商隊の訪れ +納豆レシピ
農園での生活が始まって、数週間が経った。
私の日々は、時計の針のように正確に、そして単調に過ぎていく。
朝、日が昇ると同時に起きて、台所の手伝い。午前中は広い屋敷の掃除や洗濯。
午後はソフィアとトーマスの勉強を見て、夕方は再び料理の手伝い。
そして夜、自室のベッドに倒れ込むようにして眠りにつく。
事務職だった前世に比べると、身体的には目が回るような忙しさだが、精神的には充実していた。
日々の労働を通じて、少しずつこの「グランヴェル農園」の全貌が見えてきたからだ。
ここは、私が最初に想像していたよりも遥かに巨大で、システム化された組織だ。
見渡す限りの小麦畑と野菜畑に、幾何学模様のように整然と並ぶ果樹園。
東側の湿地帯には広大な水田があり、西側の牧草地には数百頭の家畜が放牧されている。
それを支える労働力、つまり奴隷の数も桁違いだ。
以前、畑仕事担当のギルが「百人以上」と言っていたが、実際にはもっと多いかもしれない。
朝夕の移動時間には、奴隷たちの住む長屋地区から、まるで蟻の行列のように人々がそれぞれの仕事場へと散らばっていくのが見える。
それは巨大な生き物の血管を流れる血液のようでもあった。
彼らの生活は過酷だ。母屋で暮らす「エルフの家庭教師」という私の立場が、いかに特異で恵まれているか、日々痛感させられる。
そんな閉ざされた農園に、外の風が吹き込む日がやってきた。
「あら、もうそんな時期ね」
昼下がり、窓の外を見たエリザベスが少し弾んだ声を上げた。
「ナタリー、着替えていらっしゃい。お客様よ」
「お客様、ですか?」
「ええ。私の実家の商隊が来たのよ」
外に出ると、正門から砂埃を上げて入ってくる長い車列が見えた。
一台や二台ではない。
鷲のような紋章が描かれている幌をかけた大きな荷馬車が五台、十台と連なり、護衛の騎馬隊までついている。
まるで小さな軍隊の行進だ。車輪が地面を軋ませる音と、馬のいななきが農園の静寂を破る。
「おお、来たか! 待っていたぞ!」
マーカスが豪快に笑いながら出迎える。
先頭の馬車から降りてきたのは、質の良いベルベットの服を着た初老の男性だった。
恰幅が良く、顔には商売人らしい計算高さと、同時に親しみやすさを感じさせる立派な口髭を蓄えている。
「久しぶりだな、マーカス。今年の麦の出来はどうだ?」
「最高だとも! あんたの商会を儲けさせてやるよ、ロバート!」
ロバート。
エリザベスの叔父であり、この国でも有数の大商人だという。
エリザベスが駆け寄ると、ロバートは厳しい商人の顔を崩して、好々爺のような笑顔を見せた。
「エリザベス、元気そうだな。子供たちは大きくなったか?」
「ええ、叔父様。ソフィアもトーマスも会いたがっていましたわ」
「……おい、エリザベス。お前、なんか若返ったか?」
「えっ? 何を急に、叔父様」
「いや、お世辞じゃないぞ。肌がツヤツヤで、血色が良くて、まるで娘時代のようだ。
……何か高い薬でも飲んでいるのか?」
ロバートがまじまじと顔を覗き込むので、エリザベスは頬を赤らめて首を振った。
「そんなことありませんわ。……でも、確かに最近、お化粧のノリが良い気はしますけれど」
「ふーむ。ここの空気と水が良いからだな。
