恐ろしきもの
夜のしじまに、私の呼吸音だけが溶けていく。
窓の外で、虫の声がひとつ、またひとつと途絶え、世界が最も深い眠りにつく時間帯。
けれど、私だけは眠ることを許されなかった。
椅子に座り、机の上の木箱に両手をかざし続ける。
瞼が鉛のように重い。意識が泥沼のような睡魔に引きずり込まれそうになるたび、私は下唇を強く噛んで痛みで覚醒を引き戻した。
途切れさせてはいけない。
今、この箱の中では、無数の小さな命たちが産声を上げようとしているのだ。
体内の魔力回路を、極細の糸を操るように繊細に制御する。
強すぎては菌が死ぬ。弱すぎては活動が止まる。
40℃、80%。
人肌よりも少し熱く、風呂の湯としては心地よい温度と高い湿度。
その2点をキープし続けること、数時間。
私の魔力と、納豆菌の生命力が共鳴し、箱の中で静かなる饗宴が繰り広げられている。
やがて、窓の隙間から白々とした朝の気配が忍び込んできた。
チュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。
私は大きく息を吐き、凝り固まった肩を回した。
「……おはよう」
誰にともなく、掠れた声で呟く。
夜は明けた。第一段階、終了だ。
私は震える手で魔力の質を切り替えた。
今度は「加熱」ではない。「冷却」だ。
熱を奪い、箱の中の空気を冷たく鎮める。
活発に踊っていた菌たちを休ませ、その活動を静かに眠りにつかせる「熟成」の時間。
冷蔵庫のないこの世界で、私の魔力だけが頼りだった。
私はふらつく足で立ち上がった。
数時間後には、結果が出る。
期待と不安の入り混じった熱を胸の奥に抱えたまま、私はいつもの労働へと向かった。
◇ ◇ ◇
その日の仕事は、永遠のように長く感じられた。
料理しながらも、洗濯物を干しながらも、私の魂はあの薄暗い自室の机の上、木箱の中にあった。
太陽がこれほど恨めしく、夕暮れがこれほど待ち遠しいと思ったことはない。
ようやく一日の労働が終わり、夕闇が迫る頃。
私は逃げるようにして自室へと戻った。
扉の前に立つ。
心臓が、肋骨を内側から激しく叩いている。
ドクン、ドクン、ドクン。
深呼吸を一つ。
覚悟を決めて、扉を開く。
「……!」
その瞬間、私の鼻孔は勝利を確信した。
部屋の空気が変わっていた。
ムワッとした熱気と共に押し寄せる、濃厚で、複雑怪奇な芳香。
枯草の乾いた匂いと、煮豆の甘い香り、そして鼻の奥を突く微かなアンモニア臭が混然一体となった、あの芳香だ。
知らない人が嗅げば顔をしかめ、鼻をつまむかもしれない。
けれど今の私には、どんな高級な香水よりも馨しく、郷愁を誘う「故郷の香り」だった。
私は吸い寄せられるように木箱の前へ歩み寄った。
震える指先を、木箱の蓋にかける。
「……来て」
祈るように呟き、蓋を持ち上げる。
中には、藁で作った包み——藁つとが鎮座していた。
見た目は昨日と変わらない。
けれど、そこから立ち上る「光」は別物だった。
「……え?」
私は目を疑った。
昨日までは、藁からぼんやりと漏れる程度だった青白い光が、今は藁の間から直視できないほど強く、眩いばかりに輝いているのだ。
カッ!
