逃亡の行方
カツーン……カツーン……。
音は、暗闇の向こうから、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。
セリーナが押し殺した声で囁く。
「……ナタリー様、絶対に顔を出さないでください」
私はセリーナの背中にしがみつき、ガタガタと震える膝を抑えた。
怖い。
見つかったら終わりだ。
さっきのような奇跡の力が、都合よく何度も起きるとは限らない。
馬車の周囲には明かりを掲げ、剣を帯びている男達。
彼らは油断なく周囲を警戒しながら、一歩一歩、私たちの方へ近づいてくる。
「ここも調べるんだ」
男たちの声が聞こえる。
もう、目の前だ。
私は恐怖で縮こまり、ギュッと目を閉じた。
頼れるものはもう何もない。神に祈るように息を止める。
ふと、動いた明かりで馬車の姿が闇に浮かび上がった。
私はセリーナの肩越しに、恐る恐るその馬車を見た。
(……え?)
違和感があった。
教会から捜索に来た馬車にしては、装飾が華美すぎる。
漆黒の車体に、金色の縁取り。そして、扉に描かれた大きな紋章。
盾の中に描かれた、天秤と麦の穂。
(あれは……!)
記憶がフラッシュバックする。
グランヴェル農園。月に一度、賑やかにやってくる商隊。
あの日、私にこっそり大豆を渡してくれたエリザベスの叔父様。
私は慌てて視線を男たちに移した。
カンテラを持つ彼らの服。
黒い服だが、胸に教会の「十字架」がない。
腰に下げているのも、儀礼用の剣ではなく、荒事になれた傭兵が使う実戦用の剣だ。
(教会の兵士じゃない……!)
ドクン、と心臓が跳ねた。
あの紋章は、グレイソン商会。
エリザベスの実家の紋章だ。
「……待って、セリーナ」
私は震える足に力を込め、立ち上がった。
「ナタリー様!? ダメです、動いては。隠れていて!」
セリーナが慌てて制止しようとする。
けれど、私は彼女の手を振りほどき、前に出た。
自分でも信じられないほど大胆な行動だった。
でも、直感が叫んでいたのだ。「あれは敵じゃない」と。
私は路地の陰から、ゆっくりと馬車の前へと歩み出た。
「誰だ!」
護衛の男たちが一斉に私に剣を向けた。
殺気立った空気が肌を刺す。
カンテラの光が、私の顔を、そして銀色の髪を照らし出した。
その時。
馬車の傍らに立っていた、一際体格の良い男が目を見開いた。
「やめろ! 剣を引け!」
男が叫び、部下たちを制した。
彼はカンテラを掲げ、信じられないものを見るように私を見つめ、一歩踏み出した。
「……ナタリーか?」
その声には、聞き覚えがあった。
低く、厳格で、けれどどこか温かい声。
「……ロバート様」
私が名前を呼ぶと、男——ロバート・グレイソンは、肩の力を抜いて深く安堵の息を吐いた。
「やはり……ここにいたか。商人の勘は当たるもんだな」
ロバートは素早く私たちに近づくと、周囲を警戒しながら廃屋の中へと押し戻した。
「早く中へ。教会の嗅覚は鋭い。長居は無用だ」
廃屋の中で、ロバートは私とセリーナに向き直った。
その目には、本心からの安堵の色が浮かんでいた。
「無事でよかった……。本当に、無事で」
「ロバート様……どうして、ここが?」
私が尋ねると、ロバートは懐から一枚の手紙を取り出した。
「エリザベスから連絡があったんだ。数日前にな」
「エリザベス様から……?」
「ああ。『ナタリーが王都へ連れて行かれた。至急、助けを求む』とな」
エリザベスは、私が教会に連行された直後に、叔父であるロバートに助けを求めていたのだ。
「その手紙を受け取ってすぐ、俺はエリザベスの父エリックとグレイソン商会の情報網をフル稼働させた。
お前が連行されたこと、火刑が決まったこと、そして……今日、火刑台で『何か』が起きて逃走したこと。
すべて把握している」
ロバートは真剣な眼差しで私を見た。
「ドラゴンブレスのアジトが襲撃されたと聞いて、肝が冷えたぞ。
俺たちは逃走経路になりそうなスラム街をしらみ潰しに探していたんだ。
教会の連中より先に見つけられてよかった」
涙が溢れそうになった。
エリザベスは、そしてロバートは、危険を顧みずに私を探し続けてくれていたのだ。
「さあ、来るんだ。馬車に隠れれば分からない」
