夜襲
夜風に吹かれ、少しだけ冷静さを取り戻した私たちは、倉庫の裏口から静かに中へと戻った。
「ナタリー様、今夜はもうお休みください。
ここは安全ですから、これからのことは、明日また考えましょう」
「ええ……ありがとう、セリーナ」
セリーナに見送られ、私はあてがわれた部屋に入った。
ベッドに腰を下ろす。
窓の外は完全な闇だ。静寂が、耳に痛いほど張り詰めている。
(戦うか、逃げるか……)
答えは出ない。
けれど、セリーナの温かい言葉だけが、胸の奥で小さく灯っていた。
私は疲れ切った体を横たえた。思考が溶けていく。
いつの間にか、私は眠りへと落ちていた。
その静寂が破られたのは、深夜のことだった。
——ドォォォォォン!!
轟音。
建物全体が揺れ、天井から埃がバラバラと落ちてくる。
私は跳ね起きた。
「な、なに!?」
続けざまに聞こえてくる、金属がぶつかり合う音。男たちの怒号。悲鳴。
「敵襲だ!!」
「教会の兵士だ! 門が突破されたぞ!」
廊下から聞こえる叫び声に、全身の血が凍りついた。
嘘でしょう?
ここは見つからない秘密のアジトのはずだ。どうして?
バンッ!
部屋の扉が乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、血相を変えたセリーナだった。
「ナタリー様! 起きてください!」
「セリーナ、一体何が……」
「教会の執行部隊です! アジトの位置が、ここが知られました!」
セリーナが私の腕を掴み、無理やり引き立たせる。
「逃げます! 早く!」
「で、でも、みんなは……!」
「今はナタリー様の命が最優先です! ディートリヒの厳命です!」
セリーナに引かれ、私は廊下へと飛び出した。
そこは地獄だった。
煙が立ち込め、視界が悪い。
あちこちでドラゴンブレスのメンバーと、黒い戦闘服に身を包んだ教会の兵士たちが斬り結んでいる。
でも圧倒的な戦力差だ。
発酵を愛する職人や市民が主体のドラゴンブレスに対し、教会兵は闘いのプロフェッショナルだ。
次々と仲間たちが倒されていく。
「こっちです!」
セリーナが叫ぶ。
その時、大広間の方から爆発音が響いた。
思わず視線を向ける。
そこには、凄惨な光景が広がっていた。
「うおおおおおっ!」
ディートリヒが、巨大な戦斧を振るい、鬼神の如く戦っていた。
だが、彼の体には既に無数の矢が突き刺さっている。
その足元には——。
ロレンツが倒れていた。
胸を赤く染め、ピクリとも動かない。
その横には、マルタも。ハインリヒも。
つい数時間前、「聖女万歳」と笑い合い、酒を酌み交わした人々が。
物言わぬ肉塊となって転がっている。
「ロレンツ……! マルタさん……!」
悲鳴のような声が出た。
私のせいだ。私がここにいるから。
私という「魔女」を狩るために、彼らは巻き添えになったのだ。
「ナタリー様! 見ないで! 止まらないで!」
セリーナが私の視界を遮るように引っ張った。
「行きましょう! 彼らの死を無駄にしないで!」
兵士の一人がこちらに気づいた。
「いたぞ! 銀髪のエルフだ!」
「ナトゥーの魔女だ! 逃がすな!」
黒い集団が、雪崩のようにこちらへ向かってくる。
「走って!!」
セリーナの叫びと共に、私たちは駆けた。
扉を蹴破り、夜の路地裏へと飛び出す。
冷たい夜気が肺を刺す。
心臓が破裂しそうだ。足がもつれる。
でも、止まれば殺される。
「あっちです! スラム街へ!」
セリーナが先導する。
入り組んだ路地、腐ったゴミの山、崩れかけた壁、道端でうずくまっている老人。
迷路のようなスラム街を、私たちは泥にまみれて走った。
「はぁ……はぁ……」
追手の足音は遠のいただろうか。
角を曲がり、さらに狭い路地へ入ろうとした、その時だった。
「——待ち伏せとは、芸が無かったか?」
前方から、冷ややかな声が降ってきた。
ハッとして足を止める。
路地の出口を塞ぐように、三つの影が立っていた。
月明かりに照らされたのは、教会の紋章が入った黒い鎧。
精鋭騎士と異端審問官だ。
「予測通りだ。ネズミは必ず暗がりへ逃げる」
異端審問官は得意気なにやけ顔をこちらに向けた。
「見つけたぞ、ナトゥーの魔女」
後ろを振り返る。
後には炎で燃えさかるアジトの建物だ。
後戻りはできない。
「ここまでで……終わり、なの?」
絶望が胸を塗りつぶす。
ディートリヒも、ロレンツも死んだ。そして私も、ここで終わる。
「ナタリー様」
セリーナが一歩前に出た。私を背中で庇うように。
彼女の手には、護身用の小さな短剣が握られている。
震えている。当然だ。彼女は戦士ではない。
刃の持ち方すら危なっかしい、ただの世話役の少女なのだから。
「私が時間を稼ぎます。……その隙に、横の廃屋を抜けて逃げてください」
「な、何を言ってるの!? 無理よ!」
「曾祖父と同じ後悔はしたくないのです!」
セリーナが叫んだ。
「ドラゴンブレスの……
あの方々は、ただ美味しいものを食べたかっただけなのに!
なぜ殺されなければならないのですか!
私は……私は絶対に認めません!」
彼女は叫びと共に、前方の騎士に向かって突進した。
「セリーナ! ダメ!!」
「……邪魔だ」
騎士は、本気で構えることすらしなかった。
迫り来るセリーナを、まるで道端の羽虫を払うかのように、剣の側面で軽くあしらう。
ガキンッ!
