森の呼び声
「——逃げられると思うなァァァァッ!」
異端審問官の、憎悪と悔しさに満ちた絶叫。
それは森の重厚な木々に吸い込まれ、やがて完全に聞こえなくなった。
喧騒が去った後に辺りを支配したのは、圧倒的な静寂と、湿った土の匂いだけだった。
「……ナタリー様、大丈夫ですか?」
「ええ。平気よ」
私はロバートから譲り受けた上質な羊毛のマントを強く引き寄せた。
商隊仕様の厚手の生地が、夜の森の冷気と、頬を打つ枝葉から私たちを守ってくれていた。
足元の悪い道なき道を、私とセリーナ、そして一体の「藁の兵士」が進んでいく。
藁の兵士——ワラ兵衛と名付けた彼は、言葉こそ発しないが、その背中で藪を切り開き、私たちの道を作り続けてくれている。
それから、私たちは歩き続けた。
一日、二日……そして五日が過ぎた。
エルンの森は、想像を絶する深さだった。
空を覆い尽くす巨木の枝葉により、昼でも薄暗く、本来なら方向感覚などすぐに失ってしまうはずだ。
だが不思議なことに、私たちは一度として道に迷うことはなかった。
「あっちね」
私は確信を持って足を進めた。
地図もコンパスもない。けれど、森に入ってからずっと、見えない磁石に引かれるように進むべき方向が分かったのだ。
右に行けば沼地で足を取られる。左に行けば崖がある。
直進こそが正解だと、肌で感じる風や、草木のざわめきが教えてくれるようだった。
そしてもう一つ、奇妙なことがあった。
「……ッ、ナタリー様。止まってください」
三日目の夕暮れ時、セリーナが私の袖を引き、声を潜めた。
前方の茂みがガサリと揺れ、二つの鋭い眼光がこちらを覗いていた。
巨大な牙を持つ、森の捕食者——灰色熊だ。
セリーナが震える手で短剣に触れる。
だが、私は不思議と恐怖を感じなかった。
「大丈夫よ、セリーナ。……ワラ兵衛」
私が名を呼ぶと、藁の兵士がザザザと音を立てて私たちの前に立ち塞がった。
熊は、その不気味な藁人形を見つめ、そして私のほうへと鼻をひくつかせた。
威嚇しているのではない。何かを、見定めているような目。
やがて熊は、興味を失ったかのようにフンと鼻を鳴らすと、ゆっくりと踵を返し、森の奥へと消えていった。
「……逃げて、いきましたね」
セリーナが呆然と呟く。
熊だけではない。狼の群れも、毒を持つ大蛇も、私たちの気配を感じると、まるで王族に道を譲るかのように姿を隠した。
それはワラ兵衛の異様な姿を警戒したからかもしれない。
あるいは、私の身に纏う「ナトゥー」の気配――圧倒的な生命の濃さが、野生の本能に「手出し無用」と告げているのかもしれない。
セリーナが機転を利かせて持ち出した僅かな干し肉と固焼きパン。
そして、私が太い蔦を短剣で傷つけると滴り落ちてくる、透明で甘い水。
木の実や果実を見つけては、口に入れた。
森は私たちを拒絶するどころか、招き入れているようだった。
五日目の昼下がり、森の空気が変わった。
今まで肌を刺していた冷気が消え、湿度を帯びた生暖かい風が流れている。
そして、匂い。
腐葉土の土臭さの中に混じる、独特の芳醇な香り。
ただの腐敗臭ではない。
どこか懐かしく、胸の奥がざわつくような濃厚な気配。
(こっちよ……)
左手首の藁縄が、脈打つように熱を帯び、強く私を呼んでいる。
迷いはない。まるで、長い長い旅を終えて、ようやく家に帰るような感覚だった。
「……ナタリー様、この匂いは」
「ええ。何かが、呼んでいるわ」
藪を抜けると、突然視界が開けた。
「あっ……」
私は息を呑み、立ち尽くした。
そこは、巨木に囲まれた小さな円形の広場だった。
