火刑台へ
馬車は、ゆっくりと進み続けた。
鉄格子のはまった窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。
のどかな田園風景から、石畳の道へ。そして、密集した建物へ。王都だ。
窓の外には、見知らぬ人々の生活が流れている。けれど、それはもう私とは別の世界の出来事のように思えた。
食事も水も、最低限しか与えられなかった。
喉が渇き、空腹で目が回りそうだったが、それ以上に恐怖が私の心を支配していた。
胃の腑が冷たい鉛で満たされているような感覚。
馬車が止まったのは、巨大な建造物の前だった。
天を突き刺すような尖塔。白亜の壁。そして、屋根に輝く巨大な金色の十字架。
王国の中枢にして、絶対的な権威の象徴——大聖堂だ。
「降りろ」
扉が開かれ、私は粗暴に引きずり出された。
長い拘束で足がもつれ、石畳に膝をつく。
見上げると、黒い服を着た男たちが待ち構えていた。異端審問官の執行部隊。
彼らの目は、私を人間として見ていなかった。
排除すべき汚物、あるいは忌むべき毒虫を見る目だ。
「これが、ナトゥーの魔女か」
「精霊遣いのエルフとはな。百年ぶりか」
彼らは私の両脇を抱え、大聖堂の地下へと続く暗い階段へ連行した。
美しいステンドグラスや荘厳な祭壇は、私には関係ない。
私の行き先は、光の届かない場所だ。
地下牢は、湿ったカビと、排泄物と、そして濃縮された絶望の臭いがした。
いくつもの鉄格子が並び、その奥にはうずくまる人影が見える。
「入れ!」
私は一番奥の牢に突き飛ばされた。
硬い石の床に転がる。
背後で重い鍵の音が響き、冷たい金属音と共に世界が閉ざされた。
「……新入りか」
暗闇の中から、嗄れた声がした。
目を凝らすと、隣の牢の鉄格子越しに、一人の男がこちらを見ていた。
四十代くらいだろうか。髪も髭も伸び放題だが、その瞳にはまだ知性の光が強く残っていた。
「……はい」
「俺はロレンツ。パン職人だ」
男は力なく、しかし皮肉っぽく笑った。
「パン職人……?」
「ああ。だが、教会の認可を受けずに『サワードウ(天然酵母)』のパンを売った。だからここに入っている」
サワードウ。
野生の酵母を使ってパンを発酵させる技術だ。
前世の知識があれば分かるが、この世界ではそれも罪になるのか。教会の管理外の菌を使うことは、すべて異端なのだ。
「お前は、何をした? 酒か? チーズか?」
「……ナトゥーです」
私が答えると、地下牢の空気が一瞬にして凍りついた気がした。
ロレンツが目を見開く。
向かいの牢にいた女性——三十代くらいの女も、鉄格子に駆け寄ってきた。
「ナトゥーだって? あの、幻の……?」
「おいおい、マジかよ」
奥の牢からも、驚きの声が上がる。
「……本当に、作れたのか?」
ロレンツが、震える声で尋ねた。
「はい。……作ってしまいました」
「すごい……。伝説だと思っていた」
向かいの女が、興奮と恐怖の入り混じった顔で言った。
「私はマルタ。チーズ職人よ。無許可で発酵させた罪で捕まった。でも、ナトゥーだなんて……格が違う」
「格が違う?」
「ああ」
ロレンツが頷いた。
「教会が一番恐れているのがナトゥーだ。他のすべての発酵を止めてしまう、最強の殺戮者だからな」
やはり、そういう認識なのだ。
納豆菌の強い繁殖力が、この世界では「殺戮」と解釈されている。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「ナタリーです」
「ナタリー……。よく聞け」
ロレンツは声を潜め、鉄格子に顔を押し付けるようにして言った。
「諦めるなよ」
「え?」
「お前がナトゥーを作ったという噂は、おそらくもう『外』に漏れている」
「外……?」
ロレンツは意味深に片目をつぶった。
「商人のネットワークは、教会の耳より早いこともある。それに……『我々』のような発酵を愛する人間は、地下で繋がっているんだ」
ロレンツの言葉の意味はよく分からなかった。
でも、彼の目には「希望」のような色が宿っていた。
◇ ◇ ◇
翌日。私は牢から引き出され、審問の間へ連行された。
高い壇上に、三人の審問官らしき男が座っている。
中央の老人は、農園に来たあの司祭よりもさらに位が高そうだった。
「私はこの教会の大司教バルデウスだ。罪人、エルフのナタリーよ」
老人の声が、冷たく響く。
「其方は精霊を目覚めさせ、禁忌とされたナトゥーを作った。相違ないか」
「……はい」
否定しても無駄だ。マーカスたちを守るためには、認めるしかない。
「ナトゥーの精霊は、神が定めた調和を乱し、他の善良なる精霊を食い殺す悪魔である」
大司教バルデウスは続けた。
「そして、精霊遣いの体内には、その悪魔が根を張っている」
彼は私を指差した。
「其方の体は、すでに穢れている。通常の処刑では、其方の体内の精霊が逃げ出し、再び災厄を撒き散らすだろう」
だから、と彼は宣告した。
「よって、其方を『浄火の刑』に処す。——明朝、広場にて火刑とし、その魂ごと焼き尽くすものとする」
火刑 火あぶり
決定事項として告げられたその言葉に、私は崩れ落ちそうになった。
生きたまま焼かれる。
納豆を作っただけで。ただ、懐かしい味を食べたかっただけで。
牢に戻された私は、膝を抱えて震えていた。
夜が来る。最後の夜だ。
「……明日か?」
ロレンツが声をかけてきた。
「はい……火あぶりだと、言われました」
「そうか……」
ロレンツは悔しそうに拳を壁に打ち付けた。マルタも、他の囚人たちも、沈黙している。
彼らもまた、いずれ同じ運命を辿るかもしれないのだ。
「ナタリー」
ロレンツが言った。
「奇跡が起きることを祈れ」
「奇跡?」
「ああ。……『ドラゴンブレス』は、仲間を見捨てない」
ドラゴンブレス。初めて聞く言葉だった。龍の息吹?
