藁の龍
その時——。
処刑人が、松明を藁束に投げ入れようとした、その瞬間だった。
ドクン。
左手首の「藁の腕輪」が、かつてないほど激しく脈打った。
熱い。まるで焼けた鉄を押し付けられたように熱い。
けれど、それは火傷をする熱さではなく、私の生命力そのものを揺さぶるような、根源的なエネルギーの奔流だった。
(助けて……!)
私の叫びに応えるように、腕輪から青白い光が溢れ出した。
その光は、液体のようになめらかに、火刑台の周囲に高く積み上げられた大量の「藁」へと伝播した。
ボウッ!
火がついたのではない。
藁の山から、青白い光の粒が爆発的に舞い上がったのだ。
「な、なんだ!?」
処刑人が驚いて後ずさり、松明を取り落とした。
地面に落ちた松明の火など、もはや誰の目にも入らなかった。
大量の藁束が、意思を持った生き物のように蠢き始めた。
黄金色の茎一本一本が、青白い光を帯びて絡み合い、互いに結びつき、編み込まれていく。
それはまるで、見えざる神の手が巨大なしめ縄を綯っているかのようだった。
光の中から——。何かが、立ち上がった。
藁——。いや、藁で作られた——。
龍。
巨大な、藁の龍。
火刑台の藁の中から——。鎌首をもたげるように、空へ向かって伸び上がった。
「うわああああっ!」
「な、なんだあれは!」
群衆の悲鳴と共に、その姿が露わになった。
それは、この世界の伝承にある翼を持ったトカゲのような「ドラゴン」ではなかった。
長く、どこまでも長い、大蛇のような胴体。
頭部には、枯れ枝が複雑に組み合わさってできた立派な鹿の角。
胴体は、職人が丹精込めて編み込んだような、美しい魚の鱗模様に覆われている。
そして、空を掴むように伸びた四本の足には、鋭い鷹の爪。
前世の記憶が、鮮烈にフラッシュバックする。
神社の鳥居に飾られていた、あの藁の大蛇。
あれが今、命を得て、巨大な姿となって現実に顕現したのだ。
(龍……!)
そう、これは「龍」だ。
空を自由に飛び、災厄を払うと言われる東洋の聖獣。
全長十メートルを超える巨大な藁の龍が、私を背にしてとぐろを巻き、広場を見下ろした。
その全身から、神々しい青白い粒子が桜吹雪のように舞い散る。
それは、納豆の糸のように繊細で、しかし鋼鉄のように強靭な結界だった。
『恐れるな』
低い、けれど温かい声が、頭の中に直接響いてきた。
耳で聞く音ではない。心に染み入るような、魂の共鳴。
『我は、汝と共にある』
龍の目が——青白く光る藁の結び目が、私を優しく見つめた気がした。
「ひいぃっ!」
処刑人が腰を抜かして逃げ出す。
私は呆然とそれを見上げていた。
しめ縄を作った時に感じた気配。納豆を作った時に見た光。
それらが集まり、具現化した姿。
不思議と恐怖はなかった。この龍からは、「守る」という強い意志しか感じない。
「狼狽えるな!」
壇上で、大司教バルデウスが叫んだ。
「見よ! これぞ魔女の証拠! 邪悪なナトゥーの精霊が実体化した姿だ!
あれを逃がすな! あの光は他の精霊を食い殺すぞ! 今すぐに焼き払え!」
司教の命令で、我に返った兵士たちが剣を抜いて殺到してくる。
「魔女を殺せ!」
一人の兵士が、龍の胴体に斬りかかった。
ガキンッ!
硬質な音が広場に響く。
ただの藁のはずなのに、鋼鉄のように硬い。
藁の龍が咆哮した。
声はない。だが、振動となって空気が震えた。
龍の尾が鞭のようにしなり、兵士たちをまとめて薙ぎ払う。
「ぐわぁっ!」
兵士たちが紙切れのように宙を舞う。
その混乱の最中、群衆の中から数人の影が飛び出してきた。
「今だ! やれ!」
聞き覚えのある声。地下牢で隣にいた、ロレンツだ!
シュッ、シュッ、シュッ!
