【第三話】粘着質の悪夢と、爆音のEDM
「力が……力が漲りすぎて怖い!!」
深夜の山道。 「北山」と呼ばれるその場所へ向かう道中、渡辺綱はずっとシャドーボクシングをしていた。
「見ろ先生! さっきの『魔法の粉』のおかげで、俺の筋肉がパンプアップしてやがる! 鎧がキツイ!」
「……それは良かったですね。でも静かに歩けませんか? 妖怪寄ってきますよ」
僕はげんなりしながら答えた。 綱は完全にキマっていた。現代の純度100%プロテインと大量の糖質は、平安の武人にとって「バーサーカー化の薬」だったらしい。
「着いたぞ」
先頭を歩く少女が足を止める。 そこは、鬱蒼とした杉林に囲まれた古塚だった。湿った空気。地面には動物の骨。そして、木々の間には粘着質の白い糸が張り巡らされている。
「グルルル……」
地響きと共に、土煙が上がった。 現れたのは、軽自動車サイズの巨大な蜘蛛。 だが、ただの蜘蛛ではない。胴体には、苦悶の表情を浮かべた「翁」の面のような模様が浮かび上がっている。
妖怪・土蜘蛛。
「ひっ! で、でかい……!」
僕が腰を抜かしかけた、その時だった。
「ヒャッハァァァ!! 待ってたぜェェ!!」
綱が、奇声を上げて飛び出した。 抜刀する――かと思いきや、彼はなんと、背負っていた太刀を地面に放り投げたのだ。
「えっ!?」 「つ、綱!? 何をしておる!」
少女も驚いて声を上げる。 綱はニカッと歯を見せて笑った。
「今の俺に刃物なんざ不要! この『魔法の粉』で鋼鉄となった俺の拳こそが、最強の武器だァァッ!!」
綱はプロテイン・ハイのテンションのまま、無防備な土蜘蛛の懐に飛び込んだ。 そして、丸太のような右腕を振りかぶり、渾身の正拳突きを放つ!
「粉砕せよ! マッスル・ナックルゥゥゥッ!!」
ドゴォォォッ!!
重い衝撃音が響く。 すごい。本当に素手で妖怪を殴りつけた。これなら勝て――
「……ん?」
綱の動きが止まった。 拳は確かに土蜘蛛の柔らかい腹にめり込んでいる。 だが、抜けない。
「あ、あれ? ぬ、抜けねぇ?」
「キシャアアアッ!!」
土蜘蛛が不快な鳴き声を上げる。 この妖怪の体表は、強力な粘着液で覆われていたのだ。刀で切り裂くならともかく、素手で突っ込めばどうなるか、小学生でもわかる。
「と、取れねぇ! くそッ、なんだこの接着剤みてェな腹は! 放せ! 俺の筋肉を放せェッ!」
綱がジタバタと暴れるが、動けば動くほど、両手両足が蜘蛛のネバネバに絡め取られていく。 ほんの数秒で、彼は「蜘蛛の巣に引っかかったマッチョなハエ」状態になってしまった。
「……バカなの?」
少女が呆れ果てた声で呟く。 しかし、状況は最悪だ。 動けなくなった綱を見て、土蜘蛛の八つの赤い瞳が、ギョロリと次の獲物を探す。
視線の先には――僕。
『……柔ラカソウナ、肉』
脳内に直接響くような、気色の悪い声。 土蜘蛛が、綱をぶら下げたまま、僕の方へ向き直った。
「ひっ、ひぃぃぃ! こっち見んな!」
「すまん先生! 助けてくれ! 筋肉が! 筋肉が吸われるぅぅッ!」 「自業自得だろアンタ!!」
土蜘蛛が大きく跳躍した。 牙からは溶解液が滴り落ちている。 逃げ場はない。少女は距離が遠すぎて間に合わない。
死ぬ。 平安時代に来てまで、他人のミスで死ぬなんて!
「く、来るなァァァ!!」
僕はパニックになり、ポケットのスマホを掴んで突き出した。 なにか、なにか武器は! 指が震えて、画面を滅茶苦茶にタップする。
『♪〜〜〜〜〜ッ!!!!』
その瞬間。 静寂な夜の森に、爆音が轟いた。
『Put your hands up!! Yeah!』 『ズンドコズンドコ! ズンドコズンドコ!!』
最大音量で再生されたのは、僕がジムで気合を入れる時に聴いている、ゴリゴリのEDM。 重低音のビートが、スマホのスピーカーから大気へ叩きつけられる。
「!!!???」
土蜘蛛が空中で硬直した。 聴覚の鋭い妖怪にとって、電子音の規則的なビートと高周波のシンセサイザー音は、未知の衝撃波だったらしい。
「ギャアアアアアアアッ!!」
土蜘蛛が苦しみ悶え、八本の足をワシャワシャとさせてひっくり返った。 粘着液から綱がボロっと剥がれ落ちる。
「い、今だ! 斬って!!」
僕が叫ぶと同時に、少女が舞った。 彼女は呆れ顔を隠し、落ちていた綱の太刀を拾い上げると、EDMのリズムに合わせて飛翔する。
「まったく……世話の焼ける男どもじゃ!」
一閃。 青白い雷光のような斬撃が、土蜘蛛の眉間を深々と切り裂いた。
ズンッ……!
巨体が崩れ落ち、黒い霧となって消えていく。 後に残ったのは、泥だらけでゼェゼェ言っている綱と、爆音で「アゲアゲな曲」を流し続ける僕だけだった。
慌てて停止ボタンを押す。 シーンとした森に、虫の声が戻ってくる。
「……た、助かった……」
僕がへたり込むと、綱がばつの悪そうな顔で近づいてきた。 その手は真っ赤に腫れ、粘液でベトベトだ。
「……すまん。筋肉を信じすぎた」
「反省してください。本当に」
少女がため息をつきながら、僕のスマホを覗き込む。
「カケル。そなた、雷神だけでなく、『騒音の鬼』まで飼い慣らしておるのか?」
「……ただの音楽です」
「よい。気に入った。その音色、戦の合図に使えそうじゃ」
ニヤリと笑う彼女の笑顔は美しかったが、僕はそれどころではなかった。 バッテリー残量、35%。 今の騒動で、貴重な電力をさらに消費してしまった。
充電器もないこの世界で、スマホの死は、僕の命綱が切れることを意味する。 鬼より何より、「電池切れ」という現代病の恐怖が、僕の背筋を凍らせていた。




