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【第十一話】暴走マシーン「ママチャリ」と、平安最速の伝説

貴船山の茂みの中、僕は泥だらけになりながら「鉄の塊」と格闘していた。 現代から流れ着いた漂流物、ママチャリだ。


「兄ちゃん、まだか? まだ動かねえのか?」


坂田金時が、僕の背後から覗き込んでくる。 彼女は待ちきれない様子で、その場で足踏みをしていた。そのたびに地面がズシン、ズシンと揺れ、精密作業をしている僕の手元が狂いそうになる。


「あー、もう。ちょっとじっとしててくれ。今、チェーンの噛み合わせを調整してるんだ」


「ちぇーん? 鎖か? なんだか細っけえ鎖だなあ。俺が指で摘んだら切れちまいそうだ」


「絶対に触るなよ。これは繊細な駆動系なんだ」


僕は錆びついたチェーンに、頼光から借りていた刀の手入れ油を慎重に差した。 ギギ、という嫌な音が消え、滑らかな回転が戻ってくる。 SEにとって、システム(機械)が正常に稼働し始める瞬間というのは、何度味わっても良いものだ。バグだらけのコードが綺麗にコンパイルを通った時のような快感がある。


タイヤのゴムは完全に劣化してボロボロだったので、周囲に生えていた丈夫なつたを集め、ホイールに幾重にも巻き付けて補強した。 クッション性は皆無だが、泥道でも滑らないスパイクタイヤの代わりにはなるだろう。


「よし。……完成だ」


僕が額の汗を拭って立ち上がると、金時が目を輝かせて自転車に飛びついた。


「おおっ! 立った! こいつ自立しやがった!」


スタンドを立てただけで大騒ぎだ。 彼女は恐る恐るサドルを撫で、冷たい金属の感触を楽しんでいる。


「これが『ママチャリ』か。……未来の馬は、随分と骨っぽいが、強そうだな」


「乗り方を教えるよ。ここに座って、ハンドルを握って、ペダルを漕ぐんだ。バランスを取るのが難しいけど、お前の体幹なら――」


僕が説明を終えるより早く、金時はヒョイとサドルに跨った。 着物の裾が乱れ、健康的な太ももが露わになるが、本人は気にする様子もない。


「こうか! ここを踏み込めばいいんだな!」


「待て、最初はゆっくり……」


「いくぞ! 鉄の馬よ! 咆哮しろ!」


金時が、丸太のような太ももに力を込めた。 ガシャンッ! ペダルが悲鳴を上げ、チェーンが軋む。


次の瞬間、ママチャリは僕の動体視力を超えた。


「うおおおおおおおッ!」


凄まじい加速。 金時を乗せた自転車は、ロケット花火のように斜面を駆け上がっていった。 蔦を巻いたタイヤが地面を深く抉り、土煙が舞い上がる。


「はっ、速い! 兄ちゃん! こいつ空も飛べそうだぞ!」


「飛べないから! あとブレーキワイヤー切れてるから止まれないぞ!」


僕の叫びは風にかき消された。 金時は子供のようにケラケラと笑いながら、木々の間を縫うようにスラローム走行を決めている。 信じられないバランス感覚だ。初めて乗った乗り物を、まるで手足のように操っている。いや、むしろ自転車の方が金時の馬鹿力に必死に耐えているように見えた。


その時、後方から雷鳴のような音が近づいてきた。


「見つけたぞ! 抜け駆けは許さん!」


源頼光だ。 彼女は鬼のような形相で、木々をなぎ倒す勢いで走ってきた。 その後ろには、着物の裾をまくり上げて必死についてくる渡辺綱の姿もある。


「はぁ、はぁ……! カケル殿! お待ちになって!」


「げっ、大将たちか! やべぇ、逃げろ鉄馬!」


金時は追っ手(上司)に気づくと、さらにペダルを踏み込んだ。 ママチャリが唸りを上げる。フレームがミシミシと悲鳴を上げている。


「待て金時! その奇妙な『車』はなんだ!?」 頼光が目を丸くして叫ぶ。 「へへーん! 兄ちゃんが直してくれた俺の愛車だ! 追いつけるもんなら追いついてみな!」


「なんと。……車輪が二つしかないのに倒れぬとは。あれも妖術か?」 頼光の目が、獲物を狙う武人の目になった。 「面白そうだ。綱、お前はカケルを保護しろ。私はあの暴れ馬を捕獲する!」


