ドラゴンブレス
「……っ」
短く息を吸って、目が覚めた。
心臓がドクンと大きく跳ねる。
体を起こすと、そこは薄暗い部屋だった。
窓の外はすでに夜の闇に包まれている。
(……私、寝てたんだ)
粗末なベッドの上。
火刑台からの逃避行、そしてアジトへの到着。
張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、案内された部屋で横になった瞬間、泥のように意識を失っていたらしい。
どれくらい眠っていたのだろう。数時間か、それとももっと短いか。
記憶が、濁流のように押し寄せてくる。
燃え盛るはずだった炎。
私の願いに応えて顕現した、巨大な藁の龍。
そして、煙幕の中を駆け抜けた記憶。
左手首を見る。藁縄の腕輪は、静かにそこに在った。
昨日の熱狂が嘘のように、今はただの枯れた植物の束に戻っている。
けれど、確かに私は「あれ」を喚び出したのだ。
コンコン。
控えめなノックの音がして、扉が開いた。
「起きていらっしゃいますか、ナタリー様」
現れたのは、この部屋に案内してくれた女性、セリーナだった。
手にはランプを持っている。
「申し訳ありません。お疲れのところ……皆様がお待ちです」
休めと言われたが、やはり事態は急を要するのだろう。
私は顔を洗い、渡された服に着替えた。
農園で着ていた煤だらけのエプロンドレスではなく、動きやすい亜麻色のシャツとズボン。
鏡のない部屋で髪を指で梳かし、深く息を吐いてから部屋を出た。
◇ ◇ ◇
案内された大広間の扉が開かれた瞬間、ムッとした熱気と、独特の——けれど懐かしい匂いが押し寄せてきた。
麹のような甘い香り。チーズの濃厚な熟成香。そして、酸味を含んだパンの香り。
そこはただの倉庫ではなかった。
壁一面に樽や壺が並び、天井からは干し肉が吊るされている。
まるで、巨大な「発酵室」だ。
広間の中央には、数十人の男女が集まっていた。
職人風の男、エプロン姿の女、武器を持った若者たち。
皆、どこか鋭い目をしている。教会の支配に抗う者たちの目だ。
私が姿を現すと、広間のざわめきが波が引くようにピタリと止んだ。
全員の視線が、一斉に私に突き刺さる。
「来たか」
「あらためて……、私はディートリヒだ」
この反乱組織「ドラゴンブレス」のリーダーだ。
大テーブルの上座から、白髪混じりの屈強な男——ディートリヒが立ち上がった。
ランプの灯りに照らされた彼の顔には、深い陰影と、燃えるような情熱が刻まれていた。
彼は力強い足取りで私に近づくと、その太い腕で私の肩を抱き寄せ、集まった数十人の同志たちに向けて高らかに声を張り上げた。
「同志たちよ! 見よ!!」
狭い地下空間に、ビリビリと空気が震えるほどの大音声が響く。
「長きにわたる苦難の冬は終わった! 我らが百年間、血眼になって探し求めてきた希望の星……『ナトゥー』の精霊遣いが、今ここに降臨したのだ!」
オオオオオオッ!!
地響きのような歓声が爆発した。
数十人の拳が突き上がり、目をぎらつかせて私を見ている。
「聖女様だ! 本当に来てくださった!」
「藁の龍を見たか! あれぞまさしく聖女の奇跡!」
「これで教会を倒せるぞ! 我らの勝利だ!」
口々に叫ばれる「聖女」という言葉。
熱狂的な視線。過剰な期待。
私はディートリヒの腕の中で、居心地の悪さに身を縮こまらせた。
「あの……ディートリヒさん、私は……」
「何も言うな。ただそこにいてくれるだけでいい」
ディートリヒは私の言葉を遮り、満足げに笑った。
そして再び仲間たちに向き直り、拳を握りしめた。
「百年前、教会は我々から『食の自由』を奪った!
パンを焼き、酒を醸し、チーズを作る喜びを『罪』とし、我々の父祖を火刑台へと送った!
そして、我々の『身体の健康』までをも彼らが管理し、言いなりにさせられた。」
「そうだ! 許せない!」
「だが、時は来た!
聖女ナタリーとその守護神『藁の龍』の力があれば、あの大聖堂の結界とて紙切れ同然だ!
