謎のスマホ
「はぁ……はぁ……ここまで来れば、もう大丈夫よね」
あれから一分近く走り続けて、スタミナの限界が近づいた私は、誰もいない家の裏でしゃがみ込み、膝に手をついて呼吸を整えた。背中を汗が伝い、生ぬるい風がシャツに張り付く。土壁の冷たさが背中越しに染みる。
「疲れたー……ほんと何なのよこれ! 夢なら早く醒めてよ!」
私はスマホを取り出し、時間を確認しようとした、そのとき――
「初めまして! 藍璃様!」
「うわぁ!!」
「キャッ!」
反射で手が弾け、スマホが指先から滑り落ちた。
軽い衝撃音、端が石に当たる。胸が冷たく掴まれたみたいに凍りつく。
「な…なんでスマホがしゃべってんのよ!? これも異世界だから……ってやつ?」
もう理解が追いつかない。頭がパンクしそうだ。喉がからからで、呼吸だけがうるさい。
「いきなり投げるのはひどいです!」
「だ、だってしょうがないじゃない! 急にあんたがしゃべるんだから!」
画面は下向き。泥が縁についたまま微かに光っている。直したほうがいいのかな……でも触るの怖いし、このままでいいか。
「私は藍璃様のおかげで、こうして生まれることができたのです」
「私のおかげ? 特に何かした覚えはないけど」
「詳しく説明しても理解が追いつかないでしょうから、簡単に言うと――私はあなたのスキルのようなものです」
なんか馬鹿にされてる気がするけど……気のせい?
それより“スキル”って何よ。さっきも誰かが言ってたけど。
「スキルって、魔法とは違うの?」
「違います。唯一無二の力で、魔法や特性とは別枠の、異質で強力な能力です」
「誰でも手に入るわけじゃない……ってこと?」
「はい。条件は不明で、後天的に目覚めたり、生まれつき持っていたり様々です。ただ――一つだけ確実な取得ルートがあります」
「それって、私みたいに“異世界から来る”こと?」
「そうです。さすがIQ5000の頭脳ですね」
「!?」
なんで私のIQを知ってるの!? 何者なのこいつ!
「安心してください、藍璃様。私は藍璃様の味方です。藍璃様を支えるための存在です。何年も一緒にいましたから、藍璃様のことは大抵知っています」
……そういうことね。
私のスマホだから、使ってた時の記憶が残ってるってわけ。ちょっと怖いけど。私は指先の泥を袖で払い、恐る恐る拾い上げた。幸い、ヒビはなく操作に支障はなさそう。胸を撫で下ろす。
「わかったわ。とりあえず、信用する」
「ありがとうございます! 信じてもらえてうれしいです!」
「それより、“藍璃様”っての、やめて。むず痒いのよね」
「……」
どうしたの、急に黙って。そんなに“様付け”したいの?
「あ、あの……呼び捨ては抵抗があるので、別の呼び方でもいいですか?」
「……? 変なのでなければ、好きに呼んでいいけど」
この声、どこかで聞いたような……気のせい? 喉の奥がきゅっと締まる。
「お姉ちゃん……って呼んでもいいですか?」
心臓が跳ねた。胸の古傷に、柔らかい指先が触れたみたいだった。
小さな寝息、あの子の手の温度、呼ぶたびに少し照れた顔――全部、胸の奥で埃をかぶっていた箱が開くみたいに、いっぺんに溢れ出す。
「……わかった。その代わり、あんたは“ナナ”」
覚悟を決めて口にした瞬間、指先が少し震えた。
「ありがとうございます、お姉ちゃん! でも、どうして私がナナなんですか?」
やっぱり来たわね。
「第7世代のスマホだから。単純にナナ。それ以上の意味はないから!」
私は早口でまくし立てた。絶対バレてるけど、今はこれでいい。心拍だけが早い。
「ナナ……すごく良い名前です。うれしいです!」
表情は見えないのに、本当に嬉しそうな声。さすがに放置も可哀想で、私は画面の泥を親指で拭い、しっかり握り直した。
「ねぇ、ナナは自分で動けないの?」
「……動けません」
でしょうね。
「まあいいわ。改めてよろしく、ナナ」
手の中の画面に、デジタルな顔。今にも泣きそうな目。
ヒビの線が涙の筋みたいに走って、変に守ってあげたくなる。
「はい! こちらこそよろしくお願いします!」
「それじゃ、早速逃げないと。追手がいつ来るか分からないし」
体力も少し回復したので、走り出そうとした――
「本当にいいんですか? お姉ちゃんなら、この村を救えますよ」
「……は?」
いきなり何を言い出すのよ。私が村を救う?
