表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生エルフは納豆が食べたい! ~その豆、禁忌につき。世界を敵に回しても私は混ぜる~  作者: Geo
第二章 【禁忌の味「ナトゥー」と教会の断罪】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/20

運命の豆

車輪が砂利を噛む、ゴリ、ゴリという鈍い音。

ロバや馬の蹄が乾燥した土を叩く、不規則なリズム。


その音が風に乗って微かに鼓膜を震わせた瞬間、私の体は思考よりも先に反応していた。

洗濯物を干す手を止め、正門の方角を見つめる。


心臓が、早鐘を打ち始める。


一ヶ月。


壁に刻んだ傷の数を指でなぞりながら耐え忍んだ、三十回の夜明けと日没。

その長い時間の間、私の脳裏から片時も離れなかったのは、あの麻袋の膨らみであり、隙間からこぼれ落ちていた黄金色の輝きだった。


私は洗濯籠をその場に置き、農園の入り口が見える木陰へと走った。

土煙の向こうから、見慣れた車列が現れる。


ロバート商隊長の隊商だ。


農園の奴隷たちが荷降ろしのために駆け寄る中、私は木陰に身を隠し、逸る呼吸を整えた。

視線が一点に吸い寄せられる。


積み荷の奥、木箱の間に鎮座する、あの粗末な麻袋だ。

今日もあるはずだ。間違いない。


(……今すぐ駆け寄りたい)


本能がそう叫ぶ。喉がカラカラに乾く。

けれど、理性がそれを必死に押し留める。


私は奴隷だ。


たとえ「エルフの家庭教師」という特別な立場を与えられているとはいえ、所有物であることに変わりはない。


対して、あそこにいるのは大商会の主であり、主人の親族であるロバート様だ。

一介の奴隷が、仕事の手を止めて気安く話しかけるなど、許されることではない。


もし機嫌を損ねれば、鞭打ちどころか、この農園を追い出される可能性だってある。

そうなれば、二度とあの豆には触れられない。


(慎重に……慎重にならなきゃ)


心臓が肋骨を内側から激しく叩く音を、自分の耳で聞きながら、私はじっとその時を待った。


正門では、マーカスとエリザベスがロバートを出迎えている。

談笑し、肩を叩き合う彼ら。

今、あの輪に入っていけば、間違いなく「場をわきまえない愚か者」としてつまみ出されるだろう。


待つのだ。


会話が途切れ、空気が緩む、その瞬間を。

蜘蛛が獲物を待つように、私は息を潜めた。


荷運びの喧騒が続く。


砂埃が舞う中、マーカスが荷を確認しに、その場を離れた。

エリザベスも、子供たちのいる屋敷の方へ視線を向けている。


(……今?)


ロバートが一人になり、ハンカチで額の汗を拭っている。

彼は荷台の方を向き、積み荷の確認をしようとしている。

護衛の兵士たちも、荷降ろしの指示に気を取られている。


「……ふぅ」


短く、重い息を吐く。

ここしかない。


このタイミングを逃せば、豆は再び荷馬車に揺られ、私の手の届かない場所へと去ってしまう。

私はロバートへ向けて踏み出した。


走ってはいけない。焦ってはいけない。

あくまで「母屋の用事で通りがかった」かのように、自然な歩調で。


しかし、その一歩一歩には、祈るような必死さを込めて。


距離が縮まる。

十メートル、五メートル、三メートル。


ロバート様の広い背中が目の前にある。

圧倒的な「身分」の壁が、そこにはそびえ立っている。


声を出すのよ、ナタリー。

勇気を出して。あの豆のためなら、プライドなんて捨てられるでしょう?