奪われた誇りを、この手に取り戻す時が来たのだ!」
「ドラゴンブレス万歳! 聖女ナタリー万歳!」
広間は興奮の坩堝と化した。
涙を流して拝む老人すらいる。
彼らにとって私は、一人のエルフではなく、革命のための「旗印」であり「最終兵器」なのだ。
その重圧に、胃がキリキリと痛んだ。
「さあ、祝いの酒だ! 今日は飲み明かせ!」
ディートリヒの号令で、樽が開けられた。
熱気が渦巻く中、彼は私を奥の静かなテーブルへと促した。
「座ってくれ。……少し落ち着いて話そう」
ディートリヒの合図で、ロレンツが木製のジョッキを置いた。中には琥珀色の液体が波打っている。
一口飲むと、炭酸が弾け、スッキリとした林檎の香りが広がった。
「これは……シードル?」
「そうだ。だが、ただのシードルではない。教会が独占する『聖なる酵母』を使わず、野生の菌で醸した『密造酒』だ」
ディートリヒは自らのジョッキを見つめ、泡の向こうに遠い過去を見ているようだった。
さきほどの演説の熱狂とは違う、静かで冷たい怒りがそこにあった。
「ナタリー。お前は『ドラゴンブレス』という名の由来を知っているか?」
「……龍の、息吹ですよね」
「そうだ。だがそれは、昨日お前が出した藁の龍のことではない」
ディートリヒは目を細めた。
その瞬間、彼の纏う空気が変わり、部屋の温度が下がった気がした。
「三十年前……。私は、ある醸造家の息子だった」
彼の低い声が、広間に響く。
その声に誘われるように、私の目の前にも、彼の記憶の光景が浮かび上がってくるようだった。
◇ ◇ ◇
——三十年前。北の農村。
冬の朝、吐く息が白く凍るような寒い日だった。
幼いディートリヒは、父の背中を見ていた。
父は、村一番の酒造りの職人だった。
薄暗い蔵の中。
巨大な木桶の中で、麦と水と、そして父が育てた「家つき酵母」が混ざり合い、静かに、しかし力強く活動していた。
ポコッ、ポコッ。
桶の表面が泡立ち、まるで生き物が呼吸するように、白く温かい蒸気が立ち上る。
その蒸気は、極寒の蔵の中で白い柱となり、天井へと昇っていく。
「見ろ、ディートリヒ」
父が誇らしげに言った。
「これが『龍の吐息』だ。菌たちが生きている証だ。この温かさが、厳しい冬を越える俺たちの命の火になるんだ」
甘く、温かく、力強い発酵の匂い。
幼いディートリヒにとって、その匂いこそが世界の全てであり、幸福の象徴だった。
だが——その幸福は、扉を蹴破る音と共に粉砕された。
「異端だ!!」
なだれ込んできたのは、白い法衣を着た教会の兵士たち。
彼らは土足で神聖な蔵を踏み荒らし、槍の柄で父を殴り倒した。
「父さん!!」
「やめろ、ディートリヒ! 隠れていろ!」
血を流しながら父が叫ぶ。
兵士たちは、嘲笑いながら木桶に斧を振り下ろした。
バキンッ!
乾いた音が響き、タガが外れる。
琥珀色の液体が、床に溢れ出した。
一年かけて育てた酒が。村の人々が楽しみにしていた命の水が、汚れた靴の下に泥のように広がっていく。
「汚らわしい異端の菌だ! すべて焼き払え!」
審問官の号令と共に、蔵に火が放たれた。
赤々と燃え上がる炎。
立ち上っていた白く美しい「龍の吐息」は、黒い煤煙と、父の焼ける匂いにかき消された。
『発酵は神の奇跡である。教会が管理せぬ菌は、すべて悪魔の糞尿に等しい』
燃え盛る炎の前で、審問官は無慈悲に宣告した。
幼いディートリヒは、雪の中に押し倒され、燃え落ちる蔵と、殺された父をただ見ていることしかできなかった。
奪われたのは酒だけではない。
「作る喜び」と「生きる誇り」、そして愛する家族だった。
◇ ◇ ◇
「……それが、始まりだ」
ディートリヒが目を開けた。
その瞳の奥には、三十年前の炎が今も燃え続けているようだった。
「あの日、私は誓った。奪われた『食の自由』を取り戻すと。
教会という名の独裁者から、我々の『龍の吐息』を取り戻すと」
広間は静まり返っていた。
さっきまで「聖女万歳」と叫んでいた数十人の同志たちも、今は真剣な表情でリーダーの言葉を聞いている。
ここにいる全員が、多かれ少なかれ似たような傷を持っているのだ。
大切な「味」と「人」を教会に奪われた被害者たち。
「我々は戦い続けてきた。パン職人は腕を切り落とされ、チーズ職人は目を焼かれた。