そうそう、お前の父、エリック兄貴が孫達に会いたがっていたぞ。たまには王都に顔を見せに来いとな」
「お父様も、たまにはこちらにいらっしゃればいいのに」
「兄貴は商売が忙しくて、なかなか王都を出られんのだよ。
まあだから、ワシが好き勝手にさせて貰えているのだがな。ハッハッハッ」
和やかな挨拶も束の間、すぐに商隊は仕事モードに切り替わった。
農園で収穫された作物が次々と運び出され、代わりに街からの日用品や資材が降ろされていく。
塩、砂糖、布地、鉄製の農具、そして修繕用の木材——。
この巨大な農園という胃袋を満たすため、運び込まれる物資の量も半端ではない。
「おい、そこのお前たち! ぼうっとしてないで手を貸せ!」
監視役の怒鳴り声が飛び交う。
畑仕事の奴隷たちが動員され、バケツリレーのように荷物を運んでいく。
私も母屋の人間として、軽い荷物を運ぶ手伝いをすることになった。
商隊の活気。荷運びをしているのは奴隷だろうか、それとも雇われた労働者だろうか。
知らない土地の言葉が飛び交い、異国の匂いがする。
私は麻袋の一つを持ち上げ、母屋の倉庫へと運んだ。
中身は小麦粉だろうか、ずっしりと重い。
荷馬車の列に戻り、次の荷物を受け取ろうとした時——。
ふと、三台目の荷馬車の荷台に目が留まった。
積み上げられた木箱の隙間に、口の開いた麻袋が押し込まれている。
馬車の揺れで中身が少しこぼれ落ちていた。
コロコロとした、クリーム色の丸い粒。
「……あっ」
時間が、止まった気がした。
見間違えるはずがない。前世で愛し続け、狂おしいほど求めていたあの粒。
「おい、エルフ。そこは降ろす荷物じゃないぞ」
商隊の男に声をかけられ、私は我に返った。
「え……あ、あの、この豆は……?」
「ああ、ディーズ豆だ。これは隣町の牧場からの注文分だな」
「ディーズ豆? 牧場……にですか?」
「ああ、これは隣町の牧場からの注文分だ。豚や牛の餌にするんだと。栄養価だけは高いからな、家畜がよく太るらしい」
(家畜の……餌……!?)
私は愕然とした。脳天をハンマーで殴られたような衝撃に、一瞬、目の前がクラクラとした。
この世界において、大豆は人間が口にする食材ではなく、家畜を太らせるための飼料として扱われているのだ。
なんてことだ。彼らは知らないのだ。この豆に秘められた真の価値を。
ふと、前世で読んだHPの記憶が蘇る。
かつて欧米諸国においても、大豆は長い間、搾油用や家畜の飼料としてしか見なされていなかった時代があったという。
「大豆は人が食べるものではない」 そう認識されていた歴史が確かに存在したのだ。
「この世界は、まだ『そこ』なのか……」
まさか異世界でその「不遇の時代」を目の当たりにするとは思わなかった。 けれど、それは裏を返せば、まだ誰もこの豆の本当の美味しさを知らないということだ。
日本語で「大豆」と書くのは、単に「大きい豆」だからではない。大きさで言えばそら豆の方がずっと大きい。
あれは「大いなる豆」、つまり「最も大切な豆」という意味で名付けられたと言われている。
味噌、醤油、豆腐、そして納豆。
日本の食卓を支え、人々の健康を守ってきた「畑の肉」。
それを……豚の餌だなんて!
(もったいない……! ああ、なんということ!)