私は乾いた唇を舐め、震える声を腹の底から絞り出した。


「……あの、ロバート様」


ロバートが振り返る。

私の姿を認めると、彼は少し意外そうに目を細め、記憶を探るような顔をした。


「……ん? ああ、おまえは」


私の存在を認識された。

もう後戻りはできない。


「子供達の教師をやっているエルフか。ナタリーと言ったな」

「はい……」

「お前は礼儀正しくて、とても賢いそうだな」

「いえ、できることをやっているだけです」

「エリザベスから、藁の人形を売って欲しいという話は聞いたぞ。あれは子供向けに良いな。よくできている。頑張って作れよ、俺が王都で売ってやるからな」

「ありがとうございます……」


喉が張り付きそうだ。

視線が突き刺さる。

言葉を選んでいる余裕はない。

私は震える手を胸の前で組み合わせ、祈るような仕草で、けれど真っ直ぐに彼の目を見つめた。


「実は、お願いが……ございます」

「願い? 藁の人形の?」


怪訝な顔をする彼に対し、私は大豆の詰まった袋の方を指さした。


「いえ、豆を…」


声が裏返りそうになる。


「あのお豆を……ディーズ豆を、少しだけいただけないでしょうか」


ロバートの太い眉が片方だけ持ち上がる。

彼の視線が、私の必死な形相と、荷台の麻袋を往復した。


「……は? ディーズ豆だと?」


理解できない、という顔だ。当然だろう。

家畜の餌を欲しがるエルフなど、前代未聞だ。

私はさらに一歩、身を乗り出した。


「どうか、豆を……」


私はロバートを、これは切実な願いだという目で見つめた。

ロバートはあきれ顔で肩をすくめた。


「おいおい、正気か? あれは家畜の餌だぞ?」

「存じております……。ですが、私にはどうしてもあれが必要なのです。ほんの少し、一握りで構いません。どうか、どうかお恵みを……!」


数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。

私の心臓の音が、周囲の騒音をかき消すほど大きく響く。


やがて、ロバートは大きく息を吐き、豪快に笑った。


「カッカッカ! 変わった奴だ。そんな必死な顔で餌をねだるヤツなんざ、初めて見たわ」


そう言うと、彼は荷台の麻袋の口を解いた。

ザラザラと乾いた音と共に、彼の手が黄金の粒をすくい上げる。

小さな皮袋に移し替えられ、無造作に放られたそれを、私は両手でしっかりと受け止めた。


ズシリ。


「これでいいか?」

「……っ!」


袋越しに伝わる硬い粒の感触。

それは単なる豆の重さではない。私の夢の重さだ。


張り詰めていた緊張の糸が切れ、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。


「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます!」


深々と頭を下げる私の指先は、安堵と歓喜で微かに痺れていた。


  ◇    ◇    ◇


仕事が終わり、自室へと戻る足取りは、いつくなになく軽かった。

まるで雲の上を歩いているようだ。


扉を閉め、鍵をかけると、私は机の上に豆の入った袋を置いた。

震える手で紐を解く。

口を広げ、中を覗き込む。


「……っ」


息を呑んだ。

ランプの灯りに照らされ、艶やかに光る黄金の粒たち。


一粒、つまみ上げる。


意外と大きい。そして、美しい。

私の記憶にある、あの「ユキシズカ」大豆とは比べ物にならないほど、丸々と太っている。


インゲンでも、レンズ豆でもない。


でも、私の本能が、前世の知識が、叫んでいる。

これは間違いなく「大豆(Glycine max)」だ。


私は机の上に豆を並べながら、記憶の引き出しを開ける。


もし、ただ豆を発酵させるだけなら、他の選択肢もあるだろう。

例えば、南洋の島国で愛された「テンペ」。

あれはクモノスカビというカビの一種を豆に植え付ける。白い菌糸が豆の間をびっしりと埋め尽くし、まるでチーズやケーキのような固形ブロックになる。


あるいは、古い寺院で作られてきた「塩辛納豆」。

こちらは麹菌と塩水を使う。黒くて、味噌のような風味だ。