天井のように覆い被さる枝葉の隙間から、一筋の光がスポットライトのように差し込み、中央に鎮座する苔むした巨大な岩を照らしている。
風が止まり、鳥の声すらしない。聖域のような静寂。
「ナタリー様、ここは?」
「……私が、最初に目覚めた場所」
記憶の霧が晴れていく。
奴隷商人に捕まる直前。私はすべての記憶を失い、この岩のそばで倒れていたのだ。
あの時は、自分が何者かも分からず、ただ恐怖に震えて森を彷徨った。
けれど今は違う。
私はここへ「戻ってきた」のだ。
私が苔むした岩に歩み寄り、そっと手を触れた、その時だった。
——ドクン。
左手首の藁縄が激しく脈打ち、青白い光を放った。
それに呼応するように、岩の周囲の地面から、無数の黄金色の粒子が舞い上がった。
それは胞子か、あるいは光の粒か。
黄金の粉は空中で渦を巻き、やがてうっすらと一人の女性の形を象り始めた。
長い耳。慈愛に満ちた瞳。そして、どこか儚げで美しい佇まい。
「あ、ああ……」
後ろでセリーナが膝をつく気配がした。
無理もない。その姿は、教会の肖像画とは違うけれど、彼女が幼い頃から焦がれ続けた伝説の存在そのものだったからだ。
「……ようこそ、ナタリー」
光の女性が、鈴を転がすような声で私を呼んだ。
「貴女は……アリエル?」
「私はアリエルであって、アリエルではない。
この森に刻まれた、百年前の私の記憶の残滓」
彼女はふわりと微笑み、私の左手首を見つめた。
「目覚めたのね。『ナトゥー』の力に」
「ナトゥーの……力」
「ええ。あの藁の龍。
そして藁の兵士たち。
貴女が願った『守りたい』という意志に、彼らが応えた証拠よ。
……よく生きて、ここまで辿り着いてくれたわ」
「教えて、アリエル。
私は一体何者なの? なぜ記憶がないの? なぜ、この力が使えるの?」
私は溢れる疑問をぶつけた。
この世界に来てからずっと抱えてきた不安。ナトゥーとは何なのか。私は何をすればいいのか。
アリエルは寂しげに、けれど力強く首を横に振った。
「ここで全てを話すには、私の時間は短すぎる。
それに……ここはただの入り口に過ぎないわ」
アリエルが背後の森の深淵を指差した。
そこには道などない。
ただ、太古から続く巨木の根が、複雑に絡み合っているだけだ。
「この先には、かつてのエルフの都が眠っている。
私の研究も、この世界の真実も、すべてそこに残してきたわ」
「この先に……?」
「行きなさい、ナタリー。
貴女自身で確かめるの。
貴女の力の正体、そして、貴女がこの世界で何を成すべきかを」
彼女がそう告げると、奇跡が起きた。
指差した方向の巨木たちが、ゴゴゴゴ……と低い音を立てて動き出し、絡み合った根が解け、地下へと続く一本の道を作り出したのだ。
その奥からは、目も眩むような黄金色の光が漏れ出し、未知なる風が吹き上げてくる。
「恐れないで。精霊たちは貴女の味方よ」
アリエルは最後に茶目っ気たっぷりにウインクをすると、ふわりと弾け、無数の光の粒子となって森へと還っていった。
静寂が戻った森の中で、私は開かれた道を見つめた。
この先に、答えがある。
私が何者で、この不思議な力で何ができるのか。
それはきっと、私が想像しているよりもずっと大きく、困難な真実かもしれない。
「……行きましょう、セリーナ」
私は顔を上げた。
迷いはもう、微塵もなかった。
「はい。どこまででもお供します、ナタリー様」
セリーナが立ち上がり、私の隣に並ぶ。
私はアリエルが指し示した道へと一歩を踏み出した。
ただ逃げるための旅は終わった。
ここからは、自分を知るための冒険が始まる。
森の闇の向こうで、黄金の光が私たちを待っていた。
(第一部・完)




