奴隷市場 +納豆レシピ
「おい、歩け! とっとと歩け!」
怒号とともに背中を強くど突かれる。
私はよろめき、石畳に膝を強打した。
「……っ!」
声にならない痛みが走る。
擦りむいた膝が、ジンジンと熱を帯びていく。
文句を言う余裕すらない。
森で私を捕獲した男たちは、街に入るなり私を荷馬車から引きずり下ろした。
まるで家畜を納品するような手際で、小汚い路地裏の建物へと私を引き渡す。
裏口から入ったその場所は、表の賑わいからは想像もつかないほど陰惨な空気に満ちていた。
私は物のように扱われ、視線だけで値踏みされた。
そしてすぐに、屈強な男たちに両脇を抱えられ、地下へと続く暗い階段へ。
一歩降りるごとに、空気が重く、湿り気を帯びていくのがわかる。
鼻を突くのはカビと錆。そして、排泄物が混じったような強烈な悪臭。
肺に入れるのを躊躇うほどに、空気そのものが腐っている。
「入れ!」
錆びついた鉄格子が開く、嫌な金属音。
背中を蹴られ、私は冷たい石の床に転がった。
ガシャン、と重い音が響き、世界が閉ざされる。
(……最悪だ)
石造りの地下牢は、想像していた異世界ファンタジーのようなロマンチックな場所ではない。
ただただ劣悪で、リアルに汚い。
薄暗く、ジメジメした空気が肌にまとわりつく。
壁には得体の知れないシミがあり、隅の方で何かがカサカサと動く気配がする。
鉄格子の向こうにある松明の頼りない灯りだけが、今の私に残された唯一の光だった。
痛む身体を起こし、膝を抱えて座り込む。
視線を巡らせると、鉄格子の向こうや隣の檻には、先客たちがいた。
汚れた服を着て髪を振り乱した中年女、小さな子供を抱きしめて震える母親。
向かいの鉄格子の中には、痩せこけて骸骨のようになった老人や、虚ろな目をした大柄な男が寝っ転がっている。
皆、生気を失った瞳で虚空を見つめているか、うつろな目でブツブツと何かを呟きながら震えている。
(ここは……動物保護センターのケージだ)
前世の記憶が重なる。
里親が見つからなければ処分される、哀れな野犬たち。
私たち奴隷は今、その野犬以下の存在なのかもしれない。
(夢じゃないんだね、これ)
改めて、冷酷な現実が胸に突き刺さる。
頬をつねる気力もない。この痛みと臭いが、何よりの証拠だ。
私の頭の中には、依然として二つの記憶が共存している。
東京で納豆を愛し、納豆作り中に酸欠で死んだOLとしての記憶。
そして、この森で生きてきたらしい記憶喪失のエルフとしての記憶。
普通なら発狂してもおかしくない状況だ。
でも、不思議とパニックにはなっていなかった。
(単に私が図太いだけ? それともエルフの精神構造のおかげ?)
今の私には、前世の社会人経験による妙な冷静さと、この過酷な環境に適応しようとするエルフの本能があるようだ。
「どうしよう」と泣くよりも、「どうやって生き残るか」を脳が勝手に計算している。
ふと、無意識に左手首に触れる。
そこには、あの「藁縄の腕輪」が巻かれたままだ。
この古びた粗末な藁縄だけは「ゴミ」と判断されたのか、あるいはきつく編み込まれていて外すのが面倒だったのか、奪われずに残っていた。
指先で藁の感触を確かめる。
チクチクとした粗い手触り。でも、不思議と温かく、指先から伝わる感覚だけが、私を正気に繋ぎ止めてくれる。
前世で愛した納豆を思い出させてくれる、唯一のよすが。
藁を撫でていると、ささくれ立った心が少しだけ凪いでいくのがわかった。
これからどうなるのか。
考えても仕方がない未来への不安を打ち消そうとすると、唐突に、全く別の渇望が湧き上がってきた。
——納豆だ。
この絶望的な状況下で、私の脳裏を占めたのは高尚な希望ではなく、食欲だった。それも、特定の味への強烈な飢え。
隣には、うつむいて座り込んでいる中年の女がいる。
不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、目を閉じている。
私は誰かと話さずにはいられず、意を決して小さく声をかけた。
「あの……」
女は億劫そうに片目を開け、こちらを睨むように見た。
「あんた、エルフかい。……珍しいね、初めて見たよ」
「そう、みたい。私も他のエルフは知らないの」
「ふん。あんたみたいな綺麗な髪してりゃ、すぐに誰かに買われるさ。私なんか、いつまで経ってもここを出られやしない」
女は鼻で笑い、再び目を閉じようとした。
その前に、私はどうしても聞きたいことを口にした。食い気味に。