だが、違う。

私が今、全身全霊で求めているのは、それらではない。


あの、ネバネバして、糸を引き、強い臭いのする「糸引き納豆」でなければならない。


白く固まったブロックでもない。黒く乾いた豆でもない。


カビ(真菌)の力で作る上品な発酵食品ではなく——もっと野性的で、獰猛な生命力を宿した細菌バクテリアの芸術なのだ。


箸で持ち上げれば、どこまでも糸を引く粘り気。

鼻を突く、あのアミノ酸の強烈な芳香。

口の中で広がる、濃厚な旨味の洪水。


それを作り出せるのは、麹菌でもクモノスカビでもない。


枯草菌の一種、納豆菌(Bacillus subtilis natto)だけだ。


そして、その菌はどこにいるのか。

私の視線が、部屋の隅に向けられる。


昨日、最高の出来だと自画自賛した「藁つと(包み)」と、その材料である「稲藁いなわら」。

そう、彼らはそこに眠っている。自然界の揺り籠の中で、目覚めの時を待っているのだ。


「……ふぅ」


短く息を吐き、私は行動を開始した。


豆を洗い、たっぷりの水に浸す。


一晩待ち、水を吸ってパンパンに膨れ上がった豆を鍋に移す。


ここからが、私の真骨頂だ。

鍋に両手をかざす。

体内の魔力回路を開くイメージ。

火は使わない。薪の火加減はムラがありすぎる。

納豆作りに必要なのは、繊細かつ持続的な熱源。


(……中火で、コトコト)


指先から魔力を鍋に向ける。

水分子が振動し、摩擦熱を生み出す感覚。


やがて、鍋の中からポコポコと小さな気泡が上がり始めた。

温度を一定に保ちながら、じっくりと煮込んでいく。


数時間が経過した頃、部屋の中は濃厚な香りで満たされていた。

甘く、ふくよかで、どこか土の温かさを感じさせる煮豆の香り。


(これだ。この匂い)


熱々の豆を一粒取り出し、親指と小指で挟む。

抵抗なく、グニュリと潰れた。完璧な茹で加減。

指に残る澱粉の粘りさえ愛おしい。


私は、自信作である「藁つと」を取り出した。

先日、青白い光と共に編み上げた、あの特別な藁の束。


お湯を沸かし、煮沸消毒を済ませた清潔なそれを用意する。

熱々の豆を、藁のふところに直接抱かせるのだ。


藁の空洞を押し広げ、湯気を上げるディーズ豆を詰め込んでいく。


熱い。指先が火傷しそうだが、構っていられない。

納豆菌は熱に強い。雑菌が入る前に、この熱と共に封じ込めるのが鉄則だ。


湯気と共に、藁の香りが立ち上る。

最後の一掬いを詰め終え、藁の蓋を閉じようとした、その時だった。


——ドクン。


左手首が、跳ねた。


「え……?」


視線を落とす。


手首に巻いていた藁の腕輪が、生き物のように脈打っている。

いや、それだけではない。

机の上の、豆を詰め込んだばかりの藁つとからも、同じ拍動が伝わってくる。


ボゥッ。


藁の繊維の奥から、ぼんやりとした光が滲み出した。

先日、藁人形を作った時と同じ、淡い青白い光。


「また……光ってる」


私は不思議に思いながらも、安堵した。

この光が出ている時は、藁の調子がいい証拠だ。


相性の良い藁たちが「準備万端だよ」と教えてくれているに違いない。

その光は、湯気と共に揺らぎ、頼りなく、しかし確かな温かさを持っていた。


私は光を放つ藁つとを、そっと木箱の中に並べた。

発酵室むろ代わりの木箱。


蓋を閉めても、板の隙間から微かに、本当に微かに、青い光が漏れている。


再び、両手をかざす。

今度は煮るためではない。保温と保湿のためだ。


箱の中を、納豆菌が最も活発になる温度は40℃、湿度は80%くらいに保つ。


前世の知識。エルフの魔法。そして、藁の放つ淡い光。

すべての要素が、箱の中で混ざり合う。


壁に掛けたしめ縄飾りを見上げる。

あの蛇のような輪飾りもまた、月光の下で静かに呼吸しているように見えた。


「……頼んだよ」


誰にともなく呟き、私は木箱を抱くようにして熱を送り続けた。

箱の中では今、私の知らない奇跡が——運命のマリアージュが始まろうとしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