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【第四話】平安京デートと、地獄の公衆衛生

翌朝。僕は絶望していた。 原因は、この屋敷のトイレ事情だ。


案内されたのは、母屋から離れた小さな小屋。 中には、おが屑が敷き詰められた木箱が鎮座している。樋箱ひばこだ。 そしてその脇には、貴族用とされる滑らかな木のヘラ、「籌木ちゅうぎ」が置かれていた。


「…………」


僕は無言で小屋の扉を閉めた。 水洗やウォシュレットがないのは百歩譲ろう。だが、もし、万が一、「大」の方がしたくなったら。 あの木のヘラで、後始末をしなければならない。


「……鬼より、腹痛が怖い」


縁側で遠い目をしていると、背後から声がかかった。


「何を黄昏たそがれておる。朝餉あさげの支度をしろと?」 「ち、違います! ちょっと人生について……」


振り返ると、寝間着姿(小袖)の頼光がいた。 寝起きのせいか、いつもより少し幼く見える。


「それよりカケル。昨日の『騒音の鬼(EDM)』はまだ出せるか?」 「出せますけど……あ、綱さんは?」 「綱か? あやつなら昨夜の『魔法のプロテイン』が抜けきらぬと、夜明けから滝に打かれておる」 「……そうですか」


あの脳筋武士、完全にプロテインをLSDか何かと勘違いしている。


頼光は、縁側で虚空を見つめる僕(トイレの恐怖に怯え中)を見下ろし、ふう、と息をついた。


「よかろう。気分転換に都を案内してやる。ついてこい」 「え? あ、はい!」


十分後。 僕は、人生初の「平安京デート」に繰り出していた。


「これが朱雀大路すざくおうじだ。都のメインストリートよ」 「お、おお……」


道幅は広い。80メートル以上あるらしい。 だが、その景色は僕の想像を遥かに超えていた。


「……なんか、臭くないです?」 「そうか? いつも通りだが」


道の真ん中を、牛や馬が我が物顔で歩いている。 つまり、そこら中に「落とし物」が点在している。 さらに道の両脇には、昨日出たのであろう生ゴミや、割れた土器が普通に捨てられていた。


「いや、ゴミ! 汚物! なんで誰も片付けないんですか!」 「? 庶民の汚物は、雨が降れば川に流れる。それが都の仕組みだが」 「自然任せすぎだろ!」


現代の「映え」る京都しか知らない僕にとって、平安京のリアルは強烈すぎた。 すれ違う人々も、貴族以外は薄汚れた麻の服を着て、生気のない目をしている。


「……これが、みやびな都……」 「何を言っておる。これでもみかどのおわす、日ノ本一の都ぞ」


頼光は平然と、汚物を避けながら歩いていく。 その時、通りの向こうで人だかりができていた。


いちか。何か見ていくか」


頼光に手を引かれ(ちょっとドキっとした)、人混みをかき分ける。 そこでは、様々な物が売られていた。


「ほ、干し肉? いや、カエル……?」 「それは薬だ。こっちは蛇の干物。精がつくぞ」 「いらないです!」


僕がドン引きしていると、頼光がある露店の前で足を止めた。 「お、あった」


彼女が買ったのは、白い塊を串に刺したシンプルな食べ物。 「」と呼ばれる、古代のチーズ(のようなもの)だ。


頼光はそれを一口食べると、ふわり、と表情を緩めた。 「……うむ。甘い」


いつもは鬼も殺せそうな鋭い目をした彼女が、今はただの「甘いものが好きな女の子」の顔をしている。 そのギャップに、僕は思わず見とれてしまった。


「……なんだ。そなたも欲しいのか?」 「え!? あ、いや、僕は……」 「ほれ」


頼光が、自分の食べた串を僕の口元に差し出してきた。


「え、あ、いや、それは……いわゆる間接……」 「何をブツブツ言っておる。いらぬのか?」 「い、いただきます!」


僕は覚悟を決めて、蘇をかじった。 ほんのりミルクの味がする、素朴な甘さ。 それよりも、頼光の視線が近すぎて心臓がヤバい。


「どうだ。そなたのいた『未来』とやらの食べ物と比べて」 「……美味しい、です。すごく」


僕がそう言うと、彼女は満足そうに「そうか」と微笑んだ。 その笑顔は、どんな鬼よりも強力なしゅだった。


「さて」 機嫌が良くなったらしい頼光が、僕の顔を覗き込む。 「腹ごしらえは済んだ。次は、そなたの世界の話を聞かせろ」 「え?」 「そなたの持つ『光るスマホ』。あれは一体何なのだ? なぜ未来のそなたが、この時代に来た?」


彼女の瞳は、甘いものを食べた時とは違う、鋭い好奇心に満ちていた。 僕はこの時、まだ気づいていなかった。 彼女のその純粋な好奇心が、やがてこの都を揺るがす大きな力になることを。


そして、この後屋敷に帰れば、昼餉ひるげとして「玄米と塩と漬物だけ」の、筋肉が分解されそうな食事が待っていることも。


「あの、頼光さん。その前に一つ……」 「なんだ?」 「……ここ、プロテイン(タンパク質)が買える店、ありませんか?」


僕の切実な叫びは、平安京の喧騒けんそうに虚しく消えていった。

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