「ねぇ……ところで、ここには納豆ってあるの?」
「はあ?」
女が怪訝そうに顔をしかめる。
「『なっとう』? 何だい、それ」
女の反応に、私は思わず身を乗り出した。知らないのか。この世界の住人は、あの神の食べ物を知らないのか。
「お豆ですよ! こう、蒸した大豆を藁に包んで、温かいところに置いて……じっくりと時間をかけて『変化』させるんです」
「……変化?」
「はい! そうすると茶色くなって、お箸で混ぜると糸を引くようになるんです。独特の香りがあって……少し靴下の匂いに似てるかもしれませんけど、食べると濃厚な旨味が口いっぱいに広がって……それを白いご飯にかけると、もう死んでもいいくらい幸せになれるんです!」
薄暗い牢獄の中で、私の瞳だけが異様に爛々(らんらん)と輝いていたのだろう。
女は気味悪そうに身を引いた。
「靴下の匂いがする、糸を引く豆だって? ……あんた、それ、腐ってるだけじゃないのかい?」
「腐ってません! 美味しくなってるんです! ネバネバの成分は体に良くて、血液もサラサラになるんですよ! あぁ、想像しただけで口の中が……!」
「気持ち悪いこと言うんじゃないよ! ただでさえ腹が減ってるのに、吐き気がしてくらぁ!」
女は心底不愉快そうに怒鳴り、私から距離を取った。
「まったく、エルフってのは変わったもんを食うんだね……」
とブツブツ言いながら背中を向ける。
私はしょんぼりと肩を落とした。
ああ、伝わらない。この情熱が、この愛が。
納豆がない世界なんて、地獄と変わらないじゃないか。
「……おい、静かにしろ。来るぞ」
誰かが囁いた。
私の納豆演説のせいで弛緩しかけていた空気が、一瞬で張り詰める。
鉄格子の向こうから、カツーン、カツーンと、規律正しい足音が近づいてくる。
現れたのは、奴隷商人の手下ではない。
白い衣に十字架の紋章をつけた、二人組の男たちだった。腰には剣を帯びている。
(あれは……教会の十字架?)
その時、さっきまで不機嫌そうにしていた隣の女が、鋭く低い声で私に囁いた。
「あんた、その耳! 隠しな!」
「え?」
「早くしな! 教会の連中はエルフを嫌ってるんだ。目ェつけられたらタダじゃ済まないよ!」
女の必死な形相に私は慌て、服が髪と耳に被さるように、うつむいて頭を隠した。
この世界において、教会は絶対的な権力を持っている。
人々の精神的な支柱であると同時に、異端を狩る厳しい監視者。
特に人ならざる者への視線は厳しいらしい。
「異端の気配はないか?」
「今のところは。……ふん、薄汚いやつらばかりだな」
教会の兵士たちは、ハンカチで露骨に鼻を押さえながら、檻の中を見回した。
まるで汚物を見るような目だ。
私の前を通る時、心臓が早鐘を打ったが、隠れた尖った耳には気づかなかったようだ。
「異端者なんて、ここには居ませんよ。ただの家畜……いえ、奴隷ですから」
ここの商人らしき男が、揉み手をしながら卑屈な笑みを浮かべる。まるでエルフなんていないかのように。
兵士たちは興味なさそうに鼻を鳴らすと、そのまま通り過ぎていった。
彼らの白い背中が見えなくなると、地下牢全体の空気がわずかに緩んだ気がした。
「……ふぅ」
私は大きく息を吐き、隣の女を見た。
「あ、ありがとう。助かったわ」
「礼には及ばないさ。あんたみたいな世間知らずが、つまらないことで処分されるのは寝覚めが悪いからね」
女はぶっきらぼうにそう言うと、また膝を抱えて目を閉じた。
ここにいる誰もが、自分たちを売り飛ばす商人よりも、あの白い衣の集団を恐れている。
(この世界、なんだかすごく窮屈そうだ……)
宗教が権力を持ち、異種族が迫害される世界。前途多難すぎる。
そんなことを考えていると、今度は下卑た笑い声とともに、見慣れた奴隷商人の親玉らしき小男がやってきた。
「おいお前ら、立て! お客様がいらっしゃったぞ!」
鉄格子が乱暴に開けられる。
私たちは鎖に繋がれたまま、地上へと引きずり出された。
◇ ◇ ◇
太陽の光が、網膜を焼くように眩しい。
市場の喧騒。行き交う人々。土埃の匂い。
私たちは建物の前に引き出され、一列に並ばされた。
まるで、スーパーのワゴンセールだ。
ただ、そこに並べられているのは野菜ではなく、人間や亜人という名の「商品」だけれど。
「さあさあ、見ていってくれ! 今日は珍しいエルフの上玉が入ったばかりだ!」
商人のダミ声が響く。
買い手らしき男たちが、品定めするように私たちの前を行き交う。