ロバートは言った。
「エリザベスからの伝言だ。『農園にかくまうから、連れて帰ってきて』とな」
農園に。
懐かしい場所。ソフィアやトーマスがいる、あの家。
帰りたい。心からそう思った。
温かいスープと、柔らかいベッド。そして何より、私の帰りを待ってくれている「家族」の元へ。
でも——。
「……いいえ」
私は首を横に振った。
声が震えないように、唇を噛み締めて。
「ロバート様。お気持ちは本当に嬉しいです。
でも……農園には戻れません」
「なに? なぜだ」
「教会は、私を『魔女』として血眼になって探しています。
もし農園にかくまわれていることがバレたら……今度こそ、グランヴェル家は終わりです。
今回の事で、この先どうなるかもわからないのでしょう?」
私が戻れば、彼らを破滅させることになる。
あの優しい場所を、私のせいで灰にしたくない。
「エリザベス様たちを、巻き込むわけにはいきません。
私はあの農園に近づいてはならないのです」
ロバートは苦渋の表情を浮かべた。
「エリザベスは、そんなこと気にしていない。お前を家族だと思っているんだぞ」
「分かっています。だからこそ……私が気にしなきゃいけないんです」
私はロバートを真っ直ぐに見つめた。
ただの「納豆好きのエルフ」だった私が、初めて自分の意志で選んだ道だ。
「私は、北へ行きます」
「北だと?」
「はい。『エルンの森』へ」
隣で話を聞いていたセリーナが、ハッと息を呑んだ。
王都の北にある、深い森。王国最大の原生林だ。
「私が、最初に目が覚めた森に行きたいんです」
「最初に目覚めた森……?」
「ええ。私、奴隷商人に捕まる前に、あの森で目が覚めたの。
記憶が何もなくて、どこにいるのかも分からなくて……そこで捕まったのよ」
左手首の藁縄を触る。
さっき、青白く光って私を守った力。
この力の源を知りたい。
「私がなぜ記憶を失っていたのか。
なぜ『ナトゥーの精霊』なんてものを使えるのか。
……きっと、あの森に答えがあるはずよ」
教会の言う通り、本当に邪悪な力なのか。
それともアリエルが言ったように、守る力なのか。
それを知らずに、ただ逃げ回ることはできない。
ロバートはしばらく私を見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「……どうしたものかな。エリザベスに怒られる」
「ごめんなさい……」
「いや、いい。お前の目は、覚悟を決めた者の目だ。
商人の勘が言っている、止めても無駄だってな」
ロバートはニヤリと笑った。不敵な、大商人の笑みだ。
「分かった。
お前の意志を尊重しよう。
だが、ここから北へ抜けるには城門を通らなきゃならん。
今は非常警戒態勢だぞ」
「はい。それが問題で……」
「心配するな。俺たちの商隊は『王家御用達』だ。城門の兵士も顔パスで通れる」
「えっ?」
「荷物の積み替えと称して、お前たちを荷馬車の二重底に隠す。
……明日の朝、俺たちの荷物に紛れて王都を出ろ。
そこから北の森の近くまで送ってやる」
「ロバート様……!」
地獄に仏とはこのことだ。
王家御用達の商隊なら、教会の兵士といえども簡単には手出しできない。
ロバートは満足げに頷くと、明日の出発の手筈を整えるために立ち上がった。
「では、明日の朝——」
「待ってください、ロバート様」
私は慌てて彼を引き止めた。
「まだ何かあるか?」
「お願いがあります。……もう二つだけ」
私は真剣な眼差しでロバートを見つめた。
「一つ目は、別れる場所についてです。
北の森の近くまで送ってくださると言いましたが……王都から離れ、街道の監視が緩くなる辺りで、私たちを降ろしてください」
「なに? だが、森まではまだ距離があるぞ」
「これ以上、ロバート様たちを危険に晒したくないんです。
万が一、途中で検問があったり、追手に追いつかれたりしたら、商隊ごと巻き込んでしまいます」
私の決意の固さを感じ取ったのか、ロバートは渋い顔をした。
「……分かった。だが、足はどうする? 女二人で歩いて森まで行く気か?」
「そこで、二つ目のお願いです」
私は息を吸い込んだ。
「私たちに、小さな幌付きの馬車を一台、譲っていただけませんか?