私は麻袋からこぼれた一粒を、祈るような気持ちで見つめた。
この世界の人々が「家畜の餌」と蔑むなら、私が証明して見せる。
この「大いなる豆」が、いかに素晴らしい奇跡の食材に化けるかを。
魔法のような発酵の力で、黄金の糸を引く至高の珍味になることを。
(これはどうみても大豆だ。形も、色も、へその形も)
隣町への注文分ということは、つまり、この農園用ではない。
目の前にあるのに。手を伸ばせば届く距離にあるのに。
それは私の——いや、この農園のものではないのだ。
(欲しい……)
喉から手が出るほど欲しい。
ほんの一握り、いや数粒でもいい。それを畑の隅に埋めれば、増やせるかもしれない。
けれど、私には何もできない。私は奴隷だ。
勝手に荷物に触れば、盗みとみなされて罰を受ける。最悪の場合、指を切り落とされるかもしれない。
それに、今はエリザベスやマーカス、大勢の目がある。
「他にはどんなものを運んでいるんですか」
震える声を抑えて尋ねると、男は面倒くさそうに答えた。
「そうだな、食べ物なら穀物に野菜、肉や果物、珍しいがスパイスなんかもだ」
(この世界にも、スパイスはあるのか!?……)
この農園での食事は質素で、味付けといえば塩と香草、そしてたまに肉料理に胡椒が使われる程度だった。
だが、スパイスがあるということは——もしかすると、カレーが作れるのかもしれない。
もしカレーができるなら、「納豆カレー」が食べられるかもしれない。
クミン、コリアンダー、カルダモン、ターメリック。
あの香りと納豆の粘りが融合する瞬間を想像するだけで、意識が飛びそうになる。
大豆を手に入れたその先には、そんな無限の可能性が広がっているのだ。
「さあ、出発だ! 日が暮れるぞ!」
大きな声でロバートの号令がかかり、ハッと我に返った。
荷降ろしと積み込みを終えた馬車たちが、きしむ音を立てて動き出す。
「ありがとうございました、叔父様!」
「また来月来るよ!」
「楽しみに待っていますわ」
エリザベスが手を振る中、車列はゆっくりと正門へ向かっていく。
あの大豆を載せた馬車も、遠ざかっていく。
私は立ち尽くしていた。
砂埃の向こうに消えていく「希望」を、ただ見送ることしかできなかった。
でも——。
胸の中にあるのは、絶望だけではなかった。
(あるんだ……)
この世界にも、大豆はある。
いや、「ディーズ豆」という名前だが、確かに存在している。そして、この商隊はそれを扱っている。
隣町の牧場へ運ぶということは、定期的にこのルートを通るということだ。
ロバート商隊長は、エリザベスの叔父。つまり、全くの他人ではない。
来月、また彼らはやってくる。
私は拳を強く握りしめた。左手首の藁の感触を確かめる。
藁はある。
そしてディーズ豆の入手ルートも判明した。
パズルのピースは揃いつつある。
(次は……絶対に手に入れる)
どうやって交渉するかは分からない。
奴隷が商隊長に話しかけるなんて無謀かもしれない。
それでも、ただ指をくわえて見ているわけにはいかない。
私の「納豆作り」への執念は、この一瞬の邂逅によって、より具体的で強固な計画へと変わった。
遠ざかる馬車の車輪の音を聞きながら、私は深く息を吸い込んだ。
夕暮れの空気には、馬と土の匂いに混じって、微かに——本当に微かにだが、あの懐かしい豆の香りが残っている気がした。
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【ネバり姫の納豆料理】スパイス香る「納豆キーマカレー」
「スパイス」×「納豆」。
この組み合わせを聞いて、眉をひそめる者は素人だ。
発酵食品とスパイスの相性が抜群なのは、インドの漬物「アチャール」やヨーグルト料理を見れば歴史が証明している。
私の理想とする納豆カレー。それは、カレールーを使ったドロドロの日本風カレーではない。
野菜の水分を飛ばし、スパイスの香りを纏わせた挽肉料理——「キーマカレー」に、ひきわり納豆を後入れで混ぜるスタイルだ。
ここで一つ、声を大にして言わせてほしい。
世の中には、「納豆を水洗いして粘りを取る」などという軟弱なレシピが存在するらしいが、言語道断だ!
