも、複雑なスパイスの味でもない。
もっとこう、脳髄に直接響くような、脂とタンパク質の暴力——そう、「ジャンク」な味だ。
私の脳裏に浮かんだのは、「目玉焼き」。
だが、朝食に出てくるような優等生的な目玉焼きではない。
白身が焦げるほどに油で痛めつけられた、タイの「カイダーオ(揚げ卵)」に近い、あの野性味あふれる一皿だ。
「……目玉焼き。それも、たっぷりの油で揚げ焼きにした、あの背徳のやつ」
フライパンに、親の仇のように多めのオリーブオイルを注ぐ。
底が見えなくなるほどの油のプール。そう、これは「焼く(ソテー)」ではない。卵を「油に浮かべる(コンフィ)」のだ。
火加減は、極弱火。ここが運命の分かれ道だ。
強火で一気にいくと、白身が爆発し、黄身が固まってしまう。
低温の油で、じっくり、ねっとりと。時間はきっちり「9分」。
キッチンタイマーとにらめっこしながら、卵という生命の神秘にじわじわと熱が入っていく様を見守る。これぞ忍耐の修行。
するとどうなるか。
白身のフチは、メイラード反応によって茶色く色づき、レース細工のように繊細かつ凶暴な「カリカリ・サクサク」の状態へと変貌する。
その一方で、中心に鎮座する黄身は、直接鍋底に触れないため、火が通り過ぎず、とろりとした極上の「半熟レア」状態を維持するのだ。
焼き上がりを待つ間に、土台の準備だ。
皿に納豆を開ける。
種類は小粒でもいいが、私は断然「大粒納豆」を推したい。
なぜなら、今回の相手は「揚げ焼き目玉焼き」というパワフルな食材だ。小粒ではその迫力に負けてしまう。
大粒のしっかりとした「豆感」があってこそ、互角に渡り合えるのだ。
そこへ、刻んだ「多めの長ネギ」とタレを投入し、空気を含ませるようにしっかりとかき混ぜる。
ふわふわになった納豆を、皿の上で平らにならし、王の降臨を待つベッドを作る。
「……来たわよ」
焼きあがった完璧な目玉焼きを、フライパンから救出する。
油を切り、納豆のベッドの上に、そっと、しかし重厚に「オン」する。
茶色い納豆の上に輝く、白と黄色のコントラスト。美しい。
さあ、ここからがこの料理のハイライト——「崩しの儀式」だ。
フォークを構える。
だが注意してほしい。かつての私のように、無慈悲にグチャグチャに混ぜてはいけない。
今回は「寸止め」の美学が必要だ。
フォークを目玉焼きに入れ、十文字に、あるいは無造作に、大きくざっくりと崩す。
そして、下の納豆と「さっくり」と合わせるのだ。
完全に融合させてはいけない。あくまでマーブル状、ムラがあるくらいが丁度いい。
なぜなら、食感のコントラストを楽しむためだ。
口へ運ぶ。
揚げ焼きにされた白身の「カリッ!サクッ!」というクリスピーな食感。
溢れ出した黄身の「トロッ」とした濃厚なソース感。
そして、大粒納豆の「ホクッ」とした力強い豆の歯ごたえ。
この三つの異なる食感が、口の中でランダムに弾ける!
「……んんっ!」
仕上げの調味料。ここで醤油を選ぼうとした貴方、惜しい。
ここはあえて「ウスターソース」だ。
野菜や果実の旨味と、スパイスの酸味が効いたウスターソースを、一回し半かける。
このスパイシーな酸味が、卵と納豆の暴力的なまろやかさをキュッと引き締め、一気に「大人のジャンクフード」へと昇華させるのだ。
「……ああ、食べたい。今すぐ、この喉に油と粘りを流し込みたい」
上品な食べ方ではないことは百も承知だ。
けれど、深夜にこっそりと食べるカップ麺が美味しいように、この背徳的な味が、無性に、狂おしいほどに恋しい。
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納豆料理レシピ
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◑材料(1人分)
・大粒納豆
・卵
・長ネギ
・納豆に添付のタレ
・ウスターソース
・オリーブオイル
・粗挽き黒胡椒
◑作り方
1.フライパンに多めのオリーブオイルを入れて熱する。煙が出るほど熱してはいけない。
2.卵を静かに割り入れる。卵が油のプールに浮くくらいの油量が理想。
3.極弱火で9分ほど、触らずにじっくりと焼く。
※白身の縁が茶色くカリカリになり、黄身がトロトロの状態を目指す。
4.焼いている間に、皿に納豆、たっぷりのネギ、添付のタレを入れ、白くなるまでしっかりかき混ぜて土台を作る。
5.カリカリに焼けた目玉焼きを、納豆の上に載せる。
6.ウスターソースを回しかける。
7.フォークで目玉焼きを粗く崩し、下の納豆と「さっくり」と混ぜる(混ぜすぎ厳禁!)。
※白身のサクサク感と黄身のトロトロ感、大粒納豆の食感を楽しみながら食べる。