「え、ちょ、頼光さん!?」


頼光が地面を蹴った。 速い。人間離れした加速で、自転車を追走し始める。


「逃がさんぞ金時!」 「うへぇ! 大将が本気出した!」


前を行く自転車(金時)と、それを追う生身の人間(頼光)。 平安の山道で繰り広げられる、前代未聞のチェイス。 僕はただ、呆然とそれを見送るしかなかった。


「……はぁ、はぁ。カケル殿」


遅れて到着した綱が、息を切らせて僕の隣にへたり込んだ。 汗で前髪が額に張り付いている様子が、妙に色っぽい。


「大丈夫ですか、綱さん」 「はい……。皆さま、元気すぎますわ。……ところでカケル殿」


綱が熱っぽい視線で、走り去った二人の方角(と、残った土煙)を見つめた。


「あのような『二つの車輪』の乗り物……私の記憶にある『未来の恋物語』に登場しましたわ」 「ああ、自転車のこと?」 「そうです。殿方が前で操縦し、女子おなごが後ろの荷台に横座りをして、腰に手を回す……。『ニケツ』という愛の儀式です」


綱の脳内データベースが偏りすぎている。 彼女は潤んだ瞳で僕を見上げてきた。


「カケル殿。もしあの鉄の馬が手に入ったら……私と『ニケツ』してくださいますか?」


「ええと、道交法的には違反なんだけど……平安時代ならいいのかな」


「法律? 愛に法など関係ありませんわ! 崖の上から海に向かって叫びながら走るのです! 『好きだー!』と!」


「それ青春ドラマの最終回だよ」


綱の妄想が暴走しかけたその時、前方から盛大な衝突音が響き渡った。


ズガァァァァン!!


木々が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。 嫌な予感しかしない。 僕と綱は顔を見合わせ、音のした方へ急いだ。


現場に到着すると、そこには無惨な光景が広がっていた。 樹齢数百年はありそうな巨大な杉の木に、ママチャリの前輪が深々と突き刺さっている。 フレームは「く」の字に曲がり、サドルは弾け飛んでいた。 そして、その根元で金時が大の字になって空を仰いでいる。


「……金時!」


「あー……目が回る……」


金時はフラフラと起き上がった。額に大きなたんこぶができているが、奇跡的に五体満足だ。この子の頑丈さは本当にどうなっているんだ。 その横には、仁王立ちする頼光の姿があった。彼女の手には、ひしゃげたハンドルの一部が握られている。どうやら無理やり停車させたらしい。


「まったく。調子に乗るからこうなるのだ」 頼光が呆れ顔で言ったが、その視線は壊れた自転車に注がれていた。 「……惜しいな。一度乗ってみたかったのだが」


「俺の……俺の鉄馬が……」 金時が半泣きで自転車の残骸を撫でている。


「大丈夫だよ金時。部品さえあれば、また直せるかもしれない」 僕が慰めると、金時はパッと顔を上げた。 「本当か!? 絶対だぞ! ……あ、そうだ兄ちゃん」


金時は何かを思い出したように、茂みの奥を指差した。


「こいつ(自転車)が突っ込んだ先にさ。なんか変なモンがあったんだよ」


「変なもの?」


僕たちは金時の指差す方へ視線を向けた。 杉の木の向こう側、藪が開けた場所に、不自然に整えられた空間があった。 そこには、平安時代の風景には絶対にありえない「四角い建物」の一部が、半分土に埋まるようにして鎮座していた。


色あせた看板。割れたガラス。 そして、泥にまみれてはいるが、はっきりと読み取れる文字。


『24時間営業』 『コンビ……』


「……コンビニ?」


僕は自分の目を疑った。 ママチャリどころではない。 そこには、建物ごとタイムスリップしてきた「コンビニエンスストア」の廃墟があったのだ。


「こんびに? なんだそれは。新しいとりでか?」 頼光が警戒して刀に手をかける。


「いいえ、違います」


僕は震える足で、その懐かしい光景へと歩み寄った。 自動ドア(手動でこじ開けるしかないが)の向こうに眠る、宝の山を想像して。


「あれは……僕の世界の『兵糧庫』であり、『宝物庫』です」


カップ麺はあるか。 抗生物質はあるか。 そして何より、トイレットペーパーはあるか。


僕たちの「ゴミ拾い」は、ここに来て一気に「ダンジョン攻略」へと様変わりした。 だが、僕たちはまだ気づいていなかった。 そのコンビニの中に、僕たち以外の「先客」がいることに。

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