まるで、藁つとの中に小さな星が生まれたかのような強烈な輝き。
部屋の隅々まで青く染めるほどの光量。
私は眩しさに目を細めながら、藁つとを手に取った。
熱い。物理的な熱ではない。生命力の奔流だ。
その結び目に指をかける。
ゆっくりと、藁を開く。
「……あぁ」
声にならない吐息が漏れた。
そこにあったのは、昨日までの艶やかな褐色の煮豆ではない。
豆の一粒一粒が、白い膜に覆われ、その一粒一粒が自ら発光していたのだ。
光の源は、藁ではない。
藁に付着していた菌たちが、豆という最高の苗床を得て爆発的に増殖し、数億、数兆の命の集合体となって輝いているのだ。
「そうか……」
私は理解した。
この青白い光は、魔法の残滓なんかじゃない。
納豆菌そのものの輝きだ。
彼らが「生きてるぞ!」「美味しくなったぞ!」と歓喜の声を上げている姿なのだ。
「ふふっ……あはは」
笑みがこぼれた。
なんて綺麗なんだろう。なんて力強いんだろう。
この光が、美味しい納豆を作ってくれたのだ。
私は机の端にあった小枝を手に取り、箸代わりにして、恐る恐る豆を一粒つまんだ。
指先に力を込める。
ゆっくりと、垂直に持ち上げる。
その瞬間、時間が止まった。
——ネバァ。
豆と藁の間に、光り輝く架け橋が生まれた。
細く、繊細で、しかし強靭な粘り気を持った糸。
その糸自体もまた、青白く発光している。
私が小枝を高く持ち上げても、その光の糸は切れることなく、どこまでも、どこまでも伸びてついてくる。
「できた……」
目頭が熱くなる。
胸がいっぱいで、幸せで、涙が溢れてくる。
「やった……! 成功だ!」
歓喜の声が勝手に漏れた。
もう我慢できない。私は光の糸を引くその一粒を、口の中へと放り込んだ。
舌の上に乗せた瞬間、ぬるりとした食感。
次の瞬間、歯を立てて噛み潰す。
ニュルッ。
口内いっぱいに炸裂する、濃厚な旨味の洪水。
醤油も、辛子も、薬味のネギさえもない。
けれど、この豆自体の甘みと、納豆菌が醸し出した複雑で深いコクだけで十分だった。
前世の記憶が走馬灯のように駆け巡る。白いご飯、味噌汁、そして納豆。
「美味しい……本当に、美味しい……」
口の中で光が弾けるようだ。
死んで異世界に来て、言葉もわからず、自由を奪われ、ただ生きるために働き続けた日々。
孤独だった。心細かった。
でも、この味だけは、この光だけは、私を裏切らなかった。
この感動を、溢れ出す喜びを、私一人で抱え込むことなんてできない。
誰かに伝えたい。この奇跡のような成果を、誰かと分かち合いたい。
「そうだ、エリザベス様に……」
脳裏に浮かんだのは、この屋敷の若き女主人。
奴隷の私にも人間として接してくれた、慈悲深い女性。この木箱だって、彼女が笑顔で貸してくれたのだ。
いつも私の拙い異国の話を楽しそうに聞いてくれる彼女なら。
きっとこの「故郷の味」に驚き、笑い、一緒に喜んでくれるはずだ。
私はもう一口食べてから、光り輝く藁つとを大切に木箱に戻すと、それを宝物のように胸に抱きしめ、部屋を飛び出した。
廊下を小走りに進む足音が、やけに大きく響く。
どこだ? 彼女はどこにいる?
夕暮れの光が差し込む長い廊下の向こう。
花瓶の前で立ち止まり、生けられた百合の花の手入れをしている後ろ姿を見つけた。
「奥様! 奥様、見てください!」
弾んだ声で呼びかける。
私の声に、エリザベスはゆったりと優雅な動作で振り返った。
夕陽を背にした彼女は美しく、私のはしゃぐ様子を見て、ふふっと穏やかに微笑んだ。
その瞳には、子供の無邪気な報告を待つ母親のような、温かな興味の色が浮かんでいた。
「あら、ナタリー。そんなに興奮して、どうしたの? 何かいいことでもあった?」
「はい! 先日、ロバート様にいただいたディーズ豆を使って作った、私の故郷の料理です。ついに、最高に美味しく完成したんです!」
私は誇らしげに一歩踏み出し、捧げ持つように木箱を差し出した。
さあ、見てください。この輝かしい成果を。
私は勢いよく蓋を開けた。
そして、中の藁つとを左右に開き、中身を露わにした。
その、刹那。
百合の花の上品な香りが漂っていた廊下の空気が、一変した。
封印を解かれた魔獣のように、濃厚な臭気が爆発的に広がる。
鼻をつく臭い。
蒸れた靴下にも似た、強烈な発酵の匂い。
「……っ!?」
エリザベスの優雅な眉が、ピクリと大きく跳ね上がった。
反射的に手が動き、口元と鼻を覆う。
たじろぎ、半歩下がる。
瞳に浮かんでいた温かな色は一瞬にして凍りつき、深い当惑と疑問へと変わる。
「ナタリー……その、匂いは何?……」
彼女の視線が、私の顔と箱の中身を忙しく往復する。
信じられないものを見る目。
私には輝いて見えたあの光も、彼女には不気味な燐光にしか見えていないのだろうか。
「まさか、お豆が腐らせてしまったの? 保存に失敗したのね……」
「いいえ、違います!」
私は首を横に振り、満面の笑みでその誤解を否定した。
失敗なんかじゃない。これは大成功なのだから。