「私にそんな力、ないわよ」
もしあるなら、とっくに使ってる。
それに、あの亜人たちは私を“ハズレ”って言った。逃げるしか――
「お姉ちゃんには偉大な力があります。私も全力でサポートします。だから――もう、後悔する選択はしないでください」
「……ナナ」
私は思わずナナを握りしめる。掌に伝わる小さな熱源。
かばってくれた女の子を見捨てたくない。今逃げたら、一生後悔する。もう、あんな気持ちはごめん。やることは一つ。
「ねぇ、本当に私に村を救えるの? そもそも何が来てるの?」
「幻獣です」
「幻獣って……魔物の強化版みたいな?」
「いいえ。あらゆる生物の負の感情が蓄積し、具現化した存在。強さはピンキリですが、一流の戦士でも単独撃破は困難。倒した者は英雄と呼ばれます」
「具現化って、幽霊みたいに透けてるの?」
「いえ、実体を伴います。自然災害に近い脅威だと考えてください。」
「じゃあ、どうやって勝つのよ」
「先ほども言いましたが、お姉ちゃんには偉大な力がある。それを使えば勝率は**100%**です」
自信満々のナナ。……半信半疑だけど。
「体が軽い気はするけど、それだけで勝てるとは思えないわ」
「でしたら――カバンの中のスタンガンを出してください」
「は? なんで私の持ち物まで知ってるの。ちょっと怖いんだけど……」
言われるまま、護身用のスタンガンを取り出す。手汗のせいでグリップが少し滑る。
「で、これをどう――」
「こうします」
画面中央に黒い渦が芽吹く。墨を水に落としたみたいに、円が幾重にも重なって沈んでいく。
次の瞬間、スタンガンは音もなく吸い込まれた。空気だけがぺこりと凹んで戻る。
「……な、何したの!? どういうこと!?」
「ごちそうさまです。これが、お姉ちゃんと私のスキルです」
ナナの説明は簡潔だった。
私とナナは一心同体。ナナはあらゆるものを吸収して力を得る。
そして私は、ナナが得たスキルを自由に使える。
「さらに、藍璃お姉ちゃんには“ステータス”があり、経験値でレベルが上がります。仲間も恩恵を受けて一緒に成長します。一定の魔力で私がアップデートし、新機能が増えます」
「今使えるのは?」
「吸収Lv1/収納Lv1/解析Lv1/探知Lv1。さきほどの吸収と解析で――」
「――雷電魔法Lv1、ね」
「その通りです」
「じゃあ試すわよ」
「ハッ! やぁっ!」……何も起きない。
「いでよ雷!」……無反応。恥ずかしい。耳まで熱い。
「お姉ちゃんは特別なので、画面から操作してください。“魔法”→“雷電魔法”をタップ。魔力を消費します」
「最初から言いなさいよ!」
私は“雷電魔法”を押す。掌がバチバチと光り、白い稲光が枝分かれして絡みつく。空気が乾いていく。
左手を突き出す――雷が走り、前方の木肌が爆ぜて抉れた。焦げの煙が細く立ちのぼる。
「すご……熱くも痛くもない」
「魔法は体内の魔力で起こす現象。自分に害はありません」
ナナが何か言いたげにこちらを見る。
「……何か、まずかった?」
「言いにくいのですが――お姉ちゃんはレベル1で魔力も少なく、雷電魔法は一回しか使えません。つまり、右手に纏っている雷が最後の一発です」
「それを先に言って!!」
雷二発でガス欠って、弱すぎでしょ私! 喉がからからになる。
「あと一発でどう勝てっていうのよ」
「大丈夫。一発あれば倒せます。急がないと亜人の子たちが危ない。道案内は任せてください」
不安はぬぐえない。それでも、足はもう前に出ていた。
耳を澄ますと、村の方角から、低い咆哮が空気を震わせる。
木立の向こう、鳥が一斉に舞い上がり、遠くでかすれた鐘の音が転がった。土の匂いに、焦げた木と鉄の匂いが混じる。風はそっちから吹いてくる。嫌な予感が、皮膚の表面を砂で擦るみたいにざわざわする。
私は踵を返し、石畳を蹴った。足裏に硬さが返ってくる。
右手の稲光が小さく鳴り、指先で残る一発が静かに唸る。
――走る。次の一歩で、後悔を終わらせるために。
家々の影が流れ、土埃が後ろに引かれていく。夜空は薄墨色に曇り、雲の縁がさっき抉った木の煙を呑み込んだ。
「お姉ちゃん、左へ。小川沿いに抜けると早いです」
ナナの声が鼓動の隙間に滑り込む。
私は頷きもせず、ただ体を傾けた。踝の外側に重心。石の角を踏み外しかけて、肩で壁をかすめる。
前方の丘の稜線の向こう、土煙が薄く立ち上り、木の葉が逆向きに波打っていた。
――たぶん間に合う。間に合わせる。
一度だけ小さく息を呑み、私はさらに速度を上げた。
文章作成速度も遅いのであまり早いペースで更新できないかもですが気長に待っていただけるとありがたいです!
でも、ストーリーはあらかた完成してます