全身に突き刺さる、値踏みするような視線。
不快だ。肌の上を蛞蝓が這うような嫌悪感。
前世では商品管理をする側だったのに、まさか自分が在庫として管理される側になるとは。
「その女がエルフか?」
不意に、太く落ち着いた男の声が落ちてきた。
顔を上げる。
目の前に、恰幅の良い中年の男が立っていた。
四十代半ばくらいだろうか。日焼けした肌に、手入れされた口髭。
身なりは良いが、貴族というよりは裕福な地主といった雰囲気だ。
その瞳には、他の客のような欲望や侮蔑の色はなく、何かを探すような理知的な光があった。
「お目が高い! こいつは野良のエルフですが、魔法が使えます」
「少し値が張りますが、エルフは滅多にお目に掛かれませんぞ」
商人がここぞとばかりに売り込む。
「魔法か。……ほう」
男——マーカス・グランヴェルは、興味深そうに私を見下ろした。
「おい、エルフの娘」
マーカスが私に直接問いかけた。
「お前、どんな魔法が使える?」
「温めたり、冷やしたり、風を吹かせたり……でも、ほんの少しだけ」
私はエルフの記憶を必死に手繰り寄せて答えた。
「……それだけか?」
マーカスは顎に手を当て、少し落胆したように唸った。
もっと派手な、農地の開拓や害獣駆除に使える魔法を期待していたのだろう。
「魔法以外に何かできることはあるか?」
試すような視線。
私は一瞬、言葉に詰まった。
何を言えばいい?
「美味しい納豆が作れます」なんて言ったら、さっきの女と同じ反応をされるだけだ。「腐った豆を食う変人」扱いされて売れ残れば、あの地下牢へ逆戻り。それだけは避けたい。
生き残るためには、自分に価値があることを証明しなければならない。
私は、自分の中にある二つの記憶を脳内検索し、この世界で通用しそうなスキルを絞り出した。
「……読み書きが、できます」
「なに?」
「それと、計算も」
「ば、馬鹿な!」
叫んだのは商人の方だった。
「野良エルフが読み書きだと? 適当なことを言うな! 教育も受けてねえ奴隷が!」
「本当か?」
マーカスは商人を無視して、私の瞳をじっと覗き込んだ。
「はい。……いちおう」
嘘ではない。
エルフの記憶の底には、なぜか高度な教育を受けた形跡がある。この世界の文字も、数字の概念も、不思議と頭に入っていた。
前世の義務教育と、エルフの謎の知識。それが奇跡的に噛み合っている。
マーカスは懐から一枚の紙を取り出し、私の目の前に突き出した。
「これを読んでみろ」
商品の取引契約書のようなものだ。細かい文字と数字の羅列。
私は目を凝らした。
読める。文字の意味が、日本語に変換されて脳に流れ込んでくる。
「……小麦粉の大袋が五十、塩漬け肉の樽が十……締め切りは来月の満月の日……」
すらすらと読み上げると、マーカスは数秒間、私を見定めた後、豪快に笑った。
「はっはっは! 面白い! こいつは拾い物かもしれんな」
彼は懐から革袋を取り出し、商人に放り投げた。
ジャラリ、と重たい音がする。中身を確認した商人の目が、金貨の輝きに釘付けになった。
「よし、このエルフの娘を買う」
「ま、毎度ありーーーっ!」
商人の下品な歓喜の声を背に、私はマーカスに連れられてその場を後にした。
◇ ◇ ◇
繋がれていた鎖は外されたが、手首は縄で縛られたまま。
私は彼が用意した幌付きの荷馬車へと乗せられた。
「行くぞ」
御者への短い合図とともに、車輪が回り出す。
窓の外を流れていく街並み。遠ざかる教会の尖塔。
街の外へ向かうにつれ、石造りの建物は減り、藁葺き屋根の木造建築が増えていく。
私は揺れる車内で、左手首の藁縄の腕輪をぎゅっと握りしめた。
これからどこへ連れて行かれるのかは分からない。けれど、あの地下牢よりはマシなはずだ。
私は奴隷になった。
でも、生きている。今は、それでいい。
荷台の隅で、深く息を吐き出す。
張り詰めていた緊張の糸が緩んだ、その瞬間だった。
身体の奥底から、どうしようもない衝動が突き上げてきた。
——ぐぅぅぅ。
間の抜けた音が、私のお腹から盛大に響く。
恥ずかしさで頬が熱くなるが、生理現象には抗えない。
そういえば、転生してから水一滴すら飲んでいないのだ。
空腹を感じた瞬間、私の脳裏を占拠したのは、この世界の美食ではない。
さっき地下牢で語ってしまったせいで、余計に鮮明になってしまった、あの「茶色くてネバネバした」ソウルフードだった。
(ああ……納豆が食べたい)
(食べたい……死ぬほど食べたい……!)