あのネバネバこそが旨味(ポリグルタミン酸)の塊であり、納豆のアイデンティティそのものではないか。
それを洗い流すなんて、ショートケーキのイチゴを捨ててスポンジだけ食べるようなもの。納豆の神への冒涜でしかない。
さて、調理だ。
まずはベースとなるスパイスを調合する。
基本の四天王は、ターメリック(色)、クミン(香り)、コリアンダー(調和)、チリペッパー(辛味)。
だが、スパイスオタクの私としては、これだけでは物足りない。
清涼感の女王「カルダモン」、甘く濃厚な「クローブ」。そして胃腸を整え、独特の甘い香りと深みを加える「フェンネル(ウイキョウ)シード」をホール(原形)のまま加える。
フライパンに油を引き、ホールスパイスの香りを移したら、香味野菜の出番だ。
タマネギ、ニンジン、ニンニク、ショウガ。これらを粗みじん切りにして投入する。
ニンニクとショウガは焦げやすいから、少し後に入れるのがコツだ。
タマネギが飴色になり、メイラード反応によって甘みが引き出されるまで、根気よく炒める。
そこへトマト缶(または完熟トマト)を投入。水分を飛ばすようにトマトを崩しながら、ペースト状になるまで更に炒める。ここで旨味(グルタミン酸)を凝縮させるのだ。
パウダースパイスを加えて香りが立ったら、挽肉を投入。
肉の脂が滲み出てくるまで強火で炒め合わせ、塩で味を決める。
そして、クライマックス。
ここで必ず「火を止める」。
そして、主役の「ひきわり納豆」をかき混ぜてから投入し、予熱で温める程度にざっくりと混ぜ合わせるのだ。
なぜ「ひきわり」か?
それは、挽肉の粒の大きさと、ひきわり納豆の粒の大きさが近いからだ。
口に入れた時、肉と豆が違和感なく混ざり合い、最高の食感を生む。
皿に盛った熱々のご飯に、この特製キーマをたっぷりとかける。
だが、まだ完成ではない。
仕上げに、追いスパイス——魔法の粉「ダナジラ」を振りかける。
「ダナジラ(Dhana Jira)」とは、インド家庭料理の基本となるミックススパイス。
コリアンダー(ダニア)の爽やかさと、クミン(ジーラ)の野性味ある香りを1:1でブレンドし、粉にしたものだ。
これを最後にパサッと振りかけることで、フレッシュなスパイスの香りが弾け、納豆の濃厚なコクと絡み合い、スプーンが止まらない魔性の味となる。
一口食べれば、スパイスの刺激、肉の旨味、そして納豆のネバリが三位一体となって脳髄を直撃する。
これぞ、国境を超えた味の外交だ。
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納豆料理レシピ
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【ネバり姫の納豆料理】スパイス香る「納豆キーマカレー」
◑材料
・ひきわり納豆
・豚ひき肉(または合い挽き)
・玉ねぎ(粗みじん切り)
・人参(粗みじん切り)
・ニンニク、ショウガ(みじん切り)
・トマト缶
・サラダ油
・塩、胡椒
・ご飯
<スパイス> ※なければカレー粉で代用可
・クミン、コリアンダー、ターメリック
・チリペッパー(唐辛子)
・(あれば)カルダモン、クローブ、フェンネルシード
<仕上げ用>
・ダナジラ(コリアンダーパウダーとクミンパウダーを1:1で混ぜたもの)
◑作り方
1.フライパンに油を熱し、香りが立ったら玉ねぎと人参を強火で炒める。
2.玉ねぎが色づいたら弱火にして、ニンニク、ショウガを加えて香りを出す。
3.トマト缶を加えて再び強火にし、水分が飛び、ペースト状になるまでしっかり炒める(ここで旨味凝縮!)。
4.パウダースパイス(またはカレー粉)を加え、粉っぽさがなくなるまで炒める。
5.ひき肉に塩、胡椒を加え、色が変わり脂が出るまで炒め合わせる。必要なら少量の水を加えて濃度を調整し、火を通す。
6.火を止め、ひきわり納豆を投入! 予熱で温まる程度にざっくりと混ぜ合わせる(煮込まないのがコツ!)。
7.皿にご飯をよそい、カレーをたっぷりかける。
8.仕上げに「ダナジラ」を好きなだけ振りかけ、香りを爆発させる。
※納豆のコクとスパイスの香りが融合した、中毒性の高い一皿。温玉を乗せても最高です。