古くても構いません。一頭立てのものでいいんです」
「馬車か……。確かに商隊には予備の馬車があるが、誰が操るんだ?」
「私がやります」
即座に声を上げたのは、セリーナだった。
「私、実家が農家でしたから。馬の扱いは慣れています。御者はお任せください」
セリーナが自信ありげに胸を叩く。頼もしい。
ロバートは少し考え込み、頷いた。
「いいだろう。古い荷馬車でよければ用意できる。
王都を抜けた先の、丘の向こうで引き渡そう。
そこからなら馬車で半日も走れば森に着くはずだ」
「ありがとうございます!」
「だが、空の馬車じゃ怪しまれるな。
何か積荷をカモフラージュに乗せておくか? 木箱とか、樽とか……」
「藁を」
私は食い気味に言った。
「え?」
「藁をお願いします。それも、荷台がいっぱいになるくらい、とにかく沢山」
ロバートとセリーナは、きょとんと顔を見合わせた。
「藁だって? ……ああ、なるほど」
ロバートが納得したようにポンと手を打った。
「荷台に藁を積んで、その中に隠れながら移動するつもりか。
確かに、それなら検問があっても中身をごまかしやすいし、布団代わりにもなるな。いい考えだ」
「はい、そうです。……身を隠すために」
私はあいまいに微笑んで頷いた。
ロバートも、セリーナも、そう思っているだろう。
「藁はただの隠れ蓑」だと。
でも、私の考えは違った。
左手首の藁縄をそっと撫でる。
今の私にとって、藁はただの枯れ草ではない。
藁があれば、きっと何かができる。
これは逃げるための準備ではない。戦うための準備なのだ。
「分かった。馬の飼料用の藁をかき集めておく」
ロバートは私の言葉に従って快諾してくれた。
「ありがとうございます……」
ロバートは食事と毛布を置いて、明日の出発に備えて戻っていった。
廃屋に残された私とセリーナ。
私は彼女に向き直った。
「セリーナ」
「はい」
「本当にありがとう。あなたは、ここまででいいわ」
セリーナが驚いたように顔を上げる。
「ロバート様が守ってくれるなら安心よ。
あなたはこの商隊と別れたら、安全な場所へ逃げて。これ以上、私と一緒にいたら……」
「嫌です」
セリーナは即座に言った。私の言葉を遮って。
「私は、ナタリー様のお供をします。絶対に離れません」
「でも、これからはもっと危険になるわ。
それに、森の奥へ行くのよ?
もうここには戻れないかもしれないのよ?」
「構いません」
セリーナは私の手を強く握りしめた。その手は温かく、力強かった。
「私は誓ったんです。
曾祖父が聖女アリエル様を守れなかった無念を……私が晴らすと。
ナタリー様がどこへ行こうと、私があなたを守ります」
彼女の瞳には、揺るぎない決意があった。
ドラゴンブレスの命令でもない。教会の弾圧への復讐でもない。
彼女自身の意志だ。
「でも……。分かったわ」
私は彼女の手を握り返した。
「ありがとう、セリーナ。……頼りにしているわ」
「はい!」
私たちは毛布にくるまり、体を寄せ合って眠りについた。
窓の外の闇はまだ深い。
けれど、もう恐怖で震えることはなかった。
明日、王都を出る。
大量の藁を積んだ馬車と共に。
そしてエルンの森へ。
そこで何が待っているのかは分からない。
でも、私には味方がいる。
セリーナが、ロバートが、そして少し遠くにいるエリザベスが。
左手首の藁縄が、微かに温かい。
(行こう。答えを探しに)
私は心の中でそう呟き、目を閉じた。