口の中に幻の唾液が溢れてくる。胃袋がキリキリと痛むほどに。
けれど、悲しいかな、ここは異世界。
エルフの記憶のどこを探っても、そんな食べ物の知識は欠片もない。
窓の外には、見知らぬ景色が流れていく。
私は空腹と、強烈な望郷の念を抱えながら、小さく丸まった。
今はただ、馬車の揺れに身を任せることしかできなかった。
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【ネバり姫の納豆料理】至高の「納豆かけご飯」
「納豆かけご飯」。
それは前世の私にとって、単なる食事ではない。一日の終わりを締めくくる、至高の晩餐にして神聖なる儀式だった。
まず、豆の選定から戦争は始まっている。
私の正義は、断固として「極小粒」だ。
なぜか? それは「シンクロ率」の問題である。
大豆のサイズが極限まで小さければ小さいほど、ご飯粒のサイズに近づく。つまり、口の中に入れた時、米と豆が異物感なく完全なるユニゾンを奏でるのだ。
「それなら、最初から砕いてある『ひきわり納豆』の方がいいのでは?」
そう反論する素人もいるだろう。だが、甘い。砂糖入りの卵焼きくらい甘い。
ひきわり納豆は、豆を細かく砕く工程で、大豆の皮が取り除かれてしまうのだ。確かに消化吸収はいいし、離乳食には最適だろう。だが、我々が求めているのは大豆本来の野性味。皮に含まれる栄養素や、あの粒こそが「納豆を食べている」という実感に繋がるのだ。
ご飯と一緒に咀嚼した時、大豆が主張しすぎず、かといって埋没もしない。
そのギリギリのラインを攻めるなら、柔らかめに蒸し上げられた「極小粒」一択となる。
次は撹拌だ。
お椀に納豆、タレ、刻みネギを投入し、箸を構える。
ここからはスポーツだ。ゆっくり、のんびり混ぜていてはいけない。
手首の回転を効かせ、30回ほど一気に、かつ勢いよく混ぜる!
空気を抱き込ませるのだ。納豆菌が作り出したネバネバ成分(ポリグルタミン酸)に酸素を供給し、白く泡立つまで撹拌することで、食感は驚くほどフワフワになる。これが旨味のエアレーションだ。
そして、舞台を整える。
湯気が立つほどの熱々の白いご飯を茶碗によそう。
米粒が立ち、照明を反射して艶やかに光る白米。最高のステージだ。
そこへ、お椀の中で極限まで高められた納豆を、豪快にダイブさせる。
細かく刻んだ長ネギの鮮烈な緑と、ほんのり甘い鰹だしタレの香りが鼻孔をくすぐる。
さらに、海苔だ。湿気た海苔など言語道断。軽く火であぶり、パリパリになったところを指でちぎってパラパラと振りかける。磯の香りのアクセントを追加するのだ。
ここで注意してほしいのが、薬味の選定である。
添付の「からし」に手を伸ばそうとしたあなた、ストップ。
からしのツンとした刺激は、納豆の繊細な芳香をマスキングしてしまうと考えている。
私の流儀は、茶碗の縁にちょこんと添える「わさび」だ。
清涼感のある辛味が、濃厚な納豆の後味を引き締めてくれる。
そして最後に、これだけは言わせてほしい。
——卵の黄身は、載せるべからず。
多くの人がやりがちな「卵黄のせ」。映えるし、美味しいのは認める。だが、それは納豆かけご飯ではない。「卵かけご飯の納豆入り」になってしまうのだ!
黄身の濃厚なまろやかさは、エッジの効いた納豆の風味を膜で覆い、優しくボヤかしてしまう。
私はその妥協を許さない。納豆と真剣に向き合いたいなら、卵というオブラートは捨てるべきだ。
準備は整った。
一気にかきこむ。
ガツンとくる納豆の芳香、ネギのシャキシャキ感、ダシの旨味、海苔の海の香り、そして白米の甘み。最後にわさびが鼻に抜ける。
それらが口の中で渾然一体となり、喉を通り過ぎる瞬間の幸福感……。
ああ、想像するだけで涙が出てきた。これぞ、日本の心だ。
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納豆料理レシピ
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◆ 至高の納豆かけご飯
◑材料
・納豆(極小粒推奨)
・長ネギのみじん切り
・醤油だれ(添付のモノでも自家調合でも)
・焼き海苔
・わさび
・炊きたての白米
◑作り方
1.納豆、タレ、ネギを器に入れ、白くなるまで高速で30回混ぜる。
2.熱々の白米ご飯にかける。
3.炙った海苔をちぎって散らし、わさびを添える。
4.感謝して食べる。