何かが投げ込まれた。
それは地面に落ちると、プシューッと激しい音を立てて白煙を噴き出した。
ただの煙ではない。目が痛くなるような、ツンとした刺激臭——酢のような匂いが広がる。
「うぐっ、目が!」
「煙幕か!?」
兵士たちが咳き込み、視界を奪われて混乱する。
その煙の中を、濡れた布で口元を覆ったロレンツたちが駆け上がってきた。
「ナタリー! 生きてるか!」
「ロレンツ……!?」
ロレンツは呆然としている私の腕を掴んだ。
「言っただろう、ドラゴンブレスは仲間を見捨てないってな!」
反対側からは、マルタと、もう一人、精悍な顔つきの男が現れた。
「急げ! 今のうちにずらかるぞ!」
「立てるか、ナタリー!」
マルタに支えられ、私はへたり込みそうな足に力を入れた。
自由になった体。
見上げると、藁の龍が兵士たちの行く手を阻む壁となり、青白い光を明滅させている。
(ありがとう……)
心の中で呼びかけると、龍が一度だけこちらを見た気がした。
左手首の腕輪の熱が、少しずつ引いていく。
「行くぞ! こっちだ!」
精悍な男——ヴォルフが先導し、私たちは煙に包まれた広場を駆け抜けた。
阿鼻叫喚の混乱状態だ。
群衆はパニックになり、兵士たちは藁の龍と光に翻弄されている。
私たちは裏路地へと飛び込んだ。
王都の入り組んだ道を、ロレンツたちは迷うことなく進んでいく。
「追手は?」
「来てない! あの龍に手こずってるはずだ!」
心臓が破裂しそうだった。
息が切れ、喉が焼けるように熱い。でも、足は止められない。止まれば、死だ。
十分ほど走り続けただろうか。
人気の少ないスラム街のような区画に入り、ヴォルフが一軒の古びた倉庫の扉を開けた。
「入れ!」
私たちが飛び込むと、すぐに重い扉が閉められ、閂がかけられた。
薄暗い倉庫の中。私はその場に崩れ落ち、荒い息を吐いた。
「はぁ……はぁ……」
「大丈夫か、ナタリー」
マルタが背中をさすってくれる。
「み、みんな……どうして……」
地下牢にいたはずの彼らが、なぜここにいるのか。
「俺たちは囮としてわざと捕まっていたんだ」
ロレンツが汗を拭いながらニヤリと笑った。
「お前がナトゥーの精霊遣いだと聞いて、接触するためにな。本当はもう少し穏便に助けるつもりだったんだが……火刑なんて急な話になったからな……」
「わざと捕まった……?」
「ああ。ここが我々のアジトだ」
倉庫の奥から、数人の人影が現れた。
その中心に立つ、白髪混じりの屈強な男性が歩み出てくる。
彼が放つ空気は、ただの市民ではない、歴戦の指導者のそれだった。
「よく無事で戻った、ロレンツ、ヴォルフ」
男は彼らを労うと、私に向き直った。
「そして——ようこそ、ナタリー」
彼は深く頭を下げた。
「私はディートリヒ。発酵の自由を求める組織『ドラゴンブレス』のリーダーだ」
ディートリヒ。
その名前は、どこかで聞いたような威厳を持っていた。
彼は私の顔を、そして左手首の藁縄を見て、感嘆のため息を漏らした。
「百年前の聖者アリエル以来……ついに現れたか。ナトゥーの精霊を統べる者よ」
「……私は、聖者なんかじゃありません」
まだ息が整わないまま、私は答えた。
「ただ……納豆が、ナトゥーを食べたかっただけなんです」
「ナトゥーを愛する心こそが、精霊を目覚めさせる鍵なのだ」
ディートリヒは力強く言った。
「ナタリー。教会はナトゥーを『他の精霊を殺す邪悪な存在』として焼き払おうとした。だが、お前は見たはずだ。あの藁の龍が、お前を守るために現れた姿を」
脳裏に焼き付いている光景。
私を守るようにとぐろを巻き、兵士を薙ぎ払った黄金の龍。
「あれは破壊の力ではない。守護の力だ。……我々は、お前のその力を必要としている」
ディートリヒの目は真剣だった。
助けてくれたことには感謝している。
けれど、その眼差しには、私を「戦力」として見ている冷徹さも混じっている気がした。
「疲れているだろう。まずは休め」
ディートリヒの合図で、一人の若い女性が奥から出てきた。
栗色の髪をした、優しげな女性だ。
「ナタリー様、こちらへ」
「……様?」
「はい。私はセリーナ。あなたのお世話をさせていただきます」
彼女に案内され、私は倉庫の奥にある小さな個室へと入った。
粗末なベッドがあるだけの部屋だが、今の私には天国に見えた。
セリーナが出て行くと、静寂が訪れた。
私はベッドに横たわり、左手首を見つめた。
藁縄は、もう熱くない。いつものように静かに、そこに巻きついているだけだ。
(私は……どうなってしまうの?)
火刑台からは逃げ延びた。
でも、ここは教会の追手が徘徊する王都の中。
そして私は、反乱組織「ドラゴンブレス」に匿われている。
彼らは私を「聖者」と呼び、何かを期待している。
教会からは「魔女」と呼ばれ、命を狙われている。
ただの納豆好きだった私が、なぜこんなことに。
疲れと混乱で、意識が遠のいていく。
瞼の裏には、まだあの青白い光と、藁の龍の姿が焼き付いていた。
外では、王都を揺るがす大捜索が始まろうとしていた。