「腐ってるんじゃありません。『発酵』させて作ったんです! これが美味しいんです!」
その言葉が耳に届いた途端。
エリザベスの表情から、一瞬、すべての感情が完全に消え失せた。
「……発酵?」
エリザベスの声のトーンが、ごとりと一段低くなる。
そこにあるのは疑念と警戒心。
「あなた……今、発酵させたと言ったの? ここで? 教会の許可もなく?」
この世界において、酒やパン作り以外での「発酵」——物質の性質を変質させる行為は、教会の厳重な管理下にある。
それは本で読んだ知識としてはあった。
けれど、私は楽観していた。
前世だって、黙ってどぶろくを造っても、販売目的では無く個人で飲むくらいならお目こぼしがあるだろう。
法に反していると言っても、それほど大袈裟なことではないと。
これはただの納豆だ。食べればわかる。
この素晴らしさを伝えれば、きっとわかってもらえる。
「はい! 見てください、腐ってるんじゃありません。菌が生きている証拠に、こんなにも粘るんです!」
言葉よりも証拠だ。
私は証明するように、箸代わりの小枝を突き刺し、豆を激しくかき混ぜた。
グチャ、グチャ、ネチョ。
湿った音が静かな廊下に響く。
空気を孕んで白濁していく粘液。
そして私は、誇らしげに小枝を高く持ち上げた。
ネバァァァァァァ……
太い束になった粘液が、まるで意思を持った生き物のように糸を引き、どこまでも、どこまでも伸びていく。
夕陽に照らされ、不気味に光る無数の糸。
それを見た瞬間。
エリザベスの顔は、瞳孔が極限まで開き、黒目が震える。
美しい口元が引きつり、喉の奥でヒュッと息を呑む音がした。
疑念は、みるみるうちに戦慄へと塗り替えられていく。
嗅いだことも無い、強烈な臭い。
藁の寝床には、濡れて白濁した豆の群れ。
そして——決して切れることなく、執拗に生者に絡みつく魔の糸。
エリザベスの脳裏に、幼い頃に祖母から聞かされた古いおとぎ話、いや、古くから伝わる禁忌の古書の記述が鮮烈に蘇ったのがわかった。
——『邪悪な精霊が宿りし豆は、死肉の腐臭を放ち、魔の糸を引いて生者を絡め取る』
「……まさか」
サーッ、と音が聞こえるほどの勢いで、彼女の美しい顔から血の気が引いていく。
頬は死人のように蒼白になり、指先がワナワナと震えている。
その表情に浮かんでいるのは、嫌悪ではない。
紛れもない、原初的な恐怖だった。
「そ、それは……。藁の中に隠し、その鼻をつく死の匂い……そして、その決して切れない呪いのような糸……」
「奥様? どうしました? 見た目は少し驚くかもしれませんが、本当に美味しいんですよ。一口食べてみれば——」
私がさらに一歩近づき、豆を差し出そうとした、その時だ。
「ナタリーッ!!」
エリザベスの喉から、甲高い悲鳴のような鋭い声がほとばしった。
私はビクリと体を震わせ、足を止める。
エリザベスは青ざめた顔で後ずさり、壁に背中を押し付け、今にも腰を抜かしそうになっていた。
それでも、彼女は必死に低い声を絞り出した。
「その箱を閉じて! 今すぐに!!」
「お、奥様……?」
「誰にも見られていないわよね!? 他の誰にも、他の奴隷にも!」
エリザベスの瞳は、泳ぐように周囲を激しく警戒していた。
それは単に「失敗作の料理」を見た反応ではない。
もっと根源的な、触れてはいけないタブー、あるいは爆発物を目の前にしたような焦燥と緊迫感がそこにあった。
「今すぐ、あなたの部屋に戻ってそれを隠しなさい! 絶対に誰にも見せてはいけないわ。……私も、あとですぐに行くから部屋で待ってなさい」
鬼気迫るエリザベスの様子に、私の心臓が早鐘を打つ。
喜んでもらえると思ったのに。
褒めてもらえると思ったのに。
私の喜びは一瞬にして冷水を浴びせられ、消え去った。
残ったのは、わけのわからない不安と、取り返しのつかないことをしてしまったという恐怖だけ。
◇ ◇ ◇
前世では、動画サイトで流行っていた「Natto Challenge(納豆チャレンジ)」を見るたび、画面の前で身悶えするほどにムカついた。
「Oh my god! 腐ってるぞ!」
「クレイジーな臭いだ!」
初めて見るネバネバに絶叫し、鼻をつまみ、ゴミ箱へ吐き出す外国人たち。
たまに「Hmm...チーズみたいで悪くない」なんて理解ある猛者もいるが、大半は生理的嫌悪感でアウトだ。
「もったいない……! そこがいいのに!」
腐敗じゃない、発酵だ! 神の御業だ!
その見た目と匂いの壁さえ越えれば、健康と美食の楽園が待っているのに。
そんな遠い記憶が、頭の中を巡った。
◇ ◇ ◇
ただ美味しいものを作っただけなのに。
どうして、そんなに怯えるの?
「は、はい……申し訳ございません」
私は言われるがまま、震える手で木箱の蓋を閉めた。
重く閉ざされた蓋の下、藁つとを抱えて部屋に戻る。
腕の中で、納豆だけがまだ生温かく、まるで私の動揺をあざ笑うかのように、微かな青い光の残滓を漂わせていた。