◇ ◇ ◇
その夜、私は一睡もできなかった。
左手首の藁縄を握りしめる。この藁の腕輪。
もし、私が焼かれたら、これも一緒に燃えてしまうのだろうなと、どうでもいいことが頭に浮かんだ。
その時、藁縄がほんのりと温かくなった気がした。
まるで「怖がるな」と言うように。
そして、朝が来た。
重い足音が近づいてくる。鉄格子が開かれる。
「時間だ」
私は兵士たちに両脇を抱えられ、地上へと引き出された。
久しぶりに見る太陽は、あまりにも眩しかった。
大聖堂前の広場には、大勢の群衆が集まっていた。
好奇の目、憎悪の目、そして怯えの目。
「魔女だ」「殺せ」「燃やせ」という罵声が、四方八方から飛んでくる。
広場の中央には、薪の上に、大人の背丈ほども高く積み上げられた大量の藁束と、その中心に突き立つ太い木の杭があった。
火刑台だ。
ナトゥーの精霊を「焼き尽くす」ためには、火力の強い乾燥した藁が大量に用意されている。
私は杭に押し付けられ、手足を十字架の形に広げさせられた。
手首と足首に、太い藁縄が食い込むほどきつく巻き付け縛られる。
身動き一つ取れない。指先すら動かすことができない完全な拘束状態だ。
目の前には、広場を埋め尽くす人々。
大司教バルデウスが壇上に立ち、高らかに宣言する。
「見よ! これなるは、百年ぶりに現れた忌まわしきナトゥーの魔女である!」
「神の秩序を乱す毒を、聖なる炎で浄化せよ!」
おおおおお、と群衆がどよめく。
太った処刑人が、松明を持って近づいてきた。
松明の炎が、風に揺れている。熱い。まだ火は放たれていないのに、じりじりとした熱気を感じる。
(熱いのは……嫌だ)
前世で一酸化炭素中毒で死んだ時は、眠るようだった。苦しみはなかった。
でも、今度は違う。皮膚が焼け、肉が焦げる痛みと苦しみの中で死ぬのだ。
カラカラに乾燥した藁は、火種さえ落ちれば一瞬で紅蓮の炎と化すだろう。
皮肉なことだ。
私が愛し、納豆を作るために必要だった「藁」によって、私が殺されようとしている。
処刑人が、松明を高く掲げる。
「魔女に、死を!」
群衆の叫び声が最高潮に達する。私はギュッと目を閉じた。
怖い。助けて。誰でもいい。神様でも、悪魔でも。
(死にたくない……!)
私は縛られた手で、叶うはずのない抵抗をするように拳を強く握りしめた。
全身全霊で「生きたい」と願った。
私の願いはただ一つ。
死にたくない。
もっと生きて、もっと美味しいものを食べて、笑っていたい。
その時だった。
ドクン
心臓の鼓動とは違う、別の強い脈動が左手首から伝わってきた。
縛り付けられている藁の腕輪だ。
それがまるで私の恐怖と祈りを飲み込んだかのように、カッと灼熱の熱を持った。
『……呼び覚ませ』
脳内に声が響いた気がした。
私の意志ではない。もっと古く、根源的な何かの声。
瞼の裏が、青白く光った。
目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
左手首の腕輪から、蛍火のような青白い光が溢れ出している。
その光は、液体のようになめらかに私の腕を伝い、私を拘束している藁縄を伝って、足元へ、そして周囲に積み上げられた大量の藁束へと、奔流となって流れ込んでいく。
光が触れた藁が、ざわりと揺れた。風もないのに。
まるで一本一本の藁に意思が宿り、目覚めの時を迎えたかのように。
「……な、なんだ!?」
処刑人がぎょっとして後ずさる。
群衆の悲鳴が上がる。
私の体の中で、何かが弾けた。
今まで知らなかった回路が開く感覚。
それは魔法ではない。もっと野性的で、もっと力強い、「命」を操る感覚。
(これだ……これが……)
私が無意識に求めていた力。
菌を、発酵を、そして腐敗と再生を司る王の権能。
積み上げられた藁の山全体が、青白く、そして不気味に発光し始めた。
乾燥していたはずの藁が、ねっとりとした粘性を帯びていく。
もはや、それは燃えるための燃料ではない。
私を守り、敵を絡め取る、巨大な繭だ。
処刑人が、恐怖に顔を引きつらせながら、松明を藁の山に投げ入れようとした——その瞬間だった。




