禁忌の食べ物
部屋の扉が開いた。
戻ってきたエリザベスの顔色は、先ほどよりもさらに青ざめ、蝋人形のように血の気が失せていた。
その瞳には、今まで見たこともないような怯えが宿っている。
そして、その背後には険しい表情をした主人、マーカスの姿もあった。
いつもは温厚で豪快な彼が、今はまるで死刑宣告を行う裁判官のような厳しさを漂わせている。
エリザベスの腕には、一冊の分厚い本が抱えられている。
革表紙はボロボロで、時の重みを感じさせる。
私が農園に来た日、エリザベスが書斎で見せてくれた「実家から持ってきた百年以上前の古書」のうちの1冊だ。
「ナタリー」
マーカスの声は、いつもの明るさが消え、地を這うように低く、重かった。
その響きだけで、事態の深刻さが肌を刺すように伝わってくる。
「エリザベスから聞いた。……お前が作ったものを見せてくれ」
「……はい」
室内の空気が張り詰めている。
私は震える手で木箱の蓋を開けた。中から取り出した藁つとを、二人の前でそっと開く。
先ほど感じた勝利の輝きは、今はもうない。ただ、冷たい沈黙だけがそこにある。
プン、と部屋に広がる独特の臭い。
藁の中で白く膜を張り、糸を引く茶色い豆。
マーカスは、まるで猛毒を持つ未知の生物を見るような目で、それを凝視した。
眉間に深い皺が刻まれ、その口元は嫌悪に歪んでいる。
「なんだ、この匂いは……。腐っているのか?」
「マーカス、これを見て」
エリザベスが、震える手で古書のページを開き、机の上に置いた。
黄ばんだ羊皮紙のページには、詳細な挿絵が描かれていた。
藁に包まれた豆。そして、そこから立ち上るいくつもの光の粒。
その描写は、あまりにも正確で、あまりにも残酷だった。
実物と、挿絵。その二つは、恐ろしいほど似ていた。
「間違いないわ……。これよ!」
エリザベスが指差した挿絵の下には、古い文字でこう記されていた。
——『ナトゥー』
「ナトゥー……?」
私が聞き返すと、エリザベスは悲痛な面持ちで私を見た。
その瞳には、同情と、そしてそれを上回る恐怖が滲んでいる。
「ナタリー、あなたは知らないの? 記憶がないから……」
「これは、百年前に教会によって、作ることも食べることも『禁止』された物だ」
マーカスが重々しく口を開いた。
「ナトゥー。かつては身体に良いとされて、この国でも広く食べられていたという記録がある」
「だけど、ある時。教会はこれを『最も邪悪な禁忌』と定めた」
「邪悪……? ただの豆料理ですよ?」
「ただの料理ではない!」
マーカスの怒声が響き、私は肩を震わせた。
彼は古書の記述を太い指でなぞった。その指先が、怒りで微かに震えている。
「ここに書いてある。『ナトゥーに宿る精霊は、他のすべての精霊を殺す力を持つ』とな」
「他の精霊を……殺す?」
「そうだ。酒、チーズ、パン……この世界の食を支える善良な精霊たちを、ナトゥーの精霊は喰らい、駆逐し、死滅させてしまう」
血の気が引いていくのが分かった。
前世の知識が、パズルのピースのようにカチリとはまる。
——納豆菌の「拮抗作用」
納豆菌は繁殖力が桁違いに強く、他の菌(麹菌やイースト菌など)の生育を阻害し、駆逐してしまう性質がある。
だからこそ、酒造りの現場では「納豆を食べて蔵に入るな」というのは鉄則であり、禁忌なのだ。
科学的には「強い菌」というだけの事実が、この世界の解釈では「他の精霊を殺す殺戮者」と見なされているのか。
「教会は宣言した。『ナトゥーは他の精霊を滅ぼす災厄である。ゆえに、この世から焼き払わねばならない』と」
マーカスは私を直視した。その瞳には、恐怖と警戒の色が混じっている。
「ナタリー。お前はこれをどうやって作った?」
「ディーズ豆を煮て、藁に包んで……温めました」
「それだけか?」
「……」
私は一瞬、躊躇した。
あの一瞬見えた、青白い光のこと。左手首の腕輪が熱くなったこと。
それを言ってはいけない気がした。
それを認めてしまえば、私は人間ではなくなってしまうような気がして。
「……はい。それだけです」
「嘘をつくな!」
マーカスが机を叩いた。ドン、と重い音が響く。
「ただ煮て温めるだけで、ナトゥーは作れない! 多くの者が挑み、できなかった!」
「本にはこうもある。『ナトゥーの精霊は眠りについており、特別な力を持つ精霊遣いだけがこれを目覚めさせることができる』」
精霊遣い。
エリザベスが口元を押さえて後ずさる。
「まさか……ナタリー、あなたが……」
マーカスは苦渋の表情で私を睨んだ。
「お前は、ナトゥーの精霊を目覚めさせたのか? その青い光を見たのか?」
「…………」
言い当てられたようで、私は言葉を失った。しかし沈黙は、肯定と同じだった。
「……そうか。やはり、そうなのか」
マーカスは天井を仰ぎ、深いため息をついた。その息には、諦めと絶望が混じっていた。
「ナトゥーを作れる者は、百年前の精霊遣いアリエル以来、誰もいないはずだ」