「きゃあっ!」
セリーナの短剣はいとも簡単に弾き飛ばされた。
体勢を崩した彼女は、そのまま勢い余って地面に転がった。
「セリーナ!!」
私は駆け寄った。
よかった、血は出ていない。ただ、強く打ち付けたせいで息が詰まっているようだ。
「……うぅ」
セリーナが苦しげに呻く。
圧倒的な力の差。騎士にとって、彼女など殺す価値もない障害物でしかなかったのだ。
「無駄な抵抗だ。さあ、魔女よ。大人しく捕まって——裁きを受けろ」
異端審問官が、冷たい瞳で私を見下ろし、一歩踏み出した。
恐怖で体が動かない。
殺される。焼かれる。
嫌だ。死にたくない。
でも、それ以上に——。
(許さない)
心の奥底から、熱い塊が込み上げてきた。
ロレンツを殺した奴ら。マルタを殺した奴ら。
そして今、私を守ろうと盾になったセリーナをあざ笑う奴ら。
(私の大切な人たちを……これ以上、奪わせない!)
ドクン。
左手首が脈打った。
怒りに呼応するように。悲鳴に共鳴するように。
藁の腕輪が、灼熱の熱を帯びる。
「……来ないで!」
私の口から、低い声が漏れた。
騎士が怪訝そうに眉をひそめる。
「なんだと?」
「私の友達に……触るな!!」
私は叫びと共に、左手を騎士たちに向けて突き出した。
カッ!!
目を開けていられないほどの、強烈な青白い光が炸裂した。
左手首の藁縄から、光の奔流が渦を巻いて放たれる。
それは魔法ではない。
数億、数兆のナトゥーの精霊たちの「拒絶」の意志だ。
ドォォォォォン!
見えない巨人に殴られたように、異端審問官と騎士達が吹き飛んだ。
「ぐわぁっ〜!?」
「な、なんだこの力は!?」
騎士たちは路地の壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。鎧がひしゃげ、動かなくなる。
駆けつけた兵士たちも、光の余波に恐れをなして後ずさった。
「ヒィッ……ば、化け物……!」
私は荒い息を吐きながら、自分の左手を見た。
藁縄が、まだ青白く発光している。
怒っている。悲しんでいる。そして、私を守ろうとしている。
「ナタリー様……」
セリーナがふらつきながら起き上がった。
彼女は驚愕の表情で私を見ていた。
「今のは……」
「分からない。でも、やらなきゃいけなかった」
私はセリーナの肩を抱いた。
「立てる?」
「は、はい……打ち身だけです。走れます」
「行こう。今なら逃げられる」
私たちは、恐怖で動けなくなっている兵士たちを尻目に、再び走り出した。
スラム街の奥深く、誰も追ってこられない闇の中へ。
◇ ◇ ◇
どれくらい走っただろうか。
肺が焼け付き、足の感覚がなくなるまで走り続け、私たちはスラム街の最深部に迷い込んだ。
そこは、王都の光が決して届かない場所。
腐敗臭と、澱んだ空気が充満している。
「……しっ」
セリーナが唇に指を当て、足を止めた。
暗がりに目が慣れてくると、道端のあちこちに黒い塊が転がっているのが見えた。
ゴミの山ではない。人だ。
ボロ布をまとい、泥にまみれて眠る浮浪者たち。
彼らは死んだように眠り、時折、苦しげな咳払いをするだけだ。
「起こさないように……慎重に行きましょう」
セリーナが耳元で囁く。
もし彼らが騒げば、あるいは小銭稼ぎのために通報されれば、追手に居場所を知られてしまう。
私たちは息を殺し、泥濘に足を取られないよう、ゆっくりとした足取りで進んだ。
行く当てなんてない。
城門は封鎖されているだろう。
かといって、こんな場所に留まることもできない。
絶望が、冷たい霧のように心にまとわりつく。
その時だった。
カツーン……カツーン……。
静寂なスラム街には不釣り合いな、硬い蹄の音が響いてきた。
続いて、重厚な車輪が泥を踏む音。
「……!」
私たちは顔を見合わせ、とっさに近くの崩れかけた建物の陰に身を隠した。
心臓の音がうるさいほど響く。
音は、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。
暗闇の向こうから、ぼんやりとしたカンテラの灯りが見えた。
「馬車……?」
私は目を疑った。
こんな貧民窟に、馬車が入ってくるなんてあり得ない。
それも、荷馬車ではない。
闇に浮かび上がったのは、立派な廂のついた、漆黒の大型馬車だった。
窓には分厚いカーテンが引かれ、中の様子は窺えない。
馬車の周囲には、数人の人影が見える。
カンテラを持ち、剣を帯びた男たちが、油断なく周囲を警戒しながら歩いている。
「……間違いないわ」
セリーナが震える声で言った。
「教会の捜索隊が追ってきたのです。馬車を使ってこの区画を探っているのでしょう」
「そんな……」
私は壁に背中を預け、ガタガタと震える膝を抑えた。
こんな狭い路地で、馬車と護衛に見つかったら、もう逃げ場はない。
あの「光の力」も、今はもう腕輪から感じられない。
一度きりの奇跡だったのかもしれない。
馬車は、私たちの隠れている建物のすぐそばまで迫っていた。
車輪の軋む音が、まるで死刑執行のカウントダウンのように聞こえる。
男たちは無言だ。
それが余計に恐ろしい。
怒鳴り声も上げず、ただ静かに、獲物を追い詰める狩人のように周囲に目を光らせている。
「……」
どうしよう。
今度こそ、本当に終わりだ。
私はセリーナの手を冷たい手で強く握りしめ、ギュッと目を閉じた。
頼れるものはもう、何もない。
ただ、神に祈るように息を止めて、その時を待つしかなかった。