それでも、我々は菌を繋いできた。……いつか、この暗黒の時代を終わらせる『鍵』が現れると信じて」
ディートリヒは私の左手首、藁縄を見つめ、熱っぽく告げた。
「そしてナタリー。お前が現れた」
「私が……」
「お前は——我々が長年探し求めていた、真の精霊遣いだ。百年前の『聖女アリエル』以来の、最強の使い手だ」
「聖女……」
「お前は見たはずだ。あの藁の龍を。
あれは、我々が失ったはずの『龍の吐息』が具現化した姿だ。
教会が『毒』と呼んだナトゥーこそが、お前を守り、我々を導く最強の守護神なのだ」
ディートリヒは立ち上がり、私に手を差し伸べた。
その手は大きく、分厚く、そして傷だらけだった。
「ナタリー。我々と共に戦え。
お前のその力があれば、教会の結界を破り、百年間の屈辱を晴らせる。
誰もが自由にパンを焼き、酒を造り、美味しいと笑い合える世界を作るのだ。
……それが、百年前の聖女アリエル様が遺した夢でもある」
彼らの戦いは、単なる権力争いではない。
「美味しいものを食べたい」「家族の笑顔を守りたい」「健康な身体になりたい」という、人間の根源的な願いを守るための、血を吐くような戦いなのだ。
「戦おう!」「聖女ナタリーと共に!」
再び、広間のあちこちから声が上がる。
彼らは私を、革命の旗印として、強力な「兵器」として見ている。
私は——圧倒されていた。
彼らの怒りも、悲しみも、痛いほど分かる。
父を殺されたディートリヒの無念を思えば、胸が締め付けられる。
でも、私は……。
「……待ってください」
私は震える声で言った。
自分の声が、情けないほど弱々しく響く。
「私は……戦士じゃありません。ただ、美味しい納豆が食べたかっただけなんです。
誰も殺したくない……」
「教会はお前を殺そうとしたじゃないか!」
ディートリヒの声が荒らげられた。
遠い昔の、あの日の無力な少年の姿はもうない。そこには、復讐に燃える指導者の姿があった。
「戦わなければ、殺されるだけだ! それとも、また隠れて怯える日々に逆戻りしたいのか?」
反論できなかった。
彼の言うことは正しい。教会は私を許さない。
でも、納豆は「殺す」ためのものじゃない。「生かす」ためのものだ。
それを武器にして人を殺すなんて……。
「……少し、考えさせてください」
私は逃げるように席を立った。
重苦しい期待と、血なまぐさい興奮から離れたかった。
「……いいだろう。だが、時間はあまりないぞ」
ディートリヒの言葉を背に、私は広間を出た。
◇ ◇ ◇
廊下に出ると、セリーナが待っていた。
彼女は何も言わず、私を人気の少ない倉庫の裏口へと案内してくれた。
夜風が、火照った頬に冷たい。
「ナタリー様」
セリーナが静かに口を開いた。
「無理もありません。突然『戦え』と言われても……」
「セリーナ……」
「ディートリヒは、過去の炎に焼かれ続けています。彼は貴方様の力を利用しようとしている。それは事実です」
彼女は組織の一員のはずなのに、悲しげに目を伏せた。
「私の曾祖父は……百年前、『聖女アリエル』様に仕えていたのです」
「聖女……」
「はい。アリエル様は、人々からそう呼ばれていました。
彼女は、戦いを望んでいなかった。ただ、みんなで食卓を囲みたかっただけだと、曾祖父は言っていました」
セリーナは私に向き直り、その手を取った。
その瞳は、ディートリヒのような熱狂ではなく、深い慈愛に満ちていた。
「ナタリー様。私はドラゴンブレスのメンバーである前に、貴方様の味方です」
「味方?」
「はい。もし貴方様が戦うことを選ぶなら、剣となって共に戦います。
でも——もし戦いたくないと、ここから逃げたいと願うなら……私が全力でお逃がしします」
「逃げて……いいの?」
「もちろんです。ナタリー様は兵器ではありません。ただの、納豆が好きな女の子でしょう?」
その言葉に、張り詰めていた心が決壊した。
涙が溢れた。
「聖女」でも「魔女」でもない。ただの私を見てくれる人がいる。
「ありがとう、セリーナ……」
涙が止まらない。私は彼女の手を握り返した。
戦うのか、逃げるのか。
まだ答えは出ない。
過去の悲劇を知り、彼らの正義も理解した。
けれど、セリーナの「味方です」という言葉だけが、今の私にとって唯一の確かな光だった。
私は星空を見上げた。
静かな夜。この空の下で、私はまだ生きている。
納豆菌たちと共に。