「この本には、教会は当時、アリエルとナトゥーに関わるエルフ達を捕らえ、火あぶりの刑に処したとある」
火あぶり。
不穏な単語に、心臓が早鐘を打つ。
肌が粟立ち、冷たい汗が背中を伝う。
「私は精霊遣いなんかじゃありません。何も知らないんです。何もわかりません」
「だとしても、おまえがナトゥーを作ったことは事実だ!」
「旦那様……私は、どうなるんですか?」
マーカスは静かに、しかし残酷な事実を告げた。
「この本には、ナトゥーの精霊は強力で、精霊遣いの体内にも宿るとされている。だから、生きたまま焼き払わなければ、精霊を完全に消滅させられないとある。——それが教会の教義だと」
目の前が真っ暗になった。
納豆を作っただけで、まさか火あぶり? そんな馬鹿な。
私はただ、懐かしい味が食べたかっただけなのに。
故郷の味を、誰かと分かち合いたかっただけなのに。
「ナタリー……」
エリザベスが涙を浮かべて私に歩み寄ろうとしたが、マーカスが腕を出してそれを制した。
「近づくな、エリザベス。もし教会に知られれば、この農園ごと終わりだ。『異端の魔女』を匿っていた罪で、俺たちも処刑されるぞ」
魔女。
いつの間にか、私は「エルフの家庭教師」から「死を招く魔女」になっていた。
昨日まで私に向けてくれていた温かい笑顔は、もうどこにもない。
あるのは、恐怖と拒絶だけ。
部屋に重苦しい沈黙が流れた。
窓の外では、夜風が木々を揺らす音が聞こえる。
ザワザワというその音は、まるで遠くから迫りくる教会の審問官たちの足音のようにも思えた。
マーカスは長い葛藤の沈黙の末、決断を下したように顔を上げた。
「……この事は、俺たちだけの秘密にする」
「え?」
「教会には報告しない。お前がナトゥーを作ったことも、精霊遣いであることも、墓場まで持っていく秘密だ。いいな」
マーカスは私を強く見据えた。
「お前は子供たちに、家族に良くしてくれた。それに、これは悪気があってやったわけではないことも分かっている。……だから、今回のことは忘れるんだ」
「旦那様……ありがとうございます……」
安堵で膝が崩れ落ちそうになった。
けれど、マーカスの次の言葉が、私を絶望の底に突き落とした。
「ただし——」
マーカスは机の上の藁つとを、荒々しく掴み取った。
「このナトゥーは、今すぐ処分するぞ。そしてナタリー、お前は二度とこれを作ってはならない」
「処分……?」
「燃やすんだ。跡形もなく」
「待ってください!」
私は思わず叫んでいた。
「お願いです、私の記憶にある故郷の食べ物なんです! 燃やすだなんて……」
「黙れ!」
マーカスの怒声が、私の嘆願を遮った。
「これは毒だ! お前を、そして俺たち家族全員を殺す猛毒なんだぞ! それを持っているだけで、火刑台への切符を持っているのと同じなんだ!」
正論だった。反論の余地など、どこにもなかった。
彼の言う通りだ。私の我儘で、彼らを危険に晒すことはできない。
マーカスは箱ごと藁つとを持って、居間にある暖炉へと向かった。
私とエリザベスもその後を追った。
足取りは重く、まるで葬列のようだった。
まだ火の残る暖炉。
彼は躊躇なく、私の「夢」を炎の中に放り込んだ。
ジュッ、と音がして、藁が燃え上がる。
香ばしい発酵の香りが、焦げ臭い煙へと変わっていく。
青い光が一瞬だけ輝き、そして炎の赤にかき消された。
「あ……あぁ……」
涙が溢れた。
私の納豆が。私の執念が。炎の中で黒く炭化し、崩れ去っていく。
灰になっていくのは、豆だけではない。私の心の一部もだ。
故郷への繋がりが、また一つ断ち切られていく。
エリザベスが、泣き崩れる私を抱きしめてくれた。
「ナタリー。こうするしかないの。あなたと家族を守るためには……」
エリザベスの体温が温かい。けれど、私の心は凍りついていた。
マーカスは燃え尽きた灰を火掻き棒で砕くと、私に向き直った。
「いいか、忘れるな。ナトゥーは禁忌だ。悪だ。二度と作るな。材料の大豆も、藁も、すべて忘れろ。お前の記憶の中から消すんだ……それが、この農園で、この国で生き残る唯一の道だ」
二人は静かに居間を出て行った。
重い扉が閉まる音が、まるで牢獄の鍵がかけられる音のように響いた。
一人残された部屋。暖炉からは、まだ微かに焦げた匂いが漂っている。
私は自室に戻り、ベッドにうずくまった。
左手首の藁縄を強く握りしめる。
温かい。まだ、ここに熱がある。
壁に掛けたしめ縄飾りを見上げる。
月明かりを浴びて、それは微かに——本当に微かにだが、青白く脈動しているように見えた。
(私は……精霊遣いなの? そして魔女なの?)
ただ納豆が好きなだけだったのに。
この世界では、その「好き」が、世界を滅ぼす「悪」だと断じられている。
私の体の中には、教会が恐れる「ナトゥーの精霊」がいると? 焼かなければ消えないほどの、強力な力があると?
恐怖と、喪失感。そして、行き場のない悲しみが、私を押しつぶそうとしていた。
静かな夜。遠くで、不吉な鐘の音が鳴った気がした。




